日本古武術(柔術・兵術)は現在月一回の講習会で指導しています。また、各クラスでも応用練習の一部として柔術技法を取り入れた指導をしています。

大和道

日本古武道には、逆手(関節技)、逆投げ、絞め技などの他に、当身技や、挫、杖、棒などの武器法が伝わっています。故佐藤金兵衛(柔心斎)先生は幼少の頃より古武道を修練し、武田流合気之術(44世)、一天柳心流冑介術(2世)、柳生心眼流兵術(やわら彦古伝)、大東流合気柔術(山本角義伝)、荒木新流柔術、浅山一伝流柔術、九鬼神流棒術等数多くの免許皆伝を受けた後、実戦で有効な技のみを抜粋して大和道(たいわどう)を創始されました。


柳生心眼流兵術

柳生心眼流は他流の柔術と面目を異にし、白兵組討、野戦の実用の法であり、殺気満々として見敵必殺、敵を圧倒震駭し去る猛烈な気魄が特徴です。 このような勇壮活発な流儀は他にその比を見ないものであり、往時の勇者の野戦往来を 今に伝えています。
素振り三年刃の如し、と云われる振り打ちは年を経るに従って妙味を増し、一打ちで敵の腕も砕くことが出来るほどといわれています。
柳生心眼流は竹永隼人(十八世紀頃の人)からはじまるといわれています。竹永隼人 は仙台の生まれで、いろいろな流儀を学んだ後に江戸に上り、柳生但馬守のところで内門 人として働きながら三年修業して帰国し、自らの工夫を加えて柳生心眼流と号して有志に教えました。
鈴木専作先生から佐藤先生に伝えられた心眼流は、その系統をひく星貞 吉(1821~1898)の流れを組んでいます。星貞吉は宮城県栗原郡新田村に生ま れ、若くして郷里の佐竹勇三郎や佐沼の相沢道場で学んだ後、各地方を訪れて研究し、出羽の処士加藤権蔵に学んで心眼流の宗を得たといいます。いろいろと修業し研究を加え、 心眼流の基礎を大成させ、多くの門人を養成し、心眼流中興の祖と仰がれています。
佐藤金兵衛先生の系譜では、星貞吉義盛以降弟子に柳生心眼流の名を与える伝統が継承されており 「星貞吉 義盛 ⇒高橋彦吉 政治⇒鈴木兵吉 武盛⇒鈴木専作 猛盛⇒佐藤金兵衛 清明」 と伝承され、当会代表の石井敏は佐藤先生より奥伝の巻物を頂いた際、巖盛という名を与えられています。

               写真は柳生心眼流を演武する佐藤金兵衛先生(左)

    

 柳生心眼流兵術

浅山一伝流

浅山一伝流は浅山三五郎一伝が諸流を学び、当身と逆手を専らとして創始したといわれています。会津藩のお留流だったともいわれ、会津藩に伝わった大東流合気柔術に一伝流と同じ形が多く見うけられます。
佐藤先生は浅山一伝流十六代上野貴先生に習い、昭和二十九年十二月に十七代の継承状を伝授されています。逆手柔術のほか、挫(ひしぎ)術という一尺二寸と八寸の木の短棒を用いて逆手を取る珍しい武器法が伝わっています。

挫(ひしぎ)術

大東流柔術(山本角義伝)

武田惣角先生による 大東流柔術は、甲斐源氏武田家の祖、新羅三郎義光を術の始祖としています。伝書や技法の内容から見ると、古くからの柔術技に武田惣角先生が自ら会得した技法を加えて大成したもののようです。
武田惣角先生の死水を青森の伊東方でとったのが、最後の弟子、山本角義先生です。山本先生は本名を留吉といい、武田惣角源正義の角と義の二字を惣角先生から頂いて角義と名のりました。


合気道

合気道開祖
植芝盛平先生
昭和二十九年に植芝先生より
佐藤金兵衛先生に伝えられた合気道
平成三年に当会代表(石井)に伝えられた