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【僕らはみんな生きている!】 2001年1月〜6月

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男男しい話 主婦考 郷土愛! 今さら・だから英語
百人の一歩、一人の百歩 温泉の楽しみ 老いを感じるとき 花咲山
青春のビートルズ 「いただきます」考 群青の海・本土最南端へ 歌詠む人の心にふれる
プロジェクトXに何をみる? 塚本先生と少年犯罪 大量生産方式は終わるか 女三代百年の糸
ハンセン病と二人の英国人女性 茶髪考 出たきり娘の帰省 私たちの謝罪は伝わったのか
小さな図書室


[小さな図書室]
 現在私の住む地域には2週間ごとの土曜日の朝、市立図書館から小型バスほどの大きさの“移動図書室”が巡回してくる。児童書が中心で、バスの到 着を待ちかねたように、子供達が集まってくる。車の側面や後部が開いて、たちまち図書室に早変わりだ。

 娘達がまだ小さかった頃、福岡市東区に住んでいた。区には一つだけ市民図書館があったが、私たちの住んでいる地域からは遠く、親が車で連れて行 かない限り子供達は図書館を利用できなかった。私が仕事をしていたこともあり、夏休みでも子供達をいつも図書館へ連れていくことなど出来なかった。

 「どうして私たち図書館の近くに住んでいないの?」と子供達に非難がましく言われたとき、私は返事に窮した。子供達の放課後のことを思えば、共 働きの私には図書館はありがたい存在だったのに、うかつだったと思った。あれから二十年近く経つが、図書館は相変わらず増えていないのが残念だ。

 私が小学校へ入学したのは昭和31年。木造2階建ての大きな校舎の玄関を入ると左手に職員室、正面には間口の広い大きな階段があって、なぜか1、 2年生はその階段を上ることを禁じられていた。2年生になって2階に図書室があることを知った。当時、低学年には図書室の利用は無理ということだ ったのだろう。昭和30年代初めの、田舎の小学生の現実とはそんなものだった。

 2年生のある日、先生が図書室の話をされた。いくつもの本棚にたくさん本が並んでいる光景を想像して、私は胸が鳴った。3年生まで待てない気持 だった。ある日の放課後、私は玄関の階段の下にいた。誰もいないので思い切って階段を1段上がり、すぐに下りた。まだ誰もいなかった。2段上がっ てまた下りた。今度は3段、4段と上がっては降りた。5段目くらいに上がって飛び降りたとき、ドシンと大きな音がして、職員室から見にこられたのは 偶然担任の先生だった。

 先生から、上がってはいけないと言われてるでしょう? とさっそく咎められた。どうしても図書室を見てみたかったと、私は 言い訳した。でも決まりだから、と先生は少し考えて、ちょっとここで待っていなさいと階段を上がっていかれた。

 まもなくして、先生は『フランダースの犬』を図書館から借りてきて、それを私に手渡された。分厚くてずっしりと重い、初めて手にした「本」だった。 一目散に帰り、ランドセルも投げ出して、畳に腹這いになって一気に読んだ。終わりの方は悲しくて泣けて泣けて仕方がなかった。そうやって私は 先生から何冊かの本を借りて、読むことが出来た。

 3年生になってやっと図書室へ入れた。天井の高い大きな部屋。ずらりと並んだ本棚。壁際の棚には少年少女文学全集や伝記のシリーズがキチンとな らんで、一番に目を引いた。エジソン、ファーブル、リンカーン、ヘレン・ケラー、野口英世、勝海舟、ああ無情、小公子、小公女、赤毛のアン、クオ レ・・・。それらの言葉は意味も分からず丸ごと覚えてしまったものだ。

 図書室へ通って、1学期中にこの棚、2学期にこの棚、3学期はここ、と本棚ごとに全部読んでしまう計画を立てて、読みまくった。家の手伝いは決 められたものがあったが、あとはテレビも塾もゲームもない時代。時間はいくらでもあるのに、どっこい夜の読書はできなかった。祖母が無駄だとばか り早々に家中の電灯を消しまくるのだ。家で本を読むのは喜ばれなかった。

 私は家に殆ど本というもののない環境で育った。曾祖父の代から大工が家業で、長男は棟梁を受け継ぐことになっていたらしく、祖父も父も大工の棟 梁だった。祖父も父もおよそ本とは縁遠い一生だったが、職人としての腕は確かで、棟梁として人を使い、まとめ、家を建てることに必要なあらゆる事 を知っていた。建てたものが何十年と残るので、仕事に関しては厳しかった。だから本を読まない父でも、子供心に偉いと感じていた。

 私は小学校のあの小さな図書室以来、中学校でも高校でも、本を読みまくった。しかしその読書は文学に偏ってしまい、中学生の時太宰治や芥川龍之 介や北村透谷など、自殺した作家のものを読んだせいか、すっかり毒気に当たり厭世観に囚われてしまった。自分も嫌、親も嫌、社会も嫌。真っ暗闇の 世界にはまりこんでしまった。

 高校生になって何とか厭世観から脱したいと真剣に思い、読書の方針を変えた。日本文学はスッパリ止めて、世界文学を読み始めた。ロマン・ロラン やトーマス・マン、トルストイ、ヘッセ、ヴォーヴォアール等々。どれも面白く、前向きな力強さに溢れていた。3年間で私はどうやら明るい方へ脱出 することが出来た。しかし文学ばかり読んでも駄目だ、とも思った。

 人と本との相性は二通りあると思う。読めと言われなくても本を読むのが好きな人、本を読むのが嫌いな人。しかし本は読まないより読む方がいい。 嫌いと言っていても、必要に駆られて突然読み出す人も多い。生涯学習と機会均等の観点からも、いつでも誰でも気軽に本が読める環境、つまり公共施 設は必要だと思う。

   現在はどこの県にも市にも、りっぱな図書館がある。しかし私はその一点豪華主義的な図書館に、疑問を感じることもある。県立や市立の大きな図書 館が一つあればいいと言うものではないと思う。近くに住んでいないと不便では、不公平でもある。立派でも豪華でなくてもいいからもっと身近に、例 えば校区に一つくらいは、気軽に寄れる図書室があればいいのにと思う。

 “ポストの数ほど図書館を”と読書運動では言われて久しいが、文化にお金を使わない傾向の強い日本では、何年経ってもその実現は難しいようだ。 辺境の地にいるわけではないのだから、いつまでも“移動図書室”では貧弱だ。落ち着いて質の良い文学作品や、映画や、CDを誰でも気軽に楽しめる。 モノとカネの万能の時代を抜け出して、一歩先ゆく経済大国には、地域の小さな図書室は必須アイテムと思うのだが・・。(06/27/2001)
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[私たちの謝罪は伝わったのか]
 昨年7月下旬、ベトナムの首都ハノイと周辺の北部地方を訪れる機会があった。ベトナム人にとって、日本はおおむね憧れの国らしく、お土産にはと にかく MADE IN JAPAN であれば喜ばれると聞いて、かさばらないものをあれこれ持っていった。

   私がベトナム行きを韓国人の知人Yさんに話したところ、ベトナム人は韓国人を嫌っている、恨まれている、という話をされた。その発言は私には意 外だった。その理由をYさんはこう教えてくれた。

 ベトナム戦争当時、韓国は1965年から73年まで約30万名の戦闘部隊を派兵し、地上戦で多くの良民虐殺をしたというのだ。良民とはつまり民間人のこ とで、特に子供や妊婦の殺し方が残忍だったため、ベトナム人の韓国人に対する憎悪感が決定的になったというのだ。韓国軍に虐殺されたベトナム人の 数は公式統計でも4万1450名にのぼるという。

 残忍な大量虐殺で名をはせたのは韓国軍の「猛虎隊」や「青龍部隊」で、南ベトナム民族解放戦線でさえ直接の交戦は避けようとしたという。一方で ベトナムに派兵された韓国軍兵士の大部分は貧しい家の息子達で、ベトナム行きを志願すれば高給(アメリカが支給)が得られることから、親の生活や 妹弟の進学のために稼ぎに行ったといわれる。もちろん帰還兵は英雄と称えられた。

 ベトナムは現在ドイモイ政策により、市場開放政策を選択し急激な経済発展を遂げている。しかし社会主義国でもあり、情報公開や報道は自ずと国家 の判断にゆだねられていると見るのが自然だろう。ベトナム政府はこれまでアメリカに枯れ葉剤による補償も求めていないし、韓国軍の良民虐殺につい ても公にすることもなく何の補償も求めていない。

 ところが2年ほど前から韓国の「ハンギョレ新聞」がベトナム戦争時の韓国軍による良民虐殺の事実を取り上げ、大々的にキャンペーンを始めた。生 存者を探し出して話を聞き、韓国軍がベトナムで行った大量虐殺の事実を掘り起こし、それをベトナム特別ルポとして連載したのだ。

 当然ベトナム国内ではこの話題が人々の関心事となり、ベトナム在住の韓国人の中には30年も前の過去を暴くこの報道を「鬱陶しい」と感じたり、韓 国のハンギョレ新聞本社には旧軍人が名誉を汚すものだとして押し掛け、襲撃する事件も起きたという。

 一方では韓国で「謝罪の寄付運動」が進行し、『ごめんなさい、ベトナム』という歌がCD化され、謝罪努力が続けられているという。この結果、ベトナ ムでは韓国軍による“良民虐殺”の事実よりも、この問題を“外圧”によってではなく韓国の言論人が自ら暴露したということを評価し、韓国人に対す るこれまでの悪い印象を見直すきっかけにもなっているという。

 国家的な謝罪には補償がつきものだ。だから国家としての謝罪は極めて政治的な問題であり、容易には行われない。ベトナムに対する韓国政府による 謝罪がどうなったのかは、残念ながら私は知らない。この騒ぎのさなか、折りもおり韓国内では過去のアメリカ軍による韓国人村民虐殺が明るみになっ たという。ベトナムでは加害者の韓国も、自国ではアメリカ軍による虐殺の被害者でもあったのだ。

 日本では 1995年8月15日、村山富市首相が歴代首相として初めて、日本の第二次大戦の残虐行為に対し『謝罪』を表明したことはまだ記憶に新しい。 しかしこの謝罪は首相の「個人的な談話」の形を取り、アジア各国からの民間賠償請求に応じることを意味しなかったので、この問題は現在も決着が付 いたとは言い難い。20世紀に起きた戦争の後始末は、20世紀のうちに片付けておくのがベストだったと思うが、現実はそうたやすくはなかったようだ。

 私の経験では、学校教育では戦争責任や日本軍のやったことについて、あまり学習しなかったように思う。中学でも高校でも、第二次大戦の記述が出 てくるのは教科書も最後の方で、年度末の行事などでバタバタしているうちに授業も終わってしまい、結局習わないまま過ごしたように記憶している。 ドイツでは自国の犯した罪について徹底的に子供達に教えたというが・・。

 国際的に活躍しているヴァイオリニストの諏訪内晶子さんは、アメリカの音楽学校に留学した19歳のとき、オーストラリア国籍の韓国人ルームメイト から自分の両親は日本語が話せると言われ、そう、と別に深く考えなかったが、後になって歴史を勉強して日本と韓国の過去の関係を知り、あの時のル ームメイトの言葉と冷ややかな態度の意味がやっとわかったのだという。

 外国に暮らしてみて、歴史の事実を知らないことで恥をかいたし、世の中には色々な考えを持っている人のいることも学んだと諏訪内さんは語られた。 確かに第二次大戦頃の歴史を知らなくても生活には不自由しないが、以前より外国の人と接する機会が増えた今の時代、教科書では不十分と思えば、自 分に不足しているものを自覚して勉強することも必要だろう。

 「ハンギョレ新聞」の報道以降、ベトナムの大学では学生と韓国人学生との間で、自分たちの親の世代の行為である「虐殺」について直接の謝罪や討 論が活発に行われたという。ベトナム人の韓国人に対する嫌悪感も、若い世代の熱心な努力で次第に薄らいでいくことだろうと思う。

 日本人の場合“外圧”に弱いところがあり、外交的にも押しが不足しているように思う。現実に起きている色々な問題を見るとき、日本人のアジアの 人に対する謝罪の気持は、ちゃんと相手に伝わっているのだろうかと思う。個人のレベルでも努力が足りないのかもしれない。過去の問題にはキチンと ケリをつけて、一歩前進したいものだ。

 経済も不調で凶悪な犯罪も多発している日本だけれど、これからの日本を引っ張っていくのはやはり若い人だと思う。若い人たちは古い価値観に振り 回されないで、“外圧”や“負の遺産”に臆することなくどんどん新しい関係を切り開いていって欲しいと思う。茶髪でもやっぱり私は若い世代に期待 している。(06/20/2001)
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[出たきり娘の帰省]
 「私東京の大学へ行って、むこうで就職して、もう福岡へは戻らないよ。いいでしょう」と高校生の時宣言して、その通りを実行し、現在は港区虎ノ 門のオフィスでOL生活を送っている長女が、先週末久しぶりに福岡へ帰ってくることになった。

