前に、 《グレゴリウス暦改定案>「2000 の倍数の年がうるう年かどうかはその都度」》 で、グレゴリウス暦の改良案を述べた。 それを簡単にまとめれば、 「2000 の倍数の年の二月が何日まであるかは、その 1000 年前に決める」 というルールをグレゴリウス暦につけ加えるものだ。 その年は、グレゴリウス暦ではうるう年になるが、 現行のグレゴリウス暦は約 3000 年たつと一日多すぎることになるので、 6000 年に二回の割合で、それを平年とすることで、 季節と日付の誤差をゼロに戻せると思われる。 仮に、このルールが採用されたとしよう。
西暦 2000 年は、うるう年としてすでに終わった。 とすると、西暦 4000 年、6000 年は平年とすることになりそうに思われる。
グレゴリウス暦を過去にさかのぼることはあまり興味がない場合が多いが、 皇紀は、紀元前 660 年までさかのぼる。 ここでは誤差が無視できないかもしれない。 皇紀 660 年は西暦では紀元前 1 年だが、 皇紀を元にうるう年かどうかを決める場合は、 0 が 400 で割り切れるのでうるう年となる。 これを、上で述べたのと同じ理由で、平年とする必要があるのではあるまいか。 (それをきちんと調べるには、 そのころの二十四節気の日付・時刻のデータが必要となる。)
もしここで一日がずれると、 それより昔の(皇紀による)暦は現代のほうに向かって一日だけずれる。 つまり、 《「皇紀」はグレゴリウス暦を二千年もさかのぼらせて、大丈夫なのか?》 に書いたように、 その“改良”されたグレゴリウス暦 --- じゃなかった、 明治時代以降の日本の暦では、神武天皇の即位とされる日は二月 10 日にずれる。
私が上に述べたような、 2000 年ごとの修正を行なう案を世界に広めるのはすぐには難しかろうが、 もしも日本国内でこの案の発想が認められ、 それに基いて「建国記念の日」を一日ずらし、 それはグレゴリウス暦をこのまま使い続けることへの懸念からだ、 ということが世界に広まれば、この問題を広く考えてもらえるのではないかと、 夢想してみた。
2009-02-13 (5) 00:54:24 +0900
日本書紀によればその日は「庚辰」である。 前にやったような気がするのだが、見つからないのでもう一度。
皇紀はグレゴリウス暦を過去にさかのぼって適用したものだから、 400 年は 365 * 400 + 97 = 146097 日にあたる。
皇紀 2401 年二月 11 日は西暦 1741 年二月 11 日にあたる。 この日のユリウス日が理科年表から計算して 2356989, 手元に 1989 年の暦があるので、 庚辰の日を適当に探すと一月 20 日、この日のユリウス日が 2447547 である。 (2447547 - 2356989) + 876582 = 967140 で、 これは 60 で割り切れるので、確かに庚辰である。
2009-02-13 (5) 00:21:24 +0900
私は小学生で、明治百年に関連した文章を、 書き方(硬筆)の時間に書かされた。 (とってあったのを、大人になってから見たのだ。)
大正百年は 2011 年、もうすぐである。
2009-02-13 (5) 00:16:07 +0900
ある年がうるう年かどうかは明治時代の勅令により、 皇紀から 660 を引いた数を元に決めることになっており、 各月の日数も、それを決めた明治時代のカタカナ書きの文書を読んだ記憶がある。 それぞれの年の日曜日がいつになるかは、 国立天文台が「日曜表」として発表している。 日曜日はユダヤ教・キリスト教・イスラム教圏の伝統に従い、 七日ごとに規則的にやってくると普通は思っているが、 日本国としては、この表で日曜日を定義している、と私は理解している。
では、それ以外の、月曜日、火曜日、……、土曜日は、 どのように定義されているのだろうか? 勅令などがあれば Wikipedia に載せてありそうなもので、そうでないところを見ると、 実は平日の曜日名は決まっていないのでは、と私は想像している。 (ここまでは 《日本国は週七日制を採用しているのではなく「日曜表」を発表している?》 に書いたこと。)
ということは、
いわゆる振替休日は、「『国民の祝日』が日曜日に当たるときは、
その翌日を休日とする」のような形で、
「月曜日」なる語を使わずに書かれているのか!? と思って条文に当たってみたら、
それ以前に、「成人の日 一月の第二月曜日
」のように、
移動祝日を定義するために使われていたのだった。
2009-02-12 (4) 23:49:34 +0900
JISが曜日を扱っており、JISも元をたどれば法律に基いているので、 法律で定義されているといえるのでは、とメールで教えてくださった方がありました。 JIS X 0301「情報交換のためのデータ要素及び交換形式―日付及び時刻の表記」 だそうです。
それを元にネットで調べてみたところ、 国立国会図書館の「日付・時刻の表記」に関するページ http://www.ndl.go.jp/jp/data/theme/theme_honbun_400184.html に、ありました。 1872 年 11 月 9 日づけ太政官布告第 337 号で、 うるう年の置き方、各月の日数 が定まっているそうです。ただし、曜日に関する規定はないそうです。
また、そのページには、JIS X 0301 が読めるページへのリンクがありますが、 当方の事情か、そのものは(今夜は)読むことができませんでした。
しかし、
「JIS規格に見る「週」の話」
に一部が引用されていました。
曜日には月曜日が 01, 火曜日が 02, ..., 日曜日が 07 と番号がついていて、
その数は《週内の日の序数を表します
》とあるそうです。
ですから、これで週の中の曜日名は決まっていることになります。
また、週は月曜日から始まることになります。
2009-02-20 (5) 23:44:49 +0900
六曜は「先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口」の順だが, 旧暦の月が替わるとそこで打ち切ってしまう。 ……と思ったのだが,週は七日からなると定義されているようだ。
2017-01-05 (4) 22:04:08 +0900
明治政府は初め、 西暦の「年」が 4 で割り切れる年はすべてうるう年、 と間違って理解して新暦を発表し、 それでは西暦と食いちがいが出てしまう最初の年である 1900 年の直前になって正しいグレゴリウス暦を発表した、と聞く。
紀元節の日付を決めたのは 1873 年だそうで、 そのときに日本書紀の日付を換算した 「新暦」はグレゴリウス暦そのものではなかったのではないか。 正しいグレゴリウス暦がわかったところで、 紀元節の日付の計算はし直さなければならなかったのでは?
