(架空)山田正紀選集 第3巻

ジュークボックス



序文

 2002年4月、品切れ状態だった作品『ジャグラー』が復刊された(徳間デュアル文庫)。これ自体は非常に喜ばしいことなのだが、残念なことが一つあった。それは、この『ジャグラー』と同様、“ランガー(生命言語)”を扱った作品『ジュークボックス』が品切れとなっていたことである。

 二つの作品ははっきりとしたシリーズになっているわけではないが、前述のように“ランガー(生命言語)”という設定は共通しているし、『ジャグラー』のアメコミに対して『ジュークボックス』では50年代・60年代のポップスがモチーフとされているように、アメリカンポップカルチャーを扱った対になる作品といえる。しかも、『ジャグラー』の終盤ではわずかながら『ジュークボックス』の内容に言及されているのだ。

 したがって、『ジャグラー』を復刊しておいて本書『ジュークボックス』を復刊しないのはまさに片手落ちといえるだろう。また、本書をあわせて読むことによって、“ランガー(生命言語)”とは何なのか、おぼろげに見えてくる部分もあるのではないだろうか。


作品内容の簡単な紹介と感想はこちら→『ジュークボックス』

解説
―― 山田正紀と悪夢 ――

 SF作家としてデビューし、冒険小説や時代小説なども書きながら、近年は本格ミステリに力を入れている山田正紀。その守備範囲の広さについては詳しくここで説明するまでもないだろう。だが、主要な作品の本質、つまり山田正紀が本当に書きたいものは<幻想小説>であるのかもしれない。

 「想像できないものを想像する」というのはデビュー作『神狩り』に付された著者の言葉の一部だが、山田正紀はそのSF作品において、隙のない理論に裏打ちされた物語よりも、想像力を駆使した幻想的なイメージを指向しているように思える。もちろん、その幻想は(擬似)科学理論によって説明されるのであり、SFではなく完全な幻想小説だとするのは間違いだろう。だが、その理論は幻想的なイメージを支え、説得力を持たせるためのものであり、理論自体に力点が置かれているわけではない。主役はあくまでも幻想的なイメージなのだ。

 しかし、“想像できないもの”を描くにはどうすればよいのだろうか。一つには、イメージをもとにして新たな言葉を生み出し、その言葉の持つイメージ喚起力を介して読者の想像に委ねるという手法が考えられる。例えば<神獣聖戦シリーズ>などは秀逸なネーミングの宝庫である。“鏡人=狂人{M・M}”、“悪魔憑き{デモノマニア}”、“大いなる疲労の告知者”、“非対称航行{アシンメトリー・フライト}”、“航宙刺激ホルモン{FISH}”、“背面世界”、“鏡面弾”、“現想者”、“時間剥製者”、“観淫者{ヴォワユール}”……これらの言葉はいずれも、読者の想像力を刺激し、想像できないはずのものに思いをはせることを可能にしているといっていいだろう。

 だが、本書では別の手法が採用されている。“キャッシュ・ボックス”小隊の面々が戦うべき“敵”はあまりにも異質な存在であるため、“戦争翻訳機”を介してしか接することができない。“戦争翻訳機”は異質な“敵”を既知のイメージ(アメ車やジャンク・フード)を通じて描き出そうとするが、その姿はどうしてもいびつに歪んだものとなってしまう(そもそも、既知のイメージとしてアメ車やジャンク・フードを採用せざるを得ないところからして歪んでいるともいえる)。この、異質な存在を身近なイメージに置き換えて描こうとする手法は、“想像できないもの”を描き出す手法の一つといえるだろう。

 そして、既知のイメージに変換しきれないずれ、現実に通じるものがありながらもいびつに歪んでしまった“現実”は、もはや“悪夢”と呼ぶしかないのではないだろうか。

 山田正紀はしばしば、作中の現実に歪みを導入することで、悪夢的な幻想の世界を作り出している。例えば、『最後の敵』の微妙に入り混じった二つの“現実”、『幻象機械』の主人公が受け入れることができなくなった日本情緒、<装甲戦士シリーズ>の変容した戦場、そして『エイダ』の“物語”に侵食された“現実”……。これらはいずれも現実と切り離された幻想ではなく、現実と微妙なつながりを保っており、そのために登場人物たちはまず世界に対する強烈な違和感を感じることになってしまう。これこそが、悪夢の悪夢たる所以といえるだろう。

***

 このような悪夢はまた、往々にして(無意味に)繰り返される運命にある。『地球・精神分析記録』『デッドソルジャーズ・ライヴ』では、同じようなモチーフが執拗に描かれているし、『最後の敵』でも二つの“現実”において同じモチーフが繰り返されているといえる。本書『ジュークボックス』においても、視点人物や細かなエピソードこそ違え、悪夢的な戦闘が何度も繰り返されている。世界を壊れたジュークボックスにたとえた作中の比喩にならえば、本書は悪夢をトータルコンセプトとしたアルバムといえるかもしれない。

 この(意味のない)繰り返しは、いくらもがいても脱け出せない蟻地獄にはまってしまったかのような徒労感を登場人物や読者に抱かせてしまう。この徒労感が、悪夢のような感覚を一層強調しているといえるだろう。なかなか目覚めることができないというのも、悪夢の重要な要素なのだ。