 福岡県南部の私の実家に一人住む母が、長女に会いたがっていることもあり、「お祖母ちゃんが元気なうちに会っておかないと、後悔するよ」と半ば 脅して何とか休暇を取ってもらい、やっと帰省が実現した。といっても飛行機は福岡まで。私と夫の住む鹿児島は遠いとのたまう。

 たまたま夫はベトナムへ出張中。自由の身の私は娘の出発日に合わせて木曜日に車で福岡へ行くことに。出発間際にガソリンを満タンにし、走行メー ターを0にリセット。朝十時半に鹿児島を出発して九州自動車道をひたすら北上し、途中熊本付近で昼食をとり、約3時間30分で福岡市へ。

 高速道から福岡都市高速へ乗り、右手に博多港やベイサイド、左手に福岡ドームや福岡タワーを眺めて都市高速を下り、さらに40分ほど福岡市郊外へ 車を走らせ、午後3時、空き家にしている自宅へ到着。

   5月の連休以来の自宅を大急ぎで掃除。通風をしながら床やタタミを丹念に拭きあげる。今日はここへ泊まるのだ。散らかってはいないが、締め切っ ている一軒家は湿気と埃が意外にこもっている。幸いよい風が吹き、お天気もよくて掃除がはかどった。

 夕方再び福岡市の中心部へ行き、福岡へ到着した長女と福岡市内に一人暮らしの次女と待ち合わせて、久しぶりに三人揃って食事をした。娘達とはメ ール交換で近況は把握しているが、直接会って話すのはまた違った楽しさだ。深夜近くまで話して次女と別れ、長女と自宅へ戻る。

 翌日昼は長女の希望で博多ラーメンを食べ、福岡市に新しく出来たアウトレットモール「マリノアシティー」へ。ブランド品を安く売るお店が43店舗。 お洒落に目のない長女はもう目をギラギラさせながら、獲物を狙う豹のように店から店へ素早く品定め。独身OLのパワーをかいま見てしまった。

 お茶のあと、国道3号線を南下して約2時間車を走らせ、私の実家へ到着。少し腰が曲がって小さくなった私の母と一晩過ごした。長女が保育園児の時、 ハシカや風疹にかかるたびにSOSを出して母に来てもらい、仕事をしていた私はずいぶんと助けられたものだ。

 翌日は土曜日。母に別れを告げて、昼前に実家を出発。夕方までに鹿児島へ着けばいいので、県道をのんびり走る。途中町営の温泉を見つけて、早速 入浴。新しくて広い、気持ちのよい温泉だった。柳川市でお昼になったので、名物の鰻のセイロ蒸しをいただく。二人とも満腹、満足。

 大牟田市の近くで高速道路へ入り、一路鹿児島へ。途中八代あたりの山やえびの高原の美しさを見せようと思ったが、長女は満腹でぐっすりお昼寝中。 夫が4年前鹿児島へ転勤になって以来、長女がやっと鹿児島まで来てくれたのが嬉しい。来てくれた、というより実際は連れて行ったのだけれど。

 翌日は日曜日。街の賑わいでは東京に勝てないので、東京にない場所へドライブすることに決めて出発。天気は曇り。鹿児島市からさらに薩摩半島を 南下する指宿(いぶすき)スカイラインを走り、頴娃(えい)町のアグリランドを目指す。ゴルフ場や乗馬、農場、温泉、風車などを備えた施設だ。走 り出して間もなく山道に入ると道路が濡れていた。どうやら山の方は朝方雨が降ったらしい。スカイラインの名の通り、高地伝いに走る道だ。

 30分ほど走ると車は山にかかった雲の中に突入した。だんだん霧が濃くなり、前後左右乳白色の状態で周囲の状況が分からなくなった。止まる訳にも いかず、10m位先までかろうじで見えるセンターラインだけが頼りだ。走っている車もほとんど無く、音もなく、空中の雲の中を走る不気味さだ。突然、 霧の中からライトをつけた対向車が現れてすれ違った時、ワッと驚いて声を上げてしまった。

 深い霧に包まれた峠を越えてしばらく行くと、ようやく霧も薄くなり、アグリランドへ到着。天候のせいか人出もまばらで、温泉にも人は少なくゆっ くり入浴を楽しめた。午後はさらに南下して、富士山に似た秀麗な形の開聞岳を見ながら、開聞町、山川町、指宿市、そして喜入町とUターンして、錦 江湾沿いを北上しながら鹿児島市へ戻った。

 月曜日は長女が東京へ戻る日。飛行機の出発が四時過ぎなので、空港へ行く途中の温泉をみつくろう。その名は「たぬき湯」。月曜日の昼前なので空 いているかと思ったが、そうでもなかった。ここの温泉は淡いグリーン色のみょうばん泉で、ツルツル。打たせ湯、スチーム薬草風呂、露天風呂などた っぷり楽しみすぎて、少しのぼせてしまった。

 美しい山や自然や静かな環境にあまり関心がなく、にぎやかで刺激の強い大都会が大好きな長女。彼女を何とか鹿児島まで引っ張る手段として、私は ドライブと温泉三昧の作戦を考えたが、結構自分も楽しんでしまった。長女ものんびり温泉の旅で、少しは気分転換ができたのではと思っている。

 私も以前のように仕事をしていたら、足かけ5日間も娘と一緒にドライブなど出来なかったと思う。要領がよくて前向きで、性格も価値観も私とはか なり違う長女と久しぶりに一緒に過ごした数日間。私のすること話すことに彼女の示す反応や指摘が、なかなか意外性があって面白く参考になった。

 娘とはいえ、もう親の所有物でもなく、経済的にも独立した社会人なので、アドバイスをすることはあってもあれこれ干渉しないようにしている。けれ どまた羽を休めに来たら、新しい穴場を開拓して温泉三昧に引っ張り出そうと思っている。長女を見送った空港から戻って車のメーターを見たら、何と 974 km と出ていた。我ながらよく走ったものだ。(06/13/2001)
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[茶髪考]
 以前、福岡に住んでいたとき、市営地下鉄のつり広告に次のような川柳が載っていた。

     妻茶髪 息子金髪 俺白髪   ( 白鳥雅敏 作)

 思わずニンマリして、周囲を見渡してしまった。最近は見渡さなくても、茶髪・金髪の全盛期だ。若い人は申し合わせたように、ほとんど頭部が変色 している。少し前までは、若い女性は長い黒髪をストレートにしたヘア・スタイルが多かった。あのきれいな黒髪が懐かしいほど、最近の若い人の髪は もしゃもしゃと枯れている。(と私の目には見える)

 私の子供の頃は祖母からよく言われたものだ。髪が黒々と艶やかになるように、昆布やワカメをたくさん食べなさいと。そのせいか私の髪は真っ黒で、 量も多く、しかも太めの硬質で扱いにくいときている。感謝半分悩み半分だ。

 私がまだ少女の頃、外国の映画に出てくる女の子のポニーテールに憧れて、髪を伸ばした。ところが髪が多くて、一つにまとめるととんでもなく太い束 になることがわかった。それでも引っ詰め髪にして頭頂の方でギュッとまとめると、髪の重みで頭皮が引っ張られるのか、おでこからてっぺん辺りがだ んだん痛くなってくる。

 痛いのを我慢して何とかポニーテールにしたものの、三面鏡でよく見ると、文字通り「馬のしっぽ」そのまんま。黒くて太い髪の束がうねってぶら下が り、しかも毛先は何と外に勢いよくハネているではないか。毛先はクルリと巻き毛にならなければ・・。映画の少女にはほど遠かった。

 友だちにポニーテールの似合う子がいて、よく観察すると、髪の毛が細くて柔らかく、しかも一つにまとめているのに私の髪の半分の量もない。頭頂 からほどよく垂れ下がっている。しかも毛先は可愛く巻いている。髪の毛には人それぞれ、髪質の違いがあることに気づいたが、子供の私は指先にクル リとまつわりつくような、少なくて柔らかい髪の毛が羨ましくて仕方がなかった。

 しかしその友だちは自分の柔らかい髪の毛も、少し栗色がかった髪の色も嫌がっていた。その頃は「緑の黒髪」が最高で、髪の毛が茶色や赤みがかっ たりしていると変な目で見られ、クセっ毛だと天然パーマなどと言われて、いじめの対象にすらなっていたくらいだ。

 それがここへ来て一気に茶髪・金髪天国(?)になったのは、何事も画一的なものを重んじてきた日本の中学・高校教育への反動なのかもしれない。 かつては一部のミュージシャンやアイドルの自己表現の手段だった茶髪や金髪は、スポーツ選手に広まったあたりから一気に一般に普及した。

 しかし茶髪・金髪に対する嫌悪感は、戦前・戦中派の年代ほど強いように思える。それは好き嫌いの問題ではなく、絶対的な価値観の問題なのかもし れない。「身体髪膚(はっぷ)コレヲ父母ニ受ク・・」と親からもらった体を傷つけたり変えたりするのは親不孝の始まりだと、厳しく育てられた世 代には、どんなに好青年であっても、金髪・茶髪は受け入れ難いのだろう。

 価値観も自己表現も多様化している時代なので、自分の髪の毛を何色に染めようと、その人の勝手でもある。若い人が茶髪にする理由はいろいろある だろう。みんなが染めているから何となく、一度は染めてみたい、金髪の自分を見てみたい、変身したい、黒髪より茶髪の方が洋服に合わせやすいなど など。

 一昔前なら金髪・茶髪の流行は白人コンプレックスととらえられたかもしれないが、現在の流行はそう深い意味はなさそうだ。白人コンプレックスを 言うなら、車の宣伝や下着の宣伝にことごとく白人を起用する日本のメーカーの方が、よほど白人コンプレックスだと言えよう。デパートのマネキン人 形などは、とっくの昔から体型も髪の色も白人そのものだった。

 これだけ茶髪が一般的になるとどんなにキンキラキンの頭でも、いろいろ言う方がアホらしくなるし、本人は目立っているつもりかもしれないが全然 目立ちもしない。あえて言うならワレもワレものポリシーのなさが、私には気になる。一時期流行ったガングロ(顔黒)メークの女の子の方が、好きに はなれなかったが、まだ既成の化粧に対抗するポリシーが感じられた。

 もし茶髪をファションの一部と考えるのなら、自分に合う色を考え、服装も含めたトータルのバランスを考えて欲しい。頭は金髪なのに、眉毛はゲジ ゲジの真っ黒、おまけに無精ヒゲの伸び放題はいただけない。見苦しい限りだ。センスどころか、いい年して何も考えていないことを、自ら公にして歩 き回っているようなものだ。

 技術的なことはよく分からないが、本人は金髪のつもりかもしれないが、本物のプロンドにはもちろんほど遠く、どう見ても脱色したとしか見えない。 黒を金色にするのは、かなりの無理があるのだろう。艶もハリもなく、色が抜けて傷んだ髪の毛の人に限って、お洒落にもファッションにもほど遠く、 ダラリとしているように見えてしまう。偏見だろうか。

 日本人の金髪・茶髪というのは、つまりそういうラフな、カジュアルな服装が似合うということだ。だから最近の若い人は着るものに合わせて、ごく 自然に茶髪も取り入れているのだろう。逆に言うと、キチンとスーツで決めたい時などは、金髪は似合わないということだ。

 茶髪や金髪や赤毛の西洋人にとって、まっすぐで艶やかな長い黒髪というのは、とてもゴージャスな印象を与えるし、憧れでもあるという。日本人が 金髪に憧れるのの裏返しなのだろう。また茶髪や金髪はカジュアルな服装向きだと思うが、和服には断然黒髪が似合う。黒髪でないと似合わないといっ ても良い。デパートでも和服の場合は、黒髪の日本風の顔立ちのマネキン人形を使っている。

 これも固定観念でしかないかもしれないが、私は日本の伝統的な衣装である振り袖やお召しや留め袖の豪華さには、黒髪でないと似合わない、釣り合 わないと信じている。豪華な和服には、それにふさわしい高島田や桃割れの髪型が発達したのも頷ける。一方西洋から入ってきた洋服には茶髪の軽さが 似合うし、日本人の真っ黒な髪は、カジュアルな服装には重たく見えてしまうこともある。

 黒髪にくらべれば、茶髪や金髪はどうしても顔の印象が薄くなるのは否めない。目鼻立ちのはっきりした西洋人だから、ぼんやりした色の髪でも似合 うのだろう。それに対し、日本人の平べったくて凹凸の少ない顔には、黒髪の縁取りが全体を引き締める役割をしているのだと思う。

 髪を好きな色に染めるのは、個人の自由が尊重されるこの時代、大いに結構と思う。しかしほとんどの場合、金髪は日本人には似合わないと私は思う。 それによけいなお節介だが、若いうちからあんなに髪を痛めては、その後が心配だ。ついでに言えば、ぼんやりした印象の金髪・茶髪を頭に乗っけるの なら、せめて顔だけでもキリリと引き締めて歩いてほしいものだ。(06/06/2001)
 
