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五輪の書

水之巻

有構無構のおしへの事

有構無構といふは、太刀をかまゆるといふ事あるべき事にあらず。され共、五方に置く事あれば、かまへともなるべし。太刀は、敵の縁により、所により、けいきにしたがい、何れの方に置きたりとも、其敵きりよきやうに持つ心也。上段も時に従ひ、少しさがる心なれば中段となり、中段を利により少しあぐれば上段となる。下段もおりにふれ、少しあぐれば中段となる。両脇の構も、くらいにより少し中へ出せば、中段下段共なる心也。然るによって、構はありて構なきといふ利也。先ず太刀をとっては、いずれにしてなりとも、敵を切るといふ心也。若し敵の切る太刀を受くる、はる、あたる、ねばる、さわるなどといふ事あれども、みな敵を切る縁なりと心得べし。うくると思ひ、はると思ひ、あたると思ひ、ねばると思ひ、さわると思うによって、きること不足なるべし。何事もきる縁と思ふ事肝要也。能能吟味すべし。兵法大きにして、人数だてといふも構也。みな合戦に勝つ縁也。いつくといふ事悪しし。能能工夫すべし。

構えがあって構えがないというのは、太刀を構えてはいけないが、五つの方向に置くことがあるならば、それを構えと言うこともできる、ということである。太刀は敵との理合によって、場所や状況に従い、どの方向に置いたとしても敵を切りやすいように持つのである。上段も状況に応じて少し下げれば中段となり、中段を理合によって少し上げれば上段となる。下段も時により少し上げれば中段となる。両脇の構えも、位置により少し中心に出せば中段とも下段ともなる。これゆえ構えあって構えなしと言うのである。太刀をとったときはどのように構えようが、全て敵を切るという意識が重要だ。もし敵の切りかかる太刀を受ける、はる、あたる、粘る、さわるなどということがあっても、全て敵を切るためであると心得よ。受けようと思い、はろうと思い、あてようと思い、粘ろうと思い、さわろうと思うことによって、敵を切ることができなくなる。何事も切るためと思うことが肝要である。良く吟味すること。合戦での配置もまた構えであるが、これも目的は全て合戦に勝つことであり、特定の構えに囚われてしまうのは良くない。良く工夫すべし。


敵を打つに一拍子の打ちのこと

敵を打つ拍子に、一拍子(ひとつひょうし)といひて、敵我あたるほどのくらいを得て、敵のわきまへぬうちを心に得て、我身もうごかさず、心も付けず、いかにもはやく、直に打つ拍子也。敵の太刀、ひかん、はづさん、うたんと思ふ心のなきうちを打つ拍子、是一拍子也。此拍子能く習ひ得て、間の拍子をはやく打つこと鍛錬すべし。

敵を打つのに、一拍子というものがある。敵と打ち合える距離まで接近し、敵がまだ戦法を決めていないのを感じ取り、体を動かさず、打とうという意識も見せないで、できる限り速く真直ぐに打ち込む拍子である。敵が太刀を引こう、はずそう、打とうという意識を起こす前に打つ拍子、これがひとつ拍子である。この拍子を良く修練し、間合いの拍子を素速く打つように鍛錬すること。

無念無相の打ちといふこと

敵も打ちださんとし、我も打ちださんと思ふ時、身も打つ身になり、心も打つ心になつて、手はいつとなく空より後ばやにつよく打つ事、是無念無相とて、一大事の打也。此打たびたび出合ふ打也。能能習ひ得て鍛錬あるべき儀也。

敵も打ち出そうとし、自分も打ち出そうと思ったとき、体も打つ体勢になり、心も打つ心になって、手は普段より自然に極めて素速く強く打つことができるが、これは無念無想といって、非常に大切な打ちである。この打ちは戦闘においてたびたび出合う打ちであり、良く鍛錬し習得すべきである。

打つとあたるといふこと

打つといふ事、あたるといふ事、二つ也。打つといふ心は、いづれの打ちにても、思いうけて慥に打つ也。あたるはゆきあたるほどの心にて、何と強くあたり、忽ち敵の死ぬるほどにても、是はあたる也。打つといふは、心得て打つ所也。吟味すべし。敵の手にても足にても、あたるといふは、先ずあたる也。あたりて後をつよくうたんためなり。あたるはさわるほどの心、能く習ひ得ては、各別の事也。工夫すべし。

