すのものの「いろいろ」(その245)

「纏う」/matou/ と「待とう」/mato:/ は発音しわけねばならない

三つ前の項に関連。

2011-01-06 (4) 00:43:48 +0900

XP のファイル検索はフォルダ名はひっかからないようにできているようだ

ある卒業生からの年賀状を見て、 昔のある授業のファイルをフォルダ名でさがしたが見つからず、 全部失ったかと思い、ちょっとあせった。

2011-01-06 (4) 00:30:31 +0900

大ウソだったので、タイトルを抹消した。 XP の場合、フォルダを指定してその中を検索するのに対し、 Vista はいまエクスプローラに表示されているファイル、 およびフォルダの下を検索する。 そのあたりをごっちゃにしていたような気がする。

2011-01-06 (4) 20:12:33 +0900

ディレクトリ構造が、重なった地層のようになってしまい、頭が混乱している

パソコンを新しいものに取りかえるとき、 いまなら My Documents は My Documents に、 My Pictures は My Pictures に、と移してゆくと思う。 以前、そうではなく、 「前のコンピュータ内のファイル全部」 を次のパソコンのどこかにおき、ということを複数回くり返した。 だから、あるはずのファイルが見つからないことがあったり、 よく似た内容のフォルダがあってどうしてよいかわからなくなったりする。

2011-01-06 (4) 00:24:01 +0900

NHK実践ビジネス英語>「つきまとう」の最後は二重母音に読むのが正しい

2010年12月30日木曜日放送分 (1月6日木曜日放送予定分でもある)の Quote ... Unquote で、講師の杉田敏先生が /cukimatou/ と発音された。 私自身は /cukimato:/ と言っているような気がする。

2011-01-05 (3) 21:23:39 +0900

NHK実践ビジネス英語>「... have more than doubled」という言い方

2010年12月30日木曜日放送分 (1月6日木曜日放送予定分でもある)に出てきた。 これで「二倍以上になった」の意味。 自分で考えたら、ratio が more than two とか言ってしまいそうだ。 「二倍」と「以上」が一緒になった言い方なので、 和英辞典では見つかるかどうか。

(厳密に言えば「二倍をこえた」だが。)

あれ? この文を現在形にするとどうなる? 「... more than doubles」 はおかしいよな?

2011-01-05 (3) 20:48:55 +0900

6日木曜日の再放送を聞いて気がついた。 冒頭で、 松下クリスさんがきょうのビニエットの概要を英語で話すところでも、 この言い方が使われていた。 (ただし、ビニエットでもそこでも、主語が三人称単数なので has more than doubled となって)

2011-01-07 (5) 21:04:26 +0900

この more than の用法は、中学校一年生で習う 「John is taller than his father.」などとは異なる。 どう理解すればよいのかわからなかったが、 再放送分を聞いていて、ビニエットで直後に 「it's gone from five percent to more than ten percent.」 という文が出ているのに気がついた。 これも、同様に、理解しにくい。

しかし、両者をながめているうち、 「more than」は挿入句で、これを入れることで「それ以上」の意味が出る、 と考えればよさそうだ、と気がついた。

では、下の文は「more than」が挿入されているので、上の文の意味、 「それは二倍になった」に「それ以上」の意味が加わり、 「二倍以上になった」の意味となる。

も同様に、「10% になった」に「それ以上」が加わり、 「10% 以上になった」となる、と考えられる。 あとはその位置だが、副詞句や形容詞句のはいる位置に準ずる、 と考えればよさそうに思う。

ところで、 「三分の一になった」という言い方があるのかどうかは、 手元の辞書では発見できなかったが、もしあったとして、 これに more than が挿入された場合、 「三分の一以下になった」の意味になるのだろうか、 「三分の一よりは多い状態にまで減った」の意味になるのだろうか?

ジーニアス英和辞典では、「more than」が熟語として出ていた。 いままでこれを知らなかったんだ。

2011-01-08 (6) 22:49:22 +0900

Google マップで、鷹の台駅ちかくの昔風の郵便ポストを見てうれしかった

Google マップで鷹の台駅から少し南へ行ったところの右側に、 昔ながらの郵便ポストが生き残っているのを見てうれしくなった。 「火の鳥」のロビタに似てなくもないな。

2011-01-05 (3) 20:47:55 +0900

「〜するのです」vs「〜します」と「〜するのでした」vs「〜しました」

前に 《被害妄想の話に「被害者」が出てきたら、妄想の対象となっている人の意味?》 などでとりあげた秋月さんのページからリンクをたどっていって読んだ話。

『「〜するのです」は不自然で、「〜します」のほうが自然』、 と指摘している人がいた。 例えば、 「食事のあとはいつもお茶を飲むのです」よりは 「食事のあとはいつもお茶を飲みます」のほうが自然だ。

しかし、これを過去形にするとどうなるか。 「〜するのでした」を「〜しました」に取りかえることはできない。 たとえば、「トリスタンとイゾルデ」のあらすじ紹介で、 「彼女は法悦のうちに息を引き取るのでした」を 「彼女は法悦のうちに息を引き取りました」とはできない。

なぜだ?

2011-01-05 (3) 20:35:43 +0900

年賀状の返事を書く。二年続けてこなかった人は、もうこないということかな

教え子からの年賀状に返事を書いた。

2011-01-04 (2) 02:24:50 +0900

人を目的語にする動詞+「ていた人」はどちらの意味になるか

ちょっと前の項に書いた「待っていた人」は、 その人が待っていた相手ともとれるし、待つという行為をしていた人、 ともとれる。

2011-01-03 (1) 20:39:16 +0900

落語の小話で「仁王」と「臭う」をかけたのがあるが、発音は当時から同じ?

/nio:/ と /niou/ で違うと思うが。

2011-01-03 (1) 20:27:14 +0900

夕暮れの中央公園で、積もった雪を見ながらヱビスビール 500ml を飲んだ

今年の初飲み。雨が降っていたのでかさをさして立ち飲み。きのうのこと。

2011-01-03 (1) 20:06:30 +0900

回文ご両家名「Awasima-Misawa」(淡島・三沢)

昨日、ミサワホームの出店ののぼりをデパートで見て。

2011-01-03 (1) 20:04:28 +0900

待っていた人からのメール着信音は、長く聞いていたいし、早く読みたいし

私の機種では読もうとすると着信音は止まる。 これを書かないと意味が通じないか。

2011-01-03 (1) 19:57:25 +0900

元の形をはっきりさせるため「暖かくぁった」と書こう、という人はいないか

「くぁ」は、「く」の子音に「あ」を続けたものだから、 「か」と同じになる。だから読み方としては問題なく、 「暖かった」と書くよりも元の形「暖かくあった」がわかりやすい。 ローマ字で書く際、atatakakatta と書く代わりに atatakak' atta のように書こう、 というのと同じ発想。

2011-01-03 (1) 19:53:48 +0900

回文>「随感・展開図」(ずいかんてんかいず)

「随感」は広辞苑第六版に出ている。

2011-01-03 (1) 19:51:50 +0900

「くわえる」は「口にくわえる」としないと「加える」と間違われるかも

本文ナシ

2011-01-03 (1) 19:51:03 +0900

煙抜きのため窓を開けると、かえって風が吹いて煙を運んでくるようだ

いま住んでいるのはアパートの最上階で、 最上階はうちが占めているスペースと事実上うちが独占して利用しているパブリックスペース (ベランダなど)を除くと、玄関前のエレベーターホールと、 その先の、階段を上がりきったところの空間しかない。 階段は地上階まで続いている。 途中階でたばこを吸う人がいるようで、 煙が階段をのぼってきて、玄関のドアのすきまから侵入してくる。 それを防ぐため、エレベーターホールの窓を全開にし、 そこから外へ煙が出るように、としていたのだが、 ふと思いたって、その窓を閉めてみた。 そのほうが、風が下から上へ吹かなくなり、 煙がこなくなるのでは、と思ったからである。

どうも正解だったようだ。 もっとも、正月休みが終わって帰ってくる人の中にろうか・ 通路でたばこを吸っている人がいないとも限らないから、 もう少し様子をみる必要がありそうだが。

2011-01-03 (1) 19:35:05 +0900

きょうの補筆箇所

2011-01-03 (1) 02:43:50 +0900

「遺族に説明しなかった」って、もしかして、遺族になる前の話では?