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[ハンセン病と二人の英国人女性]
   先日熊本地裁でハンセン病訴訟判決があり、国家賠償を求めた判決に対し、国は控訴を断念した。このニュースを聞いて、私は十九世紀末から半世紀に わたり日本のハンセン病患者さんの救済にその一生をかかげられた、尊い二人の英国人女性を思わずにはいられなかった。

 無知ほど恐ろしいものはない、とはよく聞く言葉である。また自分の無知ほど自覚症状がないのも事実だ。私がそれを強く感じたのは8年ほど前、ハ ンナ・リデルとエダ・ライトという二人の英国人女性の存在を知ったときだった。

 ハンナ・リデルは明治23年(1890)にキリスト教布教のために来日。熊本に赴任したリデルは明治26年4月3日、第五高等学校の教授たちに誘われて 本妙寺へお花見へ行き、そこで一生を決する出来事に遭遇する。

 晴天のその日、満開の桜並木の見事な美しさとは対照的に、花の下の参道にはボロをまとい、石段という石段にうずくまって物乞いするハンセン病者 たちの痛ましい姿があった。子供もいた。桜の美しさより、リデルにはこのときの衝撃の方が大きかった。初めてみたハンセン病者だった。

 リデルはこれらの病者が社会から忌み嫌われ、何の治療も援助も受けられず放置されている実状を知り、彼らの救済を自分の使命と考え病院創設を決 意する。外国人のため周囲の反対もあったが援助をする人もあった。私財を投じ、英国の親戚知人にも援助を訴え、明治28年(1895) ついにハンセン病 者のための病院を開設する。

 その病院は、暗黒の人生に再び希望の春を回り来させる祈りの意味を込め、「回春病院」と名付けられた。

 リデルの継続的な活動は各地に国立療養所が生まれる礎ともなった。またリデルはハンセン病救済演説会で、時の総理大臣大隈重信や大財閥の代表を 前に「日本が駆逐艦一隻の費用を転用すれば、この国のハンセン病問題は解決する」と提言し、その演説は国をも動かすきっかけを作ったと言われる。

 リデルの姪エダ・ライトは明治29年、26歳の若さで来日。各地でキリスト教の伝道と英語指導ののち、病身で高齢の伯母リデルを助けるために、大正 12年熊本へ。昭和7年にリデルが亡くなると、回春病院の経営を引き継ぎ、ハンセン病救済活動に生涯を捧げられた。

 伯母の事業を継承したライトは、第2次世界大戦開始と共に苦難の道を歩む。戦争で外国からの送金も途絶え、経営難に陥る。その上敵国の英国人で あるという理由で、ライトは特高刑事に監視され、持っていたラジオが秘密通信機だとしてスパイ容疑までかけられる。昭和16年、ついに病院は閉鎖に 追い込まれ、ライトはオーストラリアへ追放される。

 病院閉鎖の日、患者を乗せた輸送用のトラックが動き出したとき、ライトは荷台に取りすがって泣きながら「ごめんなさい、ごめんなさい」と、患者 たちに何度も詫びたという。この日の日記には「政府は、私から愛する患者たちを奪った。病院は、空っぽになった」と記されているという。

 71歳の高齢で国外退去となったライトは、患者たちのもとへ帰りたいとの一心を貫き、昭和23年6月11日、78歳の高齢しかも身よりもない単身の身で 再び来日。熊本市民の熱烈な歓迎を受け、昭和25年(1950)に亡くなるまで、療養所に住む患者と未感染児童施設「龍田寮」の子供達と共に、穏やかな余 生を過ごされたという。

 ハンセン病患者の「死んでも実家の墓には入れない」という嘆きを聞いたリデルは、生前、病院の敷地内に患者達の永遠の安らぎの場所として納骨堂 を建設し、自らもそこに納まった。ライトの遺骨もまた、願い通り患者たちの遺骨と共にそこに納められている。

 いかに宗教的な使命感があったとはいえ、この二人の英国人女性の異国での半世紀に及ぶ足跡を知ったとき、そして戦時中スパイ容疑までかけて国外 へ追放した日本人の仕打ちを知ったとき、私は自分も含め無知というものの恐ろしさと恥ずかしで、顔の赤らむ思いだった。

 さっそく色々調べて、平成6年の夏、私は熊本へ行った。回春病院の研究所跡地が「リデル・ライト記念館」となっていることを知ったからだ。熊本 大学の黒髪北キャンパスを横目に裏手へ歩くこと約5分、山林にそった小高い丘に白亜の記念館は佇んでいた。館内には二人の遺品や大隈重信からの手 紙などが多数展示され、二人の生涯に改めて接することができた。

 リデルが花見に行った日「 First saw lepres 」と、初めてレプラ(らい)病者を見たことを記した劇的な日から、何と111年目にして、やっとハンセ ン病患者さんたちの人権が回復する日が来たのだ。敷地内の納骨堂に眠る伯母と姪、リデルとライトのお二人は、遅すぎたと半分は怒り半分はきっと喜 んでおられるだろうことを信じたい。

 今度熊本へ行く機会があったら、ぜひもう一度あの白亜の「記念館」を訪れ、リデル、ライトのお二人を感謝の気持で偲びたいと思っている。(05/30/2001)
   参考:<リデル・ライトホームページ>
      http://www.uproad.ne.jp/rw/index2.html 
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[女三代百年の糸]
 高校を卒業と同時に親元を離れた二人の娘も成人してしまい、私はちょうど五十歳で子育てから完全に解放された生活に入った。考えてみれば親と子 が一緒に暮らした時間というのは、それぞれ18年間。次女が生まれて四人家族が揃った時期だけで考えるとたった13年間だった。

 その間私はずっとフルタイムの仕事を続けていたので、二人の娘は産後6週間が終わると、すぐさま無認可保育所のお世話になり、翌年4月からは認 可保育所に移り6年いて卒園。小学校では1年から3年まで、放課後は学童保育のお世話になった。

 私が結婚しても仕事を続けることにこだわりを持ったのは、二つの理由があった。一つは高校生の時、確か石川達三の小説だったが、結婚して家庭に 納まった女性のことを「性生活を伴った家政婦」と表現した部分があり、それを読んだとたん、私はいきなり頭に袋をかぶせられたような気がしたもの だ。気持が暗然となった。そういう見方もあるのかと、軽くいなすにも、弾き返すにも、その時の私はまだ若すぎた。

 二つ目は自分の母親に対する反発だ。舅(しゅうと)と姑(しゅうとめ)それに小姑(こじゅうと)のいる大家族の長男に嫁いだ母は、住むところ食 べることには何の不自由もなかったが、嫁としての気遣いは相当大変だったらしい。外出するにはいちいち姑の許可が必要だったし、自由になるお金も ほとんど無かったと思う。ただし当時はどこの家庭でも似たようなものではあったと思うが・・・。

 母の不満・愚痴は三人姉妹の長女である私に向けられることが多かった。嫁姑の関係など理解もできなかった小学1年生の頃、母が泣きべそをかいた ような顔をして姑の悪口を言った後、「あのクソばばあ」と言ったとき私は本当に驚いてしまった。あんなに仲良くしているのに、本当は違うのかと。 その時、嫁と姑の深遠な関係に私はうっすら目覚めたものだ。

 母の愚痴は年々ひどくなり、受験勉強をしている最中の深夜にも私の部屋に押し掛けるようになった。勉強を中断して母の話し相手をし、母の愚痴を 気の済むまで聞いてあげることが長女の私の役目だと半ば諦め引き受けていたが、ある日とうとう私は爆発。「そんなに嫌ならこの家を出ていけばッ!」 と母を叱りつけてしまった。

 自由に生きたいのだったら、自分で働き、部屋を借り、自立するのが一番の方法だと私は母に提案した。何も技術が無いのだから、さしあたり事務を するとしても電話応対や算盤(ソロバン)で計算くらいは出来ないとダメ。部屋を借りるだけの給料をもらうにはテキパキと仕事をこなして、1人前に 仕事ができなければ誰も雇ってくれないよ。できる?

 母はしばらく考えて「田舎弁丸出しだし電話応対なんか出来そうもない。パッパッと字を書いたり算盤をはじいたりして、給料をもらえるような事務 なんか多分できないと思う」と答えた。

 私は早く母に部屋から出ていってもらうことしか、頭になかった。「じゃあ働くのが無理なら、どんなに嫌でもこの家で辛抱するしかないでしょう? 人間楽しいことも苦しいことも、一生のうちに半分半分だというから、そのうちお母さんにも楽しい人生が来る日がきっとあるかもよ。ハイ、さようなら」

 今思えば、私はずいぶん残酷なことを母に言ったものだ。そんな母を見て育ち、小説のあの一言の衝撃もあって、高校生の私は、結婚して愚痴だらけ の母のように、家に縛られて終わる人生なんて嫌だと思い詰めた。私は進路を決めるとき、絶対仕事を持って、結婚しても自立するんだと堅く心に決め、 それをかなりの部分実行してきた。

 そんな私を見て育った私の娘たちは、働く母親よりお家にいるお友だちのお母さんに憧れて育った。お友だちの家で出された手作りおやつに憧れ、ス ーパーのチラシの安売りに朝一番に行けるから「私、絶対専業主婦になる!」と小学生の頃、何度も宣言されたものだ。
 今でもその傾向があるが、何か少年の事件が起こると「共稼ぎの家庭」とか「鍵っ子」とことさらその部分をマスコミが強調するのが気に入らず、母 親が働いていることで後ろ指さされてはいけないと、子育てに妙に力が入ってしまうこともあった。

 子育ては待ったがきかない。それが分かっていながら、私には二つどうしても取り返しのつかない思い出がある。一つは映画のことだ。私が良い映画 と判断した作品には子供たちを何度か映画館へ連れて行き、喜んでくれた。ところが子供の方から中学時代「ネバー・エンディング・ストーリー」を、 高校時代には「グラン・ブルー」を見たいと再三せがまれたが、忙しかったのか私は連れて行かなかった。
 もう一つは長女が高校生の頃、営業部門にいた私は夕方6時や7時まで会社にいることが多くなり、慌てて帰宅して夕食の支度をする毎日となった。 体育系の部活で疲れ切って帰った長女はゴロンと寝そべり、次女もお腹を空かしてぐったり。夫も帰宅は遅い。子供達にあまり台所の手伝いを仕込んで こなかった自分を悔やみつつ、1分でも早く料理しなければと気が急いていた私は、とうとうある日爆発してしまった。

 「お母さんはあなた達の家政婦じゃないわよ!少しは手伝ったらどうなの。お姫様じゃ無いんだからっ!」と思わず声を張り上げてしまったのだ。言っ たとたんシマッタと思ったが、口から飛び出した言葉はもう取り戻しようもなかった。長女が驚いて起きあがり、まじまじと私を見て「誰もお母さんを 家政婦だなんて思っていないよ。どうしてそんなことを言うの。信じられない。お母さんはそんな気持で今まで家事をしていたの?」と悲しげな声で言 ったとき、私はキュンと凍りついてしまった・・。
 後悔先に立たず。私は娘たちに何てひどい言葉を投げつけたのだろう。娘たちの心を言葉でグサグサと斬りつけてしまったのだ。「言い過ぎてごめん」 というのがやっとで、気を取り直してマナ板に向かうと、長女がスッと後ろに寄ってきた。そして「私あしたからお弁当いらない。パンでいい!」と強 い口調で言うと、部屋に引っ込んで夕食も取らなかった。次女も泣きそうな顔で食も進まず、最悪の夕食になってしまった。

   今考えれば、子供を映画に連れて行くくらい半日時間を作れば十分なのに、なぜそれが出来なかったのだろうと思う。時間はあってもきっと私の心にゆ とりがなかったのだろう。映画のことはその後事あるごとに娘から非難される種となったが、後からではどうにも取り返しがつかない。その時々が大事 だったのだから。またお弁当を拒否した長女は、結局、パンではお腹が空きすぎて部活ができないと、1週間後またお弁当を持っていくようになった。
 若い頃は母親としても未熟なまま、あれよと言う間に子育ては終わってしまった。もし今もう一度子育てができるなら、ゆったりと子供に接するだけ の精神的な余裕もあり、もっと上手に子育てが出来る自信があるが、もう子供はいない。うまくいかないものだ。よく子育ては親育てと言われるが、子 供を育てているつもりで、実は子供が未熟な親を育ててくれるので、だんだん親らしくなれるのかもしれない。

