心意六合拳、形意拳はひとつの技を反復練習する練習法が主であり、それぞれの技を組み合わせた型(套路)が副であるという点で、他の武術と趣を異にしています。
接近戦を得意とし、徹底的に一撃の威力を鍛えるため、実戦性に優れ、特に心意六合拳は“喧嘩拳法”と呼ばれるほど好戦的な風格をもつ武術として知られています。
多くの中国武術が形骸化し実戦性を失いつつある現代において、心意六合拳は中国明末の創拳当時からほとんど変わらず、単純、素朴で荒々しい姿を残している大変貴重な武術です。

心意六合拳は、明代末期の武術家 姫際可(姫隆峰)によって槍の術理を拳術に創始され、主に中国河南省の回族の間で伝承されました。
十大形(龍、虎、猴、馬、鶏、鷂、燕、蛇、鷹、熊)と称される十種類の動物を模した単式拳と、四把捶などの套路、硬気功の一種である排打功、心意六合刀、心意六合双手剣、心意六合槍、心意六合棍、長梢子、二節棍、大鎌、小鎌等の武器術から構成されています。
単純な形の反復練習を通して心・意・気・力の四つの要素を一致させ、攻撃の爆発力を養う鍛錬法に特徴があり、括地風という脛から膝への短く激しい蹴りを多用する、中国武術の中でも最も激しく実戦的な流派といわれています。



形意拳  Xinyiquan (練習日:土曜AM11:00~)

形意拳は清朝末期、心意拳家戴龍邦から戴氏心意拳(心意六合拳)を学んだ李洛能によって創始されました。
五行拳という陰陽五行説に基づく五種類の単式拳と、十二形拳とよばれる十二種の動物(龍、虎、猴、馬、黽、鶏、鷂、燕、蛇、鳥台、鷹、熊)の形と意を表した象形拳を基本としています。
型はシンプルで、一見容易に習得できそうに見えますが、単純な中にも多くの要求があり、数ある中国武術の中でも特に難易度の高い武術と言われています。
形意拳には五行連環拳、八式拳、雑式捶、十二横捶などの套路(型)があり、また、五花砲、五行生克、安身砲等の対練(約束組み手)の型と、形意棍、形意十三槍(大槍)、形意連環剣、形意連環刀、等の武器法があります。


   

形意拳、心意六合拳の歴史

明代末期の武術家 姫際可(姫隆峰)は、「神槍」と称される優れた槍の名手で、槍法の理合を拳術に応用し心意拳を創始した。
姫際可には嵩山少林寺における教授の伝承があり、これが今に伝わる少林心意把(心意十二勢)と考えられている(心意とは仏教教典「倶舎論」の心意識体が語源と言われる)。
心意拳(心意六合拳)はまた、陳氏太極拳発祥の地である陳家溝にその拳譜が伝わり、太極拳の誕生にも大きな影響を与えている。

姫際可の創始した拳は陝西省洛陽の官僚であった曹継武に伝わり、曹継武から河南省出身で回族の馬学礼と山西省祁県出身で漢族の戴龍邦に伝えられ、心意拳は山西派(戴氏六合心意拳)と河南派(馬氏心意六合拳)に分派した。
さらに清朝末期、戴龍邦(郭維漢の説もある)から戴氏心意拳を学んだ李洛能(1806-1890)によって、形意拳が創始されている。

河北省深県出身の李洛能は、その超絶的な技量から神拳李と賞された。李は幼少から武術を好み、戴氏心意拳を修練し心意拳の全伝を授けられ、その後、独自の工夫を加え河北省深県に帰った後に拳名を形意拳と改めた。
李洛能は心意拳を身につけた後、1856年頃より山西省大谷県で孟 如家の保?(ひょう)警備の職に就いた。
李洛能は広く門戸を開いて教授したため、形意門からはその後短期間のうちに極めて多く歴史に名を残す門人を輩出し、1900年代半ばには源流である心意拳を凌いで中国の名拳のひとつに名を連ねるようになった。
車永宏(毅斉)、宋世栄、劉奇蘭、郭雲深など優れた弟子を育成した。
現在形意拳は河北派、山西派に大別され、車毅斉、宋世栄等によって伝えられたものを山西派、劉奇蘭、郭雲深等の伝えたものを河北派と呼ぶ。