2009年4月9日木曜日づけ朝日新聞大阪本社版社会面の 「夫と長浜市に2億円賠償提訴 園児殺害事件の遺族」。 人名はマスクして、全文を引用する。

滋賀県長浜市で06年2月、 市立神照(かみてる)幼稚園の園児2人が、 通園時に引率していた別の園児の母親に刺殺された事件で、 遺族が8日までに、 市と、 殺人罪で無期懲役が確定した×××受刑者(37)の元夫(50)に総額約2億円の損害賠償を求める訴えを大津地裁に起こした。 遺族は「幼稚園は通園の安全配慮義務に違反し、 夫は精神障害者の保護監督を怠った」としている。

訴えたのは、刺殺された×××ちゃん(当時5)と××××ちゃん(同)の両親。 訴状によると、×受刑者は事件前、娘がいじめられていると思い込み、 教諭に相談。 しかし、幼稚園はこうした状況を遺族に説明しなかった。 元夫は、×受刑者に適切な治療を受けさせていなかったとしている。

終わり近くに「遺族に説明しなかった」とあるが、 これは、事件後のことだろうか? 私にはそうではなく、 事件の前に説明しなかった、のように思える。 そうだとしたら、それなのに「遺族」 という単語が使われていることが興味深かったので引用したものである。

付) ここまで細かく記事を読むことは、 もう私には無理かも知れない。目が弱ってきたし、時間がとれないこともある。

2011-01-03 (1) 02:26:35 +0900

7日金曜日づけ社会面には、この事件に関連した 「遺族の賠償請求却下」「長浜園児刺殺 地裁「察知は困難」」 が載った。ここでは 《遺族側は、 同幼稚園に通う自分の娘がいじめられていると思い込んだ×受刑者から相談を受けた園側が、 その言動の異常さに気づきながら引率のグループ割りを変更するなどの措置をとらなかったために事件が起きたと指摘》 とあり、事件前を記述する部分には「遺族」の語は出ていない。 ただし、「×受刑者」は出てくる。当時は受刑者ではなかったはずだが。 《大西英正》と署名あり。

この追記部分でも、人名はマスクした。

付) 最初の部分を書いてからすぐにこの記事を読んだので、 えらく早く結論が出たな、と思ったが、そうではなかった。

2011-01-09 (0) 02:03:56 +0900

(カタカナ名は仮名)》って、カタカナ名の人はさびしくないか?

2009年4月9日木曜日づけ朝日新聞大阪本社版生活面の 「発達障害とともに」は、最後に 《(カタカナ名は仮名)》とある。 ちょっと前の項に書いた「ヒトミ」さんがこれを見たら、 自分の名前は仮名に思われやすいのかと、さびしく思わないだろうか? それと、 日本語において、 原則としてカタカナで氏名を表記する言語の名前の人。 ここには《シン》君が登場しているが、 日本語の中で普通に書くと「シン君」となる人って、きっといるよね?

帯金真弓、太田康夫》と署名あり。

2011-01-03 (1) 02:19:23 +0900

天野祐吉氏の『「お知らせ」は耳で聞いてわからなくてはいけない

2009年4月9日木曜日づけ朝日新聞大阪本社版オピニオン面の、 天野祐吉氏のコラム「CM天気図」。「お知らせ芸」という見出しがついている。

「お知らせ」は耳で聞いてわからなくてはいけない。 「あれはゴホーだ」と言われても一瞬なんのことかわからないし、 「ゴタンチだ」なんて言われると、 オタンチンと言われたのかと思ってびっくりする。 役所ことばというのは、どうしてこうわかりにくいのか。

正論だと思ったのでメモしただけ。

2011-01-03 (1) 02:13:57 +0900

壁からなる迷路は、壁を壊して作ればよい? データはどう格納する?

たとえば

+--+--+--+--+
|  |  |  |△|
+--+--+--+--+
|  |  |  |  |
+--+--+--+--+
|  |  |  |  |
+--+--+--+--+
|◎|  |  |  |
+--+--+--+--+
の図から壁を壊し、 「」で表されたスタートから 「」で表されたゴールまで行けるようにする。

データは、 a[0][0] が左下の頂点、 a[0][1] はその頂点の上の壁、 a[1][0] はその頂点の右の壁、 のようにして、(偶数、偶数)は頂点、 (偶数、奇数)は南北方向の壁、 (奇数、偶数)は東西方向の壁、 (奇数、奇数)は床、とすればよいか。

2011-01-03 (1) 02:07:55 +0900

「最少サイズ」って変じゃない? 「最小サイズ」が普通だと思う。

2009年4月11日土曜日づけ朝日新聞大阪本社版 be on Saturday の e4 面、 「作家の口福」は恩田陸氏。 「最少サイズのシュウマイひと箱」とあるが、 最少は数が最も小さいことを言い、サイズは大きさだから、 なんか変な気がする。 ものすごく大きな箱に巨大シュウマイが一個だけはいっているのと、 普通の一箱十数個入りのものだけがあったら、どちらが「最少サイズ」なのだ?

2011-01-03 (1) 02:02:01 +0900

hex の迷路だと、頂点のみで二つの石が接することがない

hex の迷路だと、

 ■■
■■■
 ■■
のように並ぶので、頂点のみで二つの石が接することがない。 次のように考えるとわかりやすいかも。 この絵は、本来は正六角形からなっており、 まん中のものの六つの辺にまわりの六つの正六角形が接している。

2011-01-03 (1) 01:54:32 +0900

迷路をランダムに発生させるには?

マス目を塗りつぶして作る迷路を、ランダムに発生させたい。 むかし、本で見たのは、壁から石が“生まれて”いって、 壁にぶつかりそうになったらやめて、別の位置から再開する、 というものだった。それと同じかどうか考える。

全体は正方形で、周囲はすべて石とする。 石でないマスを床と呼ぶ。 左下のマスがスタートで、右上のマスがゴールとする。 それらは「◎」で表す。 ルールをまとめよう。

すると、2×2の迷路は

■■■■
■ ◎■
■◎ ■
■■■■
しかない。石でないところが四つかたまっているが、しかたがない。

3×3は、本質的に次の二つである。

■■■■■ ■■■■■
■ ■◎■ ■  ◎■
■   ■ ■ ■ ■
■◎■ ■ ■◎■ ■
■■■■■ ■■■■■
前者はもう一つの、後者はあと三つの、対称形がある。 だから、迷路をランダムに発生させるとしたら、 それぞれ 1/6 の確率で登場することになる。

壁から石が“生まれて”ゆく方法だと、対称性を除けば、 最初は次の図になる。

■■■■■
■  ◎■
■   ■
■◎■ ■
■■■■■
さらにこれがのびるには、真上にのびるしかない。 すると、必ずさっきの右の図になる。これは変だ。

のびる方向を、三方向からランダムに決めよう。 すると、確率 1/3 で上にのびる。確率 2/3 でだめになる。 次にのびうる石は

■■□■■
■  ◎■
□   □
■◎□ ■
■■■■■
で「」で示した四つ。左右の石はだめで、上と下が選ばれれば ---、 しかし、下の石を選んだとき、のびるのは上方向のみか、 などを決めなくてはならない。

2011-01-03 (1) 01:30:48 +0900

まだ

■■■■■
■  ◎■
■ ■ ■
■◎  ■
■■■■■
があった。

2011-01-06 (4) 20:32:11 +0900

朝日新聞>「江戸末期に東京近郊の染井村」は誤解をまねくかも

2009年4月11日土曜日づけ朝日新聞大阪本社版 be on Saturday の e1 面、 「うたの旅人」は『日本古謡「桜」』。 そこに、《江戸末期に東京近郊の染井村》とあるが、 いまではそこは“東京郊外”ではない。 当時は東京と言わなかったと思うから、やはり“東京郊外”ではない。