 女三代で約百年あると思うが、私を中心とした三代は20世紀と21世紀を半々過ごすことになる。私は大正生まれの母親のやれなかったことを、ど んどんやってきたし、これからも今しかできないことをやりたいと思っている。ちなみに私の母は35年仕えた姑を介護の後に送り、夫には長い介護の 後に8年前に先立たれた。今は広い家で、念願だった誰にも気兼ねのない一人暮らしを堪能している。
 私の二人の娘たちはお年頃を迎えているが、仕事にしろ結婚にしろ、選択の幅は私たちの世代よりも格段に広がっていると思う。21世紀前半を生き る彼女たちが自分の人生をどう組み立て、これからどんな道を選択していくのか、楽しみだ。(05/23/2001)
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[大量生産方式は終わるか]
 日本では政治的な「革命」は忌避されてきたが、「改革」「改善」「改良」は、政治の世界や企業や官庁でもたびにお題目のように掲げられてきた。し かし長年の慣行や方式の「改革」を「断行」するというのは、実際そう簡単なことではないのが実状のようだ。

 ところが先日NHKテレビ番組で紹介された「工場再建屋」の異名を持つ山田日登志氏の活動には、久々に眼を見張らされる思いがした。番組を見られ た方も多いと思うが「改革断行」のお手本のような、頼もしさすら感じた。山田氏は、倒産寸前の企業を黒字経営へ転換させてきた数々の実績から、日 本のトップ企業から“救世主”と仰がれているという。

 番組はある家電メーカーの依頼を受け、山田氏が山陰地方にある主力工場の現場視察に行くところから始まる。不況と国際競争にあえぐその工場は、 この10年間に製造した在庫品の山を抱え、最近製造している携帯電話もモデルチェンジの早さに製造ラインがついていけず、過剰生産が新たな在庫品 となる悪循環に陥っていた。

 製造ラインの従業員はほとんど地元の女性で、3000名が働き、家計を支えている主婦が多い。採算の悪化で工場が中国に移転すれば、彼女たちは 即仕事を失う。山田氏は工場の生産ラインや倉庫の在庫管理、流通管理等見て回り、同行している工場幹部社員に直ちに様々な問題点を指摘し、工場改 革に着手する。

 山田氏の一声で、20年間稼働してきた工場の顔ともいうべき生産ラインは「諸悪の根元」とばかり撤去され、長いベルトもあっけなく切断された。 駆けつけた工場長の顔は心なしか血の気が失せ、引きつっていた。大量の在庫品を産んできた今までの大量生産方式を止め、売れる分だけ作る方法に改 める。それが山田氏の改革の柱だ。

 山田日登志氏が恩師と仰ぐのはトヨタ自動車元副社長の故大野耐一氏。大野氏は戦後アメリカから導入された大量生産方式でトラックを製造し、作り すぎたトラックを抱えて倒産寸前にまで追い込まれたという。この経験から大野氏は大量生産方式の落とし穴に気づき、売れる分しか作らないという、 「トヨタ生産方式」をうち立て、他の企業にも呼びかけられたという。

 しかし他の自動車メーカーは人間に代わるロボットを導入して、より大量生産の方向へ突き進んだという。その結果、無駄を見る目を無くし、作り過 ぎによる在庫を抱え、行き詰まっていった。大野氏は亡くなる2ヶ月前に、「トヨタ生産方式」の完成を山田氏に託されたという。

 従業員の雇用を守り、モデルチェンジにも素早く対応でき、売れる分だけ作るにはどうすればよいか。山田氏はその答えとして「屋台方式」の製造を 提案する。今まで1つの製品の組立を6人体制で分業し、ベルトに乗せて流れ作業で製造していたのを、一人で組立から検査、箱詰めまで全部の作業工 程を一貫して行うやり方に変えるのだ。

 従業員は一人が1坪ほどのスペースに独立し、ちょうど屋台のように、手の届く場所に全ての部品が集められ、そこで製品を自分一人で完成させると いう方法だ。急激な改革に従業員も工場管理職もとまどい、反発の表情すら浮かぶ。しかし山田氏は製造ラインの女性達を静かにを諭す。「今までと同 じ流れ作業なら中国に工場が移転しますよ。それでもいいんですか?」と。

 厳しいようだが山田氏の考えはこうだ。同じ生産ラインの仕事なら人件費が30分の1の中国でもよい。そうやって多くの企業がコスト競争のために工 場を海外へ移した。今の工場は個人の能力を止める管理になっている。一人でやる方が自分の意志をキチンと反映できる。一人一人はもっと能力を持っ ているし、作る喜びを味わうには「屋台方式」がいいのだと。

 山田氏の指導でいち早く生産ラインを廃止して「屋台方式」へ転換したある大手電器メーカーの工場では、能力を認められたことを意味するマイスタ ーの腕章をつけた女性が、コピー機を組み立てていた。手際よく1台の機械を完成させ、最後に製造ラベルの製造者欄に自分の名前を書き込む彼女の姿 は、自信に満ち誇らしげでもあった。自分のサイン入りの製品が市場に出るのだ。

 分業システムでは従業員は流れ作業の一部分、歯車の一つでしかないが、屋台方式では組み立て作業に習熟し、作業の無駄な動きを無くす工夫は、全 てその人の仕事の成果となって表れる。従って同じ製品を作っても流れ作業の時より、仕事の充実感が全然違うという。山田氏が改革に着手した工場で は、実験的に導入した「屋台方式」の製造効率が6人の分業体制時を超えた時点で、改革の方策に目途がついたようだった。

   大量生産方式の場合、新製品に移行するには製造ラインの変更に1ヶ月を要し、結局それが作り過ぎやモデルチェンジへの対応を遅らせ、在庫を産む 原因にもなっていたという。ところが「屋台方式」は個々人で一つの製品を受け持つために、色々な種類の製品の同時生産が可能で、新製品やモデルチ ェンジにも素早く対応できるという大きなメリットがある。

 当初山田氏の改革にとまどっていた工場長は、「製造に籍を置く人間として海外に負けたくない。中国にはない付加価値を持った高品質の製品作りを 目指す」と意気込み「高性能ファクスの生産を中国から全てこの工場へ戻したい」と熱く語られた。

 工場改革に当たられた山田氏は、日本人の物作りの能力を生かすためにも「いろいろな種類を作れる人間が、工場にたくさんいる。それが日本の生き 残る道ではないだろうか」と提言される。現場を見て鋭く問題点を指摘し、即実行に移し、結果を出してこられた山田氏の活動は、日本の生産システム の大改革への挑戦とも取れた。

 それにしても番組の中で、工場の生産ラインや「屋台方式」で製品を作っているのは全て女性だったことが印象深い。山田氏の生産システムの大改革 は今後も多くの企業で取り組まれると思うが、それを生産現場で受けて立ち、高品質・高性能の日本製品を生み出すのは、実は女性達であることを改め て知らされたのだ。工場の命運を瀬戸際で支える彼女達の底力を見せられ、私まで力が伝わってくるようだった。(05/16/2001)
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[塚本先生と少年犯罪]
 昨年、黄金週間まっただ中の5月3日に起きたバスジャック事件から、早1年が経った。私も鹿児島=福岡間の高速バスをかなりの頻度で利用してい る身なので、あの事件後はさすがに高速バスの利用にためらいがあった。

 事件後の1年を追ったTV番組では、犠牲となり亡くなられた塚本達子さんに関するものが目立った。塚本さんは30年間教職を勤めたあと、現在の 学校教育に疑問を感じて自宅で塾を開かれていた人だ。番組でも塚本先生という呼び方で、彼女が目指していた教育や子育てのあり方が紹介されていた。

 塚本先生は日頃「子育てとは親育て」「子供のできることは全て自分でやらせなさい」「子供が自分で人生を選び取れるように育てなさい」と言って おられたそうで、幼児教育の大切さを重視して始めた塾が、いつの間にか母親のための塾のようになっていたという。

 また塚本先生は現在の教育が「教える教育」に偏っているので、自立への教育が必要とも説かれていたという。つまり教師の「教える」立場が強すぎ て、子供たちは「教えられる」「何でも教えてくれる」という受け身になり、自分で考えようとしない子供になってしまっているという。

 塚本先生が塾を通して子供やその親に播いた種は、事件後その遺志を受け継ごうと地域のお母さん達が中心となり「エスポワールの会」が結成され、 地域を超えた活動に広がっているという。こうみてくると塚本先生は、子供の問題はまず大人・親の問題であると考え、活動しておられたのではないだ ろうかと思える。

 バスジャック事件が発生してから解決までの半日、テレビはほとんどぶっ通しで現場からの映像を流した。大事件であり大勢の人質の安否も気遣われ たので、国民の「知りたい」要求を満たすには、現場からのマナ中継に勝る報道はないのだろう。事件の犯人が17歳と少年と伝えられたとき、多くの 母親が自分の子供の所在を確認したという新聞記事もあった。

 事件の解決が長引くにつれ、気になることも出てきた。その数日前に愛知県で起きた少年による夫婦殺傷事件を知って、犯人の少年が「先を越された」 と言っていたとか、説得中の警官に「事件をテレビでやっているか」と気にして聞いたという報道だ。

 そこには何か派手なこと目立つことをして、みんなの注目を集めたい、あるいは有名になりたいという誰にでも多少はある欲求が、そのまま犯行に直 結しているということだ。バス乗っ取り、大きな包丁、幼児を人質、残忍な殺し方・・。思いつく限りの凶器や舞台装置を揃え、暴君として振る舞い、 少年は自作自演の事件のヒーローになりきっていたのだろう。

 単純といえば単純だが、両親が少年の説得に呼ばれたものの、結局「説得する自信がない」で終わったとき、私は急に力が抜けた。親からの言葉も届 かないこの少年の背負う底知れぬ孤独・・。少年の社会性を欠如させた17年間の寒々しい時間を思って、私は虚しさにおそわれたものだ。何か社会の 規範ともいうべきものが崩れていくのを、感ぜざるを得なかった。

 それにつけても私が気になるのは、報道のあり方だ。この数年、確かに凶悪な少年犯罪が次々に起こっている。新聞・雑誌・TV報道には「凶悪化す る少年犯罪」「増加する少年犯罪」「17歳少年がまた犯行」云々の見出しが踊る。だから道路で少年とすれ違ったり、後ろからついてこられるだけで 恐怖を感じると言う人が出てくる。

 TVのワイドショーはそれに輪を掛けて少年の生い立ちや家族や被害者のプライバシーを、根ほり葉ほりよりドラマチックに暴き立てる。見方によっ ては、犯罪者がいかにも英雄か何かのごとき取り上げ方になってしまってはいないだろうか? 

 これでは普通に生活している少年少女や17歳の少年が気の毒だ。少年全体を色眼鏡で見るようではいけないと思う。普通の子供の方が圧倒的多数な のだから。それより、少年犯罪をいう前に大人の社会はどうなのか。その方がもっと子供たちには耐えられないほど汚く、狡く、悪に満ちていると見え てはいないだろうか。

 最近のマスコミの論調を見るとあたかも少年犯罪が増えているかのようだが統計上はそうではないという記事が目に留まり、自分でも調べてみた。 『犯罪白書』には交通関係業過を除く刑法犯として検挙された少年の人員がグラフになっているが、昭和40年15万人、昭和55〜60年は年間25 万人で推移し、最近は15万人と減少ないし横這い傾向が続いている。

 なかでも目立って減少傾向にあるのが殺人と強盗と強姦で、それぞれピーク時の4分の1、3分の1、18分の1以下という数字になっている。ただ 平成7年以降は、路上での強盗傷害や傷害致死、強盗殺人の非行が目立ち、凶悪という意味では凶悪さがより進んでいるかもしれない。件数で見る限り 20年近く前の方がよほど物騒な世の中だったのだ。ただ今ほど大々的に報道されなくて、知らなかっただけかもしれない。

 いつの世も「最近の若者は」と、大人の口から非難の言葉が出てくるが、反省すべきは今の大人なのかもしれない。一つしかない命の大切さを子供達 に、自分の子供だけでなく身近にいる子供達に、ちゃんと伝えて来たか。子供らの成長をゆっくり見守る気持ちの余裕があるのか・・。そういう私は仕 事をしながら子育てをしてきたので、いつも子供たちを急かせていた思いがチクチクと心に痛い。

 バスジャック事件で少年に斬りつけられ、重傷を負わされたある女性は、あの時斬りつけた少年が一番傷ついていたのかもしれない、と後日語られて いる。そのことを知って、私は相当ショックを受けたものだ。私ならきっと恨んでいるのにと。また亡くなられた塚本先生はかねがね塾で「子供にばか り完全を求めすぎる」と親ごさんたちをたしなめておられたという。

 塚本先生は子供の教育に、文字通り命を懸けられたとも言える。うちの子に限って、とは誰しも思いたいし、子供を犯罪者に育てているつもりもない だろう。しかしあまりにも簡単に人を殺しすぎる。社会全体の規範が崩れつつある今、「罪の意識」という人間としての感覚が薄れているのではないだ ろうか。大人はさまざまな犯罪を、ワイドショー的に眺めている場合ではないと思う。(05/09/2001) [ホームへ戻る] [上へ戻る]


[プロジェクトXに何をみる?]
 NHKテレビの番組「プロジェクトX」が、中高年の男性に大人気だという。番組は戦後の高度経済成長時代に働き盛りを過ごし 熾烈な競争や試行錯誤をかいくぐり、技術立国日本の立て役者となった人々、あるいは未知の大事業を命を懸けて成し遂げた 男達の群像が、ドラマチックに描かれる。