打つということと、あたるということは別である。打つというのはどのような打ち方でも、意識して確実に打つことであり、あたるは突き当たるといったような意味で、敵が即死するほど強くあたったとしても、やはりこれはあたるということである。打つというのは心得て打つのであり、この違いを良く考えること。敵の手でも足でも、あたるというのはあたっただけのことであり、その後を強く打つためである。あたるというのは触る程度のことで、良く修練すればこの重要性が理解できる。工夫すべし。

しうこうの身ということ

秋猴の身とは、手を出さぬ心なり敵へ入身に少しも手を出す心なく、敵打つ前、身をはやく入るる心也。手を出さんと思へば、必ず身の遠のくものなるによって、惣身をはやくうつり入るる心也。手にてうけ合はするほどの間には、身も入りやすきもの也。能能吟味すべし。

秋猴の身というのは、手を出さないという心である。手を出そうと考えると必ず体は遠のいてしまうものだ。敵に接近するときに手を出そうと考えず、適が打つ前に体を素速く接近させる。手が接触する距離であれば身体を近づけることも容易にできる。良く吟味すること。

しつかうの身ということ

漆膠とは、入り身に能く付きて離れぬ心也。敵の身に入るとき、かしらをもつけ、身をもつけ、足をもつけ、つよくつく所也。人毎に顔足ははやくいれども、身ののくもの也。敵の身へ我身をよくつけ、少しも身のあいのなきやうにつくもの也。能能吟味有るべし。

漆膠とは、敵に体を寄せて離れない心である。敵に接近するときは、頭、身体、足までもしっかりと寄せる。たいてい顔や足は近づいても、体は遠のいてしまうものだ。敵に体を密着させて、隙間がないようにすることが肝心である。良く吟味すること。

たけくらべといふ事

たけくらべといふは、いずれにても敵へ入込む時、我身のちぢまざるやうにして、足をものべ、こしをものべ、くびをものべて、つよく入り、敵のかほとかほとならべ、身のたけをくらぶるに、くらべかつと思ふほど、たけ高くなって、つよく入る所、肝心也。能能工夫有るべし。

丈比べというのは、どのような時も敵に接近する場合は、我が身が縮まないようにし、足を伸ばし、腰も伸ばし、首も伸ばして、敵と顔を並べて身の丈を比べても、比べ勝つと思うぐらいに背を高くしてつよく入り込むことが肝心である。良く工夫すること。

ねばりをかくるという事

敵もうちかけ、我も太刀打ちかくるに、敵うくるとき、我太刀敵の太刀につけて、粘る心にして入る也。ねばるは、太刀離れがたき心。あまりつよくなき心に入るべし。敵の太刀につけて、ねばりをかけ入るときは、いか程も静かに入りてもくるしからず。ねばるといふこ事と、もつるるといふ事、ねばるはつよし、もつるるはよはし。此事分別有るべし。

敵と自分がお互いに打ちかかり、敵が受けたとき、自分の太刀を敵の太刀に付けて粘るように入る。粘るというのは太刀が離れない状態で、あまり強くしないこと。敵の太刀に粘りをかけるときは、どんなに静かに入っても良い。粘るということと、もつれるということは違う。粘るは強く、もつれるは弱い。この違いをよくわきまえること。

身のあたりといふ事

身のあたりは、敵のわきへはいりこみて、身にて敵にあたる心也。少し我顔をそばめ、我左の肩を出し、敵の胸にあたる也。あたる事、我身をいかほどもつよくなりあたる事。いきあふ拍子にて、はづむ心に入るべし。此入る事、入りならひ得ては、敵二間も三間もはげのくほど、つよきもの也。敵死入るほどもあたる也。能能鍛錬有るべし。

当身とは、敵の脇に入り込んで、体で敵に当たる心である。顔を少し傾け、左の肩を出して敵の胸に当たる。当たるときにはできる限り強く当て、すれ違う拍子で弾むように入る。良く鍛錬すれば、敵が二間か三間吹き飛ぶほど強くなるものである。敵が死ぬほどに当たる。良く鍛錬すること。