文・伊藤千尋》と署名あり。

2011-01-03 (1) 01:19:00 +0900

保育園の送迎の際に駐車違反とされかかることについて

2009年3月21日土曜日づけ朝日新聞大阪本社版「声」に、 「駐禁取り締まり」の見出しのもと、二つの投書が載っている。 9日づけの投書に関連して、のようだ。

その二つめ、神戸市中央区の会社員、上野ますみさんの 「臨機応変さを監視員に望む」。

子どもの保育園の送迎に車を使っていますが、 止めた途端に駐車監視員の方が来られます。 私は2回注意されただけで済みましたが、 他のお母さんたちの中には反則切符を切られた方がいます。

保育園の周りは駐車禁止の場所です。 止めれば違反ということはもちろんよく分かっていますが、 付近にコインパーキングもありません。 子どもを部屋まで送って戻る5分程度のことです。

最近は監視員が気になり、子どもを部屋に届けると急いで出ます。 園での子どもの様子などについて先生と話せず、 とても悲しいです。

通行の邪魔にはなっていないと思います。 臨機応変に対応してと願うばかりです。 私のわがままでしょうか。

本当に通行のじゃまにならないなら、 保育園の先生、保護者が集まって警察などと交渉し、 駐車禁止を解除してもらえばよいだけのことだと思う。 そうでないなら、「じゃまだろうが5分だから待て」と言っているわけで、 それには賛成できない。 その場合、 保育園側が、敷地内に駐車スペースを確保するか、 駐車スペースを確保できる場所へ移転すべきだろう。 そういうことは、このときの法改正の際、 事前にわかっていたことのはずである。

臨機応変にとあるが、車のキーは監視員に預けると想定しているのだろうか。 そうでないと、 臨機応変に対応したらそのまま何時間も戻ってこない不届き者が現れた際、 対応できない。 しかし、本物かどうかわからない監視員にキーを預けるのはいやだろう。 そうなると、園の周りが“臨機応変”で止まった自動車だらけになり、 この投書者が、 投書した時点で行なっていた送り迎えの方法がとれなくなる可能性もあるので、 “臨機応変”には賛成できない。

それから、園での子どもの様子を聞くのは、それ専用の機会、 たとえば親子面談などはないのであろうか。 その場合、自動車でくるのか、という問題もあるが。 停車が駐車に含まれないなら、園の周りに保護者が自動車を止め、 そこに保育園の先生が乗りこんで車内で面談すればよいか。

それで気がついたのだが、 子を預ける親の自動車が、園の周りに同時に止まる台数に上限があるなら --- たとえば同時には多くても三台とか ---、 その数だけ、子どもを受け取って園に連れてゆく、 園の職員をおけばよいのではないか。そうすれば、 駐車ではなく停車で済む。 それに上限がないようだと、やはり駐車している自動車全体が、 通行のじゃまになるのではあるまいか。 迎えにゆくときは、少し手前で停車して携帯電話などで連絡してから、 とするか。

自動車の運転のできない私がいまいろいろ考えているが、 この時点で、どこかで考えてうまいやり方が確立されていたのではあるまいか。 全国的な問題、前もってわかっていた問題なのだから。

付) 《この「いろいろ」で、一般人の投書を取り上げる場合にも投書者名を書く理由》 はこのリンク先を参照されたい。

2011-01-02 (0) 23:27:41 +0900

バスの運転手がお年寄りを気の毒だと言って家まで送り届けないのは助かる

前項に関連して。 ここ金沢では公共交通がほとんどバスしかなく、 かなり足腰の弱ったお年寄りも乗ってくる。 運転手さんがその人たちを「家まで送り届けよう」と思わないので、助かっている。 (もしそうだと戻ってくるまでバスが走らないので。)

なお、 きちんとした運転手さんが多く、 お年寄りが降りたあとは、 歩道に上がるのを確認するまで発車しないことを書き添えておこう。 また、お年寄りが、「もう歩道にしっかり立ったので大丈夫」と、 手をあげて合図している場合もある。

2011-01-02 (0) 23:23:39 +0900

タクシー運転手が客を送り届ける間に駐車違反とされることについて

2009年3月21日土曜日づけ朝日新聞大阪本社版「声」に、 「駐禁取り締まり」の見出しのもと、二つの投書が載っている。 9日づけの投書に関連して、のようだ。

その一つめ、 大阪市住吉区の主婦、工藤キヨ子さんの「道交法改正で善意生かして」。

9日の「弱者か法律か 悩むタクシー」を読んだ。 タクシー乗務員が車いすのご老人客をマンション7階まで送り届けている間、 路上に車を3〜4分間止めたところ、 駐車違反で検挙されたという気の毒な内容だった。

夫は個人タクシーを退いて8年。 「自分だったらどうしたの」と尋ねてみた。 「障害があって高齢者なら、 おれもやっぱり車を止めて自宅まで送っただろうなあ」と夫。 私も同感である。

しかし、乗務員が車を止めた場所は駐車禁止区域だったそうだ。 他の車の迷惑にならないかと思うと、私なら駐車違反はできそうにない。 では、どうすれば良かったのか。 あちらを立てればこちらが立たず、新聞を前にして考え込んだ。

このあとさらに二つの段落があるが、それらは省略する。

私の考えは、そのお客さんを乗せた自分のタクシーは、 目的地近くの駐車できるところにとめ、そこまでで精算してもらう。 それから別のタクシーを呼び、客と二人でそのタクシーに乗る。 客の目的地に着いたらタクシーにはすぐに行ってもらい、 上の階まで送り届けて、あとは徒歩で自分のタクシーを置いた場所まで戻る。 あるいは、常に二人で乗務して、一人は送り届ける係、 もう一人は運転手と分業する。 送り届けたあとは、場所を決めておいて合流する。

これらが「無理だ」というなら、 一人で上階まで送り届けるのも「無理だ」と考えてあきらめるしかあるまい。

あと、 「3〜4分間」と元投書に書かれていたようだが、 そのあいだ、歩行者や他の自動車がそこを通れず、 待っているしかない場所だったのかどうか。 そこがわからないとなんとも言えない。 私は自動車の運転をしないので知らないが、このとき、 駐車禁止区域があまりに広がりすぎ、 不要な場所まで禁止区域になったのなら、話は別で、 そちらをなんとかしなければならないだろう。

付) 《この「いろいろ」で、一般人の投書を取り上げる場合にも投書者名を書く理由》 はこのリンク先を参照されたい。

2011-01-02 (0) 22:58:22 +0900

朝日新聞「天声人語」>ふりがな廃止論者はいまの漢字ブームに驚くか?