 戦争に負けて、焼け跡から立ち上がり、文字通りゼロから出発した日本。戦後の経済成長期と、自分の生涯の一番の働き盛り とがちょうど重なり合った人々が、「プロジェクトX」の主人公たちでもある。年功序列、終身雇用制という日本型の安定した雇用 システムの中で、存分に働き、成果を上げ、無事に定年を迎えた人々のサクセス・ストーリーとも取れる。

 日本が高度経済成長にさしかかった昭和30年代後半、私は社会科の授業で「日本は資源が少ないので原料を輸入して、それ を加工して輸出することで国も発展する。そのためには技術力がないとだめだ」そんなことを教わった。

 その頃日本はせっせと原料を輸入して工業製品をこしらえ、アメリカなどに輸出した。ところが私が中学生の頃は、外国に流れた の製品は、粗悪品の代名詞のようにけなされていたものだ。しかし昭和40年代後半から50年代頃には、日本の 工業製品の品質は格段に向上し、日本の電機メーカーや自動車メーカー、精密機械メーカーの名前は世界中に知られるようにな った。

 今、買い物に行くと日本以外のアジア諸国で生産された製品が圧倒的に多い。その多くは日本のメーカーがコスト競争にうち勝つ ために、人件費の安いアジア等の各国に合弁会社などを設立して、そこで製品を作り逆輸入しているからだ。かつて原材料の輸入 が50%を占めていた日本も、現在は製品の輸入が50%を超えているという。だから日本のメーカーの製品でも を探 すのが最近は難しい。

 これと同じような経験をしたのが、アメリカ旅行の時だ。お土産品店に入って気に入った物を買おうとしても、よく見ると小さく中国製、 メキシコ製、カナダ製、フィリピン製等々記されていて、アメリカ製は見あたらない。ほとほと困ってしまった。少し前は、アメリカ旅行で 奮発して買ったお土産が、帰ってよく見ると だったという笑い話もあったが・・・。

 最近は衣類や工業製品だけでなく、肉や野菜などの生鮮食品も輸入ものが溢れている。これもグローバル化と言えばその通りだ ろう。日本にいながら世界中の製品を買うことが出来るのは、決して悪いことではない。かといって手放しで喜んでいいものか、最近 疑問に感じている。

   かつて輸入品が少なかった時代、舶来品は高級品の代名詞であり、庶民の生活の必需品ではなかった。しかし現在の輸入品は、 私たちの生活に密着した衣食住全ての分野に及んでいる。しかも品質もだんだん向上している。安くて品質が良ければ、家計も大 助かりには違いない。

 しかし日本製が「粗悪品」という段階を脱して、高品質の製品を作る技術を持つようになったように、アジアの若者達は追いつけ追い 越せで頑張っている。今、安い商品を提供しているアジア諸国もいずれ技術力をつけてくるだろうし、経済が成長すればいつまでも低 賃金で働いてくれるわけでもないだろう。

 世の中は「安い」方へと限りなくシフトしている。安いことは決して悪いことではないが、ある製品からそれにかかった原材料費、人件 費、輸送費、そんなものを考えると、例えば100円という価格がどうしても納得いかないときがある。いかに低賃金の外国で大量に生産 したとしても、まっとうな価格というものがあるはずだ。大量の安売りの商品の前で、しばし考え込んでしまった。

 広告も「安い」の上に、「超」「激」はては「革命」などの文字が踊る。価格破壊と勇ましく言うけれど、どこかにきっとしわ寄せがいって いるのではないかしら?と思ってしまう。しかも安いが為に、それらの製品は粗末に扱われる結果になってしまってはいないだろうか。

 私も安いと得した気分になってつい買っていた。ところが問題は、消しゴム1個が欲しいのに3個セットだったりするところにある。結 局あとの2個は無駄な買い物になるわけだ。大量生産・大量消費で日本も経済成長を遂げたが、本当にそれが必要かどうかを考える 前に、安いとつい買ってしまうのは、大量消費の癖がなかなか抜けないからだろうと自省している。

   最近は同じ100円なら日本製の消しゴム1個買うようにしている。衣類も少々高くても、バーゲンも活用して、日本製を買って長く大切 に着るようにしている。なぜなら日本で物を作っている人や会社を、もっと大事にしたいと思うようになったからだ。米や野菜などの農産 物も、なるだけ近隣で生産された物を口に運ぶように心がけている。

 最近の日本は長引く不況ですっかり自信をなくしていると言われる。戦後の生活の安定に貢献してきた年功序列や終身雇用制もお およそ壊れた。これから社会人になる若い人たちは、アメリカ式の能力給や年俸制の雇用に憧れるかもしれないが、今後結婚したり子 育てしたりする世代はなかなか大変だろうと、つい老婆心で思ってしまう。何でもかんでもアメリカ式になびくのは、アメリカの基本的戦 略だろうけれども、日本はそれに乗りすぎではないだろうか。
 アメリカは広大な国土と地下資源を持ち、人材も世界中から集める力がある。対して日本は今後人口は減り続けるし、国土も狭く地下 資源も乏しい。ならばやはり一番の資源は、人材、つまり人そのものだろう。かつて技術立国を目指して頑張った「プロジェクトX」の人々 の姿は、物づくりにたけた日本人のあるべき姿と方向を映し出しているのではないだろうか。

 番組の宣伝をするわけではないが、上り調子の元気な頃の日本を単に懐かしむのではなく、自信をなくした日本のこれからの進む道のヒントを、あの番組 は教えているのではないだろうか。中高年の人だけでなく、もっと若い人たちに見てもらい、考えてもらいたいと思う。なぜなら、21世紀の日本を支える のは若い人たちであり、私が期待するのは若い人たちだからだ。(05/02/2001)
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[歌詠む人の心にふれる]
  21日の土曜日、鹿児島地方は土砂降りの雨。久々に雨コートを着て、昼過ぎから出かけた。近くの短大講堂で歌人の馬場あき子さんの講演会が あるためだ。560ほどの席は満席、演題は「うたと人生」。

 歌人らしく、薄ねずみ色のお召しに浅黄色の帯という春らしい装いだ。黒髪はひっつめにして、後の髷(まげ)は透かし模様のある銀色の飾りで くるむようにまとめてあった。お話は昭和20年5月、戦争末期の17歳の体験から始まった。馬場あき子さんは私の母や義母と同世代の人だ。

 東京生まれで当時も東京在住だった馬場さんは、女学校時代軍需工場で旋盤を回すのが大得意だったらしい。卒業後は旋盤の腕を買われて、地方 の工場へ行かされるという噂を聞き、いっそ死ぬなら両親と一緒がいいと、東京へ残るために進学の道を選んだという。

 進学はしたものの、空襲で校舎が焼けたため、お寺の本堂を借りての授業だったという。教科書やノートにも事欠く時代。お弁当にはふかしたお 芋を1本、または焼き米(残りごはんを水洗いしてフライパンで煎った保存食)を入れた小さい袋を腰に下げて登校。食べ物が無いときは襷(たす き)でお腹をきつく縛り、空腹しのいでいたという。

 授業は古典文学。万葉集の白文を読み下して、繰り返しソラで覚えたという。万葉集を声を出して覚える中で、馬場さんは日本語の韻律の美しさ を学び、韻律のドラマを感じたという。

 授業はたびたび空襲警報で中断され、何もかも放り出して防空壕へ避難し、警報が解除されるとまた万葉集の勉強に戻る。今思えば、あのような 戦時中であっても、学校の授業がちゃんと行われていたという事実に驚きを感じるとも言われた。

 そんなある日、授業中にふとお寺の庭に目をやったあき子さんは、言い知れぬ感慨に打たれたという。暗い本堂の中とは対照的に、外は五月の陽 光がさんさんと降り注ぎ、眩しく輝いていた。そこには今を盛りと咲き誇っている色鮮やかな牡丹の花が・・。その激しい美しさを暗い本堂の中か ら見ている自分・・・。

 戦争、空腹、古典文学。全く異なる3つ世界。その不思議な世界の中でこうして生きている自分とは何か? と。

 やがて敗戦となり、全てを失った日本にも秋が来た。自宅も焼けその跡を耕して畑にしていたが、焼け跡のどこから来たのかコオロギが鳴き出し た。確実に巡ってきた季節の美しさに、あき子さんは感動したという。

 国が戦争していようと、滅びようとしていても、牡丹の花は命の限りに咲き誇っていたし、季節は人間の営みとは関係なく、確実に移り変わって いく。戦後の混沌とした世の中を、自然という人間より大きな力が支配している、その自然の大きな力を感じたという。

 戦後まもなくの本のない時代に、級友が大切にしていた文庫本をあき子さんにくれた。長塚節の歌集だった。読み進んで最後の所に出てきた歌、 「馬追いの ひげのそよろにくる秋は ・・・」の所を読んだとき、突然涙が溢れ出てきたという。全く突然に。

 季節の美しさ、自然の営みの大きさ、その中で生きている自分という存在を敏感に感じ取って、戦後の混乱の中で生きていたあき子さんの胸中に、 それまでの色々な溢れる想いが一つになって一気にわき上がったのだろう。そのエピソードに、私は歌人馬場あき子さんの原点を見る思いがした。

 歌詠みの世界には「裏読み」というのがあるという。どれだけ目に見える裏側にあるものが読めるのか。現実から、人生の、世の中のどれくらい 先が読めるのか。また、今の世の中をどう見るか。甘いか、酸っぱいか、苦いか。歌人として、そういう時代観は言葉を選ぶ上でとても大事だと。

 人生は時間との戦い。時間を優雅に戦った、乗り切った人が歌を残せるのではないか。また五十代になると人間は生の連続した時間、つまり人生 ということを考えるのではないか。自分も五十代になったころから考えるようになったと。

 我々の生は時間を離れては無い、その時、この一瞬を大切に生きることが大事ときっぱり。結論は平凡だけれど、これを言うのが(歌にするのが) 難しい、と結ばれた。(04/25/2001)

    付録:馬場あき子さんの歌集から。

  沈丁花眼を閉ぢてきけ人生にわれのもちたるさまざまの春

  人恋ふと語ればすぐに親捨ててゆくごと憂ふ母の瞳よ

   五十代――、男おのおのたのもしく苦(にが)くさびしく事企てよ
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[群青の海・本土最南端へ] ◆写真はこちらから
   15日の日曜日、春らしい陽気に誘われて急にドライブを思い立った。目 指すは本土最南端の佐多岬。鹿児島県本土は西側の薩摩、東側の大隅(おお すみ)と2つの半島が錦江湾を包むように位置する。佐多岬は私たちの住む 方ではなく、大隅半島の突端の岬だ。同じ鹿児島市内に住む義母もさそって 午前9時、夫と私の3人で出発。かごしま水族館横から出ている桜島フェリ ーに乗船、約15分で対岸の鹿児島郡桜島町のフェリーターミナルへ到着だ。

 デッキから海を眺めているとき、進行方向の海面に丸い輪ができたのを夫 がめざとく見つけた。「何?」と目を凝らすとイルカが海面から飛び跳ねた。 2度も。気づいた乗客から歓声が上がった。錦江湾にイルカが生息している とは聞いていたが、本当に出会えてラッキーだった。市街地近くの湾にイル カが生息しているのは、世界でも珍しい例だそうだ。

 フェリーを下りて桜島南側の海岸沿いに続く溶岩道路を走る。この道は大 正や昭和時代に桜島が大爆発した際、大量に噴出した溶岩地帯を通っている。 道路の両側に迫るゴツゴツした黒っぽい溶岩は、色も形も量も不気味だ。道 路脇には所どころコンクリート製の避難壕が設置されているが、噴煙を上げ る桜島はもう左手頭上に見上げる位置にあり、避難壕が決して非現実的な置 物ではないことがわかる。

 桜島は裾野こそ松などが繁っていて緑があるが、頂上近くになるほど厚い 火山灰に覆われて、灰色の山肌は異様で凄味すらある。途中にある溶岩公園 の展望台へ上ると、桜島の全容を間近に眺めることができる。その上、微か な硫黄の匂いとともにシューッ、シューッと火口からの噴気の音も聞こえて 迫力満点。活きて噴煙を吐く活火山を実感できるが、同時に不気味でもある。 長居は無用と、写真を撮って早々に退散する。

 桜島は過去の大爆発で流出した溶岩で大隅半島とつながってしまっている。 桜島を半周した分岐点で右折して国道220号線へ入り、あとは海岸沿いの 道を一路南下するだけ。錦江湾を挟んで西方向の対岸に鹿児島市の南部が望 める。途中、夫から私へ運転を交代。車の少ない海岸線のドライブは、なか なか気持ちがいいものだ。