火の巻

三つの先といふ事

三つの先、一つは我方より敵へかかる先、けんの先といふ也。亦一つは敵より我方へかかる時の先、是はたいの先といふ也。亦一つは我もかかり、敵もかかりあふ時の先、躰々の先といふ。いづれの戦初めにも、此三つの先より他はなし。先の次第を以て、はや勝つことを得る物なれば、先といふ事、兵法の第一也。此先の仔細様々ありといへども、其時の理を先とし、敵の心を見、我兵法の知恵を以って勝つ事なれば、こまやかに書きわくる事にあらず。第一、懸の先、我かからんとおもふとき、静かにして居り、俄かに早くかかる先、うへをつよくはやくし、底を残す心の先、又我心をいかにもつよくして、足は常の足に少しはやく、敵のわきへよるとはやくもみたつる先、亦心をはなつて、初中後、同じ事に敵をひしぐ心にて、底迄つよき心に勝つ、是いづれも懸の先也。第二、待の先、敵我方へかかりくる時、少しもかまはず、よわきやうに見せて、敵ちかくなつて、づんとつよくはなれて、飛付くやうに見せて、敵のたるみを見て、直につよく勝つ事、是一つの先、又敵かかりくる時、我も猶つよくなつて出る時、敵のかかる拍子のかはる間をうけ、其儘勝を得る事、是待の先の理也。第三、躰々の先、敵はやくかかるには、我静かにつよくかかり、敵近くなって、づんと思ひきる身にして、敵のゆとりのみゆる時、直につよく勝つ、又敵静かにかかる時、我身うきやかに、少しはやくかかりて、敵ちかくなりて、ひともみもみ、敵の色に随い、つよく勝つ事、是躰々の先也。此儀濃やかに書分けがたし。此書付をもつて、大形工夫有るべし。此三つの先、時にしたがひ理に随ひ、いつにても、我方よりかかる事にはあらざるものなれども、同じくは我方よりかかりて、敵をまはし度き事也。いづれも先の事、兵法の智力を以て、必ず勝つ事を得る心、能々鍛錬あるべし。

三つの先がある。一つは自分から先に敵にかかる先、これを懸の先という。また一つは敵から先に打ちかかってくるときの先、これは待の先という。もう一つは自分もかかり、敵もかかってきたときの先のことで、これを躰々の先という。どのような戦いの始まりにおいてもこの三つの先以外にはない。先の取り方次第で早々に勝ちを得ることができるため、先は兵法の第一である。この先を細かく説明すれば色々とあるが、その時の理に合った先を取り、敵の心を知り、兵法の知恵によって勝つのであるから、細かく書くことはできない。其の一、懸の先、これは自分からかかろうとするとき、静かな状態から突然素速くかかる先であり、体を強く速くし、心を残す先である。また、心を充分強く持ち、足は普段より少し速く、敵に接近するやいなや素速く攻め立てる先、また、心を無にして初めから終わりまで一貫して敵を圧倒する気迫をもち、徹底した強い心で勝つ。これらはいずれも懸の先である。其の二、待の先、敵がかかってくるとき、それにかまわず、弱いように見せて、敵が接近したところで大きく飛び離れ、敵の拍子が狂った瞬間に強く出て勝ちを得る。これが一つの先である。また、敵がかかるとき、自分も強く出て、敵の気勢が変化する瞬間を捉えてそのまま勝ちを得ること、これが待の先の理である。其の三、躰々の先、敵が速くかかってくるのに対し、自分は静かに強くかかり、敵が接近したら思いきる身になって、敵に余裕が見えた瞬間、強く出て勝つ。また、敵が静かにかかるとき、自分は体を浮き気味にして少し速くかかり、敵が近くなったら一度揉み合い、敵の気勢の変化に従って強く出て勝つ。これが躰々の先である。これらは細かく書くことはできないため、ここに書いた内容をもとに自分で工夫すること。此の三つの先は時と理に従うものであり、常に自分から先にかかるわけではないが、できるなら自分からかかって敵を操るようにしたいものである。いずれにしても先というのは兵法の智力を持って必ず勝ちを得ることである。良く鍛錬するべし。