前項と同じ「天声人語」。 山本有三の戦前の「ふりがな廃止論」から説きはじめ、 《ふりがなをやめれば難しい漢字は使えず、 難語はおのずと制限される。そうした一理ある主張ではあった。 戦争に負けると漢字はさらに冷遇され、 一時は撤廃論やローマ字化論も勢いづいた。 山本は泉下で、今の漢字ブームに驚いていることだろう》 とあるのだが、それに対する私の意見は 《人々が難しい漢字を楽しむ時代の到来は過去の漢字廃止論者には意外か?》 で述べたものと同じである。

私は、「勃発」の「勃」におかしな訓があてられたりするほうが、 漢字の冷遇にあたると思うがな。

2011-01-02 (0) 22:32:22 +0900

朝日新聞「天声人語」>カタカナ書きの氏名、「サクラ vs 桜」など

2009年4月22日水曜日づけ大阪本社版「天声人語」。 《カタカナでは素っ気ない人の名も、 漢字で書けばたちまち姿がよみがえる。 サクラより「桜」の方が、さまざまな事を思い出す》 とあるが、ふだん漢字で書かれる名前は、その漢字で見たほうがわかりやすい、 というだけのことである。 以前、「ヒトミ」という名の学生がいたが、 このカタカナで書かなければ、彼女の姿はよみがえらない。 「サクラ」は日本語の sakura しか表さないが、 「桜」は日本語の sakura 以外に、 中国語においてこの漢字で書かれる語をも意味する。 だから、多くのことを思い出すのは当然だろう。 漢字文化圏のほかの言語を知っていればそれも思い出すはず。

2011-01-02 (0) 22:25:42 +0900

「桜」は中国語では「ゆすらうめ」のことだそうだ。 実は、このことはいままで知らなかった。 魚へんの漢字で例があるはずだと思って漢和辞典を手に取ったが、 その前に「桜」をひいてみて、知ったのだ。 この天声人語を書いた人は、漢和辞典で「桜」をひいたのだろうか。

2011-02-11 (5) 02:10:59 +0900

啓蟄や清明は二十四節気の一つで、旧暦新暦には関係ないのだが

2009年4月23日木曜日づけ朝日新聞大阪本社版文化面、 染織家の志村ふくみ氏の「季の移ろいに心ゆらぐ 清明の頃を過ぎて」。 《私など旧暦人間はもうとっくに列からはずされている》とあるが、 その先では 《こんな年になったからこそ言いたい。 もういちど日本列島にみなぎるこの春の節気を見直したい》 とあて、啓蟄(けいちつ)と清明(せいめい)のことが述べられているが、 二十四節気が旧暦新暦に関係ないことは、理解しておられるのだろうか。 旧暦で暮らす人と、新暦で暮らす人とが、 「ことしの啓蟄の日に会いましょう」と言えば同じ日になる。 (ただしタイムゾーンが同一でなければならない。)

編集部だって目を通しているだろうに。

四月のはじめからは「清明(せいめい)」と呼ばれ》も変。

2011-01-02 (0) 21:52:16 +0900

日本の授業研究は、「jyugyo‐kenkyu」で通じるほどだそうだ

前項に引用した記事の、第2面の続きに、 《日本の授業研究は、「jyugyo‐kenkyu」 と日本語で通じる国があるほど、かねて海外で注目されてきた》とある。 ヘボン式でもないところがおもしろい。 (田丸卓郎の時代からあるそうだけど。)

2011-01-02 (0) 21:44:51 +0900

朝日新聞>「1〜13の数字が」は変。なぜ「数が」としないのだろう?

前項に引用した記事の前半分の、(おそらく)国語の授業の描写の中に 《黒板に1〜13の数字が書かれると》とある。

2011-01-02 (0) 21:35:42 +0900

「有限集合の濃度はどの順に数えても同じになる」ことは教えなくてよいか?

1日土曜日づけ朝日新聞大阪本社版トップ記事は 「教育 あしたへ]」の第1回目。 「先生 答えって大事なの?」 「教えない 白熱対話で学ぶ」という大きな見出しが出ている。

「算数のカリスマ」坪田耕三先生(63)》。 小学校での授業で、カードに書かれた

      ●

    ● ● ●

  ● ● ● ● ●

● ● ● ● ● ● ●

  ● ● ● ● ●

    ● ● ●

      ●
の黒丸の数を数える問題。

意見が出尽くすのを待ち、カードと同じ図のプリントを配った。 1人の子が前に出て、●を数える数式を書く。

「4×4=16 3×3=9 16+9=25」

だが、式の説明を本人はしない。別の子が、図を描き説明する=下の図。 「違う考えがある」「同じ図でも違う式になる!」。 数式と解説が、次々と教室にわきだす。 先生はどれが最もよいか言わずに授業を終えた。 唯一の「正解」を求める時代は、終わったと思うからだ。

(次の図は、本質的には記事にあったものと同じだが、まったく同一ではない。)

      ●

    ● ○ ●

  ● ○ ● ○ ●

● ○ ● ○ ● ○ ●

  ● ○ ● ○ ●

    ● ○ ●

      ●

確かに、どういう順序で数えてもよいのだが、 「有限集合であれば、どのように数えても、答えは同じになる」 ということは、児童に伝わっているのだろうか。

選択公理を仮定すれば、 自分自身の真の部分集合との間に一対一の対応がつかないことが、 有限集合であることと同値な条件である。

宮坂麻子》と署名あり。

2011-01-02 (0) 21:20:00 +0900

「黒宇」とかいて「くろう」と読むお菓子。kurô ではなく kukou

前項を書く際、確認のため見た本高砂屋のページには、 「黒宇(くろう)」なる商品の説明もあった。 黒宇とは、「大いなる黒き被さり」の意味だそうだ。

2011-01-02 (0) 21:09:23 +0900

デパートで本高砂屋の「ゴールド・シュトラスメディカ」を見て、買った

「gold Citrus Medica」とあるのだが、 カタカナではなぜか「ゴールド・シュトラスメディカ」となっている。 じーっと見ていたら店員さんがすすめにきたので、買ってみた。 仏手柑入りだそうだ。

Google で 「"本高砂屋" "ゴールドシュトラスメディカ"」 を検索すると見つかる。

2011-01-02 (0) 19:22:01 +0900

一月2日も年賀状を配達するようになったのだな。民営化によるものか?

私が昨年12月30日に郵便局に出した分も、ついたようだ。

2011-01-02 (0) 18:46:31 +0900

「禍袋(わざわい〜)」ならぬ「厄袋(やくぶくろ)」は実際に売られている

十年前に 《福袋ならぬ禍袋(わざわいぶくろ)があったら》 を書いたが、先日ネットサーフィンしていたところ、 「厄袋(やくぶくろ)」というのは実際に売られているようだ。

2011-01-02 (0) 18:23:16 +0900

「〜のあまりのおいしさ」は、余りが美味だったのか、「あまりの」は形容か

たとえば、 「カレーのあまりのおいしさ」の場合、 余ったカレーが翌日おいしかったという意味なのか、 そのカレーがあまりにもおいしくて、という意味なのか。

2011-01-02 (0) 18:20:05 +0900

町へ出る。デパートはいつにない込みようだった。福袋だらけだった。

例年、金沢では、デパートの初売りの日はえらく込む。 雪か雨なので、ほかに行くところがない人が多いのだろう。

しかし、 以前はあんなにたくさん、どの売り場もどの売り場も福袋だらけ、 ということはなかったと思う。

2011-01-02 (0) 18:12:03 +0900

NHK−FM「バイロイト音楽祭」>クンドリーのモデルがマグダラのマリア

さっきまでやっていた、NHK−FMの「バイロイト音楽祭」。 案内役の三澤洋史氏が、クンドリーのモデルはマグダラのマリア、 という話をしていた。 七つの罪を犯した女で、イエスの足に香油をかけ、自分の髪でぬぐった、 と言っていたので、調べてみた。

マルコ 16,9 およびルカ 8,2 によれば、 マグダラのマリアは七つの悪霊を追い出してもらった女である。 イエスの足に香油を塗り、自分の髪でぬぐったのは、 ヨハネ 12,3 の、ラザロの姉妹のマリアとマルタのうちのマリアであって、 おそらく別人である。 ここの並行箇所としてマタイ 26,6 からとマルコ 14,3 からがあがっているが、 そこでは女の名は記されておらず、 香油がそそがれるのはイエスの頭であり、 女は髪でぬぐわない。 そのため、本当に並行箇所と言っていいのかどうかわからない。 が、手元のギリシア語原文でも並行箇所として扱われている。

「パルジファル」 のヴォーカルスコアの英訳ト書きを見たところ、 クンドリーはパルジファルの足に油を塗り、髪でぬぐうので、 ラザロの姉妹のマリア、ということになろうか。

Wikipedia も見たが、ここには、伝統的な混同があるのかも知れない。

2010-12-31 (5) 02:32:47 +0900

もうひとつ。ルカ 7,36- に似た話がある。 罪深い女が、涙でイエスの足をぬらして髪でぬぐい、 口づけして香油をぬった、というもの。 これは並行箇所として扱われるとは限らない。 まちまちであることのみ記しておく。 ここのほうが、クンドリーのイメージに近いような気がする。

付) 有名なラザロの復活の記事の初めのほうの、 ヨハネ 11,2 には「このマリヤは主に香油をぬり、 自分の髪の毛で、主の足をふいた女であって」とある。

付) 2010年12月30日深夜(31日未明)は、持病の眼痛が起こりかけ、 書きかけで床にはいってしまったので、 ルカ 7,36- が発見できなかった。

付) 同氏は「パルシファル」と呼んでいたが、 クンドリー役はもちろん「パルジファル!」と歌っていた。 演奏は、最後の二つの和音の間が、トリスタンのように (たぶん)オーボエの音でつながっていた。 どの演奏もそうだったかな?