 垂水(たるみず)市、鹿屋(かのや)市と過ぎて大根占(おおねじめ)町 へ入る。出発して約2時間、国道269号線沿いの道の駅根占で一休み。こ こは錦江湾を隔てて、対岸の指宿と富士山を思わせる開聞岳がくっきりと眺 められる絶好の場所だ。南下するほどに海は青さを増し群青色にきらめく。

 そこからさらに1時間、最後の8kmは有料道路佐多岬ロードパークを走っ て終点の駐車場へ着く。ここからは徒歩でトンネルや御崎神社を通り、亜熱 帯植物の生い茂る山道を歩き、約15分で佐多岬の展望台へ到着。展望室は 360度のオーシャンビューが楽しめる造りになっている。お天気に恵まれ ていたので、はるか海上に硫黄島、竹島、屋久島、種子島の島影を確認する ことができた。屋久島などいつも見られるわけではないらしい。

 私は30年ほど前佐多岬に来たことがあるが、鹿児島生まれの義母も夫も 初めて来たとのこと。同じ鹿児島県内とはいえ何としても交通の便が悪いの で、観光バスで来るか、車がないとどうにも不便な場所だ。確か30年ほど 前はバスから降りて岬まで30分位山道を歩いたような記憶があるし、展望 室もなかったと思う。

 帰りにはお決まりの温泉タイム。今回は帰路途中にある根占町の「ねじめ 温泉ネッピー館」へ。源泉は塩分が強いナトリウム塩泉とのこと。少しヌル ヌルしたお湯の感触だったが、湯上がりの肌はツルツルして大満足。帰りは 垂水港から再びフェリーに乗り、約35分で鹿児島県庁横の鴨池港へ到着。 帰宅までちょうど9時間の旅だった。

 イルカに出会ったり、桜島の威容、秀麗な開聞岳、佐多岬から見た大海原 と屋久島、2つのフェリーなどなど、見応えと変化のあるドライブコースだ った。そういえば佐多岬ロードパークでは野生猿の親子も見かけた。佐多岬 への観光客は年々減少しているものの、最近は学生さんの一人旅が多いとの こと。そういう私も若い頃、自分探しで佐多岬まで足を延ばしたのかも知れ ない。「岬めぐり」というフォークソングも流行っていたし・・・。

 戸外へ海へ野山へ出かけよう! 時には遠出もいいものだ。(04/18/2001)
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[「いただきます」考]
 私の生まれ育った地は福岡県南部の筑後平野のど真ん中。米作りが盛んで 造り酒屋も多い。そこで戦後のベビーブーム時代に生まれた私には、ご馳走 に関して忘れられない思い出がある。

 毎年正月と旧盆の食卓には必ずご馳走が並んだ。骨付きの鶏肉を使って作 る「ガメ煮」だ。たいていの家では卵を取るために鶏を飼っていた。当時新 鮮な鶏卵は貴重な食材であり、祝い事があると親鶏も食材になった。

 ガメ煮をこしらえるのは母や祖母の役目だったが、十羽ほど飼っていた鶏 の中から、卵を産まなくなった一羽を選んで屠殺するのは父の役目だった。 父はいつも納屋のむき出しの梁に長いロープを掛けた。首が締まりバタバタ と暴れながらやがて動かなくなる鶏の様子を、子供の私はいつも胸をドキド キさせて隠れるように見ていたものだ。

 あとは鶏に熱湯をかけて子供達も羽根むしりを手伝い、手際よく父が捌( さば)いていく。解剖され肉や肝や砂肝などに分けられる内蔵を、父は一つ ひとつ目の前で名前を教えてくれたものだ。それからは母や祖母の出番で、 鶏は皮から骨まで一つの無駄もなく調理されていく。

 私がそんなことを思い出したのは、最近、大学生の研修レポートを読む機 会に恵まれたからだ。講義の一環としてタイの農場や少数民族の家にホーム ステイしながら農作業を体験する、そのコースを終えて書かれたレポートだ。

 タイ奥地に住む少数民族の村に1泊のホームステイをする学生達を、村人 は総出で温かく歓迎しご馳走の準備をしてくれる。高地で焼き畑などをして 生計を立てる彼らは、年に一度のお祭りの日だけしか食べないという貴重な 豚を、日本から来た客のためにご馳走しようというのだ。

 一匹の豚が選ばれ、屠殺され、解体され、調理され、食卓に上るまでゆう に2時間はかかる。その一部始終を目の当たりにした学生達は、少なからぬ ショックと感動を味わったようだ。別の農場でもカレーを作るのに何羽もの 鶏がやはり屠殺され、タイの高校生たちが慣れた手つきで捌くのを日本の学 生達は感心して見ている。

 そうやって出された夕食を、ある学生は今までの人生で最高の感動的な食 事だったと書いている。肉のひとかけらも残せないねと、友人と話しながら いただいたと書いた学生もいる。5分も歩いてお金さえ出せば食べ物にあり つける日本での生活。その対局にあるスーパーもコンビニもないタイの農村 での生活体験は、貴重といえる以上の何かを多くの学生達に与えたようだ。

 そこでは「食べる」という人間生存の根本的な行動が、自分たちで育てた 野菜や家畜の命と引き替えに成り立っている原則を、何の隠し立てもなく、 そのまま見せてくれたのだ。「食べる」つまり「生きていく」ために学校に も行かず親の農作業を手伝う少数民族の子供や、寮生活をしながら農業技術 を学ぶ高校生達の姿を、大地にしっかり足を踏まえて逞しく生きる意欲に満 ちあふれていたと、ある学生はまぶしく見つめた。それは今の自分に一番欠 けていたものだと。

 今の日本のように物が溢れ、生存の危機に乏しい環境では、この学生達の ように「食べる」ことの大変さについて生々しい体験をすることは難しい。 私の子供の頃のあの体験も、日本が高度成長期にさしかかった頃、突然終わ りを告げた。父が屠殺を止めたのだ。近所に肉屋さんが開店したこともあっ たのだろう。どうして?と問うた私に、父は「もう戦争の時代でもないし、 鶏であっても殺生を見るのはもう嫌だ」と答えた。父の鮮明な思い出の一つ だ。

 ところで日本には食事の前に神様にお祈りをする習慣はほとんどないが、 「いただきます」と幼児期からしつけられる習慣がある。この「いただきま す」とは、私の生存のために植物や動物の命を「いただきます」という意味 だという。

 つい40年ほど前まで、日本は食糧難の時代だった。栄養失調という言葉 も生きていた。どんな山間地でも棚田を作って食糧を確保してきた先人達の ご苦労と、食べられることへの感謝の気持ちは、手を合わせ「いただきます」 と発音する言葉の中に込められているように思えてならない。(04/11/2001)
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[青春のビートルズ]
 鹿児島市内の桜がちっとも咲かないので、福岡市の舞鶴公園へお花見へ行 った(というのは冗談!)。そのついでに1964年に制作されたビートルズの 初主演映画「ハード・デイズ・ナイト(A Hard Day's Night)」を観てきた。 この映画は当初「ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!」のタイトル で公開されたものだ。

 私が十代になった頃は皇太子と正田美智子さんの結婚で日本中が沸き、白 黒テレビが家庭に普及してきた頃と重なる。私が最初に見たテレビドラマは 「サンセット77」「ララミー牧場」「ローハイド」「名犬ラッシー」など アメリカ製ばかり。日本ではまだテレビドラマが作られていなかったのだろ う。しかし歌番組は色々あった。神戸一郎や江利チエミの歌を大人に混じっ て聞いていた。間もなく舟木一夫、橋幸夫、西郷輝彦の十代歌手が登場して 一躍人気者になった。

 中学生になると、外国からニュースだけでなく流行歌もどっと入ってきた。 とりわけイギリスのやんちゃ4人組ビートルズの人気は凄かった。ちょうど 中学校で英語を習い始めたこともあり、彼らの歌う歌詞を聴き取ろうと、必 死で耳を傾けたものだ。加えて強烈なロックリズムは日本の演歌や歌謡曲で 育った私にはちょっとしたカルチャーショックだった。

 高校2年の時、ビートルズが初来日した。ニュースでその様子を知るだけ だった私は、同じクラスの女の子が学校を休んでコンサートに行ったことを あとで知った。おとなしいと思っていたその子の行動力に驚いたものだ。彼 女は「イエスタデイ」を一人で聴いていると、どうしようもなく涙が溢れて くると私に打ち明けた。私も「ミッシェル」や「ラブ」のしみ入るような歌 声に飽かず聞き入ったことを、今懐かしく思い出す。

 映画は人気絶頂にあるビートルズが追っかけ少女達をかわしながら、分刻 みのスケジュールで移動する場面から始まる。二人のマネージャーの拘束を 逃れてディスコで遊んだりトラブルを起こしながらも、地元ロンドンのスカ ラ座での公開録音に無事間に合うまでを、ドキュメンタリー風に描く。

 演技だか素だかわからないが、メンバー4人のそれぞれのキャラクターが よく出ているし、映画のタイトルにも使われている「ハード・デイズ・ナイ ト」など11曲が強烈なビートとともに歌われる。青春時代のほとんどいつも、 聴くともなしに聴いていたこれらのビートルズ・ナンバーは、どうやら体中 の細胞に刷り込まれているのか、今でも耳にするだけで血が騒ぐ。

 ところで1日、1年、10年と簡単に言うけれど、そんな約束された時間は 存在するものだろうか? と最近思う。確かなのは今の一瞬一瞬を生きてい るということではないだろうか。だから何かに夢中になり、涙を流すほど感 動できるものを自分に引き寄せたいと今は単純に思う。私の細胞の一つ一つ にもっと新しい感動を刷り込みたいな・・。

 ビートルズの歌声が呼び起こしてくれた青春の思い出の余韻を、高速バス の窓から見える山々の新緑に重ね合わせながら、私はそんなことを考えつつ 鹿児島へ戻ってきた。(04/04/2001)
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[花咲山]
 先日の日曜日に、ハッとするほど美しいものを見た。鹿児島市内の自宅 からツルの飛来地として名高い出水市方面へ向け、車を走らせること1時間20分。 鹿児島県では北薩と呼ばれるエリアにあたる鶴田町へ入る。目印を見つけ、国道 から脇道へ入った指定の駐車場で車を降りる。

   朝からの雨で足下はぬかるんでいた。ここからさらに山の方へ向かって平坦な 道を300mほど歩く。どうにか雨はやんでいるが、空は今にも降りそうな雲行きだ。 歩くほどに民家は減り、小高い山の中腹にもポツンと1軒、後に山を背負ったよう に民家がある。山里とはこう場所を言うのだろうか、歩きながらふとそんなことを 考えた。

 ほどなく「つつじ山」の案内板が見え、そこからさらに細い砂利道へ入る。少し登 り坂になった砂利道は、山裾に沿うようにゆるやかにS字にカーブしている。周りは 小さな山がいくつも折り重なり、その山あいに谷のように入り込んだ平地には、水 田や畑が開かれている。山も畑も一面緑の世界だ。

 一つ目のカーブを過ぎると、突如として私の目に鮮やかな濃いピンクや薄紫色が 飛び込んできた。岩ツツジの花が山の斜面を覆うように、群れて咲いているのだ。 何という鮮やかさだろう。まだ桜も開花していない鹿児島で、岩ツツジが満開だと 聞いて半信半疑で来てみたが、こんな山里の奥に、こんなに美しい花咲山があ るなんて!