写真前列右 郭雲深 左 車毅斉   

形意拳・心意六合拳の伝承者

 
車毅斉
宋世栄
宋鉄麟
 
李存義
張占魁
王郷斎
河南派 龍形横
廬嵩高先師
河北派形意拳 鑽拳
王樹金老師
裴錫栄先生

郭雲深の門からは李魁元、錢硯堂、孫禄堂、尚雲祥、王郷斎、また、劉奇蘭の門からは、李存義、張占魁等、形意門からは近代中国武術史に名を残す名手が数多く輩出されている。
張占魁と王郷斎両師の教えを受けた王樹金は、戦後台湾から来日し、日本において初めて形意拳・八卦掌・太極拳の本格的な教授を行った。
全日本中国拳法連盟の佐藤金兵衛先生は王樹金老師来日から約7年に渡り個人教授を受け、まだ中国武術がほとんど知られていなかった当時の日本に、形意拳・八卦掌・太極拳を紹介した。また、その後も上海心意六合門の盧嵩高の教えを伝える裴錫栄老師と親交を持ち、八卦掌、太極拳と併せ、形意拳、心意六合拳の研究にも力を注いだ。


河南派形意拳
佐藤金兵衛先生

心意六合拳 李尊思老師


買金魁 師爺
心意六合拳・査拳 
李尊思老師
 

李尊思老師(1918~2014)
 全国著名武術家一代宗師
 華南査拳第五代伝人
 心意六合拳第七代伝人
 米国国際武術連盟総会顧問
 

1918年河南沈丘の回族の家庭に生まれる。十歳から少林拳を学び、十三歳のときに少林寺に入ったが、回族(イスラム教)であるため出家はせず不入山門弟子としてその後三年間修行した。下山後、袁世凱の貼身保?を勤めた河南査拳大師馬忠啓から十路弾腿、二十路査拳(正十路、反十路)、及び十八般の兵器を学び、武漢において心意拳家買金魁から心意六合拳を学んだ。

1944年李老師27歳の時日本において東アジアの武道大会が開催され、中国からは諸民宜を団長に、■名家の宗振甫、査拳名家の海澡相(馬忠啓の弟子であり、李老師の兄弟子にあたる)、万長勝(山東馬金標の弟子)、及び李尊思老師らが団員として参加した。李老師はこのとき心意四把、二節棍、査拳大鎌子を表演し表彰されたが、これを快く思わなかった日本の剣道家の挑戦を受け、剣道家は日本刀、李老師は棍を持って試合をすることとなった。李老師は、もし自分が敗れたら亡骸を中国に持ち帰ってくれるよう団長に依頼して試合に臨んだ。

試合が始まり、剣道家は真剣を構え殺気を漲らせて切り込む機会を窺っていた。それに対し死を覚悟した李老師はもはや動じることはなく、隙あらば直ちに心意六合棍の絶技で敵を制する気迫を込め、棍を正面に構えて冷静に応じた。真剣と棍の対戦では明らかに真剣に利があったが、剣道家は李老師の冷静且つ鋭い眼光に押され攻め込むことができなかった。
心意拳譜には「勢正者不上」(姿勢の正しい者は攻めることができない)とある。攻め込むために敵の姿勢を乱すことは必須であり、敵が僅かに崩れた瞬間確実に攻撃をしなければいけない。拳譜に曰く「能思一思進、莫叫一思存」(躊躇するな思えば直ちに攻めよ)。
李老師は歩を進めると同時に棍の先を敵の顔面に突き込みフェイントをかけた。剣道家は素早く身をかわし棍を一刀両断しようと刀を振り下ろしたが、李老師がすぐに棍を手元に引き込んだため敵の刀は空を切った。李老師はそのまま歩を左前方に進め、“ ■”(イェッ!)という雷声と共に棍を返し敵の刀を撃ち上げた。刀は敵の手を離れて飛び、剣道家は李老師の強大な発力に驚き数歩後ずさりした。
拳譜に曰く「起如風、落如箭、追風赶月不放松」(風の如く起ち矢の如く攻める。風は月を追って放れない)。
李老師はさらに進み、棍を敵の喉元に突き込んで止めたところで勝負は終わった。剣道家はこの結果に承服できず再度立ち会ったが、二度目も同じ結果に終わった。

天龍武術会の心意六合拳・形意拳

心意六合拳(河南派形意拳)

天龍武術会では、廬嵩嵩先師から裴錫栄先生 、杜進先生へ伝えられた河南派形意拳、また、買金魁先師に心意六合拳を学んだ李尊思先生から伝えられた心意六合拳を指導しています。

河北派形意拳

天龍武術会で指導する河北派形意拳は、王樹金先生から佐藤金兵衛先生に伝えられたものです。  王樹金先生は張占魁先師の閉門弟子であり、張占魁先師が亡くなられてからは意拳の王向斉先生について修業しました。 佐藤金兵衛先生は、昭和三十三年に王樹金先生が来日されてから、あしかけ八年間、先生から 直接指導を受けました。

山西派形意拳

天龍武術会で指導する山西派形意拳は、形意拳史上屈指の名人とうたわれた宋世栄の系統であり、宋世栄の甥である宋鉄麟の皆伝を受けた徐文忠先生が馮正宝先生に伝えたものです。


山西派形意拳(石井敏)
台湾武術誌「力与美」より