2011-01-02 (0) 20:51:01 +0900

「クラスの子はみんな持ってる」はたいていウソ。自分は持っていないから。

親に何かを買ってくれとねだるときに言うことば。 子「クラスの子はみんな持ってる」、 父「ウソつけ。お前は持っていないじゃないか。 買ってやろうかと思ったが、やめた。ウソつきには買ってやらん」、 という風に会話が進むかどうかはわからない。

2010-12-31 (5) 00:38:53 +0900

NHK−FM>バイロイト音楽祭>パルジファル二幕途中で気象のお知らせが

突然音がやみ、金沢の放送局からの、 竜巻警報だったか竜巻注意報だったかが読み上げられた。 そりゃないぜ、と言いたくなる。

2010-12-31 (5) 00:37:02 +0900

オペラ>劇場ではわざと音程を外す箇所も、CDでは楽譜通りに歌ってほしい

たとえば、「ラインの黄金」のアルベリヒの最後のせりふは、 音程をはずして叫び声のようにする。 「ワルキューレ」第二幕第五場でヴォータンがフンディングを殺すときに歌う “行け、行け”も、叫び声のように歌うことがあるが、 かすれた、声にならないような声で歌うのも聞いたことがある。

CDでは、いや、すべてのCDでなくてもよいのだが、 楽譜通りに歌うとこうなる、という見本があれば、 それと比べて上演を楽しむことができるのではあるまいか。

2010-12-31 (5) 00:32:46 +0900

クローンの攻撃>オビ=ワンはどうしてあれがジャンゴだとわかったのか

カミーノの駐機場での雨中の戦いにはいる際。 観客は彼のスーツ姿を知っているが、 オビ=ワンは見たとしても、 スーツがジャンゴの部屋の片すみに置かれているのをちらっと見ただけだ。

2010-12-30 (4) 21:19:05 +0900

コルサントでザムが殺されたあと,飛んでゆくのを見ているんだった

すると今度は, なぜジャンゴがわざわざ姿をさらすようなことをしたのかが気になる。 隠れていればいいのに。

2015-10-11 (0) 18:47:30 +0900

クローンの攻撃>ワイヤや鎖を柱などにかけると力が増すと思っていないか?

小学校で習った滑車には、止まっているものと、動くものとがあった。 前者は、持ちあげたいものに働く重力と同じだけの力をかけないと動かない。 II を見ていると、二つ、それと合わない箇所がある。 スターウォーズの世界には独自の“力学”があるそうだから、 それでいいのだと思うが。

一つめは、カミーノの駐機場での、雨中のオビ=ワン対ジャンゴ戦。 ジェットパック装備のジャンゴのスーツから発射されたワイヤがオビ=ワンの手首にからまり、 オビ=ワンは引きずられてゆくが、 柱のそばまで行くと、ワイヤを柱にひっかけて強く引く。 すると、ジャンゴはワイヤにひっぱられて駐機場に墜落する。 オビ=ワンがひいた力と、空中のジャンゴにかかる力とは、 方向は違うが、大きさは同じはず。 あれができるなら、柱を利用しなくても、 その場で強く引けばジャンゴは落ちてくるのでは?

二つめは、アリーナでのアナキン対リーク(サイのような怪物)。 アナキンが、両手首を柱のてっぺんにつながれていた鎖を、 リークの角にひっかけて引くと、根元から切れる。 リークの力を借りているようにも見えるが、 アナキンに鎖を引きちぎるだけの力がなければ、 彼の手首が強く引っぱられ、切断されていたかもしれない。

2010-12-30 (4) 18:57:49 +0900

ここから先は、これからアップロードする。

2011-01-02 (0) 18:15:30 +0900

「いつ崩れ落ちるかわからない橋」は「いまにも崩れ落ちそうな橋」とは違う

前に紹介したことのある GardeNursing のブログのコメント欄で見た言い方を、 別の内容で置き換えたもの。

「いつ崩れ落ちるかわからない橋」と聞くと、おんぼろで、 いまにも崩れ落ちそうな橋を想像してしまいがちだが、 きのうできたばかりの、最新式の橋で、 百年はもちそうだ、という橋のほうが、よっぽど、 「いつ崩れ落ちるかわからない」のである。

2010-12-30 (4) 01:36:46 +0900

「百文字以下の日本語の文章では定義できない最小の自然数」

前項に関連して、 「百文字以下の日本語の文章では定義できない最小の自然数」 の話を思い出した。弥永先生の「数の体系」で読んだのだと思う。 (この自然数が、上の、 百文字以下の日本語の文章で定義されていることをどう考えるか、という問題。)

いままでうっかりしていたが、 「百文字以下の日本語の文章では定義できない自然数の集合」 が空でないことを言わねばならないんだった。 それには、「百文字以下の日本語の文章で定義できる自然数の集合」 が有限集合であることを見ればよい。 「百文字以下の日本語の文章の集合」は有限集合だから、 一つの文章で定義される自然数が一つであればよいのだが、 そうだよね?

2010-12-30 (4) 01:12:31 +0900

「長すぎるハンドル」というハンドルは長すぎるか?

同じく、PC-VAN の SIG SCIENCE にいらした秋月さんの 「秋月のホームページ」 で出ていた話題。 その掲示板にはハンドルネームに関する規則があり、 《ハンドルネームらしくないハンドルネームで投稿することを禁止します》 とある。 『「ハンドルネームらしくないハンドルネーム」 というハンドルネームは許されるんですか?』 との質問が出て、秋月さんは 「自らハンドルネームらしくないといっているので、不許可です」 と答えた。それに対し、 『「長すぎるハンドル」は自ら長すぎるといっているので不許可ですか?』 という質問が出ている。

2010-12-30 (4) 01:00:32 +0900

被害妄想の話に「被害者」が出てきたら、妄想の対象となっている人の意味?