 細い道はそのつつじ山の中まで続いていて、散策できるようになっている。通称 岩ツツジと呼ばれているが、学名はハヤトミツバツツジ。原種に近いのか、高さは 2mほどあり普通のツツジよりノッポだが枝は細い。桜のように葉のない枝に花だけ をたくさんつけているので、とても華やかだ。

 花咲山と呼ぶにふさわしい、このつつじ山の主は上野さん。38歳の時、山に自生 していた岩ツツジと出会ったことから始まったという。秋に種を採取し、小さいポット に種を播いて育て、成長した苗を何度も何度も植え替えて育て、6〜7年でやっと 山に定植できるという。鹿児島地方だけに生息するこのハヤトミツバツツジは、ノカ イドウと並んで絶滅が心配されている貴重な植物らしい。

 岩ツツジに惹かれた山の主人は、失敗や試行錯誤を繰り返しながらも人知れず 育て、増やし、現在の花咲山にするまでに25年の年月を要したのだという。しかも 岩ツツジを守るためにそのことを秘匿されたため、花咲山の存在を知るのはごく少 数の人だけだったとか。

 でもとうとう昨年テレビや新聞で紹介されたので、人づてに聞いて訪れる人が増 えているという。わざわざ離れたところに駐車場を設けられたのも、山が荒れない ようにとの配慮から。25年間の執念の賜ものとしか言いようのないこの花咲山を、 山の主人は惜しげもなく訪れる方々に公開されている。

 黒沢明監督の晩年の作品に『夢』というタイトルのオムニバスの映画がある。その 最後の部分に、段々畑にずらりと満開の桜の木が並び、画面いっぱいまさに春爛 漫のシーンが出でくる。そこを少年少女が桜の枝を持って走り回る、心の浮き立つ ような夢の中の場面だ。ぐるりと山裾の小道を回ったとたん、いきなり私の目の前に 出現したのは、まさしくあの映画のシーンそのものだった。

 こんな所に人知れず咲くなんてもったいない、たくさんの人に見て欲しいという気 持と、いや人が押し寄せれば荒れてしまう。このままがいいのかも・・と、自分の山 でもないのに勝手に思ってしまった。でも花咲山の主人は、見たい方があればどう ぞ案内してあげて下さいと言って下さった。

   花の見頃は 3月20日から約1ヶ月という。その間は誰もが楽しめるようにとこの花 咲山は無料開放されていて、自由に散策できる。現在10,000平米ある面積のうち、 8,000 平米の部分に8年生以上の岩ツツジ(ハヤトミツバツツジ)が 6,000本植えら れ、満開を迎えている。(30/28/2001)
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[老いを感じるとき]
 十代の頃は自分が年を取って大人になるなんて、想像するのも嫌で、汚れた 大人の仲間入りなんかしたくないと悩んだりしたものだ。でも時間は容赦なく 過ぎ、無垢な少女もやがて女としての機能を備え、もがいているうちに否応な しに男と女をつなぐ深い暗闇の中に放り込まれる。

 何とかパートナーを捜しあて、巣作り子育てに振り回されているうちに20 代30代は加速をつけて去ってしまう。気がつけば40代。論語には「不惑」 の言葉もあるけれど、きょうび子育ても一段落した40代からよけいに惑いが 多くなるような気がする。

 40歳をいくつか過ぎた頃、中学生だった娘が「お母さん、ほっぺたのお肉 が下に落ちてきたみたい!」と教えてくれたのが、そもそもの始まりだった。 まだまだ気分は30代、いや20代と思っていても、そう言われればあちこち の皮膚の弾力が、だんだん重力に勝てなくなってきている。

 まだ私が20代の頃、職場の50代の上司(男性)が中高年の部に分類され たことを、けしからん!と息巻いているのをみて、素直に認めればいいのに見 苦しい、と思っていた。自分が実際にその年になってみると、中年は仕方ない としても、やはり高年呼ばわりはされたくないと思ってしまう。

 先の上司は、ある時まだ未婚の私に、人間年を取ると「歯」「目」「マラ」 の順で老化が進むんですよと教えてくれた。へーそんなものなのかと、今でも その言葉が妙に記憶に残っている。

 まず歯が駄目になり、次に目が弱る。そしてマラ=真裸つまり性欲の減退を 意味していると私は理解していたが、この順番もあくまで一般的な傾向である ことが、だんだん分かってきた。老いると言っても個人差があって、一口には 言い難いところがある。

 私などまだまだ若いと固く思いこんでいたが、最近人の名前が出てこない。 「おひさしぶりネ」と近寄って話しかける人や、テレビに出ている俳優の名前 が、全然出てこないことがある。のど元まで出かかっているのに、思い出せな い。会話の中に何か手がかりを見つけようと必死の努力をしても、とうとう最 後まで分からずじまいで、内心恐怖を感じたことも・・・。
 そんなとき、自分の老いをまじまじと感じる。顔のシワのことより脳ミソが ツルツルになるイメージはもっと心理的打撃が大きいものだ。しかし老化は生 物にとって避けられない現象だから、ジタバタしても始まらない。不足分を老 眼鏡や杖や入れ歯や補聴器で補えばいいのだ。開き直りも大事だ。

 ちなみに論語の続きは、五十歳で天命を知る境地に達し(知命)、六十歳で 人の言を聞けば誤りなく了解するようになり(耳順)、七十歳で思うままに行 って、それがすべて道徳の規準にかなうようになった(従心)、と説いている。

 人生50年の時代から大幅に寿命が延びた分、現代人は内面の成長もノンビ リで、論語で言う年代に20歳は足さないととうてい及ばない気がする。かと いって老け込む必要もない。先人のご苦労の上にせっかく延びた寿命だ。五十 代からでもまだまだ何か新しいことに挑戦して、大いに脳と身体の活性化を促 進したいものだ。(03/21/2001)
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[温泉の楽しみ]
 正負の法則というものがある。私も色々な場面でその法則を信じて いる。楽は苦の種苦は楽の種という。長い人生悪いことばかりもな いし、かといって良いことばかり続くわけでもない。要は有頂天になりす ぎたり悲観しすぎたりしないバランスの取り方と、負の時間を乗り切る 精神力の強さの問題だろう。

   鹿児島市は目の前に活火山を抱えている。毎日のように噴煙を上げる 桜島は、観光の目玉として大いにその美しさがたたえられ、重宝されている。 それが正としたら、火山灰の降灰は負の部分だろう。鹿児島へ来たとき は桜島の美しさより降灰にうんざりして、よくこんな所に皆平気な顔して住 んでいられるものだ、と正直思った。モクモクとあがる噴煙も、雄大どころ か私には鬱陶しさしか感じられない。

   桜島は毎日のように噴煙を上げているので、有珠山や三宅島のような 大規模な噴火はないと、地元では信じられているようだ。噴火に慣れっこ なのだ。しかし目の前の生きている火の山を見ていると、いつか大爆発 しそうな気がしてならない。鹿児島で暮らすには温泉でも楽しまなければ、 とてもやってられないと私は思った。

 かくして、夫の休みには二人で温泉に行くのがお決まりになった。車 のトランクには常時、着替えとタオルの入ったビニール袋、石鹸・シャン プー・櫛などを入れた小さな篭を備えている。つまり温泉セットだ。これさえ あれば、気ままなドライブの途中で温泉を見つけても、すぐに温泉に入る ことができる。

 この2年ばかりの間に行った温泉場は霧島、市比野、えびの、吹上、 栗野、加世田、甑島、桜島、助代(すけしろ)、紫尾(しび)、指宿(いぶすき) 等々。指宿では初めて砂風呂を体験した。ハダカの上に浴衣を着て、 タオルで頭をくるむようにして海岸の砂浜に横たわる。係りの人が 顔だけ残して、スコップで身体の上にどんどん砂をかけてくれる。

   10分が限度ですよ、と係りの人。身体に乗せた砂は海水を含ん でいるのか、意外に重い。目をつむるとうち寄せる波の音と風の音だけ。 目を開けると果てしなく高い空と雲。不思議な感覚だ。だんだん背中が熱 くなる。踵が熱い。お尻も熱くなる。身体を少し反らして背中を浮かす。汗を かくのを目安にしていたが、汗は出ない。でも熱くて我慢できなくなる。

 5分か10分経ったか分からない。横に並んでいた夫も熱いという。ついに 立ち上がった。足の砂を洗い落とし、浴衣を脱ぎ、シャワーを浴びて、温泉に つかる。どの人の背中も火傷したように真っ赤になっている。案の定鏡に 映った私の背中も真っ赤っかだ。服を着ても、3時間くらい背中が熱かった。 カチカチ山のタヌキの気分だ。地熱のパワーを感じた経験だった。火山と 同居の負の部分を、せいぜい温泉の楽しみでプラスに転じたいものだ。(03/14/2001)
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これより以下は「週間miniエッセイ」として連載した分です。

[百人の一歩、一人の百歩]
 昨年、トルストイ翻訳家の北御門二郎氏をご自宅に二度お訪ねした。 その時話題になったことの中に、「百人の一歩、一人の百歩」があった

 かつて北御門氏と澤地久枝氏が対談された折り、そのことがちょっとした 論争になったという。北御門氏の「百人の一歩より、一人の百歩を取る」 という主張に対し、澤地氏は「一人の百歩より、百人の一歩」を主張され、 意見は分かれたまま終わったらしい。その経験から、北御門氏は澤地 さんとの決定的な意見の相違を気づかされたという。

 「百人の一歩」は何となく分かるが、「一人の百歩」とはリーダー的な人間が、 一人だけ百歩進んで、あとの99人を引っ張っていく、そういうことなのかと、 私は北御門さんに問うた。

 北御門さんはそういうリーダー云々とかいうことではないと、明確に 否定された。あくまで1人の人間が自分の信念に基づいて行動しようと する時、百人の人が等しく一歩を踏み出すのを待っている時間はない のだと。人間、自分の信じる道をとことん進むことが大切、ということの ようだった。それは北御門氏自身の人生の指針でもあったと思う。

 だとすると、多分澤地さんの主張される「百人の一歩」の持つニュアンス と微妙にズレがあるように感じる。私も一般論としては「百人の一歩」に 大いに賛成だけれど、自分のことを考えるとどうも違う。
 文章を書くことは極めて孤独な作業なので、自分の力量というものが常 につきまとう。人はともかく、どんどん自分で進んでいかないとどうしようも ない場合が多い。

 そうこう考えると、私もどうやら北御門先生と同じく、「百人の一歩より 一人の百歩」を取ることになりそうだ。ただしこれは、自分の仕事、つまり 「書くこと」についての領域で、何かを個人で極めようとすれば、どうしても 「一人の百歩」にならざるを得ないと思う。