と思ったのだが、明治初年に間違っていたのは発表だけであって、 紀元節の日付を計算した人は正しくグレゴリウス暦を理解していたのだろう。 (三つあとの項目参照。)
2009-02-11 (3) 01:17:44 +0900
きょうは昔の紀元節なので、こんなことを考えてみた。
グレゴリウス暦は約 3000 年で実際の季節よりも一日だけ進む。 しかし、できてからまだ 400 年ちょっとなので、 この誤差のことは問題になっていない。 (でも、私は心配になって 《グレゴリウス暦改定案>「2000 の倍数の年がうるう年かどうかはその都度」》 を書いた。)
皇紀が定義されたのは明治時代になってからで、 事実上、グレゴリウス暦を採用し、 「年」だけは西暦よりも 660 だけ大きい数を用いた結果、生まれたものである。 皇紀 1 年までさかのぼってグレゴリウス暦を用いるとすると、 グレゴリウス暦が決まったときから 2200 年以上さかのぼることになる。 そんなにさかのぼると、修正が必要になる可能性があるのではあるまいか。
その誤差は、あったとしても一日である。 皇紀 1 年の二十四節気がいつだったのか、知りたい。 ネットで検索すれば必ず見つかると思うのだが。
付)この修正を加えると、紀元節の日付の計算が一日違ってくる。 どこかで、暦の上で一日を省くことになろうから、二月 10 日になる。
2009-02-11 (3) 00:55:22 +0900
普通、「〜も生きていれば**歳だ」というのは死んだ人についていうが。
2009-02-10 (2) 01:18:09 +0900
ここ金沢市の繁華街、香林坊にある大和百貨店の学習机売り場では、 机の上に地球儀が乗せてある。 一つ一つ見ていったら、 最近キリバスがまる一日分だけ時計を進めたのに、 日付変更線が元のままで、キリバスの西を通っているのがいくつもあった。
付) キリバスの標準時の変更は、Wikipedia によれば 1995 年一月 1 日に行われた。 その場合、前年の十二月 31 日を飛ばしたのだろうか? それとも、十二月 31 日は一瞬だけあったとしたのだろうか? 利息の計算の際には違いが出てくるだろう。 十二月 31 日の正午をもって一月 1 日の正午とする、という変更のしかただと、 正午から新年が始まってちょっとおもしろかったかも。
2009-02-10 (2) 01:15:34 +0900
前の二項を参照。歴史的かなづかいでも、 完全に表音的なかなづかいでも誤読の可能性が生じる。
なお、ローマ字では「uta e」「utae」、「uta wa nai」「utawanai」 とわかちがきで区別できる。
2009-02-10 (2) 01:11:55 +0900
助詞の「へ」「は」も「え」「わ」 と書くことで完全に表音的なかなづかいにしてしまうと、 「歌え」は現代かなづかいの「歌え」とも「歌へ」ともとれるし、 「歌わない」は「歌わない」とも「歌はない」ともとれる。
2009-02-10 (2) 01:09:24 +0900
動詞「歌ふ」の命令形、未然形+「ない」なのかもしれないが、 「へ」「は」が助詞である可能性もあるからだ。
2009-02-10 (2) 01:07:59 +0900
1月20日づけ朝日新聞大阪本社版「声」に掲載された、
福井市の看護師のかたの投書「新幹線で急病 血圧計備えて」。
乗っていた新幹線で急病人が出て、アナウンスに応えて駆けつけたが、
《車掌さんに「血圧計ありませんか」と尋ねると、
困惑した表情で「すみません。無いです」と。
それを聞いた私はがくぜんとした
》。
《せめて何百人も乗せて走る新幹線に血圧計ぐらいは準備しておいて欲しい
》。
確かに血圧計があればこの局面では役に立っただろう。 しかし、医療関係者が乗っていなければ、 おそらく、血圧計があって、使い方がわかったとしても意味がない。 仮に、体温計があったとして、体温が 39 ℃とわかったとしても、 しろうとでは「ああ、熱が高いですね」というしかないのと同じだ。
だから、医療関係者のほうが、いつでも必要最小限の医療器具 --- それには血圧計も含まれるだろう --- を持っていてくれたら助かるが、 これは無理な注文だ。
備えるかどうかは、 新幹線の中で血圧計が必要となる病人がどのくらいの確率で出るか、 また、医療関係者が乗っている確率はどのくらいか、による。 判断がむずかしいところではあるまいか。
ところで、「お客さまの中に血圧計をお持ちの方はありませんか?」 のアナウンスは当然したのだろうな。 一般家庭用に売られている、 携帯できるタイプのを持って旅行している人がいる可能性はそう低くないと思う。 「毎日はかって記録してください」と医師に言われている人。
2009-02-10 (2) 00:54:31 +0900
初めに本項を公開したときには、 新聞に掲載されていた投書者の氏名を書いていましたが、 ご本人に近いかたから、 氏名を載せるのは見合わせてほしいとの申し入れをいただきましたので、 一部を改変し、氏名は載せないようにしました。
2009-06-09 (2) 00:51:02 +0900
1月20日づけ朝日新聞大阪本社版「声」に掲載の、 兵庫県西宮市の喜多不二子さんの投書「留守電に昔話 粋で心暖まる」。 通っている病院の待合室で見た新聞コラムについて書いている。
内容は、ある家に電話をしたが相手は留守。 受話器から「はい○○です。お父さんは山へしば刈りに、 お母さんは川へ洗濯に行っています。 ご用のある方は……」と、 昔話の桃太郎の一節をもじって書かれていた。
それがよかったというのだが、 明記していないところをみると(いわゆる) フリーダイヤルではなく、電話代はおそらくかけた方がもつのであろう。 それなら、私は簡潔なほうを好む。
2009-02-10 (2) 00:47:20 +0900
1月20日づけ大阪本社版「声」の面の、 「朝日川柳」の句に「餃子」とあって「ぎょうざ」とふりがながある。 記事では「ギョーザ」としていることが多いが。
2009-02-10 (2) 00:44:43 +0900
「靴を投げつけたい」の主語になる人と、目的語になる人と。 「この人に、靴を投げつけたい人は手をあげて」、 「あなたは、靴を投げつけたい人がいますか?」が例文になろう。
1月19日づけ朝日新聞大阪本社版「歌壇」の、
尾道市の堀川弘さんの
《我もまた靴を投げつけたき人のあると思ひて靴ひもを締む
》
を読んで気づいた。
この場合は、「我」がその人に投げつけたいと思う人、の意味だ。
2009-02-10 (2) 00:39:24 +0900
飛行機は相当な速度で川に降りたはずだ。 船のほうでよけられたとは思えない。
2009-02-10 (2) 00:34:22 +0900
……という声はあがっていないのだろうか? もちろん、 死んだ人がいなかったことのほうがずっと重大だと思うけど、 中には「だから飛行機は自然にやさしくない」という人もいそうだ。
2009-02-10 (2) 00:32:24 +0900
後者は、構想をしまっておく、頭の中の倉庫のようなもの。
2009-02-08 (0) 22:49:00 +0900
なんでだろう?