PC-VAN の SIG SCIENCE にいらした秋月さんの 「秋月のホームページ」 で出ていた話題。

秋月さんは、被害妄想の被害者、すなわち、 被害妄想の人に罪を着せられている人の意味にもとれるというような意見。 私は、そうではなく、 “自分は被害を受けている”と言っている人、 すなわち、被害妄想を起こしている人、 と理解される可能性のほうが高いと思うのだが。

2010-12-30 (4) 00:55:15 +0900

きちんと引用しておこう。 《日本人の年寄りが財布を盗まれたという被害妄想をもつのは昔からですが、 その被害者は年寄りの世話をする優しい人に向けられるそうです》 という文章であった。

2011-01-05 (3) 20:33:26 +0900

「出会う」「出会い」に“男女の密会”という意味があったのね

「出会い系サイト」というのは、その意味からきているのだろうか。 私は単に、 まだ会ったことのない異性と知り合う機会があるかもしれないサイトだから、 と思っていたのだが。

2010-12-30 (4) 00:29:50 +0900

回文「eko to hotoke」(エコと仏)

前に 《回文「eko to hima, mihotoke」(エコと暇、御仏)》 を書いていた。

2010-12-30 (4) 00:29:03 +0900

回文「Arisaka Tutomu, motuta ka sira」(有坂勉、持つたかしら)

これは前項の回文を考えつく前に、 金語楼のペンネームを「有坂勉」とカン違いして作ったもの。 歴史的かなづかい --- というか、小書きの「っ」を使わない書き方 --- のままローマ字に転写した回文。

次のようにすれば少し長くなる。

2010-12-30 (4) 00:26:02 +0900

回文「Arisaki Tutomu mo tuti ka sira」(有崎勉も土かしら)

「有崎勉」は柳家金語楼の落語作家・脚本家としてのペンネームである。 後半の「土かしら」の意味はよくわからない。 いまではその肉体は土にかえったのかしら、ともとれるが。

2010-12-30 (4) 00:21:31 +0900

NHK「ラジオ英会話」>24日には「Happy holidays!」と言っていた

先週の金曜日、24日の放送分の終わりで。 いろいろな宗教の人がいるから、 「Merry Christmas!」は避けたのだろう。

2010-12-30 (4) 00:15:04 +0900

ジェダイの復讐>冒頭はジャバの宮殿に向かう二体のドロイド、と記憶違い

あのオープニングのため、必ず宇宙から始めなければならないからな。

2010-12-29 (3) 23:01:38 +0900

ジェダイの復讐>ジャバを倒して、タトゥイーンの奴隷制度は廃止された?

VI の初めのほうでジャバは殺される。 ジャバは奴隷の売買などにも関与していた、とどこかで読んだが、 ということは、ジャバが死んで奴隷制度は廃止されたのだろうか? それなら、 アナキンの夢は息子のルークたちによって実現されたと言える。 (実際にジャバを殺したのは娘のレイアだが。)

2010-12-29 (3) 22:54:25 +0900

ジェダイの復讐>原題「Return of the Jedi」の Jedi は単数か複数か?

作品中では、Jedi は単複同形という設定になっている。 これは単数で、アナキン・スカイウォーカーを指すと思うのだが。

2010-12-29 (3) 22:51:16 +0900

掲示板で、全員が自分以外は同一人物と思い込む、って話は考えられていよう

実際、インターネット上の掲示板では、 自分以外は同一人物の“自作自演”と思い込んでいる人が存在する場合がある。

2010-12-29 (3) 22:49:23 +0900

落語で、庶民が「わたくし」と言って「『わたくし』だか『かたくち』だか…

…知らねえが」と言い返えされるのがあった。古典落語で、である。

これによっても、「わたし」より「わたくし」のほうが古いだろうと想像される。 常用漢字で、「私」に「わたし」という読みがはいったのはつい最近のはず。

2010-12-29 (3) 22:45:21 +0900

回文「おさみの操」(おさみのみさお)

おさみは人名。

2010-12-29 (3) 22:43:30 +0900

この年末年始の、NHKラジオの英語番組

「ラジオ英会話」はテキストを買わずに聞いているが、 12月27日月曜日の冒頭で先生が 「皆さんお元気ですか? 今月は、(ゲストのお二人の声で)「on time」、 (先生の声で) 「時間について」、というテーマでダイアローグをお送りします」 とおっしゃったのでちょっと驚いた。 実際の月の変わり目は週の変わり目と必ずしも一致しないので、 月末に次の月のシリーズが始まることもあるのだが、 年末年始をはさむとは。 いままでなら、特別プログラムなどで対応していたと思う。

「実践ビジネス英語」12月号のテキストを見てみると、 《12月29日(水)、30日(木)の放送については、 1月号に掲載いたします》とある。 1月号の放送予定を見てみると、 1月5日(水)から普通に新しいビニエットが始まるが、 12月29日(水)は1月5日(水)と同じ内容、 12月30日(木)は1月6日(木)と同じ内容、 と読めるようになっている。 そして、内容が同じだけでなく、 《1月5日‐6日は、再放送です》となっている。 前には、内容が全く同じでも「再放送」でないことがあったのだが。 《NHKラジオ「実践ビジネス英語」は今週は先週と同じものを放送》 参照。

2010-12-29 (3) 22:24:03 +0900

いま録音し始めた「実践ビジネス英語」も、全く普通に、 「きょうから、Lesson 19 です」と始まった。

2010-12-29 (3) 22:42:51 +0900

5日水曜日づけの朝日新聞大阪本社版ラジオ面では、 「実践ビジネス英語」に再放送のマークがついている。 やっぱり再放送なのだろう。

2011-01-06 (4) 01:40:20 +0900

当然の帰結として、 年末の「よいお年を」も、新年の「あけましておめでとうございます」もなかった。

2011-01-06 (4) 20:09:12 +0900

7日金曜日づけの朝日新聞大阪本社版のラジオ面では、 「実践ビジネス英語」に再放送のマークがついていない。

2011-01-09 (0) 01:52:59 +0900

「ラジオ英会話」の7日金曜日放送分は、 今年の放送のうち、12月には放送されなかったものの中では最初の回であった。 ここで何か新年のごあいさつがあるかなと思ったが、なかった。 (たとえば、「これが今年の最初の復習回ですが」、など。)

「実践ビジネス英語」も何もなし。 6回で一つのビニエットを扱ううちの3回めだった。 このあとごあいさつががあるとは思えないから、やっぱりなしなんだろう。

2011-01-09 (0) 18:15:02 +0900

NHK−FM「バイロイト音楽祭」は初日「ラインの黄金」だけであとはパス

ティーレマンの指揮ということもあり、 ヘッドホンをつけて一所懸命聞いたら、耳が疲れて翌日変だったのと、 ほかにやりたいことがあるのとで、あとはパス。

2010-12-29 (3) 20:58:57 +0900

やっと年賀状を書きあげた

何日か前、万年筆が家にないことに気づく。 夏ごろ、大学で万年筆を使って手紙を書こうとしたことがあったのを思い出す。

確か月曜日に、 職場の引き出しを見たら、はいっていた。 ほぼ一年前、二本ともよく洗い、細字のほうにのみ、 モンブランの黒インクを入れて年賀状を書いたのだが、 インクは乾いていて書けなかった。 でも、もう一本の太字があるから大丈夫。

そう思って持ちかえり、きょう、インクを入れて保管している箱を開けてみたら、 黒インクがない! 黒インクも職場だったか。 しかたがないので、そこにあったブルーブラックを使おうとしたら、 インクを吸い上げてくれない! 洗えばなおりそうだが、乾くのに時間がかかり、 間に合わないだろう。しかたなく、つけペンのようにして書く。

「季節のごあいさつ / 2011 年 一月」 という文面とこちらの住所氏名は印刷してあるので、 表のあて先と裏に簡単な一言を。 80枚ぐらいあっただろうか。 何も考えず、書くことだけに集中したら、5時間ぐらいで終わった。

最後の最後まで、何が起こるかわからないので不安だった。 インク瓶をひっくり返して、 書いた分すべてがだめになる様子が目に浮かんだりして……。

偶然、最後になった一枚は友人あてのものだったので、 少し長く書いた。 《来年は、ここに何か違うことが書けるように、 今年は一日一日、努力を重ねてゆきたいと思います》。 (「今年は」と書くべきところを、間違って「来年は」と “本音”が出てしまうことがある。そんなときの、 苦し紛れにも使えるな、と思ったけど、これは最初から 「来年は」と考えて書いた。)

その後、細字の万年筆を洗う。 先を水につけて、インクを入れるスペースに水を入れたり出したりする。 二三回やっているうち、 まっ黒なインクが水が出始めた。 固まっていたのは先のほうだけで、中は液状だったのだろうか。 いまはあき瓶に水をいれて、つけてある状態。

いま、出し忘れがないかどうか、 住所録にもう一度目を通した。 (京大型カードに手書きである。)

2010-12-29 (3) 20:41:17 +0900

Vista>\Documents\webpage\sunomono はディレクトリが深すぎるのか?

