山岸敏男『安心社会から信頼社会へ−日本型システムの行方−』中公新書1999年253p |
何事も穏便に済ませる日本社会は他人に対する信頼度が高く,逆に何事も書面化によって確定しようとする欧米社会は他人に対する信頼度が低いと我々は考えている。また,近年の数々の犯罪や不祥事などは,日本社会における「信頼」が崩壊している象徴として捉えられている。しかし著者は,数々の実験結果からこれに異を唱え,「赤の他人」に対する信頼度は欧米人の方が高く,我々が「信頼」だと思っているものは,実は「顔の見える」関係を築きそこに安住することによる「安心」だということ明らかにしている。そして,現在の日本社会は,「安心」社会から「信頼」社会への転換期にあるという。
「他人を信頼する」ためには,「人を見る目」を養わなければならないが,筆者によれば,この2つは相関関係にあるという。つまり,他人を信頼する人間には人を見る目があり,その逆もまた然りということである。
日本人が既に構築された関係性を「強化」する能力に長けていることは誇りにしていいと思うが,問題は新たな関係を「構築」する能力なのだ,といういわば日本人論・日本社会論として読むのも面白い。ただし自分は,人間関係が「長期安定的」であるはずの農村部で「独立」しているという英国の農業経営者が「関係強化」と「関係構築」というキーワードからどのような評価ができるのかという視点で考えてみたいと思った次第。
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宇沢弘文『社会的共通資本』岩波新書2000年,pp1〜239
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宇沢弘文といえば,経済学をかじったことがある人はみな知っているであろう大御所である。彼によれば,「社会的共通資本」とは「人々が,ゆたかな経済生活を営み,すぐれた文化を展開し,人間的に魅力ある社会を持続的,安定的に維持することを可能にするような社会的装置」を意味し,具体的には「農業・農村,都市,学校教育,医療,金融,環境」などをさす。これらのものには共通して,単に経済的効率性だけでは測れない「何か」があることを,我々は「直感的」に理解しているのだが,著者がどのような「論理付け」をするのかに注目して読んでみた。
が,それには残念ながら触れられていない。「1つの国が安定的な発展を遂げるためには、農村の規模が一定の水準に維持されることが必要」とする「農村の最適規模」論などは非常に興味深いのだが,これはどう理屈付けすればよいのか。まあ面倒がって新書を読まずにきちんと単行本を読め,ということなのかもしれない。本書は「社会的共通資本」がいかに蝕まれつつあるか,という歴史と現状が中心であり,その「今後」については大まかな「原則」が示されるのみであるが,本書の役割はここまでなのかもしれない。そして我々は,「社会的共通資本」の1つである「農業・農村」の未来像を具体的に描くことを求められているわけか。
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吉田和男「複雑系としての「家」」比較法史学会編『比較法史研究―思想・制度・社会―』8,未来社,pp48〜70
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「イエ」制度,「イエ」意識という言葉は日本人なら必ず耳にする言葉であろう。特に農業・農村研究ではこの言葉がよく出てくる。また,国際比較などを行うときに日本の相続慣行の特徴を説明するキーワードとして「IE」はよく使われる。
学問を好き嫌いで語るべきではないが,個人的に日本の家族を「イエ」で説明するのは気が進まない。研究者が安易に「イエ」を用いている気がするのだ。うちの業界でいえば,曰く「農家の子供が後を継がなくなったのは「イエ」意識の崩壊による」,曰く「農家の『後継ぎ』に『嫁』が来ないのは農家に残る『イエ』意識を女性が敬遠するためである」,曰く「日本の農業経営の規模拡大が進まないのは農地に対する『家産』意識,つまり『イエ』意識により兼業農家が農地を手放したがらないからである」,曰く曰く。なんでもかんでも「イエ」のせい。しかも「イエ」意識は研究者の都合で残存したり崩壊したりする(笑)。一般的にも,男女差別を男の「イエ」意識のせいにしている文献を見かけるが,男女差別はむしろ世界的に普遍的に見られた(そしてまだ見られる)現象で,日本特殊の「イエ」とは関係ないだろう,と不勉強ながら思うのである。
結局のところ,「『イエ』の現在」はどうなのか? ここまで「家庭崩壊」が叫ばれている中で悠長に「イエ」意識などと言っている場合か? そんなものとっくになくなっているのではないか。この点自分は不勉強と自覚し手にとったのがこの本(というか論文)である。
本論をざっくりまとめると,「イエ」制度は明治時代に強制的に導入されたが,戦後の新民法でその存在は明確に否定され,高度成長期に「男は仕事・女は家庭」という形態がフィットしたことで一時興隆をみるが,所詮押し付けられた「イエ」概念には持続性がなく,現在は「イエ」誕生前の状態に戻りつつある,ただしポスト「イエ」として家族をどのように再構築するかは課題として残されている(少なくとも現在の欧米の「家族」は模範ではないと筆者は思っている),というものである。
ということで,この論文の結論は,「イエ」意識はない,問題はポスト「イエ」だとなっている。もちろん,これに反論する研究もあるだろうから,もう少しかじる必要がありそうだ。
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