 だが、この繰り返しの手法を用いるのは、なかなか容易なことではないだろう。同じモチーフの繰り返しは、しばしば読者を退屈させてしまうという危険性をはらんでいる。読者を退屈させないためには、バリエーションで読ませることができるという筆力が必要になってくるだろう(余談になるが、少年漫画では退屈を避けるために別の手法が用いられる場合が多い。つまり、主人公が戦うべき敵が、次々とより強大なものになっていくのだ。これは有効な手法ではあるが、敵の強大さに裏付けを欠いてしまうと、“戦いのインフレーション”という困った現象につながってしまうという弱点も有する。幸いというべきか、山田正紀はこの罠に囚われてはいないようである)。いや、筆力ではなく豊富なアイデアというべきだろうか。例えば本書では、主役が次々と交代していくと同時に、それぞれに魅力的なガジェットが登場し、狂った世界が少しずつ違った角度から描かれていく。このように、基本のプロットを踏襲しながらも、惜しげもなく副次的なアイデアを注ぎ込むことで、繰り返される悪夢はそれぞれに異なった彩りを添えられて、読者を飽きさせることなく繰り返しの罠へと誘う力を備えていくのではないだろうか。



 最後に、本書『ジュークボックス』についてもう少し触れておきたい。

 序文でも書いたように、本書では50年代・60年代のアメリカンポップスがモチーフとなっている。登場人物たちはこれらのポップスに象徴される50年代・60年代のアメリカンポップカルチャーに強い憧れを抱き、戦場とはいえ、アメリカンポップカルチャーが満ちあふれた世界に生きることに満足している。いや、憧れの対象だった“アメリカ人”として青春を送ることを当然と思っているというべきかもしれない。だが、彼らが日本人のまま、年老いて老人ホームに収容されているというもう一つの“現実”と重ね合わせてみると、何ともいえないもの悲しさを禁じ得ない。また、その憧れ自体、ややもすると軽薄なものに感じられてしまう。しかし、それをもって本書ではアメリカンポップカルチャーへの憧れが否定的に描かれているとするのは短絡的にすぎるだろう。裏を返せば、50年代・60年代に青春を送った日本の若者たちにとって、アメリカという“異世界”はそれほどまでに強烈なインパクトを与えたということなのだろうし、その憧れは本書において別の“現実”を形作ってしまうほどの力を持っていたともいえるのだから。すなわち、本書はノスタルジックな願望充足の物語ともいえるのではないだろうか。
(注:同じくアメリカンポップカルチャーをモチーフとした『ジャグラー』では、やや扱いが異なっている。アメリカ文化全般への憧れを前面に押し出した本書に対して、『ジャグラー』ではアメコミをモチーフとしているものの、他の“アメリカ”的な要素とは切り離されている。アメコミの重要な要素は“アメリカ”ではなく、“ヒーロー”像だということなのかもしれない。)

 それぞれがアメリカンポップスの曲名を付されたエピソードからなる連作短編形式の本書は、まさに『ジュークボックス』と名づけられるにふさわしいといえるだろう。だがそれだけではなく、本書の構成自体もまた“ジュークボックス”を再現したものとなっている。

 (以下、『ジュークボックス』の内容に触れるのでご注意下さい;一部伏せ字
 まず冒頭の「恋の片道切符」では“キャッシュ・ボックス”小隊のほぼ全員が登場し、「電話でキッス」ではケン、「カレンダーガール」ではユリ、「きみこそすべて」ではマモル、「小さい悪魔」ではナオミとアキラがそれぞれ主役となり、それぞれのエピソードでは<太陽系融合惑星{ユニバーサル・スタジオ}という異様な世界とランガー(生命言語)の秘密が少しずつ描き出されていく。そして最後の「星へのきざはし」では遂に世界の真の姿が語られると同時に、本書に仕掛けられたトリックが明らかにされている。「小さい悪魔」のラストでいきなり「恋の片道切符」の冒頭に戻っていくという時系列の混乱を生じていることに加えて、「星へのきざはし」では語り手となった“トランスレーター”が「電話でキッス」から「小さい悪魔」までのエピソードがニューロ・ジャンクに残された記録だったことを明らかにしている。つまり、正しい時系列でいえば「電話でキッス」〜「小さい悪魔」→「恋の片道切符」→「星へのきざはし」の順序で語られるべき物語(“記録”=“レコード”)が、ランダムに(という表現は語弊があるかもしれないが)再生された上に、途中で“針飛び”まで起こしてしまうという、“壊れたジュークボックス”のメタファーとなっているのだ。いみじくも作中で表現されているように、本書で描かれた世界はまさに“壊れたジュークボックス”に他ならなかったのである。

 冒頭で描かれているように、老人たちは逝ってしまった。しかし、ランガー(生命言語)を介して、彼らの強い憧れは“もう一つの世界”を作り上げ、彼らはそこでアメリカ文化の中に生きるという夢を叶えることができた。そして彼らの生きた証=記録が“メシア・ジャンク”という途方もないものを生み出し、それが“もう一つの世界”の果てしない戦闘を終わらせることになるのだ。ラストに再び登場する壊れたジュークボックスに象徴されたもの悲しさを感じさせながら、それでもなお本書は、ノスタルジックな願望が実現する様子を描いたハッピーエンドの作品といえるだろう。
 (ここまで)


2002.07.16 SAKATAM


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