2009-02-08 (0) 22:47:49 +0900
「天皇制」があるんだから「皇后制」もあっておかしくない、と考えて。
2009-02-08 (0) 22:46:55 +0900
「山本一」は「山本・一」と区切って「やまもと・はじめ」かもしれないし、 「山・本一」で「やま・もとかず」かもしれない。
「山並平」は「山並・平」と区切って「やまなみ・たいら」かもしれないし、 「山・並平」で「やま・なみへい」かもしれない。
森鴎外の本名「森林太郎」(もり・りんたろう)は「しんりん・たろう」 と誤読されることがあるが、「しんりん」という氏はなかろう。 「もりばやし・たろう」ならいいか。
2009-02-08 (0) 22:43:07 +0900
本文ナシ
2009-02-08 (0) 22:42:28 +0900
前に 《回文>「馬齢重ね兼坂入れ歯」(ばれいかさねかねさかいれば)》 を書いたが、このほうが自然だ。
2009-02-08 (0) 22:40:29 +0900
本文ナシ
2009-02-08 (0) 22:39:51 +0900
「販売中」というと、係員がいていますぐにでも売ってくれるような気がする。 実際には、そこには誰もおらず、看板だけが立っているのだ。
「売土地」と書いてあることが多いような気がする。 読み方はよくわからないが。
2009-02-08 (0) 22:37:11 +0900
本文ナシ
2009-02-08 (0) 22:36:40 +0900
本文ナシ
2009-02-08 (0) 22:35:50 +0900
さすがに「武劣天皇」は 0 件。 正しい「武烈天皇」は約 18200 件。
2009-02-08 (0) 22:31:40 +0900
Wikipedia によると、武烈天皇は 507 年 1 月 7 日、 昭和天皇は 1989 年 1 月 7 日に亡くなっている。
2009-02-08 (0) 22:27:27 +0900
先日の東京出張の際、東京駅に着いて少し時間があったので、 神保町の本屋街へ行こうと思い立った。 京浜東北線で秋葉原へ行き、そこから総武線に乗り換える。 秋葉原と御茶ノ水の間の高架が好きなので、 一番前に乗って前を見ていた。当然、聖橋が見えてくる。 地下鉄丸ノ内線の線路も見えた。
御茶ノ水で降り、歩いてゆく途中、 右手に明治大学があるのを思い出した。 前に、学会でここのリバティタワーにきたことがある。 入り口に、守衛のような人が立っていた。 中央大学の事件以来、 明治大学のリバティタワーの前に守衛が立つようになった、 という話を、インターネットのニュースで読んだのを思い出した。
“本学の学生でない次の者は立入りを禁ずる”という貼り紙も、 学会のときと同様に、あった。 あのときは、自分の氏名が載っていないことを、いちおう、確めた。 同姓同名の学会員がいたらどうするのかいな、と思ったのを思い出した。
付) 東京から御茶ノ水までは中央線(快速)で乗り換えなしに行けるのだが、 あの長いエスカレーターが好きでないので。
2009-02-08 (0) 21:55:33 +0900
2009-02-02 (1) 01:11:53 +0900
私が中学生だったころは、 文庫本の「吾輩は猫である」「明暗」は上下二巻だった。 その場合、どこで区切るかは、その文庫本の編集者しだいだろう。 「若菜」の「上」「下」の区切りは、 それとは違って元々の写本が同じところで分けられていると思っているのだが、 正しいかな?
岩波文庫版の「上」の最後は
《かひなきことを」とあり
》、
「下」の冒頭は
《「ことはり」とは、おもへど、「うれたくも、いへるかな
》。
2009-02-02 (1) 00:07:24 +0900
(いわゆる)トップページの URL は http://www.f.u-tokyo.ac.jp だ。 英語では pharmaceutical だから、ph が適切なのではあるまいか。 全国の大学の薬学部のドメイン名を調べてみたくなった。
2009-02-01 (0) 20:35:20 +0900
《三度めのくり返しを始めない数列は駢文数列を含め(本質的に)非可算無限個》 を書いたが、それでも、 「三度めのくり返しを始めない数列は駢文数列もどき以外にあるか」 という問題はまだ解決できていない。 (ここで「駢文数列もどき」と書いたのは、 上のリンク先で説明した数列のことである。)
それらには、奇数項目(あるいは偶数項目)はすべて、 その前の項が 0 なら 1 に、1 なら 0 になる、という強い制限がある。
2009-02-01 (0) 18:09:00 +0900
ネットの掲示板に「朝青龍を殺す」との書き込みがあり、 それを聞いた朝青龍が「俺が殺してやる」と発言した、 というのが私の理解しているところ。
マスコミでは、「俺が殺してやる」の目的語は「書き込んだ人」 と思われているようだが、元の文の目的語と同じ、 すなわち朝青龍自身にはならないのだろうか? (その場合、 自殺するという意味になる。)
2009-02-01 (0) 17:21:23 +0900
I でアナキンがパドメに渡したものだが、 あれは二人だけの秘密だったはず。 アナキン(=ベイダー)が葬儀にかかわっているとは思えないから、 パドメの遺品の中からあれを探し出して握らせたのは誰か、 という疑問が生じる。
2009-02-01 (0) 16:28:30 +0900
I 以来、あのシーンまで画面に映らないと思っていたが、 III の、 アナキンが夜中に悪夢で目をさまして寝室を出、 パドメも起きてあとを追うシーンで、パドメはあのお守りを胸にかけていた。 だが、それにしてもほかにはアナキンしか知らない事実だ。
2009-02-22 (0) 21:45:59 +0900
冒頭の、議長救出作戦の中で、 オビ=ワン、アナキン、パルパティーン議長の三人と R2-D2 が捕えられ、グリーバスの元に連行される。 そこで、オビ=ワンとアナキンは奪われていた剣をフォースで取り返し、 戦闘になるのだが、 議長を連行していた雑魚ドロイドは、ただ議長を連れ去ろうとするだけ。 アナキンが彼らに立ち向かうと、議長ではなくアナキンに銃を向ける。
人質である議長に銃を向け、 二人のジェダイに対し 「剣を捨てないと議長の命はないぞ」とか脅すものではなかろうか?
