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最終更新2003年2月23日

読書日記(2003年2月)


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クリスチャン・ウルマー『折れたレール―イギリス国鉄民営化の失敗―』ウェッジ2002年,pp1〜396(坂本憲一監訳)
 英国では2000年10月のレール破損による列車脱線事故をきっかけに,全国何百箇所もが「危険箇所」として時速20マイル(32キロ)規制がひかれ,鉄道システムが破綻した経緯がある。その原因をつきつめていくと96年の国鉄民営化の失敗が見えてくるのだが,その過程を綿密に追ったのが本書である。ちなみにノンフィクション作家によって書かれている。
 急いで翻訳したのか,単純な誤植を含め恐らく誤訳と思われる(つじつまがあわない)箇所も散見されるのだが,大筋を追うには問題ない。ただし,読めば読むほど絶望的な気分になる。要は,英国鉄道の民営化は何から何まで無茶苦茶で救いようがなく,現在も多少の改善は見られるものの解決には程遠い,という内容になっている。具体的には,英国の鉄道は,日本のような地域分割方式ではなく,「上下分割」方式,つまり列車運行部門と線路の保守や信号管理といったインフラ部門が分離される形で行われたのだが,特にインフラ部門が全く機能せず,事故のあった現場ではレール破損の危険が2年前から指摘されていたにもかかわらず放置されたままだった,それもこれも鉄道の素人である経営陣の安全性軽視・利益重視の姿勢が原因で,しかも政府は何もしなかった,という具合。他にも問題が色々書いてあるが多すぎるので省略(苦笑)。ここまで救いようがないという書き方も珍しい。
 思ったのは3点ほど。その1,まだ問題がきちんと解決されていないのに当たり前のように運行を続けているのは凄すぎ。日本では列車死亡事故があると大騒ぎだが,こちらでは「自動車よりも死亡率が低い」といった意味不明の議論であまり騒がない。要するに列車の遅れは当たり前,高確率で脱線せずに走れば合格,といった代物。その2,英国鉄道の民営化は日本よりも後に行われている。筆者も指摘しているのだが,なぜ日本を参考にしなかったのか。当時の保守党はEU規則との整合性を理由に挙げているが,筆者によればこれは詭弁である。もちろん,日本の方式にも問題がないわけではない(当時3セクで再出発したものがどんどん破綻しているし)が,民営化から5年もせずに鉄道システムが麻痺するなどというぶざまな事態にはならなかった。その3,日本は大丈夫なのか。そう言われると新幹線の橋脚の老朽化やトンネルの壁面落下,列車の部品脱落などといった細かい事故は結構ニュースになっている気がする。また,原発の事故隠しに代表されるような組織ぐるみの隠蔽体質が日本にあることも確かである。日本の国鉄民営化の安全性の面からのチェックはどこまでできているのだろうか。「日本は大丈夫」では片付けられないかもしれない。
 それにしても英国という国は恐るべしである。この国を見て資本論を書いたマルクスは国の選択を間違えたのではないか。

関満博『現場主義の知的生産法』ちくま書房2002年,pp1221

 日本をはじめとしたアジアの中小企業の現場を歩き続け「現場主義」を標榜する著者(一橋大学教授)が,その調査研究ノウハウをまとめた本。自分も農業・農村の現場を歩く人間であるので,大いに期待して読んだのだが,期待が大きすぎたのだろうか,満足感よりもむしろ「現場主義の第一人者を自認する研究者がこれでいいのか」という不安の方が大きい。とかく現場から離れがちな学術研究の潮流を「逆転」させようというより,その流れを「無視」しているように感じる。現場に対して「閉じている」研究はよくない。しかし,「現場にしか開いていない」のもダメだと思うのだ。
 不満の1つは,「現場主義」の地位を研究の世界でいかに確立していくか,についての議論がないこと。著者は「お手軽な」数字の分析よりも現場の声がいかに重要かを唱えているが,「事例分析は科学的でない」という批判にどう答えるのか。また,「準備をしない」という調査手法は,「第一人者」が「アジア地域」のみで活動するから許されるのであって,これを研究者一般が欧米を含めた地域で展開することも可能なのか。「現場に一生かかわる」のは大事だが,5年後には誰もいなくなっているかもしれないような地域に対してそんな悠長なことを言っていられるのか。筆者は,ある地域で皆が口を揃えて存在を否定した「撚り屋」についてある老婦人との会話から実は存在していたことを知った,というエピソードから「現場で話を聞く重要性」を唱えているが,むしろこの例は,現場の声を鵜呑みにすることの危うさを表しているのではないか。という風に,疑問は尽きないのである。

 もちろん,視点を変えれば非常に有益な面もある。とかく実務の世界とのつながりが希薄だと言われる学術研究の世界の人間が,ここまで学生とビジネス界の橋渡しができるのは素晴らしいことだ。教育の面から言えば,手放しで賞賛されるべきであろう。
 要するに,この本で気になるのは,対象とする読者がわからない点である。「『現場』に関わる全ての人びと」というには内容がアカデミックに偏っているし,「若手研究者」というには,「現場」から遠い研究者を現場に引き入れようとするものでもない。既に「現場」に携わっている人間に対して「もっと強い『志』をもて」と言っているのだろうか。それはそうであろうが,我々に足りないのは「志」だけなのか。この精神論っぽいところも釈然としない。ついでにいえば,「○○主義」「一生モノ」というキーワードも某予備校の宣伝文句のようで,陳腐に聞こえてしまう。もっと他の表現はなかったのか。
 もっと現場に入り経験を積めば,この本に対する評価も変わってくるのだろうか。

清家昇・畠山尚史『酪農メガファーム―その躍進と可能性を探る―』酪農総合研究所2002年,pp182

 タイトルからわかるように,酪農の大規模経営の実態について書かれた本。誰を対象に書いているのか明確でない(アカデミックな人間しか気にしないようなマニアックな記述がある一方で,「ですます」調で書かれていたりする)のだが,@酪農経営の先進事例を横断的に眺めることができる,Aメガファームを筆者自身がどう評価しているかが明瞭である,という点から評価できる。
 特にAについては,「メガファーム批判に対する反論」としてまとめられている部分が興味深い。その批判とは「飼料自給率低下の元凶」「糞尿処理」「地域社会の崩壊」などであるが,筆者は駆け足ながらも的確な反論をしている。自分の「反論」を1つ付け加えると,本書で「メガファーム」とされているのは搾乳頭数が500頭以上のものだが,金額で言えば年商3億円程である。年商3億円レベルの経営が「地域社会を崩壊」させてしまうなら農村社会は救いようがないのではないだろうか。それより,年商3億の農業経営(1経営かもしれないし,3千万×10経営だったり1千万×30だったりもするだろうが)をいかに生み出すかを考える方がよほど有益ではないか。


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