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アルフィリオンと三人の姫君







 

「その子は引き取って育てよう。だが、あなたのことは知らない。顔も二度と見たくない」
 真冬に瞬く星のごとく冷たく澄んだ声でそう告げた王子に、黒髪の娘は蛙の呪いをかけました。娘の魔力の源ゆえに、蛙の呪いは容易いものでした。

 娘は待ちました。かの誇り高き王子が娘に赦しを乞い、娘からの口づけを願う日を。あの美しいひとが醜く無力な蛙の姿でいられるはずがないのです。
 されど、ひと月が巡っても、王子はあらわれませんでした。『北の森の魔女』を怖れた王国の娘たちが、王子に口づけることはありません。黒髪の娘に口づけを願う道しか、かれには残されていないはずなのです。
 なのに。
 何故、何故、来ない。
 それほどに、わたしを厭うているのか。
 わたしより、醜い蛙であることを選ぶのか。
 ──何故。
 ああ、ただ一度、わたしを見て、口づけて欲しいと願って下さったなら。



 





 

 

 アルフィリオン・ディアン・ブリューエル──その名の響きに、競技場は水を打ったようにしんと静まり返った。
 『蛙』があらわれる。狡猾で邪悪な魔法使いは実在したのだ、三百年の時を経ても、衰えることのない美貌の女王と同じように。
 ざわざわという低いどよめきが、人々のあいだにわき起こる。それは次第に大きくなり、ジェイル・ラグレインの静かな諾の声をかき消した。
「アルフィリオン・ディアン・ブリューエル殿」
 先触れが高らかに呼び上げるのを耳にして、人々はふたたび静かになった。挑戦者は女王の座す主賓席から、向かって左の扉よりあらわれる。すべての視線が、剣と薔薇の紋章の描かれた白い扉に注がれた。
 ゆっくりと、扉が左右にひらく。
 白い扉の影からすらりと丈高い男の姿があらわれた。人々のざわめきが波紋のように広がる。金と銀とに輝く鎖帷子の上に、純白の長いマントをかけた青年が、姿勢よく優美な足取りで競技場の中央へと進んだ。マントの背には王家の一員であることを示す剣と薔薇の紋章。
 麗しのアルフィリオン──観客席の後方に座った人々の誰もが、その呼び名を思い出した。母方に光の妖精の血をひくという美貌の王子。
 だが、観客席の前方に座った人々や、オペラグラスを覗いていた人々には、かれの身に降り掛かったであろう凶事が見て取れた。
 たしかに、兜をつけずあらわになった顔の右半分は、光の妖精のように眩く輝いていた。ゆるやかに波打つ肩までのびた淡い金の髪。長い睫毛にふちどられた空の色を映す透きとおった瞳。雪花石膏の肌に、うっすらと薔薇色を溶かした唇。やさしげな面立ちに、すっきりとした鼻梁と、凛とあがった長い眉が男らしさをそえている。それはさながら清冽な朝の光に輝く咲き初めの薔薇や、初夏の風わたる星降る湖の美しさだった。
 しかし、詩人の夢のように美しいその顔の左半分は、無惨にも焼け爛れていた。髪はほとんど残っておらず、肉が幾重にも赤黒く盛り上がっている。左眼は潰れているようだった。左と右とのあまりの差異に、人々は言葉を失った。
 ざわめく場内の異様な空気のなか、貴賓席の下まで進み出た青年は、流れるように優雅な所作でマントの裾をさばき、片膝をついた。作法通り、長いマントがかれの背から大きく広がり落ちる。そのまま、こうべを深く垂れて女王アルラウネの言葉を待つ。
 女王は跪いた青年に問いかけた。
「わが養い娘リディアへ求婚する権利を得たいというのは、そなたでありましょうか?」
「はい」
 打てば響くように青年は返した。女王の傍らで、リディアは蒼白な顔をして青年を見つめていた。

 

 ……どうして。
 リディアはすぐにでもアルフィリオンのもとへ駆け出したかった。二週間ぶりに見たアルフィリオンの姿は、リディアにとって信じがたいものだった。養い親の苛烈な気性は心得ていたつもりだったが、それでも、実の父と娘なのだ。まさか、顔半分を焼き尽くすとは思ってもみなかった。
 リディアは隣に座す女王の横顔を見遣った。アルによく似ているのに似ていない、哀しいほどに冷ややかな美貌。
 この方が本当に笑うのを、僕は見たことがない。だから、笑って欲しかった。自分だけが、この方の実の父にあたる人としあわせになるのが辛かった。
 僕は──間違えてしまったんだろうか。アルの言う通り、あのまま水無村へ帰るべきだったんだろうか。アルラウネ様から受けた炎は、かれの心を深く傷つけただろう。そして、アルラウネ様自身をも傷つけたはず。
 かれはアルラウネ様が自分を赦すはずがないと言っていたのに。
 ごめんなさい……ごめんなさい、アル。
 アルラウネ様と儀礼的な言葉を交わしていたかれが、ふいに僕へと顔を向けた。
「リディア姫」
 右の瞳がやわらかな微笑みを浮かべる。
「あなたの上に、千の花、万(よろず)の光が降りそぎますように。あなたの幸福をいつ如何なるときも、わが残りの生涯をかけて、お祈り致します」
「……アル?」
 泣かないで、リディア。
 音にはせず、かれの唇がそう動くのが見えた。