ドロイドにはそういう行為は許されていないのだろうか? スター・ウォーズ全体を見ていて、 人間(異星人を含む)とドロイドとの間で、 越えてはいけない一線のような何かがあるような気がしている。
2009-02-01 (0) 16:03:05 +0900
バトルドロイドが作られたのはジオノーシスの工場においてだが、 すべてがパルパティーンの計画のもとに進められていたのだから、 初めからバトルドロイドは 「パルパティーンは攻撃しない」ようプログラムされていても不思議はない。
2009-02-26 (4) 20:33:33 +0900
ついこの間 2000 年代にはいったと思ったら、 ことしはもう 2009 年。 西暦2000年問題が話題になっていたのはもう十年も前のことなんだ。
2009-02-01 (0) 15:59:53 +0900
18日づけ大阪本社版掲載。
最初の凡例に《問題文中の「前ページ」「次ページ」「下の図」
などは問題冊子のままです
》とあるが、
それとは別に、朝日新聞が、
《左のページからのつづき
》、
《右のページへつづく
》、
《次のページへつづく
》、
《前のページからのつづき
》、
《左のページへつづく
》、
《右のページからのつづき
》
などと書き加えている。
これらは明らかに文字の大きさが違うので、混乱はないと思うのだが、
元の冊子の1ページごとに枠で囲むなどする方法もあると思う。
そうすれば、朝日新聞の書き加えた分は枠の外に出るから区別できる。
2009-01-31 (6) 03:02:53 +0900
《朝日新聞>「入試センター試験 問題と正解」《第一日》》 参照。 以前、何か書いたような記憶があったが、やっぱり書いていた。
2009-02-01 (0) 20:49:57 +0900
あまり大相撲に興味はないのだが、 この日、寝込んでいたのでラジオをつけて実況放送を聞いていた。 嘉風が善戦したということは言っていたが、 勝ったあと朝青龍が嘉風をにらみつけた、 ということは全く言っていなかったと思う。 18日づけ朝日新聞大阪本社版は大きく報じている。
2009-01-31 (6) 02:57:05 +0900
私はそうではないと思っていた。
私はネイティブによる英会話以外のそういう授業を受けたことがないので類推だが、 NHKラジオ第二放送で聞いている英語番組では、 次の会話なりニュースなりを聞いて、 次の質問に英語で答えよとか、適切なタイトルは次の英文のうちのどれか、 などと問われることがある。 これを、プリントを配って行なうことが可能だろう。 英文を読んで、英文で書かれた問題に、英文で答える。 そして、(英語で)指名されれば英語で答える、など。
もう一つの類推は、(当然のように)日本語で行われる国語の授業である。 小学校のときは新出漢字・熟語を調べてゆくのが予習だったが、 意味は(当然)国語辞典でひくから日本語で書いてゆく。 それと同じことをするなら、英英辞典をひいて英語で意味を書くのが予習となろう。 また、新出熟語を使った短文作りというのもあった。 これも英語でできるはずだ。
なぜこんなことを考え始めたかというと、
17日づけ朝日新聞大阪本社版 be on Saturday の b7 面、
be between「英語教育の強化、評価しますか?」に
《英語による授業も過半数が「必要」と答えています。
「大学まで英語の授業があったが、会話力はつかなかった。
会話力が身につく授業を」(埼玉、48歳女性)
というのが多くの人に共通した思いです
》や、
《高校での英語で行う授業に賛成する人の6割が「日常会話も身につく」
を理由に挙げました
》とあるのを読んだからだ。
18日づけ朝日新聞大阪本社版教育面の、
『「英語で授業」賛成』という、仙台市の岩下登志子さんの投書も、
英会話に期待しているようだ。
《実際に会話のできる「生きた授業」が、最善と思う
》とある。
2009-01-31 (6) 02:39:27 +0900
Tコードは(確か)新聞における出現頻度だけで決めているので、 「誰」「岡」などはTコードにはいっていた。 そして、パソ通の時代はTコードで打っていたので、 それで打ち込める漢字は使う、というようになっていったようだ。
よって、 この「いろいろ」では、常用漢字以外の文字もふりがななし使っている場合がある。
2009-01-31 (6) 02:35:26 +0900
17日づけ朝日新聞大阪本社版第一面のサマリーには
「新常用漢字」という見出しがあり、
《「阪」「奈」「媛」など府県名に使われている字や
「嵐」「頃」「誰」「丼」「鍋」などすでに日常的に使われている字など、
計191字が追加される
》とある。
当用漢字は固有名詞については関知しない、という姿勢だった。 府県名は小学校でも習うから、これらの文字は知らないと困る。 そこに不自然さを感じていたが、固有名詞用の文字を入れるなら、 どこまで入れるかの決定が難しかろう。
「すでに日常的に使われている字」がこれだけあるということは、 常用漢字表外の漢字が日常的に使われている、ということだろう。 常用漢字表とは何だったのか、という疑問が生じる。 また、ここにあがっている文字は、ほぼ、 「あらし」「ころ」「だれ」「どんぶり/どん」「なべ」 ということばでしか使わないと言ってよい。 もちろん、漢字辞典をひけばそれ以外の用法も載っているし、 「誰何(すいか)」は私も知っているが。 たとえば「雨」という字は「う」とも読み、熟語に使われる。 そういう熟語を見ると、「雨(あめ)に関連するんだな」 とわかるわけで、そこには(そういう造語法をしている限りの) 便利さがある。 だが、これらの文字はたった一つの語のために表に入れられる。 それで便利になるだろうか?
社会面にはくわしい記事が出ており、追加される文字がすべて載っている。 「日常よく使われる漢字」の例として上がっているうちの「俺」「旦」「呂」 は、「おれ」、「元旦」、「風呂」として使われることがほとんどであろう。 それだけのために入れる意味があるだろうか?
「鬱」の字が加わったのは私には痛い。書けないからだ。 (書けるようにならなくては。)
今回、「銑」「錘」「勺」「匁」「脹」の五字が削除されるという。 私は、「昭」も削除してはどうかと思う。 「昭和」という固有名詞で使われることがほとんどであろうから。
それと、JIS第二水準の文字は、前から入っていたっけ? (「丼」 は第二水準)。
2009-01-31 (6) 02:05:10 +0900
17日づけ大阪本社版 be の e3 面、 「食べテツの女」または「食ベテツの女」。 “または”としたのは、見出しのフォントでは 「食」の次の字がひらがなかカタカナか私にはわからないからだ。
本文に《愛のない食べテツなんて考えられない
》とある「べ」はひらがな、
最後に《食ベテツ評論家・荷宮和子
》とある「ベ」はカタカナ。
普通は統一するものだと思う。
2009-01-31 (6) 01:57:45 +0900
1月31日づけでは
本文に《食べテツにとって
》。この「べ」はひらがな。
署名は上と同様。
2009-03-08 (0) 01:03:01 +0900
**病で亡くなった人について、 「彼はそのとき、 後に彼の命を奪うことになる**病に冒されていることを、まだ知らなかった」 というと、そのときすでに彼は**病に冒されていたが、 そのことを知らなかった、気づいていなかった、と読まれやすいが、 論理的にはそのとき**病にかかっていなくてもよいはずである。
2009-01-31 (6) 01:50:44 +0900
上では「まだ知らなかった」と書いてしまったが、 これだとそのときは「まだ」知らなかったが、 「その後」知ったように読めるかもしれない。 それなら、 「彼はそのとき、 後に彼の命を奪うことになる**病に冒されていることを知っていなかった」、 「彼はそのとき、 後に彼の命を奪うことになる**病に冒されていることを知らされていなかった」 など。
2009-01-31 (6) 18:55:23 +0900
「彼女がかつて〜であったことはあまり知られていない」とあると、 たいていの人は「彼女はかつて〜であった」のだと思うだろう。 しかし、実はそれは偽であって、 だから「彼女がかつて〜であった」ことは知られていない、 のだったら怒るよな。
2009-01-30 (5) 21:24:05 +0900
2009-01-29 (4) 01:54:25 +0900
下痢とか腹痛とかにあたる英単語を覚えないといけなくなる?