枕をおさゆるといふ事

枕をおさゆるとはかしらをあげさせずといふ心也。兵法勝負の道に限って、人に我身をまわされてあとにつく事悪しし。いかにもして敵を自由にまわし度き事也。然るによって、敵もさやうに思ひ、我も其心あれども、人のすることをうけがわずしては叶いがたし。兵法に、敵の打つところをとめ、つくところをおさへ、くむところをもぎはなしなどする事也。枕をおさゆるといふは、我実の道を得て敵にかかりあふ時、敵何事にてもおもふ気ざしを、敵のせぬうちに見知りて、敵のうつといふうつのうの字のかしらをおさへて、後をさせざる心、この枕をおさゆる心也。たとへば、敵のかかるといふかの字をおさへ、とぶといふとの字のかしらをおさへ、きるといふきの字のかしらをおさゆる、みなもつておなじ心也。敵我にわざをなす心につけて、役に立たざることをば敵にまかせ、役に立つほどの事をばおさへて、敵にさせぬやうにする所、兵法の専也。是も敵のする事を、おさへんおさへんとする心、後手也。先づ我は何事にても道にまかせてわざをなすうちに、敵もわざをせんとおもふかしらをおさへて、何事も役に立たせず、敵をこなすところ、是兵法の達者、鍛錬の故也。枕をおさゆる事、能能吟味有るべし。

枕を押さえるというのは、敵に頭を上げさせないということである。兵法の道では人に振り回されて後手に回るのは悪く、どんなことをしても敵を自由に操りたいものだ。だから敵もそう思い、自分もそう考えるのだが、相手のする事を察知しなければできるものではない。兵法に、敵の打つところを止め、突くところを押さえ、組んできたのをもぎ離すということが有る。枕を押さえるというのは、本当の武道を会得して敵に向かうとき、敵がどのようなことを考えても、敵がする前に察知し、敵の打つといううの時のかしらを押さえて、後をさせないようにする、これがすなわち枕を押さえるということである。例えば、敵のかかるというかの字を押さえ、跳ぶというとの字のかしらを押さえ、切るというきの字のかしらを押さえる。全て同じ心である。敵が技を出そうとしたのに対し、役に立たない技はそのままに、有効な技を押さえて敵にさせないようにすることが、兵法にとって重要である。但し、敵のする事を押さえよう押さえようと考えるのは後手である。兵法の道にまかせて技を出すうちに、敵が技を出そうとしたかしらを押さえて、何事も役に立たないようにして自由に敵を操ることが、兵法の熟達者であり、鍛錬の賜物である。枕を押さえるということを良く吟味すること。

けんをふむといふ事

剣をふむという心は、兵法に専ら用いる儀也。先ず大きなる兵法にしては、弓鉄砲においても、敵我方へうちかけ、何事にてもしかくるとき、敵の弓鉄砲にてもはなしかけて、其のあとにかかるによつて、又弓をつがい、亦鉄砲にくすりこみて、かかりこむ時、こみ入りがたし。弓鉄砲にても、敵のはなつ内に、はやかかる心也。はやくかかれば、矢もつがいがたし。鉄砲もうち得ざる心也。物毎を敵のしかくると、其儘其理を受けて、敵のする事を踏みつけて勝つ心也。亦一分の兵法も、敵の打ち出す太刀のあとへうてば、とたんとたんとなりて、はかゆかざる所也。敵の打ち出す太刀は、足にてふみ付くる心にして、打出す所をかち、二度目の敵の打得ざるやうにすべし。踏むといふは、足には限るべからず。身にても踏み、勿論太刀にてもふみ付けて、二のめを敵によくさせざるやうに心得べし。是即ち物毎の先の心也。敵と一度にといひて、ゆきあたる心にてはなし、其儘あとに付く心也。能能吟味有るべし。

剣を踏むという心は、専ら兵法に用いられる。合戦において、敵が我方へ弓や鉄砲を打ちかけたとき、そのあとに攻撃をしようと、弓に矢をつがえ、鉄砲に火薬を入れていたのでは攻撃などできるものではない。弓や鉄砲でも敵が打つあいだに素速く攻撃をすることが大切で、速くかかれば適は弓に矢をつがえることもできず、鉄砲も撃つことができないものである。敵が仕掛けてきたのに対し、そのまま乗じて敵の攻撃を踏みつけて勝つのである。また、一対一の兵法でも敵が打ち出した後に打てば、どたどたとなって進捗が思わしくなくなる。敵が打ち出す太刀は足で踏みつけるような気持ちで、打ち出すところを打ち、次の攻撃ができないようにすること。踏むというのは足に限ったことではなく、体でも踏み、勿論太刀でも踏みつけて、二度目の攻撃がうまくできないように心得る。これが即ち物事の先をとるということである。敵の攻撃と同時と言っても、突き当たることではなく、そのまま取り付くようにすることである。良く吟味すべし。

