壕の大坊に 海濤 響き,
織卿 恨を遺して 陰陵に 遭ふ。
義公 惜しむ可し 秋水を 缺きたれば,
憤怒の威靈に 一刀を 獻ぐ。
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愛知県の知多半島の尖、美浜町野間(のま)にある寺院・野間大坊(のまだいぼう)(大御堂寺)に行った。役行者建立と云う。地元の人にとっては、地域の精神的な中心であり、憩いの場である。
しかし、歴史的な位置づけは違う。野間は、中央の方から落ち延びてきた者がここから、船に乗って高飛びをするための津である。そこの大寺である野間大坊では、源義朝(よしとも)がだまし討ちに遭ったところであり、また、織田三七信孝(のぶたか)が詰め腹を切らせられた無念のところでもある。
平治の乱後、落ち延びた義朝は、野間の長田忠致(おさだただむね)を頼った。しかし、そこの風呂でだまし討ちに遭い、無念にも討たれた。『平治物語』では、その間のことを「やがて湯殿へ入り給へば、三人の者ども走りちがひてつと入、橘七五郎むずとくみ奉れば、心得たりとて取って引よせ、をしふせ給ふ所を、二人の者ども左右より寄て、脇の下を二刀づゝさし奉れば、心は猛しと申せども、『鎌田はなきか、金王丸は。』とて、つゐにむなしくなり給ふ。」とあり、今に伝えられている義朝公の最期の言葉「我に木太刀一つでもあらば討たれはせん」は無い。義朝公の無念を思う後世人が伝え弘めたのか。
今、義朝の墓前には、木太刀が供えられている。わたしたちも木太刀のお供えをした。
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・織卿: |
織田信長の三男・織田三七信孝のことを謂う。織田信孝は、織田信長の死後、柴田勝家、滝川一益等と共になって秀吉に対して争うが、こと敗れ、野間大坊で切腹をさせられた。 |
・陰陵: |
項羽が道を失ったところ。項羽は垓下で漢・劉邦に敗れ、陰陵で道に迷い、やがてこの先で滅ぶ。曾鞏の『虞美人草』に「鴻門玉斗紛如雪,十萬降兵夜流血。咸陽宮殿三月紅,覇業已隨煙燼滅。剛強必死仁義王,陰陵失道非天亡。英雄本學萬人敵,何用屑屑悲紅粧。三軍散盡旌旗倒,玉帳佳人坐中老。香魂夜逐劍光飛,血化爲原上草。芳心寂莫寄寒枝,舊曲聞來似斂眉。哀怨徘徊愁不語,恰如初聽楚歌時。滔滔逝水流今古,漢楚興亡兩丘土。當年遺事久成空,慷慨樽前爲誰舞。」とある。 |
・義公: |
源義朝のことを謂う。平治の乱に破れた源義朝は、野間に落ちのびた。長田忠致を頼ったのであるが、平氏からの恩賞を目当てにした忠致の家来ために浴室(武器を帯びていないとき)で殺されてしまう。
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