 とはいえ日常生活は共同や協力によって成り立っているので、やはり 「百人の一歩」が求められる場合も多いと思う。要は自分の生き方として、 どちらにより重心をかけているかのモチベーションの違いなのだろう。(03/07/2001)
*北御門二郎氏訪問の記事は、
「五十代が行く」 のサイトをご覧下さい。
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[今さら・だから英語]
 この1年半の間にアメリカ南部、ベトナム北部、インド北部 をそれぞれ1週間程度旅をした。アメリカは当然として、ベト ナムでもインドでもたいてい英語が通じる。空港の職員、ホ テルの従業員、土産物の店員さん、タクシーの運転手さん などなど。観光客を相手にする職業の人はたいてい英語が 話せる。
 シンガポールやホンコンの空港でも、免税店の店員さん たちは英語でも日本語でも中国語でも、相手を見て的確に 話しかけてくる。もちろん商売上で必要な会話の範囲かも しれないが、実に上手だ。必要に駆られて覚えるのだろう。
 私の英語などメチャメチャな片言だけれど、それでも堂々 と?使ってみると、これが意外に通じる。文法なんか気にし ないで言いたいことの単語が一つでも出てくれば、あとは 分かって欲しいという気持で一生懸命に話しかければ、何 とか相手に伝わるものだ。政治家でも外交官でもないので、 多少の誤解など気にしない方がいい。
 買い物をするときなど、英語を使うと言っても「これいくら?」 「高い!」「いらない」「2つ下さい」「ありがとう」せいぜいこれ くらいのやり取りだ。中学校で習った英語で十分なのだ。
 日本人は英語が下手とよく言われるが、海外旅行をして私 が思うのは、要は日本人が外国人に慣れていないことが根 底にあると思う。島国で多民族国家でもないので、人種の異 なった人々に対して意志疎通を行う訓練が出来ていない。
 おまけに日本の文法重視の英語教育は、何年習ってもしゃ べれない、役に立たないとよく言われる。几帳面な日本人は、 正しい英語で発音も正確でないと、と必要以上に思いこんでいる。
 しかし考えてみれば英語も単なるコミュニケーションの手段だ。 正確でなくても、相手に言いたいことが伝われば旅行や買い物 にはそれで十分だ。日常会話をそんなに難しく考えることは ないと思う。ブロークンでも十分意志疎通が可能だ。
 正確な英語表現の必要な専門分野の人は、それなりの学習が 求められると思うが、それ以外の大多数の日本人はもっと 気楽に英語に接した方がいい。中学でも文法より日常英 会話から始めた方が近道と思う。語学学習と考えず、コミュニ ケーションの手段としての共通語ととらえて、実践的に取り組 んではどうだろうか。
 私の知る限り、韓国人も中国人もベトナム人もタイ人もインド 人もインドネシア人も、大学生レベルでは共通語としての英語 を使ってのコミュニケーションができる。追いつき追い越せの 勢いで頑張っている若い人達と会うと、いつまでも日本は先進 国気分でいられる状況ではないと、アジアを旅をして感じている。 (03/01/2001)
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[郷土愛!]
 以前福岡市に住んでいたとき、鹿児島の特集番組があった。 その中で、鹿児島では西郷隆盛の悪口を言うと土地の人に 殴られるらしい、という噂の真偽を確かめるべく、レポーター が市民に聞いてみる場面があった。
 殴るというのは言い過ぎとしても、当地では誰も西郷さん の悪口など言う人はいない。最も慕われている偉人だ、という 返事だったように記憶している。
 自分の生まれ育った土地には強い愛着がある。私の場合 福岡県出身なのでもちろん福岡は大好きだ。といっても実家 のあたりは郡部で封建的な土地柄だった。それが嫌で福岡 市へ出て長く住んでいた。
 鹿児島市へ転居して1年あまり。市の中心部には西郷隆盛、 大久保利通、大山巌等々明治新政府を引っ張った薩摩出身 の偉人たちを顕彰する記念館や銅像や記念碑などが目に付く。 郷土愛の強い土地柄だと感じた。
 私はこれまで色々な人物のことなど、自分の住んでいる土 地に関係なく取りあげ書いてきた。鹿児島市へ来たとき、ちょ うど『夢とうつせみ ―一葉樋口夏子の肖像―』を自費出版 したばかりだったので、さっそく市立図書館へ寄贈を思い立ち、 直接持っていった。
 ところが、主人公の樋口一葉が「鹿児島出身ではないし、 本を置くスペースもないから」という理由で、寄贈を断られた。 同じ本は全国各地の図書館や女性センター等へ寄贈したが 、断られたのははじめてだった。断られたこともそうだが、 一葉のことを「市内にお住まいの人ですか?」と係りの人に 聞かれたときはもっとショックを受けた。
 当地の新聞社でも小説の公募などあるが、やはり鹿児島 や南九州を感じさせるものを、という条件が付いている。郷土 愛は大いに結構と思うが、私などヨソからきた者にとっては、 なにか居心地の悪さが妙につきまとうのはどうしてだろうか。
 グローバル化が叫ばれているからこそ、いっそう地域性、地域色 は大切にしたいところだが、私などは何か閉じられたような郷土 愛を感じてしまう。私のキャパシティーの問題なのか? (02/21/2001)
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[主婦考]
 専業主婦になって2年が経った。夫の転勤がもとで、私の方が 失業するはめになったのがそもそものきっかけで、よくある話だ。 しかし長年(といっても28年間)外で働いてきたので、家にこもっ たら病気をするかもしれないと思った。最初の1年は死ぬほど退 屈はしたものの、意外にも病気はしなかった。
 50歳という年齢では、再就職も難しいだろうと退職前から1年 かけてテープ起こしの通信教育を受け、技術を身につけた。 案の定、鹿児島に移り住むと私の希望するような仕事は皆無。 すぐさまテープ起こしの営業を始めた。
 業務案内と名刺を配りまくったり、口コミのお陰で、いくつかの 顧客ができた。本当はもっと色々な事業計画も立てていたが、 一度自由で気楽な身分を味わうと、人に使われるのも人に頼む のも嫌になった。一人で全部やるテープ起こしの仕事はその点 で気に入っている。
 しかし長年子育ての一方でフルタイムで仕事をしていたせいか、 子育ても卒業した今、生活の充実感は2年前までとは及ぶべくも ない。自由気ままな生活と引き替えに、日々の緊張感と充実感 を失ってしまった。
 今のところ夫に寄りかかっていれば何とかなる状況にあるから、 贅沢な悩みだとわかってはいても、何か物足りないのはどうして だろう。多分自分の人生設計より10年早く仕事を辞めてしまった ことが、未だに尾を引いているのだろう。エネルギーをもてあま し気味なのだ。
 もう八方美人はやめて、嫌なものは嫌と、自分の思うままに生 きよう。つき合う人も選ぼう。無駄なことに時間は使えない。そん なことを考え出すと、急に元気が出てきた。我ながら困ったオバ サンだ。(02/14/2001)
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[男男しい話]
 「男男しい」と書いて「めめしい」と読むそうだ。もっともそう読ま せているのだろう。普通めめしいと言えば「女女しい」と書く。以下 は夫がある航空会社の機内誌のエッセイで仕入れた話だ。
 ある有名な脚本家が沖縄に行ったとき、どうも最近の男はだら しない、どうしてだと思うか、と地元のおばあさんに尋ねたところ、 それは女がちゃんと男を育てないから、という答えが返ってきた という。
 その話を聞いて、私はとっさに、男の子を育てる母親の方に問 題がある。それに加えて父親の陰が薄すぎるのでは、日頃思って いることを言った。
 ところが夫が言うには、母と息子の問題ではなく、今の女(妻)が 夫をちゃんと育てないということらしい。そこでそのように育った男 を「男男しい」(めめしい)と表現しているらしい。
 幼少にあっては母に育てられ、結婚してからは妻に育てられ・・。 でもこれはつまるところ良妻賢母がなっていないということだろう。 「らしさ」が何よりも大事だった時代に育ったおばあさんに反論した ところでどうにもならないが、今は男が女にだけ育てられる時代では なくなっている、と私は思う。
 家事労働が電化によって軽減され、子供の数も少ない今日では、 育てるというより、子供に構い過ぎて結局子供の自立を妨げている 場合が多いのではないだろうか。
さらに言うなら、「男男しい」を「めめしい」と呼ばせるこの脚本家 自体が、相当古い頭の持ち主だと思う。きょうび、女・男という前に、 人間としてのありようが先ではないか。
 私は親から育ててもらうのは二十歳までで、それ以降は周りの人 たちに育てられ、最終的には自分で自分を育てるものだと思ってい る。いい年して「男男しい」のは、それは女のせいではなく本人の責任だ。 (02/07/2001)
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[ダンサー・イン・ザ・ダーク]
 新世紀に初めて見る映画はこれ、と決めてダンサー・イン・ザ・ ダークを見た。選んだ理由は3つ。ミュージカルであること、珍しい デンマーク映画であること、そして主演がカリスマ・ボイスとして 世界的に有名なビョークであること。有名と言われても日本では ほとんどなじみのないビョークって、どんな歌手だろうという興味 もあった。
 ミュージカルの好きな私はハリウッド製のミュージカル映画は 可能な限り見てきたと思う。ダンスと歌で楽しませてくれるし、悲劇 的なストーリーでもお決まりのハッピー・エンドで終わる。いかにも アメリカ人好みの仕立てだ。ところがラース・フォン・トリアー監督の このデンマーク映画は、1960年代のアメリカの小さな街を舞台に、 チェコからの移民女性セルマとその息子ジーンのつましい母子家 庭の生活を軸に展開する。
 やがて失明に至る病気を持つセルマは、息子にもその病が遺伝 していることを知り、手術代を貯めるため昼夜工場で働く。そんな セルマの唯一の楽しみは幼い頃に見た楽しいミュージカル映画の 空想にふけること。
 工場内の機械の音、機関車の音、はては足音さえもセルマには たちまち音楽や伴奏に早変わり。それらの音をバックにセルマは 思い切り伸びやかに歌い踊る。その空想はセルマにしばし現実 のつらさを忘れさせてくれるのだ。
 息子の目の手術は13歳になってから。息子のために一切を秘 密にして、失われる自分の視力も隠してセルマは懸命に働く。やっ とお金が貯まった頃、その大切な手術代が盗まれてしまう。息子 の目を治すという信念を貫くため、母親のセルマは全てをなげうっ て行動に出る。
 小柄で目も髪も黒っぽいビョークは、母親役とは思えないほど 少女のように見えるかと思うと、可愛いおばさんにも見える。しか しその力強く声量たっぷりの伸びやかな歌声には、思わず惹き つけられてしまう。妖精のような不思議な魅力が溢れている。
 私が最も印象に残ったのは、殺人犯として独房に入れられ たセルマが、気が狂ったように音を求めるシーンだ。セルマは やがて独房の壁に通気口を見つける。背伸びをして金網に耳を 押しつけ、外の音にじっと耳を澄ませる。かすかに聞こえてきた のは賛美歌の美しい歌声。たちまちセルマは絶望から立ち直り、 歌い踊る空想の世界にひたる。 音楽はセルマにとって、空気よりも必要なものかもしれない。
 ハリウッドのミュージカルにはおよそない結末には、新年早々 大泣きさせられてしまったが、母の愛を貫いたビョークの伸び やかな歌声が耳に残って、不思議に暗い気持にはならなかった。 ドキュメントの手法にミュージカルを織り込むという新しい試みの 映画だと思う。視点の定まらないカメラ・ワークには最後まで なじめなかったが、おすすめの1本だ。(01/31/2001)
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[ うどん と ソバ]
 福岡県南部の筑後平野に育った私は、うどんはよく食べて いたが、二十歳位までソバを食べたことがなかった。そもそも 食べる習慣がなかったのだ。それは育った土地と関係があると 後で分かった。
 筑紫次郎の異名でも知られる筑後川流域に広がる筑後平野 は、昔から米の一大産地であり、裏作には小麦が作 られていた。子供の頃、その小麦で各家庭ではうどんを作って 食していた。
 福岡地方のうどんは太麺で、昆布だしの利いた甘口のつゆを はり、薬味に青ネギをたっぷりのせていただく。高校生の時修学 旅行で初めて東京へ行き、うどんを注文したら真っ黒いつゆの 中にうどんが見え隠れしてしてビックリした。食べてみると今度 はだしの辛さに二度ビックリし、半分も食べられなかったことを 覚えている。
 友人に連れられて初めてソバを食べたときは、さほどおいしい とは思わず、その印象が長く続いた。弾力のある白いうどんを 食べ慣れていたせいか、そばのボソッとした黒っぽいいでたち になかなか馴染めなかった。
 ある時ソバ通の上司に連れられて老舗のソバ屋へ行き、 気乗りのしないザルソバを勧められた。内心がっかりしたが、 言われるままに食べてみると、これがとてもおいしい。そば湯 やソバがきの存在もその時初めて知った。そのおいしいこと!今まで 私が食べてきたソバは一体何だったのだろう? ソバのおいし さが分かったとき、私は何だか急に大人になったような気がし たものだ。
 スパゲッティーも嫌いではない。うどんも大好きだけど、そば なら朝・昼・晩と3度食べても平気だ。夏は美味しいおろしソバ を求めて、あちこち食べ比べたりする。家でも乾麺をゆでて ソバをよく食べる。ただし自分でそばを打つところまでは凝って いなくて、もっぱら食べるだけだ。(01/24/2001)
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[ 新年に思うこと]
 新年だ、新世紀だとことさら騒ぐ必要もない日常の連続では あるけれど、何かにチャレンジしたい気持はいくつになっても うつぼつとしている。一昨年はアメリカ南部、昨年はべトナム、 インドと旅に恵まれたが、夫に付随しての観光旅行の趣が強 かった。
 子育てが終わり、夫と二人の生活になって思うことの一つは、 自分達ばかり幸福な生活にどっぷりつかっていていいのか? どうも根が貧乏性なのだろう。どこかで何か少しでも私で役立 つ事があれば、出かけて手伝いたいと思ってしまう。
 まだまだ充分働けるだけの若さ?と体力と気力があって、自 由な時間があるという時期は、主婦の立場ではそういつまでも 続くものではないと思う。
 仮に外国へボランティア活動に行くとして、今なら夫と私の母 親はそれぞれ七十代前半ではあるが、まだまだ元気だし、双方 の父親はもう亡くなっている。私たち夫婦の二人の娘は当分 結婚の予定もない。夫は多忙を極めているが、単身赴任の経験 もあり、どうにかなるだろう。
 いろいろな条件をつき合わせると、私にとってこの数年はまた とない活動のチャンスであると思われる。5年後でも充分可能だ と思うが、十年後は双方の母親の年令を考えると難しそうだ。
 せっかくの一度きりの人生だ。やりたいこと、やり残したこと、 それに挑戦したいと思う。具体的なツテもあるので、今年か来年 中の実現に向けて動き出してみよう。これが私のささやかな“新 年に思うこと”です。(01/17/2001)
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[ 年末年始音楽三昧!]
新世紀のお正月、我が家は何と離散家族状態でそれぞれ 新年を迎えました。夫は12月26日からベトナムへ出張。元日 はハノイです。私はお義母さんと鹿児島県霧島温泉のホテル から初日を拝みました。長女は東京、次女は福岡で淋しいお 正月かと思いきや、それぞれ友人と楽しく過ごした様子。これ も親離れした証拠と喜ぶべきか。というわけで、年末の買い出 しや帰省に大忙しの人々を横目に、ホテルで年越しした私は 結婚以来一番ラクさせていただいたお正月となった。
 お義母さんと一緒に初詣などをした2日間以外は私一人の 年末年始。テレビもFMラジオも音楽番組を見放題聞き放題! 夫が異国の地でタイトなスケジュールで仕事をしているとい うのに、私はなんと贅沢なお正月なのでしょうか・・・。
 テレビでは元日のウィーンフィルは見逃したものの、3日放送 の「NHKニューイヤー・オペラコンサート」は大いに楽しめました。 オペラ・アリアのベストテンの企画も聞き比べ的な面白さがあり、 年末の27日深夜に放送されたバッハの番組も楽しかった。 ドイツのバッハゆかりの土地やパイプオルガンが登場。いつか きっとかの地に立つぞと希望が沸いたのは言うまでもありません。
 NHKFMラジオで一番良かったのは、何と言っても「グレン・グ ールドのバッハの魅力」でしょう。グールドの知られざる逸話や 演奏がたっぷり楽しめました。何とグールドのデビューはオル ガニストだったとか。その演奏も堪能できたのはラッキーでした。
 文学は私のライフワークですが、音楽は私にとって空気のように 無くてはならぬものです。世紀の変わり目を音楽三昧で明け 暮れた素敵な数日間でした。今年はもっと邦楽にも耳を傾けた いと思っています。(01/10/2001)
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