愚者のエンドロール/米澤穂信
本書では、作中の映画『ミステリー(仮)』に対して全部で五つの“解決”が示されるという、“多重解決”の趣向が採用されています。探偵小説研究家の真田啓介氏が、真相とは異なる“誤った解決”が生まれる原因として挙げている“①証拠事実の取捨選択の誤り、②証拠事実それ自体の誤り、そして③証拠事実の解釈 (推論) の誤りの3点”
(*1)のうち、本書では“①証拠事実の取捨選択の誤り”
が主たる原因となっていますが、それが“探偵役”自身(の立場や趣味嗜好)に起因する“証拠事実(情報)の相違”であることが強調されているようにも思われます。
- ●『古丘廃村殺人事件』:中城順哉
密室やトリックを重視しない中城による“解決”は、現場となった密室で唯一出入りが可能な上手袖の窓を利用して、犯人が侵入・脱出したという単純なもので、“ハウダニット”としての面白味はまったくありませんが、作中でも指摘されているように単純ゆえに強固。そして、
“窓の外に、建物の壁ぎりぎりまで夏草が茂っているのが映る。”
(50頁)ために実行不能との指摘に対する反論、すなわち脚本担当の本郷真由が想定しなかった(可能性がある)ので手がかりに含めない、というのが面白いところです。この“解決”に対して、映像中の登場人物の配置から、劇場の外に出るためには誰かの視線に触れることになる、という奉太郎の指摘は、純粋に心理的なものだけに若干弱く感じられはするものの、納得できるところではあります。
- ●『不可視の侵入』:羽場智博
スタッフの中で一番ミステリーに詳しい(自称)羽場による“解決”では、いわば簡易版の“密室講義”(*2)を通じて犯行の可能性が細かく検討された後、中城と同じく上手袖の窓から犯人が侵入・脱出したという結論に至りますが、本郷がザイルを使う予定だったという小道具班ならではの情報と、二階にいた鴻巣が登山部に所属しているという情報によって、窓の外の夏草と矛盾しない新たな経路が示されています。ただし、手がかりが身も蓋もない(苦笑)こともあって、トリックがさほど面白く感じられないのは確かですが……。
この“解決”は、上手袖の窓の建て付けの悪さによって否定されますが、羽場が撮影に関わらず、映像も見ていないために気づかなかったという、手がかり収集の“限界”が印象的です。
- ●『Bloody Beast』:沢木口美崎
「ミステリー」という言葉を思いきり広く解釈している沢木口の“解決”は、こちらの固定観念(?)を根本から覆す強烈なもので、
“別にいいじゃない、鍵ぐらい”
(168頁)という言葉の破壊力はただごとではありません(苦笑)。また、「ミステリー」の定義はさておいて、ミステリと見せかけてホラーだったりSFだったりといった作品は実際にいくつもあるので、一概には否定しづらいところもないではないというか……。といいつつ、血糊が十分に用意されていないという事実によってあっさり否定されているわけですが、その原因としては他の班の仕事を知らなかったというだけでなく、頭から謎解きを拒否した“解決”であるために手がかりの検討を要しなかった、ということもあるように思います。
- ●『万人の死角』:折木奉太郎
三つの“解決”を通じて明らかになったのは、(1)上手袖の窓からの出入りは不可能であり、(2)事務室からマスターキーを取ってきて上手袖のある右側通路に入ることができる人物は、映像に登場している中にはいない――という強固な密室状況。それに対して奉太郎が――
“本郷はあの六人の他にもう一人、ビデオに出られる人がいないかあちこちに打診してた”
(167頁)という事実も考慮して――導き出した“解決”は、映像を撮影していたカメラマンが“犯人”だったというものです。これは、“映像を撮影するカメラ(カメラマン)は“視点”にすぎない”という暗黙の了解を利用した叙述トリック(*3)で、“現実”の一部を切り取った映像を“擬似的な現実”として示すことで、その外側で“視点”として撮影を続けるカメラマンの存在を隠匿するものです(*4)。
