患者としてお話ししたこと  

患者としての溢れる想いを伝えたいと願っていましたら不思議なご縁で話しをさせていただく機会を得ました下線の引いてあるものは、詳しい内容を載せてあります。

QOL“ 輪唱”兵庫1998,9,27

ドクタ−が中心となって開催している講演会。乳がん治療についての情報、患者の体験談など盛りだくさん。 内容充実しています。 体験談のコ−ナ−でお話しさせていただきました。この時の原稿を載せます。人前で自分の想いを述べることなど金輪際ないはずと、言いたいことを言ってしまいました。長いので恐縮ですが。

滋賀県立看護短期大学部1999,2,24

看護概論の授業の中で患者の気持ちを話すため、ゲストとして参加させていただきました。

日本感情心理学会第七回大会1999,5,30

学会発表の為に「再発の不安について」の手記を書き、又会場にて一言発言をということで患者として参加させていただきました。

某病院 院内タ−ミナル研究会 1999,7,19

ある病院内の職員で作っている研究会に患者の直の声を聞かせて欲しいと頼まれ、お話しさせていただきました。

第二回 石川緩和医療研究会 1999,12,4

医療者の勉強の場に患者の立場から参加しました。患者の声を聞いて下さる姿勢に感謝したいと思います。

京都大学医療技術短期大学部看護学科 2000.1.13

特別講義ということで、2,3回生に患者の想いをお話ししました。

発達心理学会 2000.3.29

「癌の不安とその克服をめぐって」という表題の発表に参加させていただきました。その時の発表論文集に載せた原稿です。

日本心理学会 2000.11.7

第7回能登緩和ケア研究会 2001. 4.21
「がん、からのプレゼント」

★ 第13回京滋緩和ケア研究会 2001.6.30
「がん患者の住む異界」 自らの死と仲間の死をみつめて

★ 京都国際社会福祉センター『理論講座」 2002.7.5
「死ぬことと死なれること」−患者として学んだことー

★ 滋賀県看護協会第一支部 研修会 2002.10.5
「医療現場における心のケア」 患者の立場から

★ 日本麻酔科学会第50回学術集会 2003.5.30
ワークショップ「麻酔の術前説明」にて

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QOL“ 輪唱 ”兵庫 講演会 -神戸国際会議場 メインホ−ル-

「一患者の想い」

 皆さん、こんにちは**県から参りました**です。今日は演題に有りますように、この二年で感じたこと考えたこと、溢れる想いの何分の一かをお伝えできればと思っております。 なぜ私が、今ここに立っているかと申しますと、皆さんのお手元にある昨年の会の質問に答えた小冊子にアンケ−ト記入欄があります。昨年そこに勢い込んでなにやら書いて帰ったのですが、七月に突然お電話をいただきこのような次第になりました。なぜかその時書いたものが後ろのほうに感想に載っています。二度びっくりしています。もし、来年こちらでお話しなさりたい方がいらしたらそう書いて出しておくと実現するかもしれません。(笑い)
 では私の体験をお話しします。 手術は1999年4月30日でした。私はことが重大になるほど、冷静、意地になる性格で検査結果が出るまで誰にも言いませんでしたし、入院まで一人で決めて事後報告、ガンは今回初めてですけど過去三回手術していましてこれで四度目すから入院も慣れたもので、「では、行って来ます」なんぞという軽い乗りで手術室に消えたのですが、家族は多分生きた心地がしなかっただろうと思います。
 術後分かった、私のガンは、腫瘍径1.7×2.2、リンパ節転移無し、遠隔転移無しエストロゲンレセプタ−(−)、プロゲステロンレセプタ−(+)、病理学的にはスキルスとソリッドチュブロ−ルの混合タイプ、細胞診の結果はクラス5、ステ−ジTでした。手術方法はこだま法、いわゆる非定型型乳房切除術でした。補助療法としてノルバデックスDとフルツロンを飲むことになりました。よくいう、10年生存率は80%ぐらいだろうと自分では思っています。なんでこんなに詳しく知っているのかと不思議に思われる方もいるでしょうが、ドクタ−が初めから話して下さった訳ではなく、密かに外科外来バトル三分間一本勝負と呼んでいた退院後の二週間おきの診察で半年かけてお聞きしたものです。 人によってどうやって突然のガンという体験を乗り越えていくかは様々ですけれど、私はこの病気を知ること、そして向かっていくことを選びました。 正体が分からないのは怖いでしょう?