2009-01-29 (4) 01:45:42 +0900
腹痛は普通にならうか。stomachache だ。
2009-01-31 (6) 18:59:31 +0900
昔、方言でなく標準語を話しましょうと教育した際、 うっかり方言を使うと 「私は方言を使いました」と書かれた札を首からかけさせられた、 と聞いたことがある。それは「方言札」と呼ばれたらしい。 それの日本語版ができるのでは、というのである。
2009-01-29 (4) 01:42:21 +0900
12日づけ大阪本社版社会面から、 「メメント・モリ / 死を忘れるな / 定時制神戸工の14年」という連載が始まった。 最後にこうある。
「死を忘れるな」という意味のラテン語「メメント・モリ」。 6434人が犠牲となった震災をめぐる体験を心に刻み、 歌に詠んだ高校生と教師の話を全5回で紹介する。
まだ最初の2回分しか読んでいないが、 震災で亡くなった人のことを忘れるな、 という意味のように思える。 本来の意味は 「自分が死すべき者であることを忘れるな」であろうが、 それとはずれている感じだ。
第1回には《宮崎勇作
》と署名あり。
第1面のサマリーも引用しておこう。
阪神大震災をめぐる体験を短歌に詠む授業を続ける定時制高校を舞台に、 教師と生徒たちの物語をつづる連載「メメント・モリ」 (ラテン語で「死を忘れるな」)が始まる。
2009-01-28 (3) 02:19:14 +0900
5回分すべてを読み終えたが、 上で述べたことに訂正を加える必要を認めなかった。
2009-01-29 (4) 01:13:18 +0900
12日づけ大阪本社版「天声人語」に、
《電車内で化粧や飲食に及ぶのは大人の所作とは言い難い
》
とあるが、私は出張のときはたいてい電車の中で食事をとる。
車内で食べることを前提として駅弁が売られ、
車内には販売員が回ってくるのだから、構わないと思っているのだが……。
私が主に使うのは上越新幹線と北陸本線の特急だが、 どちらも電車のはずである。 (たまに使う寝台特急「北陸」は、電気機関車がひっぱるので電車ではない。)
以前、東海道新幹線に食堂車が連結されていたことは覚えている。 あれも電車だったはず。
2009-01-28 (3) 02:14:17 +0900
確か、高1の英語の教科書の初めのほうで look forward to を習った。 生徒は意味を英和辞典でひいて予習しておき、 教室では日本語に訳すことで、 教員は生徒が意味を正しく理解していることを確認した。 また、look forward to see とは言えないのであって、 look forward to の後には動詞の -ing 形がくる。 これを、(日本の)中学3年までの英語が終わったばかりの生徒に、 英語で説明できるのだろうか?
いや、高1の最初に習ったのは just around the corner だったかな?
2009-01-28 (3) 01:54:38 +0900
高等学校の英語の授業を英語で行なうなら、 単語の意味を説明するのも英語でだろう。 それには、英英辞典がひけるだけの力がいると私は思う。
私の場合、 Oxford の学習者用の英英辞典を使い始めたのは高校3年生のときだったと思う。
2009-01-28 (3) 01:51:06 +0900
高等学校の英語の授業は英語で、という話が出ているが、 もしそうするなら、中学3年間の間に、 英語で英語の授業が受けられるだけの力をつけさせなければならないだろう。 それは考えられているのだろうか?
少なくとも、noun とか adjective とか verb といった基本的な文法用語を教えておかないと、 高校にはいってからそれらを英語で説明するのは至難の技だと思う。 つまり、中学で必ず学ぶべき単語に、英文法に関する単語を含めねばならない、 ということになるだろう。 (国語の授業では必ずしも文法を用いないが、 それは日本の生徒のほとんどにとって、日本語が母語であるからである。)
(いくつかの文を示し、名詞を指さして、 「This is a noun. This is a noun, too.」ように英語で説明し、 生徒に「ああ、noun って名詞のことじゃない?」と理解させる方法もあるだろうが、 それなら日本語で「noun は名詞のことです」と説明するか、 「名詞」という語を使って文法事項を説明するほうがずっと早い。)
付) 頭にアクセントを置いて「アジェクティヴ」と発音するのか……。 いままでずっと、まん中にアクセントのある「アドジェクティヴ」だと思っていた。
2009-01-28 (3) 01:46:42 +0900
12日づけ朝日新聞大阪本社版「声」に載った、 兵庫県川西市の池田登志子さんの、「英語の先生は英語力磨いて」。
《大学院で英語教授法を学んだとき、
院生のほとんどは中・高校の現役英語教員だった
》。
そのときに
《英米人の教授たちと対等にコミュニケーションがとれる院生は一握りだった
》。
これは、想像できることだ。
大学の英語教員をしていたころ、 留学準備科の教員は私を除いて全員英米人だった。 授業は英語で行うのは当たり前。 同僚との会話やメール、職員会議、 書類提出など何から何まで英語で行われた。 これはごく自然なことで、ピアノの弾けないピアノの先生はいないし、 乱筆な書道の先生はいないはずだ。
これが、日本の大学なのか、英語圏の大学なのかが書かれていない。 英語圏の大学なら、本当の意味で当たり前のことだ。
仮にこれが日本の大学だとして、 この大学では英語圏以外へ留学する学生にはどう対応していたのだろう? 日本語が母語、第一外国語が仏語であって大学受験も仏語、 英語は第二外国語としてしか学んでこなかった、 という学生の中には、英語で行われる授業についてゆけない者がでるであろう。 もしも彼がフランス語圏への留学を目指すとしたら、 留学準備科の授業に出るだけのために英語を学ばなければならないのだろうか?