実をいえば、それ自体はミステリでも前例のある(ついでにいえば後例もある)トリック(*5)ではあるのですが、もともと映像の分野で知られる手法(*6)を応用したものですから、もはや“それがどのように扱われているのか”に着目すべきではないかと思われます。そしてその観点でいえば、本書で工夫されているのは、犯人の隠匿という本来の(?)目的に加えて、現場の密室状況と組み合わされているところでしょう。すなわち、カメラマンは単なる「(犯行が不可能な六人を除いた後に残る)七人目」ではなく、事務室からマスターキーを取ってきて右側通路に入ることが可能な位置にいた人物であるわけで、“犯人不在”と“密室”という二つの難題を一挙に解決する見事な解答となっているのです。
しかしながら、このよくできた――そして“女帝”入須冬美にも認められた――奉太郎の“解決”に対して、古典部の三人が立て続けに異議を唱える「打ち上げには行かない」の展開は、何とも凄まじいものがあります。と同時に、その三者三様の異議が前作『氷菓』終盤の“推理合戦”と同様、それぞれのキャラクターに合致している感があるのがうまいところです。
- ○伊原摩耶花の異議
奉太郎が完全に失念していたザイルの問題を取り上げたのは、奉太郎が
“完璧主義者といえるかもしれない”
(『氷菓』87頁)と評する摩耶花らしいというべきでしょうか。例えば沢木口の“解決”の否定につながった血糊の不足などとは少々事情が違い、それがあることで奉太郎の“解決”の成立を妨げるものではありませんが、しかし本郷の意図にはそぐわない“解決”だったことを露呈してしまっているのは確かでしょう。- ○福部里志の異議
データベースを自認する里志は、その専門知識(?)に基づく意外な角度からの指摘を。個人的なことをいえば、シャーロック・ホームズを読んだのはかれこれ三十年ほど前で、叙述トリックが使われたミステリにもすっかりなじんだ身としては、
“叙述トリックは、ドイルの時代には存在しない”
、そして“先輩がクリスティー並みだとは信じられない!”
(いずれも219頁)という里志の指摘はまさに青天の霹靂。ただし厳密にいえば、前述のように映像の分野で知られる手法がもとになっているのですから、ミステリの知識があまりないとしても映画に十分詳しければ、それが叙述トリックだとは認識することもないまま脚本に取り入れることも、まったくあり得ないことではないように思われます。もちろん、
“漫画を少し描いたことがあるだけ”
(54頁)という本郷は、映画に詳しいということもないのでしょうが……。- ○千反田えるの異議
奉太郎の“解決”に反対する理由を明確に示す代わりに、他には誰一人着目しなかったところから
“なぜ、江波に頼まなかったのか。”
(228頁)(*7)という新たな謎を見出してくる千反田える。後に自身でも“あの映画の脚本を、ただの文章問題と見ていたのではなかったか。”
(225頁)と自問しているように、いつしか本郷の真意ではなく映画の結末を“解明”することに没頭していた奉太郎に対して、当初の“本郷真由さんはなぜ、信頼と体調を損ねてまで途中でやめなければいけなかったのか”
(64頁)という疑問からぶれることのなかったえるは、さすがというべきでしょう。
いずれにしても、カメラワークのまずさも含めて、本来手がかりではなかったものが“手がかり”として扱われ、誤った“解決”を補強することになっているのが面白いと思います。
- ●「打ち上げには行かない」~「エンドロール」:本郷真由
「打ち上げには行かない」で、シャーロック・ホームズに打たれた印やアンケートの無効票といった手がかりから意外な解釈が引き出され、本郷の真意につながっていく過程は非常によくできていると思います。
そして、いわば脚本の“叙述トリック”(*8)に引っかかったクラスメートの暴走により、撮影された映像が(脚本とは矛盾しない範囲で)本郷の意図から乖離してしまった結果、真相が見えにくくなったというのが秀逸。最後の「エンドロール」で解き明かされる本郷の意図した真相にしても、それ自体はあまり面白いとはいえない――ザイルで二階から降りてきたというのは羽場の“解決”と同じですし、被害者自身が施錠した密室も数多くの前例があります――のですが、死者が出ないことが隠されてしまったために、被害者自身が施錠した可能性が排除されて密室状況が強固になる、という謎の組み立てがよくできています。