 退院して三日で車を運転し、一週間後には仕事に行き、一ヶ月後にはハイキング、温泉にも入り、その夏には家族で佐渡島へキャンプに行って、海で泳ぎました。今、おもい返せばばむちゃくちゃで何もそこまでしなくともと思いますが、その当時は性急に手術前と同じ生活ができるかどうか試していたのです。そうしながら、乳がん患者会にもすぐ入会し、その東京大会、死の臨床研究会、ガン学会の講演会、気がおかしくなったのではというくらい走り回りました。その間にガンとかいてある本を片っ端から読み漁りまして、自分の症例と照らし合わせては、ドクタ−に質問いたしました。そうしないではいられなかった、不安で怖くてたまらなかったのです。

 どんなに病気に捕われて突き詰めていたかという例を一つお話しします。これは病気ノ−トと読んでいるもので、入院してからのこと、その後の外来でどんな検査をしたかその結果、本日の質問、ドクタ−のお答え、それに対する私の感想などが簡単に書いてあります。退院後三回目の診察、7月9日の質問を読んでみます。これは書いていってお渡ししたものです。自分の主治医になにか言うのはとても勇気がいりますよね、この時は口から心臓がでてしまいそうでした。
 「お願い。 以下是非見せていただきたくお願いします。私のマンモグラフィ、エコ−像のコピ−、切り取った病巣の写真、できれば病理標本、以上です。当時頭と心のドアが半分閉っていましたので、目では見ていましたし、説明も聞いていましたが理解していませんでした。先生がお忙しいのも患者の申し出としては突拍子もないこととも承知しています。どうしても切らなければならなかった事を納得する為にお力をお貸し下さい。」
 そして画像三つはその場で見せていただいて説明もしていただきました。細胞のプレパラ−トはその後貸していただきました。プレパラ−トというのはこの位の小さいガラス板に細胞の薄切りを固定してあるものです。飛んで帰って会社の顕微鏡で自分のがん細胞を見てから、「ああ、これが正体であったか」とす−っと「自分はがん患者になったのだ」と胸に落ちまして楽になりました。
 今回この話をしてもよろしいかとドクタ−にお聞きしたのですが、「かまわないけど、皆が見たいといってきたら対応できない」と心配なさっていたので
(笑い)、基礎知識がないと見てもなんだか分かりませんから、どうぞよほどの思い入れのある方は別として思い止まっていただきたいと思います。そして次の診察の時顕微鏡で見た細胞のスケッチを書いていって、私のガンの病理学的分類は何かとお聞きしまして、その時、溜息混じりに「そこまでやりますか」(笑い)とおっしゃってそれから、正面から向き合って下さるようになったと思います。なにせ、こちらは知りたい、で私のガンについては自分の主治医に聞くしかないのですから、その知りたい程度と自分の知識、どれくらいこの人は理解できるかを分かっていただかなくてはドクタ−もお困りになるでしょう。

 これは一例でその後、マ−カ−の値が上がったり、肋骨上にしこりができて生検したり、リンパ浮腫がでたり、卵巣が腫れたりしまして、その度にバトルは激しさを増すのですが、その度にきちんと付き合って下さったこと深く感謝し、御信頼申し上げています。 今はガンになったのは誰が悪い訳でもなく、この先のことは分からないのだと分かりましたから、病気そのものについては落ち着いています。

 お話しすることは山のようにあるのですが、時間がありませんので次はいきなり始めた勉強についてお話したいと思います。 このようなことをしつつ、放送大学で心理学を、京都国際福祉センタ−というところでカウンセリングの実際を勉強し始めました。笑わないで下さいね、放送大では単位を取って認定心理士の資格をまず取り、できれば卒業して大学院に入り直し臨床心理士になりたいと考えています。 遠大、無謀な野心と分かってはいますが、素人の強みで言ってしまえば、ベットサイドにいる心理の専門家になりたい。患者の苦しみを聞き、又医療側との橋渡しのできる人間になりたい。 なぜ、そんなとんでもないことを始めたかお話しします。

全ては抜糸の時、傷を見たその瞬間から始っています。よせばいいのに、傷をみなくては家に帰れないと覚悟をして見たのですが、覚悟なんて吹っ飛んでしまうほど醜かった。まあ、そりゃあ、すごかった。で、ガラガラと今までの四十年で作り上げてきた自分の価値観が崩れてしまったのです。体がこうなった悲しみ、どのくらい生きられるのか、この先どうなるのかといった不安も大きかったのですが、それよりも「私は何も分かっていなかった、この状況をどう乗り越えればいいのか見当もつかない、どうしたらいいのか分からない。そもそも、私という人間はなんなのか、生きていくこととは何か、どんな意味があるのか。」とかなり極端、根元的な問題にど−っとはまってしまい、苦しくてたまらなくなりました。外科的な傷なんて比べようもないほど心が痛かった、一瞬にして心が赤むけの因幡の白兎になってしまったのです。
 この時から涙がぼろぼろ出るようになって半年の間にデミタスカップ一杯分は泣いたと思います。意地っ張りですし、人前で泣くなんて恥ずかしいことはできんという性格ですので入院中は泣き場所を探してうろうろしました。ドクタ−もナ−スも一生懸命して下さるのですが、患者がびっくりするほどいそがしく、精神的なケアにまで手が回りませんよね。日本の病院にそういう気持ちの持って行き場はありませんよね。不思議だと思いませんか、それに心が癒えていなかったら、体の傷が治っても元の日常に戻っていけませんよね。皆さんも退院後が苦しくありませんでしたか。実際には一人一人が七転八倒しながら乗り越えていくのでしょうが、そこに少し手をかすことができれば、全然違うのではないでしょうか。