それと、この部局内では書類を英語で統一したとしても、 それらの書類の中には大学内の他部局に回ってゆくものがあるはずだ。 それはどうしていたのだろうか。 こう考えてくると、この大学は、日本にあった大学だとしても、 英語圏の影響を強く受けた大学、英語圏に絞って目を向けた大学、 といえるのではあるまいか。
(この投書者が、大学教員として、 留学準備科ではない、一般教養の英語を教えてはいなかったのか、 教えていた場合には英語で教えていたのか、も気になるところだ。)
さて、
《ピアノの弾けないピアノの先生はいないし、
乱筆な書道の先生はいないはずだ
》だが、
これらの例から言えることは
「教師は教える内容において優れていなければならない」
ということだ。
ピアノの先生は生徒の前でピアノを弾いてみせるだろうし、
書道の先生は筆をとって手本を書くだろう。
しかし、それは英語教育でいえば、
英文を音読してみせること、英語で会話してみせること、などにあたる。
英語の授業は英語でせよという主張は、
教える内容ではなく手段に関する主張であり、
別の話になる。
ピアノや書道の例でいうなら、
ピアノの先生はピアノを弾いてみせるだけでなくことばでも指導する。
書道の先生もそうであろう。
つまり、教える内容以外の手段をも用いて教えるであろう。
話を言語教育に戻そう。 ある言語を教える際、 その教える対象となる言語を用いて教えることがすべての場合に適当かどうかは、 わからないと思う。 初歩の段階では明らかにそれは非効率的だし、 古典ギリシア語・ラテン語やサンスクリット、 古典ヘブライ語の教員は、 たとえレベルの高いクラスであっても、それらの言語を用いて教えはしないと思う。
この投書者が、日本の高等学校の英語教師、 英語教育のレベルが低いのを嘆くのはわかる。 また、この人が勤務していたという大学の英語教育のレベルが高いのもよくわかった。 問題は、その方法が日本のすべての高等学校で適切か、であろう。
投書の最後の段落に戻ろう。
中・高・塾、予備校の英語の先生たち、 もう少しご自身の英語力を磨いて下さい。 プロらしく滑らかな英語で授業を行って下さい。 その姿をみるだけでも、生徒には素晴らしい学習動機となります。
《プロらしく滑らかな英語で授業を行って下さい
》までは同感だが、
そのことは必ずしも英語で授業をすることには結び付かない。
英文を音読したり、英語で話したりするのはプロらしく滑らかに。
でも、授業そのものは日本語で行なう、ということも考えられるからだ。
《その姿をみるだけでも、生徒には素晴らしい学習動機となります
》
は、そうなるかどうか、私にはにわかにはわからない。
余りにレベルが高すぎると、
「どうせあんな風にはなれない」と初めからあきらめるかもしれないからだ。
それはともかく、これも、英語で授業をしてみせなくても、
英文を流暢に音読し、ネイティブと会話してみせることで達成できることである。
全体をまとめると、この投書は、 日本の英語教育・英語教師のレベルは低いからもっと高めるべきだ、 と訴えることには成功している。しかし、 日本の高等学校での英語の授業を英語で行なうべきだ主張することには、 成功していないと思う。
2009-01-28 (3) 01:02:29 +0900
英語では theory of relativity が正式なようであるが、 前項で述べたように relativity theory も使われるようだ。 これは名詞と名詞を並べたものである。
仏語では théorie de la relativité と de でつなぐ。 直訳すれば「相対性の理論」。
独語では Relativitätstheorie と、一語につづってしまう。
日本語では「相対性理論」というから、 ローマ字書きの場合、仏語式はありえない。 英語式に sôtaisei riron とするか、 独語式に sôtaiseiriron とするか。
仏語を見習って、単に漢語と漢語を続けるのでなく、 間に「の」をはさむ言い方「相対性の理論」を採用しろ、という意見もあろう。 それならもちろん sôtaisei no riron となる。
付)仏語・独語は岩波数学辞典によった。
2009-01-27 (2) 21:13:46 +0900
岩波数学辞典などによると、theory of relativity のほうが正式らしいが。
2009-01-27 (2) 21:10:21 +0900
箱根の地名「強羅」と同じように、/go:ra/ か /goura/ かが知りたいのだが、 わからない。
Google で「"郡楽" "ごうら"」を検索すると 7 件。 珍しい日本の姓を並べたページばかりのようである。 この姓の人で、姓を明かして(いわゆる)ホームページを作っている人はいない、 ということのようだ。(いれば必ずふりがなを振るだろうから。)
2009-01-27 (2) 20:40:44 +0900
「自主運転(じしゅうんてん)」、 「自主運動(じしゅうんどう)」、 「自主運行(じしゅうんこう)」などが思いつく。 実際に意味があるのか、使われているのかはよくわからないが、 あってもおかしくない例であろう。
ウ段のカナに「う」が続くが長音でない例は 「湖(みずうみ)」とか。 (前に 《「みずうみ」は mizu:mi と発音されている?》 を書いた。(その項目には本文はない)。)
2009-01-27 (2) 20:31:52 +0900
「民主右派(みんしゅうは)」を思いついたぞ。「民衆派」ではない。
2021-05-20 (4) 23:18:13 +0900
二番めと三番めとを言い分けるとしたら、「私に紹介したい人って誰?」、 「私を紹介したい人って誰?」となろうか。 動詞「紹介する」が「〜を」を二つとることも、 「〜に」を二つとることもないということを前提とし、 「私に」「私を」を置くことで、 「その人を」「その人に」であることを示すわけだから、 遠回しではあるけれど。
2009-01-27 (2) 20:28:40 +0900
上の、一番めのケースの場合、「紹介したい人」とはいわず、 「紹介したがっている人」というような気がする。 「紹介したがっている人って誰?」のように。 これについては、また考えよう。
2009-05-24 (0) 22:22:46 +0900
前項を書いていて思い出した。 丸ノ内線で大学院に通っていたときのことである。 当時の丸ノ内線の電車の座席には、一人分の幅を示す印などはついていなかった。 ドアとドアの間の座席は、4人がけと3人がけのシートをつなげた7人がけだった。 その境目が自分のからだの端にくるよう、4人がけのシートに座っていれば、 7人がけのまん中に座っていることになるわけで、 「詰めてください」と言われるいわれはないはずである。
ところが、あるとき、左側に2人が、2人分を越える幅を占めて座っていた。 そして、その2人と私の間に、やや人相のよくない男が、 私に対し“詰めてくれ”と言ってきたのである。 道理がこちらにあっても相手によっては通じないと思い、 私は右にずれた。そのうち、私の右にも3人が乗ってきたため、 結局、左の2人組も本来の幅に収まり、 私は最初に座っていた位置に戻ったのである。