くづれを知るといふこと

崩れといふ事は、物事ある物也。其家の崩るる、身の崩るる、敵の崩るる事も、時のあたりて、拍子ちがいになりて崩るる所也。大分の兵法にしても、敵のくづるる拍子を得て、其間をぬかさぬやうに追ひたつる事肝要也。くづるる所のいきをぬかしては、たてかへす所有るべし。又一分の兵法にも、戦ふ内に、敵の拍子ちがひてくづれめのつくもの也。其ほどを油断すれば、又たちかへり、新敷なりて、はかゆかざる所也。其くづれめにつき、敵のかほたてなほさざるやうに、慥に追ひかくる所肝要也。追懸くるは直につよき心也。敵たてかへさざるやうに打ちはなす物也。打ちはなすといふ事、能能分別有るべし。はなれざればしだるき心有り。工夫すべきもの也。

崩れるということは何事にも存在する。家が崩れる、身が崩れる、また、敵が崩れるのも、その時がきて拍子違いになって崩れるのである。合戦においても、敵が崩れるタイミングを掴み、間をおかずに追撃することが肝心である。崩れたとき敵に息をつく間を与えると、体勢を立て直してしまう。一対一の戦いにおいても、戦っている間に敵が拍子を違え、崩れが出るものである。そのとき油断していれば、敵は新たに体勢を立て直し、埒が明かなくなる。敵の崩れに乗じて、立て直すことができないよう、確実に追撃することが肝心である。追撃はしっかりと強く、敵が立ち直れないように打ちはなす。この打ちはなすということを良くわきまえること。はなれなければやり辛い状況になる。工夫すべきである。

敵になるといふ事

敵になるといふは、我身を敵になり替へて思ふべきといふ所也。世の中をみるに、ぬすみなどして家の中に取籠もるやうなるものをも、敵をつよく思ひなすもの也。敵になりておもへば、世中の人を皆相手とし、にげこみて、せんかたなき心也。取籠もるものは雉子也。討果たしに入る人は鷹也。能能工夫あるべし。大きなる兵法にしても、敵をいへば、つよく思ひて、大事にかくるもの也。よき人数を持ち、兵法の道理を能く知り、敵に勝つといふ所をよくうけては、気遣すべき道にあらず。一分の兵法も、敵になりて思ふべし。兵法よく心得て、道理つよく、其道に達者なるものにあいては、必ずまくると思ふ所也。能能吟味すべし。

敵になるというのは、敵の立場に立って考えるということである。世間では、盗みをして家に立てこもるような者を強いと考えてしまうが、敵の立場で考えると、世間の人を全て相手にし、逃げ込んで、どうすることもできない状況である。立てこもるものは雉子であり、討ち取る者は鷹である。良く工夫すべし。合戦においても、敵を強いと考えるため消極的になってしまう。充分な人数を有し、兵法の道理をよくわきまえ、敵に勝つ方法を心得ているならば心配はいらない。一対一の戦いでも敵になって考えることが大切だ。兵法を良く心得て、道理をわきまえ、武道に熟達しているものに対しては、必ず負けると考えてしまうものである。良く吟味すべし

うつらかすといふ事

移らかすといふは物毎にあるもの也。或はねむりなどもうつり、或はあくびなどのうつるもの也。時のうつるもあり。大分の兵法にして、敵うわきにして、ことをいそぐ心のみゆる時は、少しもそれにかまはざるやうにして、いかにもゆるりとなりてみすれば、敵も我事に受けて、気ざしたるむ物也。其うつりたるとおもふ時、我方より空の心にして、はやくつよくしかけて、かつ利を得るもの也。一分の兵法にしても、我身も心もゆるりとして、敵のたるみの間をうけて、つよくはやく先にしかけて勝つ所専也。亦よはするといひて、是に似たる事あり。一つはたいくつの心、一つはうかつく心、一つはよはく成る心、能能工夫あるべし。