 もう一つ、私の多分原体験になるのでしょうが、今でも心穏やかに思い出すことのできないことがあります。入院から手術までいた隣のベットに胃癌のかなりもう末期であろうという方がいて、彼女は自分の死期が近いことを察していてとても投げやりで死ななくてはならない憤りを持て余しているように見えました。御家族もドクタ−もナ−スも遠巻きにして見ているように感じました。 手術後、婦長さんの配慮で回復室から前と違う部屋に帰ったのですが、すぐに彼女がすうっと来て、あの病院のパイプ椅子に座ると私をじいっと見ながら「どうして前と違うとこきたの、待ってたのに」と言いました。私は「婦長さんが」としか言えず、しばらく目を見詰め合っていました。
 あのような人間の目を見たことがありませんでした。孤独と絶望とあきらめに満ちた暗く冷え冷えとした底のない穴のような目でした。 なぜ、この満ち足りた日本の高度な医療を誇る立派で清潔な病院で、あんな目をして死ななければならないのか,なにかすごく間違っている、どこが先進国だ恥ずかしいと同時に怒りが込み上げました。それとその時、私が何もできなかったこと、何も言えなかったこと申し訳なく、自分に腹が立ちました。 今だったら、静かに彼女と死んでいく事の話ができるように思います。(できないかもしれませんが)
 そのようなことがあって、日本の医療に精神的なケアがすっぽり抜け落ちていることに怒りを覚え、そこで自分がやるんだとといきなり勉強を始めるのも、とても短絡的なのですけど。 もちろん、自分が何者なのか知りたい、そういう仕事ができなくて夢で終わってしまっても、せめて助けてと差し伸べられた手を掴める人間になりたい、そう願っています。

 話が少し飛んでしまうのですが、今とても気になることがあります。最後は自宅で、在宅こそ望ましいという風潮です、老人医療について多く語られていますがガンの末期でも患者の住み慣れた自分の家で過ごすことこそ幸せである、と。もちろんとても正しい、文句言う方がおかしいのでしょうが、ちょっと考えて下さい。私は医療費の削減という言葉がちらついてなりません。もし、私が末期になったとして、家には夫の年老いた両親、中間管理職の忙しい夫、高校受験の子供、誰が介護するのでしょう。私は、慣れ親しんだ病院で、信頼するドクタ−、良く知ったナ−スや病気仲間、友人、時間の許す限り家族の顔を見つつ死にたい。「病院で死ぬこと」という本が一時話題になりましたが、病院で死ぬことが悲惨ならホスピスへではなく、病院を安心して死ねる場所にはできないのでしょうか。治る病気を治すだけが、医療の役割ではないと思うのですが。

 そこで、是非お願いします、医学部付属病院と各地の基幹病院に緩和ケア病棟を作っていただきたい。病棟の何床かをあてていただければできる、と素人は思うのですが。
行政や医療側からはそういう声はなかなか出にくいでしょう。社会的地位のある方が病気になった時は特別扱いですもの。よく、ドクタ−がガンになってやっと患者の気持ちが分かったと言いますが半分しか分かっていないだろうと思います。夜、何度呼んでもナ−スが来てくれないとか、外来で三時間も待つなんて体験はなさらないでしょうから。退院する時、病院の皆さんが花束持って玄関まで送ってくれるなんてこと普通はありませんよね。これは、皮肉ではなく、一般の患者の切ない気持ちは立場が違うとなかなか分からないのではと思うのです。

 在宅、ホスピス、病院と患者の状況に合わせて選べたらどんなにいいでしょう。死ぬ死ぬと大きな声で言ってごめんなさい。でも生きている以上必ず死ぬのですもの、そこのとこ安心できなくては安心して生きられないじゃありませんか。

 もう、残り時間がありませんので、今の私の心境を少し。 実現に向かって進める夢を持てたこと、していて楽しい勉強を見つけられたこと、たくさんの素晴らしい人に出会ってそして助けられたこと、ガンという病気から素敵なプレゼントをもらって得をしたと思っています。そしてこの病気になる前より自分が好きになりました。
 最後に壇上から失礼ではありますが、こんなチャンスはそうありませんから、言いたい放題ついでにお願いをもう一つしてしまいます。いくら勉強しても実際に現場で経験を積まなくては私のとんでもない夢を実現することはできません。もし、お力を貸して下さる方がいらしたら、どうぞお知らせ下さい。よろしくお願いします。

 では、今日このような機会に恵まれたことを感謝しつつ終わりにしたいと思います。ありがとうございました。

以上。

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