いまは、 「ローカルディスク(F:) > Documents > webpage > sunomono」 というフォルダで作業をしているが、エクスプローラーのパス表示は 「<< Documents > webpage > sunomono」と、 ドライブ名がはいらない。 ほかに、リムーバブルディスクと内蔵ディスクに同じものを置いている。 それらが、エクスプローラで区別しにくくて困るのだ。 (内蔵ディスクのものにはカタカナで「ドキュメント」とはいるのでわかるが。)

もう一段浅い、「\Documents\...」に移すか。

その場合、いま「\Documents\webpage」に置いている、 未整理のファイル群をどこに置くかが問題となる。 いや、それはそのままにしておけばよいか。

付) エクスプローラのウィンドゥを最大化すれば、ドライブ名も表示される。 使いやすい大きさにしたときに表示されないのが問題なのだ。

2010-12-24 (5) 01:47:57 +0900

この直後、そのように移動した。

タイムスタンプだけを本文とするテキストファイルを開くバッチファイルは、 タイムスタンプを出力するプログラムとの相対的位置関係が変わったので、 いま、パスの相対指定を変更した。 「..\d」から「..\webpage\d」に。 (d が実行ファイル名。)

ここから先は、これからアップロードする。

2010-12-29 (3) 20:32:35 +0900

九回裏、二死満塁で“守護神”に打順が回り、死球でサヨナラ、って例ある?

別に九回でなくてもよいのだが、一点はいればサヨナラの場面。 次の回にも投げさせたいから代打を送らなかったが、 デッドボールでサヨナラ、というケースはあるのだろうか。

それが優勝を決める試合だったり、 大けがになってしまったりしたら、 他の選手や観客はどういう行動をとるだろう?

2010-12-24 (5) 01:26:18 +0900

「測度論」を「即・ドロン」と思うやつはいないか

本文ナシ

2010-12-24 (5) 00:17:32 +0900

. gif ファイルを使えば、動くチェス駒もできるんだな

2006 年七月のメモより。

2010-12-24 (5) 00:15:58 +0900

「有象無象」を、象のいる動物園といない動物園のことだと思う奴はいないか

本文ナシ

2010-12-24 (5) 00:14:41 +0900

「話す」と「離す」は活用まで同じなのでカナ・ローマ字書きでは区別できぬ

アクセントまで一致するから、 日本語が話しことばとして確立されているなら、区別できるはずか。

2010-12-24 (5) 00:12:15 +0900

「よんで」はカナ・ローマ字書きでは「呼んで」か「読んで」かわからない

「読むことをして」「呼ぶことをして」とすればはっきりするが、 それもなあ。

2010-12-24 (5) 00:11:18 +0900

「"毎度同じみの"」は Google で約 11,000 件 / 「御馴染み」の誤りが多い

ずっと見ていったら 242 件でおしまい。

最も的確な結果を表示するために、上の242件と似たページは除外されています。
検索結果をすべて表示するには、ここから再検索してください。

見た限りでは、「御馴染み」のつもりで使っていると思われるのがほとんど。

2010-12-24 (5) 00:07:33 +0900

きょうの補筆箇所

2010-12-23 (4) 02:31:33 +0900

回文「糸昆布、文庫問い」(いとこんぶぶんことい)

意味不明。

2010-12-23 (4) 02:29:29 +0900

「横断歩道を渡りましょう」を見たら必ず渡る人は、無限ループに陥るかも

大きな通りには、 「横断歩道を渡りましょう」との看板が出ていることがある。 それを見て、 「用事がなくても渡るよう要請されているんだ」とカン違いして渡ったとする。 振り返ると、同じような看板があったとする。すると、また渡る。 これを永遠にくり返すのである。

2010-12-23 (4) 02:22:09 +0900

「空白」に空虚、blank の意味があるが、時間もしくは空間はある場合に限る

広辞苑第六版の用例は 「政治の空白」「記憶の空白な期間」 だが、これらは、時間は存在しているが、そこに政治や記憶がないのである。

大辞林第三版(三省堂)を図書館で見てきたが、そこにあった例文は 「歴史の空白を埋める」「記憶の空白な時期」 であって、これらも同様。

本人がほんの一瞬だけ気を失ったと思っていた場合は、 それは本人にとっては「記憶の空白」とは言われまい。 実際にはもっとずっと長かった、と聞かされたあとでは、 「記憶の空白」と言えるだろう。

空間があるが何かがない例としては、「空白地帯」があげられよう。

2010-12-23 (4) 02:13:18 +0900

回文「白糠線、急かぬらし」(しらぬかせんせかぬらし)

白糠線は北海道にあった、国鉄の路線。

2010-12-23 (4) 02:04:42 +0900

「空白」を「食う吐く」だと思うやつはいないか

本文ナシ

2010-12-22 (3) 02:12:33 +0900

回文「oki muku Kumiko」(沖向く久美子)

本文ナシ

2010-12-22 (3) 02:08:46 +0900

「保証できますか」に「はい」と答えるが保証しない。できると言っただけ…

…なんて奴がいたら怒りたくなるが、でも、 論理的には間違ってはいないような気がする。 「あなたは鉄棒の逆上がりができますか?」 に「はい」と答えたからと言って、 「してみせます」と言ったわけではない。

別の例。 「あしたは来られますか?」に 「はい」との答えが返ってきただけで、 来てくれるものと決めつけてよいものだろうか? 「じゃあ、来てください」 とつけ足して、それに「はい」が返ってきて初めて、 来てくれると考えてよくなる。

2010-12-22 (3) 02:03:37 +0900

「保証できます」で「保証します」の意味になるようにも思える。 そうだとしたら、なぜ? そうなる動詞はどんなもの? あるいは、 どんな動詞でも、ある局面においてはそういう意味になる?

たとえば、使いを頼まれて、 「駅からだいぶあるのだが、歩けるかね?」に対し 「歩けます」と答えたら、「歩きます」の意味になる。

一方、上に書いた「あしたは来られますか?」は、 「じゃあ、来てください」と確認することが必須だろう。

2010-12-23 (4) 02:08:27 +0900

「冬(ふゆ)」は「冷(ひや)」の母音交替形? 広辞苑みたらそうだった

第六版は 《「ひゆ(冷)」の意から》としている。 それ以外の説もあげているが。

2010-12-22 (3) 02:00:11 +0900

「中高年」と「中高生」は、同じ「中高」だな。(「なかだか」ではない)

本文ナシ

2010-12-22 (3) 01:59:16 +0900

「アレフ」は「いろは」の母音交替形では? 「ベス」と「へと」も。

「いろはにほへと」のうち、「にほ」を除いた五文字が、 へブル語の文字名と関係づけられた。 ということだが、もちろん、冗談である。

2010-12-22 (3) 01:56:33 +0900

勝間和代>結婚生活を成功させる七つの原則

11日土曜日づけ朝日新聞大阪本社版 be on Saturday の b9 面、 「勝間和代の人生を変える『法則』」。 今回の法則は 『「文化」を共有する夫婦は別れない --- 結婚生活を成功させる七つの原則』。

米国の心理学者、 ジョン・M・ゴットマンは、「愛情研究所」と名付けた自分のラボで、 何千組もの夫婦のインタビューや観察を行ってきました。

その結果、夫婦の行動や会話を5分間、観察するだけで、 15年後にその夫婦が離婚しているか、していないかを、 91%の確率で予測できるようになりました。 彼はこの研究成果を基に、 結婚生活を成功させる原則を以下の七つにまとめました。

このあと、その七つが紹介される。 どれも、確かに、その傾向がある夫婦のほうが離婚しにくいだろうな、 とは思うが、その七つが決定的なものであるかどうかは、 書かれていないのでわからない。 一種の経験則なのか。 前回の 《勝間和代>「人の二大能力はシステム化と共感である --- SQ−EQ理論》 と同様の不満が残った。