移らかすというのは何事にもあるものだ。眠りやあくびなども移るものである。時が移るということもある。合戦において敵の気が逸り、事を急ぐ心が見えたとき、全くそれに構わないように装い、いかにもゆったりと構えていれば、敵もその影響を受け気勢が緩むものである。敵に移ったと感じたその時に、無心にして速く強い攻撃を仕掛け、勝利を得るのである。一対一の戦いにおいても、自分の体と心をゆったりとさせる事で敵が弛んだ瞬間を捉えて、先に強く速く仕掛けて勝つことが大切である。また、酔わせるといって、これに似たものがある。例えば退屈な気持ちや、落ち着かない気持ち、あるいは弱気になることである。良く工夫するべし。

むかつかするといふ事

むかつかするといふは、物毎にあり。一つにはきわどき心、二つにはむりなる心、三つには思はざる心、能く吟味あるべし。大分のひょうほうにして、むかつかする事肝要也。敵の思はざる所へ、いきどうふしくしかけて、敵の心のきわまらざる内に、我利を以て先をしかけて勝つ事肝要也。亦一分の兵法にしても、初めゆるりと見せて、俄につよくかかり、敵の心のめりかり、働に随ひ、いきをぬかさず、其儘利を受けて、かちをわきまゆる事肝要也。能能吟味あるべし。

心の平静を失うということはどんなことにもあるものだ。一つは危険な状態、二つ目は無理な状態、三つ目は予期せぬ状態である。良く研究すること。合戦でも平静を失わせる事が肝心である。敵が予期せぬところへ猛烈に攻撃を仕掛け、敵が戦法を決めないうちに、自分の理合いによって先手を仕掛けて勝つことが肝心である。また、一対一の戦いでも、初めはゆっくりしているように思わせ、急に強くかかり、敵の動揺に乗じて息をつかせず、そのまま自分のペースで勝ちを得ることが肝心である。良く吟味すべし。

おびやかすといふ事

おびゆるといふ事、物毎にある事也。思ひもよらぬことにおびゆる心也。大分の兵法にしても、敵をおびやかす事、眼前の事にあらず。或は物の声にてもおびやかし、或は大を小にしておびやかし、亦かたわきより不斗おびやかす事、是おびゆる所也。其おびゆる拍子を得て、其利を以て勝つべし。一分の兵法にしても、身を以ておびやかし、太刀を以ておびやかし、声を以ておびやかし、敵の心になき事、与風しかけて、おびゆる所の利を受けて、其儘かちを得る事肝要也。能能吟味あるべし。

怯えるという事は何事にもあり、思いもよらないことで怯えてしまう。合戦において敵を怯えさせるというのは、目の前のことだけではなく、声や音によって怯えさせ、或いは大きいものを小さく見せ、また、脇から突然仕掛けることで怯えるものである。そのように敵が怯えた状況を捉えて勝つこと。一対一の戦いでも、身(動作)によって脅かし、太刀を使って脅かし、声によって脅かし、敵が予想していないことを不意に仕掛け、怯えたところに乗じてそのまま勝ちを得ることが重要である。良く吟味するべし。

かどにさわるといふ事

角にさわるといふは、物毎つよき物を押すに、其儘直にはおしこみがたきもの也。大分の兵法にしても、敵の人数を見て、はり出つよき所のかどにあたりて、其利を得べし。かどのめるに随ひ、惣もみなめる心あり。其める内にも、かどかどに心得て、勝利を受くる事肝要也。一分の兵法にしても、敵の躰のかどにいたみをつけ、其躰少しもよはくなり、くずるる躰になりては、勝つことやすき物也。此事能能吟味して、勝つ所をわきまゆる事専也。

角にさわるというのは、強いものを押すときに、そのまま真直ぐに押すことは難しいものである。合戦においても、敵の人数が多く集中しているところを角から攻撃することで、有利に展開するものである。角が減るにしたがって、全体も気勢が衰える。そのような状態でも常に角を攻撃するようにして、勝利することが肝心である。一対一の戦いにおいても、敵の体の角に痛みをつけることで、体が弱り、崩れが出てくれば勝つのは容易である。このことを良く吟味し、勝つ方法を身につけることが大切である。