2009-01-27 (2) 02:18:20 +0900
8日づけ朝日新聞大阪本社版「声」に載った、 「優先座席」ということでまとめて掲載された投書のうちの一つ、 大阪府枚方市の寺内洋子さんの「親子4人着席 / 促されて譲る」。
米国の公共の乗り物では子どもが座っていることはまずない、 という以前の投書を受けて、日本での現状を論じているのだが、 どうも、わからない点が多い。
先日、体が少し不自由な友人と電車に乗ったときのことです。 数人が立っていました。 優先座席が空いているように見えたので近づいてみると、 小学生らしい男児が2人座っていました。
「子どもはここに座ったら、あかんよ」といったのに無視されたので、 もう一度、大きな声で注意しました。 そうしたら、なんと、通路を挟んで隣の優先座席にいた若夫婦のうち、 夫のほうが立ち上がり、2人の男児を呼んで弟の方を座らせました。 一家4人で優先座席にいたのです。
まず、「子どもはここに座ったら、あかんよ」というのは、 何に基いているのか。優先席はあくまで「優先」席なのであって、 空いていれば誰が座ってもよい、と私は理解している。 (Wikipedia によると、札幌市営地下鉄は「専用席」だそうである。 それなら、若者や健常者が座るのは適当でない。)
空いていたのなら、一家4人で優先座席にいても、何の問題もないと私は思う。 ただ、その「体が少し不自由な友人」が乗ってきたのに気づかなかったり、 気づいても譲ろうとしなかったのなら、それが問題であろう。 もしそうなら、そう書くべきである。
また、子どもを立たせず、父親が立ったことも問題にしているようだが、 立った場合、手すりや吊り革につかまらないと、 福知山線脱線事故のような事故が起きた場合、生存率が低くなる。 吊り革に手が届かない子どもの場合、つかまるところが限られるので、 着席させておいたほうが安全だと思う。 また、からだが小さい分だけ、大人よりも電車の振動を大きく感じるはずで、 子どもにとって立っていることはつらいと思う。
タイトルは編集部がつけるはずだが、 この状況では「促されて」とは言えないのではあるまいか。 「この人は体が少し不自由だから譲って」と言われたのなら 「促されて」だが、 「子どもはここに座ったら、あかんよ」と(私なら)理解できないことを言われ、 どんな人かわからないので気味が悪くなって親のほうへ呼び寄せた、 というように私には思える。
2009-01-27 (2) 01:43:06 +0900
最後の段落も引用しておこう。
親から優先的に座らせてもらった子が大人になったとき、 乗客に気配りできなくなるのではないかと心配になりました。
この子たちは、前に《小学生らしい
》とあった。
大人になるまでには、
座席が足りないときに誰が座るべきかについての考えが変わる可能性は十分にある。
吊り革につかまれるようになり、
うれしくて立っている子を見かけることもある。
心配はいらないと私は思う。
小さかったとき親が座らせてくれたありがたさを思い出し、
かえって自らすすんで人に席をゆずる大人にならないとも限らない。
もう一度全体を読み直して、このかたは、あるいは編集部も、 「日本も、米国ではそうであると言われているように、 子どもは着席しないようにすべきだ」と主張したいのではあるまいか、 とも思えてきた。 ただ、それを主張するには議論に無理が多すぎるように思う。
2009-01-28 (3) 00:52:16 +0900
9日づけ朝日新聞大阪本社版社会面で、 新常用漢字に追加される、「しんにゅう」を持つ三文字「遡」「遜」「謎」について、 正字のまま、すなわち点が二つの「しんにゅう」のまま追加するか、 あるいは、常用漢字で用いられている、 点が一つの「しんにゅう」に直すか、の議論が報じられている。 同じ問題は、「餅」「餌」などの「しょくへん」についても生じる。
「統一しよう」という意見はわかりやすい。 それに対し、「そのまま」の意見には、いくつか疑問がある。
一方、聖徳大教授の林史典さんは「統一できるなら統一したいが、 常用漢字と表外漢字は実際は併用されており、 漢字表だけで整合性をとっても済まない。 1点、2点しんにゅうは日常生活でまぜて使っていても混乱はない」 として現実的な選択を求めた。
実際は併用しているのなら、なぜ常用漢字を増やす必要があるのか。 『「遡」「遜」「謎」を表外だがよく使う漢字』としておけば、 「常用漢字ではないからしんにゅうが2点になっているんだ」と納得が行く。 常用漢字は、社会に出るまでに読み書きを習得すべき漢字であろう。 これは表外だから覚えなくてもいいんだ、と思えば気が楽になる。
もし2点しんにゅうのまま常用漢字に入れるとしたら、 「この漢字のしんにゅうは1点」「これは2点」という区別を覚えさせるのか、 あるいは、しんにゅうは(どの漢字についても)1点でも2点でもよい、とするのか。 そこもわからない。 どちらを使っても混乱はない、という人は、 自分は両方を知っていて、使い分けもわかっている人のことが多い。 そうでない人はどうするのか。 子どもは最初は漢字を知らずに生まれてくる。 彼らに、漢字を覚えさせるときの負担が大きい方法は避けるべきだと思う。
「編集委員・白石明彦
」と署名がある。
この筆者は、コンピューターなどでは2点しんにゅうになっていることを述べ、
次のように主張する。
こうして新しい字体が定着してきたのに、 5字のためにそれをくつがえすのか、 という林さんらの主張は説得力がある。 今後も表外漢字が表内に入ってくるたびに印刷標準字体から変えていたら、 表内の整合性にとらわれるあまり、 木を見て森を見ずということにもなりかねない。
最後の「木を見て森を見ず」はよく意味がわからないが、 常用漢字と表外漢字を併用することを前提とし、 「木」は常用漢字、「森」は漢字全体、というたとえだと思われる。
私が思うには、常用漢字を変更するのは大きな変革である。 その際には、新規にはいった文字の字体が変わることもやむをえないだろう。 戦後、初めて当用漢字を決めた際、かなりの文字の字体が変わった。 「國」が「国」、「對」が「対」のように。 そのときの大変さに比べたら、大したことはあるまい。 コンピューターは、その文字についてのみ、新しいフォントを配布すればよい。 それが大変だというなら、常用漢字を変えるのはやめ、 「よく使う表外漢字」というもう一つの枠を定着させてはどうか。 その漢字については、読み書きができなくても不自由のないよう、 公共機関が出す文書などでは配慮する。 その一方、使いたい人はご自由にどうぞ、読んでもらえないかも知れませんが、 とすればいいのではあるまいか。
もう一つは、全く逆の意見だが、 表外漢字すべてについて、新字体を決めることである。 「瀞」はさんずいに「静」かというとそうではなく、 「青」の下半分が違っている。 こういう不便がないよう、納得のゆく新字体を、 すべての漢字に対して決めるのである。 (現実に作業を開始すると、 どういう字体が新字体になるのか議論の分かれる漢字があるであろうが。)
付) 当用漢字から常用漢字に変わったときには、この問題はなかったのかな?