 

 アルフィリオンとジェイル・ラグレインの試合がはじまった。
 女王の侍従としてあらわれたジェイルのことは、本当はよく知っている。女王宮にいたころは、まれに顔を合わせる程度だったが、フレディとして通った王立初等学校からの同級生だったのだ。有力な侯爵の跡取り息子で、文武両道、人心の掌握にもたけたジェイルは、フレディにとって憧れの人だった。
 ジェイルの剣は王立師範ダレイン仕込みのヴァンス型。精緻を極めた攻撃型で、今日の試合でも、彼は相手の隙を一瞬で突き、次々と自分より年かさの騎士たちを沈めていった。
 一方、彼のまえに立つアルフィリオンの構えはラドゥ型に見える。ラドゥ型は文官の好む流麗な防御の剣で、いかにもアルらしいと、リディアは微笑んだ。
 だが、冷静に見ていられたのは、そこまでだった。
 先手としてジェイルが鋭く斬り込んだ。それをアルフィリオンは飛び退って防ぐ。
「なるほど。本当に見かけ倒しなのね」
 すぐ隣でアルラウネが呟いた。
 固唾を飲んで見守っていた場内が、ざわめきを取り戻す。
 ジェイルが不審そうに首を傾げてから、もう一太刀を繰り出した。今度はアルフィリオンが剣を掲げて受け止める。
 だが、その姿には流麗なラドゥ型の片鱗もなかった。
 腰が引けていて、剣を持った右手を前屈みに突き出した姿は、臆病者を絵に描いたようだ。場内から失笑が起こる。ジェイルの三の太刀に跳び退るさまを見て「まるで蛙だ!」と声が飛ぶと、どっと笑いが起こった。
「無様だこと」
 アルラウネがくつくつと笑う。
「笑わないで下さい!」
 リディアは小さく叫んだ。女王は転びながら逃げるアルフィリオンを眺めたまま言った。
「むかし、祖父があのようすを見て言ったそうよ。見かけ倒しのアルフィリオン、と」
「祖父? アルの……お父様?」
 場内のあちこちから、腰が引けたまま応戦しようとするアルフィリオンへの野次が飛び、笑いが起こる。
「以来、あの男は祖父と一度も口をきかなかったそうだわ。蛙の姿にされ、母イザベルが死んだ後でさえ、祖父にも国王だった兄にも助けを求めることはなかったそうよ。あれは、やさしげに見えてとても頑固で面倒な男。ジェイルのほうがよほど分りやすくて将来も有望でしょう?」
 ジェイルは逃げ足だけは早い相手を懸命に追いかけ、アルフィリオンは不格好に跳び退りながら剣を突き出している。
 リディアは静かに首を横に振った。
「どうか、アルを赦してあげて下さい、アルラウネ様。かれは今、僕のためだけじゃない。あなたに償うために戦っているんです。ああ見えて、とても不器用だから、自分を痛めつけることでしか謝罪できないんです」
 アルラウネは眼下のふたりを見つめたまま、長いため息を吐いた。その時、ジェイルの剣がアルフィリオンの左腕に当たった。苦しげな声をあげて、アルフィリオンがその場にうずくまる。審判をつとめる騎士の右腕があがり、勝敗は決した。
 歓声の中、アルラウネはリディアに向かってうすく笑った。
「ならば、リディア。約束通り、みずからの手で道を拓きなさい」
 言うやいなや、アルラウネの唇が呪文を紡ぎ、その長い指先が額に触れた。
 視界が揺らぐ。ぐにゃりと世界が溶け、身体が溶けて、総身を悪寒が走る。やがて足許を見失い、刹那、意識を失った。

 
 気がつくと、リディアは暗い通路で両膝を地につけていた。
 ここは──?
 遠くで歓声が聴こえる。ここはまだ、競技場の中らしい。目のまえで縦に細長く光が漏れている。ふらふらと立ち上がったリディアは、我知らず自分の胸に手をあてて、みずからの異変に気づいた。
 ああ、約束通りとはこういう意味なのですね、アルラウネ様。
 リディアは光を目指して歩きはじめた。


To be continued
2010.09.20
Written by Mai. Shizaka


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