さて、本書は“殺人事件”を扱いながらも“人が死なないミステリ”の範疇にあるわけですが、主人公である奉太郎が“女帝”の冷徹な“操り”に翻弄され、利用されたことを知って打ちのめされるあたりや、「エンドロール」での“あ・た・し♪”こと折木供恵とのやり取りで明かされる“女帝”の動機など、作中で人が死ななくても“いい話”とは限らないことをアピールするような真相が用意されています。
しかも、本郷の意図した“人が死なないミステリ”の脚本が“ウケない”という理由で却下されたところなど、“人が死なないミステリ”に対する作者の複雑な心境が込められているようにも受け取れます。もちろん、最後に千反田えるに“人が死なない話”を肯定させているところをみても、決して否定的な姿勢ではないことは明らかですが、中城・羽場・沢木口の“解決”を通じて「ミステリー」を“相対化”しているのと同様、“人が死なないミステリ”についても一歩引いたところから批評的に描かれているといっていいのではないでしょうか。
“探偵役”としての推理を古典部の三人に次々と否定されたのみならず、そもそも“探偵役”としての能力を買われたはずが、真相解明に見せかけたシナリオコンテストに参加させられていた奉太郎については、“探偵役の受難”もここにきわまれり、といえるかもしれません。もっとも、奉太郎自身が“俺は、本当に失敗したのか?”
(226頁)と自問しているように、必ずしも“失敗”とはいえないところに救いがあるように思います。
奉太郎は“女帝”に“君は探偵じゃなく、推理作家になるべきだな”
(234頁)という台詞を紹介していますが、本書で扱われているのはあくまでもフィクションの“事件”であるがゆえに、(面白い/つまらないとは無関係に)唯一無二の真相があるはずの現実の事件とは違って、(本郷の真意を探るという“現実”の謎解きとは別の次元で)“面白い物語”を作り上げることにこそ至上の価値があるという見方もできるわけで、その意味で本書は“探偵役”の失敗と成功を両立させた――“失敗の後の成功”ではなく――稀有な作品といってもいいのかもしれません(*9)。
加えて、最終的には千反田えるの望む“人が死なない真相”をも解き明かしているわけですから、挫折もあったにせよ奉太郎が得たものも十分に大きいといえるのではないでしょうか。
*2: ジョン・ディクスン・カー『三つの棺』に盛り込まれた“推理小説における密室の分類と分析”。大まかな内容は拙文「私的「密室講義」」でも紹介していますので、興味がおありの方はそちらをご覧ください。
*3: 後の里志と奉太郎のやり取り(218頁~219頁)で明言されていますが、
“謎は観客が謎に感じればいいのであって、登場人物には自明のことでも構わない”(205頁)という奉太郎の台詞にも、観客だけが騙される叙述トリックであることが表れています。
*4: 拙文「叙述トリック分類#[A-3}人物の隠匿」で、少し詳しく説明しています。
*5: 作者名と作品名を伏せた状態で、“人物の存在を隠匿する叙述トリック”の比較検討を行った拙文「叙述トリック分類・補遺 〈人物の隠匿〉」の中で、【作品1-D】として挙げているのが本書ですが、類似の前例として【作品1-C】が、また後例として【作品1-I】があります。
*6: 例えば我孫子武丸『探偵映画』の中でも、映画での類似の手法の一例として『メル・ブルックス/新サイコ』の一場面が紹介されています(文春文庫版31頁~32頁)。
*7: カバーに記された英題
“Why didn't she ask EBA?”と合わせて、アガサ・クリスティ『なぜ、エヴァンズに頼まなかったのか?』(Why Didn't They Ask Evans?)のもじりになっていますが、そちらは未読なので内容にも関連があるかどうかはわかりません。
*8:
“腕をひどく傷つけられています。呼びかけても返事はありません。”(146頁)というト書きはなかなか絶妙です。
*9: そしてそこには、前述の台詞を地で行くような、某海外作家のシリーズ探偵――時おり謎解きを誤って真相解明に失敗し、
“探偵小説を読みすぎるんですよ”と言われたりもする“迷探偵”――へのオマージュと救済(?)も……というのはやはりうがちすぎかもしれませんが。
2012.05.23再読了