2009-01-27 (2) 00:58:24 +0900
2009-01-26 (1) 22:55:22 +0900
I ではタトゥイーンでのシーンにしか現われず、 II では(ルークの)おじさんの農場の場面から登場する。 そして、ドロイド工場で首と胴とを分離され、 別々にバトルドロイドに接合されてアリーナでジェダイたちと戦う。 旧三部作を見て彼の性格を知っていればおもしろさがわかるが、 I から見始めた人にはわかりにくいのではないか。
だから、あの作品は、初めて見るときには公開順に見るべきだと思う。
2009-01-26 (1) 20:55:31 +0900
もちろん、 死んだ気になれば「なんでもできる」わけだから 「死んだ気になる」ことも可能なわけだが、 それでは意味のある答えになっていない。
「なんでもできるようになれば」というのも同様。
2009-01-25 (0) 22:49:30 +0900
2009-01-25 (0) 00:41:17 +0900
……がわからない。あそこで、十分、撃つチャンスがあったと思うが。
2009-01-24 (6) 22:59:56 +0900
敵に攻め込まれ、 たまたまルークを抱いていたオビ=ワンはルークを連れて、 レイアを抱いていたオーガナ上院議員はレイアを連れて、 そしてヨーダは単独で、命からがら、 やっとのことでばらばらに逃げるのだと想像していた。 そうでないと、 ヨーダの元でもっと幼いときからルークの訓練を始めなかった理由がわからない。
2009-01-24 (6) 22:53:30 +0900
私が想像していた「シスの復讐」の最後の戦いは、 ヨーダ、ウィンドゥ、オビ=ワン、アナキンといった名のあるジェダイたちと、 シスである皇帝、ドゥークーたちとの、小人数どうしの戦いだった。 その中で、 皇帝の誘惑に負けたアナキンがダークサイドに落ちたため一気に形勢は逆転、 ジェダイは全滅に近くなるがオビ=ワンはアナキンを倒して、 というようなものを想像していた。
ウィンドゥ対ドゥークー戦がなかったのが一番残念だったかな。
2009-01-24 (6) 22:48:47 +0900
三部作のまん中の作品の終盤で若い主人公と戦い、右手または右腕を切り落とす点、 最終作品でパルパティーンの前で再度戦って今度は敗れるという点では、 ドゥークーとベイダーに共通点がある。
一方、ドゥークーは II の最後で主人公たちが一生懸命に追いかけるが、 あと一歩のところで逃げられてしまう。 この点は、V の最後で、 冷凍されたハン・ソロを取り戻そうとレイアやランドたちが追いかけて逃げられる、 賞金稼ぎのボバ・フェットと似ている面もある。 そして、 最終作品冒頭の、 そのあとの部分とはやや独立したエピソードの中で殺される点でも、似ている。
2009-01-24 (6) 22:34:52 +0900
自身でデザインしたという話になっていると想像していた。 手先が器用だという設定だし。 最初は「とりあえず」のものを作り、 それを着て次のを、と順々に精巧なものにしてゆくとか。
2009-01-24 (6) 22:27:45 +0900
「その187」が大きくなりすぎていたので、 一部を「その188」(このファイル)へ移動しました。
2009-01-24 (6) 21:26:52 +0900
その後、加筆したため目安の 60KB を越えたが、 これはよいことにしている。
2009-01-25 (0) 00:41:55 +0900
確か、 オルデラーンに向かうファルコン号の中で、 ルークにフォースの訓練を授けるオビ=ワンに、 フォースの存在を信じないと言っていたと思う。 (いま手元に DVD がないので確認できないが。)
一方、 II 冒頭の、ザムを追跡しているシーンでは、 エアカーのドライバーも、 街の人も、ジェダイのことを知っているように見える。 そのあとクローン戦争になり、 そこでジェダイがクローン兵を率いて戦っていることは、 共和国と名乗っている以上、あの銀河じゅうの人が知っているような気がする。 (そうでない共和国もありえるが。)
ハン・ソロはルークよりは年上に描かれているから、 ジェダイを知らないとは思えない。 少なくとも、「小さいときそんな人たちがいたような気がする」 ぐらいには記憶していると思うのだ。
ということは、ジェダイの存在は一般に知られていても、 フォースのことを知る人は少なかった? たとえば、ジェダイは、 人前でフォースを使ってものを動かしてみせることは、 しないものだったのだろうか? (緊急時は別かなあ、 と想像してみる。 たとえばクラブでシャンデリアが落ちてきたときとか。)
あと、チューバッカはヨーダと共にキャッシークで戦ったことがある。 チューバッカはどこまで知っていたのだろうか? 知っていれば、 あそこでハン・ソロに何か言ってもよさそうなものだ。
2009-01-24 (6) 20:53:57 +0900
普通、「尋ね人」の欄に出ているのは尋ねられている人である。 ただ、尋ねている人の住所氏名なども、連絡先として書かれている。 いままで、前者を指すに決まっていると思っていたが、 急に気になった。
2009-01-24 (6) 20:52:30 +0900
Phinloda 氏の「Phinloda の裏の裏」で、 「キモい」は「気持ち(が)悪い」の 「気持ち」の一部だけを残して肝心の「悪(い)」が全然ない、 変な略し方だ、と指摘しておられたのを見て、私はちょっと別のことを考えてみた。
「あなたは身持ちが悪い人だ」なら、身持ちが悪いのは「あなた」である。
2009-01-24 (6) 19:19:00 +0900
6日づけ朝日新聞大阪本社版生活面の、天野祐吉氏の「CM天気図」。 「テレビと漢字」というタイトルで、常用漢字の字数が増える問題を取り上げている。
が、常用漢字がふえることで、 耳で聞いただけではナンのことだかわからないような言葉がふえるとしたら、 あまり歓迎できない。 文字の問題なんだからいいじゃないかといえばそれまでだが、 文章もまた、耳で聞いてもわかるように書くほうがいいんじゃないだろうか。
そう述べたあとで、今回追加される文字を散りばめて作った
《いたずらな文
》を見せたあと。
それに、「隠蔽する」とか「忌憚なく」とか「真摯に」とかいう表現は、 ほとんど字として見るだけで、音として聞くことがない。 そういう言葉を、物知り顔で話し言葉の中に入れたりすると、 「未曽有」の恥をかいたりしてロクなことはあるまい。
いわゆる表音派の一つの根拠であるので、 私にはそれほど目新しくはなかったが、 これを読んでいて、 「口語文にも『目で見て読む』ための文と、 『耳で聞いてわかる』ための文があるのではないか」 ということに気がついた。
両者がうまくすみわければ、それでいい。 「おもう」とか「うつす」をひらがなで書いても、 「漢字を知らないからだ」と非難されることはない世の中になった。 上の引用部分でも、天野氏は「ふえる」と書いている。
2009-01-21 (3) 23:57:01 +0900
7日づけ朝日新聞大阪本社版「天声人語」。
《この年末年始は曜日の巡りで休みが長く
》
とあるが、曜日は規則的に巡っている。
巡りが悪かったのは日付のほうではあるまいか。
この筆者は、日付が規則的に巡り、曜日はそれに付随して巡っている、
というような考え方なのであろう。
2009-01-21 (3) 23:53:29 +0900
いま使っている携帯電話は docomo の N904i だが、 (いわゆる)日本語の入力は「T9入力方式」で、 T9変換モードは「T9漢字変換モード」にしてある。 1〜9、0のボタンはそれぞれア行からラ行、 および「ワ行と『ン』」を意味し、 「時計」と打ち込みたいときは4、2、1とボタンを押す。 すると機械はタ行、カ行、ア行の文字が一字ずつだなと理解し、 それに合う単語で(いわゆる)辞書にあるものを候補として表示する。 いま実際にやってみたら、 「使う」「高い」「近い」「使い」「時計」……と表示された。 この中から、自分の打ち込みたいものと同音の語 (厳密にはカナで書いたときに同じになる語)を選んで、 それから漢字変換を行なう。 いまの場合は「時計」そのものが出ているので、 これ以上変換する必要はない。
先日、「一般(いっぱん)」と打とうとしたときのことである。 「146*0」 (「*」は濁音半濁音の切り換え) と打つのが正解なのだが、 なぜか「166*0」と打ってしまった。 ローマ字入力に慣れきっているので、 「促音は次の子音を重ねる」の感覚で、6を二度打ってしまったようである。
付) 「T9漢字変換モード」というのは、 候補の単語が漢字で表示されるもので、 対になるのは「T9かな変換モード」である。 これだと、候補単語がすべてカナで表示され、
とけい つかう たかい ちかい つかい つくえ つかえ とくい たこう ちかう つこう たかお たけお とかい ちけいのようになる。 この中から自分の打ち込みたい語がカナで書かれたものを探していると、 一文字だけ違っている語などが紛らわしい。 よって、「T9漢字変換モード」にしているが、 この場合は、意外な同音語として表示される場合があるので要注意である。 先日、「夏目」と打とうとしたのに見つからず、 よく見たら「棗」として表示されていた、という経験をした。
2009-01-21 (3) 20:08:15 +0900