記事No | : 2119 |
タイトル | : Re: 逆縁、目連尊者の母 |
投稿日 | : 2013/06/27(Thu) 09:45:22 |
投稿者 | : しんのすけ |
おはようございます。<m(__)m>
> 目連尊者の母は、<目連尊者に仏にするために>、自ら望んで餓鬼道へ落ちて、餓鬼の姿を見せた。
> と、「逆縁」で、捉えて行こうということのようだ。
狭義で解釈すれば、不軽菩薩に石をぶつけたり仏を謗ったわけでもないから違うけど仏の教えに背いたと捉えれば、そうも言えないか?と思いましたが、「自らを犠牲にして地獄へ」ということ事態、そこには既に化他の心があり、逆縁ではありませんね。
> 目連尊者はお母さんが餓鬼道に落ちたのを観た時点ですでに「神通力第一」と言われる釈迦の高弟であったはず。
> 今さら、仏縁がある、ない、ということでもないだろうし、お母さんの姿を観て、何事かを覚られたにしても??
まあ小乗の徒であった目連尊者が本仏の教えに近づいたと!(*^^)v
> 私「でも、でも、なんか変です。
> それでは、目連尊者に倣って、盆供養する意味がなくなるのではないですか?
> 迷妄の中で、餓鬼道に落ちている、と思うからこそ、少しでも楽になっていただきたい。迷妄から抜け出していただきたい。
> と、供養しているのに、自ら確信犯的に罪をつくって餓鬼道におられるというのなら、もう、盆供養はしなくてもいいですね?」
> 上人「あ!」
だから、檀家にお盆の供養など勧めずに終戦記念日に世界平和を祈って読経した方が教えにかなってませんか?と思ってしいます。
自分の先祖の成仏ばかり願ったり、自分と同じ宗旨の方の成仏ばかり願っては法華経の教えに対して変だと思う。
逆縁というのと違い、善知識と捉えるべきでは?
「相模の守こそ善知識よ平左衛門こそダイバダッタよ」とかいうご遺文ありましたよね。
自分の敵や自分の今ある状況こそ成仏に導く善知識であるという捉え方は伝統的にありますよね。
すごく納得いくし、自分もその考えで今まで乗切ってきましたが、
はたして親の痴呆がその善知識になるのか?その辺りが課題ですよね?
苦や困難に陥った時に状況を分析して、結果は仏にお任せして、やるべき事を今はすれば良いと、自分の行いに反省はすれど後悔はせず、というのが僕の対処法でしたが、痴呆という病気にそれが通じるのか?それはわかりません。
それ以外の事はほとんど自分の怠慢やずるさが引き起こしているので納得できるのですけれどね。