付)いま、「決定的」ということばが思いつかず、 ジーニアス英和辞典で critical をひいた。

付) 15年後のことを予測する実験だ。 どうやるのだろうか? 実験は常時行なう。 条件を思いつくたび、それも調査項目に追加する。 というようなやり方だろうか? これだと、 最終的な法則をまとめてからさらに15年実験する必要はなくなる。

2010-12-22 (3) 01:37:48 +0900

これら七つは、ごく一部の字句を入れ換えれば、 そのほかの、たとえば共同事業を成功させるためにも役立ちそうなものである。 結婚生活を成功させるために特有なもの、というわけではなさそうだ。 「結婚生活を成功させるための〜」と書けばひとの目をひく。 そのためにこの題名でまとめたようにもとれなくはない。

2010-12-23 (4) 01:56:56 +0900

勝間和代>イメージトレーニングは無意味 --- 自己啓発成功への五つの方法

18日土曜日づけ朝日新聞大阪本社版 be on Saturday の b9 面、 「勝間和代の人生を変える『法則』」。 今回の法則は 「イメージトレーニングだけでは失敗する --- 自己啓発を成功させる五つの方法」。 タイトル行では、収まりきらないので、勝手に少し短くした。 以下の引用は、全体の約半分におよぶ。 箇条書き部分を引用しなければ説明できないためである。 また、丸囲みの数字はカッコに入れることで代用した。

以前、「幸運は天から降ってはこない」の回で紹介したイギリスの心理学者、 リチャード・ワイズマンには、もう一つ、ご紹介したい研究があります。 彼は、目標達成のために奨励されている自己啓発の10の手法について、 本当に効果があるのか、 5千人以上にアンケートし、 効果があった方法となかった方法に分類しました。

効果があった五つの方法は、以下の通りでした。

(1) 大きな目標だけでなく、 それを実現するための小さな目標も具体的に立てる

(2) 自分の目標を友人、家族、同僚などに具体的に話すことで、 これまでの習慣を変える動機づけをする

(3) 目標を達成したとき、人生に起きることを数え上げる

(4) 小さな目標を達成するたび、自分に褒美を与える

(5) 目標達成までの過程をパソコンなどで書きとめる――

これらのうち、(4) と (5) は、 少なくとも小さな目標は達成できた人以外、 実行のしようがないものだ。 (3) を、「目標を達成したとき、自分に起きたことを数え上げる」 とすれば、これも同様。しかし、 「目標を達成したら人生に起きること、を(事前に)数え上げる」 と解釈すれば、これは含まれない。 ここがあいまいなのも、問題となろう。

すぐ次の段落から引用を続ける。

一方、効果がなかった五つの方法は、以下の通りでした。

(1) 成功した人物を思い浮かべて、やる気を起こす

(2) 目標達成に失敗したとき、人生に起きることを考える

(3) 目標達成を阻害するマイナス要因(喫煙習慣や健康に悪い食品など) を頭から締め出す

(4) 意志の力に頼る

(5) 成功者になった素晴らしい自分の姿を想像する――

これらは、成功も失敗もしていない段階でもできることばかりである。 さっきの (3) と同様に、こんどの (2) にもあいまいさがある。 「目標達成に失敗したとき、人生に起きたことを考える」 なのか、 「目標達成に失敗したら人生に起きること、を(事前に)考える」なのか、である。 前者なら、失敗しなかった場合には実行できないことになる。

「効果があった」の (3) が前者の意味なら、 「効果がなかった」の (2) も前者の意味であろう、と思われる。

効果があった方法のうち、二つが、 何らかの目標達成をした人にしか選べないものであることは、 議論をアンフェアにしていないだろうか?

あるいは、 効果があった方法のうち、 三つが何らかの目標達成をした人しか選べないものであり、 効果がなかった方法の一つが失敗した人にしか選べないものであることは、 議論をアンフェアにしていないだろうか?

していないかもしれない。たとえば、効果があった方法の 「(4) 小さな目標を達成するたび、自分に褒美を与える」が、 まだ何もしていない段階でこれを取り入れた人にはかなりの高い確率で小さな目標が達成でき、 少しずつ大きな目標が達成できた、の意味だとしたら。 あるいは、 「(5) 目標達成までの過程をパソコンなどで書きとめる」が、 まだ何もしていない段階から行なったことすべてを書きとめた人はかなり高い確率で目標を達成できた、 の意味だとしたら。

2010-12-22 (3) 00:50:28 +0900

「効果があった」「なかった」を、 それを実際に試してみた人のうち何%がそう感じたか、 で決めたのなら、それなりに意味があろう。 (ただし、一人しか試さず、その人はうまくいった、というようなのは省く。)

2010-12-23 (4) 01:52:50 +0900

書いてなかったようだが、ただいま茶断ち中。もうじき終わると思う。

願かけの内容は非公開。

最初のうちはハーブティーを買って飲んでいたが、 そのうち、白湯(さゆ)を飲むようになった。 後始末がいらないし、飲みきれなかった際に捨てるのも (それほどは)もったいなくないし。

思ったより、苦しくなかった。カフェインの離脱が出るかと心配したのだが。

2010-12-22 (3) 00:47:04 +0900

こないだの週末、東京へ帰った際には、NHKの語学番組は録音しなかった

金沢に戻ってからストリーミングで聞けばよいので。

2010-12-22 (3) 00:45:14 +0900

「番組の途中ですが」に続いて「番組の終わる時刻が近づいてまいりました」

……と言ったら、間違ってはいないが、変だと思われるだろうな。 「番組の途中ですが」は、普通、 その番組を中断して何かの速報を伝える際に、 そのあと元の番組に戻るという条件下で使われるフレーズ。 NHKだけかもしれないが。

2010-12-22 (3) 00:41:36 +0900

NHK「ラジオ英会話」、録音したつもりが録音ボタンを押してなかった。

番組終了の22時が近づいたので、キッチンから書斎へ戻り、 メインの腕時計として使っているダイバーズウォッチの進み遅れを時報で確かめたあと、 ラジカセの停止ボタンを押そうとして、録音ボタンが押されていないのに気がついた。

直前までこのノートパソコンで仕事をしていて、 ノイズが減るよう「ACアダプターをはずす」「電気ストーブも止める」 の二つを実行し、ノイズが減ったのを聞いて、 一仕事終わったような気になってしまったのだろう。

日曜日の再放送もあるし、来週になってからストリーミングで聞いてもいいし。

2010-12-21 (2) 22:05:00 +0900

It usually ... の It の [t] はのみこまれて聞こえない場合がある

16日木曜日に放送されたNHKラジオ「実践ビジネス英語」の Quote ... Unquote は、これを知らなくて、最初の It が聞き取れなかった。

2010-12-21 (2) 20:25:37 +0900

NHK「ラジオ英会話」>遠山顕先生は「時計店」をトケイテンと発音された

15日水曜日放送分で。私は「トケーテン」と言いそうだ。

2010-12-16 (4) 20:47:48 +0900

ジェダイの復讐>オープニング最後のピリオドが四つでなく三つだ

to the galaxy...」で終わっている。なぜ?

I から V まではピリオドが四つであることを確認した。 その前の「far, far away....」はいずれもピリオド四つ。

2010-12-15 (3) 20:30:22 +0900

帝国の逆襲>ホス攻撃で帝国軍が普通の戦車を使わなかったのはなぜ?

VI では森林地帯なのでという理由が考えられるが。 普通の戦車を使っていれば、 足をケーブルにからめられて倒れることはなかったであろう。

2010-12-15 (3) 20:18:50 +0900

帝国の逆襲>ベイダーは II のアナキンと同じミスを犯す。空中は安全だと。

II 冒頭を見ている観客は、 あれだけ高いビルディングであれば窓に面している寝室でも危険はないと思うだろう。 V のベイダーは、 あれだけ高い場所に追いつめればルークは降参すると思ったのであろう。

2010-12-15 (3) 20:11:34 +0900


すのもの Sunomono