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◆ 佐藤金兵衛先生の護身術 ◆

全日本中国拳法連盟の故佐藤金兵衛先生は、東北大学医学生の時代に法医学の研究をされていた。現在護身というと、女性が暴漢から身を守るための攻撃法といったイメージが強いが、昭和五十年代初期に、先生が連盟内で会員用として発行した、「太極拳入門〔近代的護身法と太極拳の秘術〕」と題するテキストには、当時の様々な犯罪、事件を例に、犯罪や災害の犠牲となることから身を守るための、普段の生活における護身心得が詳細に書かれている。
この中で先生は、これまで護身術として普及している技術には、修行に長年月を要するものが多く、殺意を持って襲ってきた暴漢を防ぐのは困難であると批判し、防犯から防災に至るまでの心構えを繰り返し強調されている。これは昔の武士が自己の生活を律していた心得に通じるものがあり、日本古来の武道を伝承する先生ならではの考察は、大変興味深いので、以下に一部を紹介したい。


急所

急所の解説「金的」の部分には、女性が暴漢に襲われたときを想定し、次のように書かれている。
・・・金的:男性の急所で睾丸のことです。拳で突いたり蹴ったりします。またの間を上に蹴り上げますとうまくあたります。接近した場合に一番有効なのは、手で強く握り締めて離さないことです。どんな暴漢でも痛みのために失神することウケアイです。前から抱きしめられても、首を絞められそうになっても、握り締めるチャンスはいくらでもあります。押し倒されて犯されそうになってからでも、必ずあわてないで、力いっぱい握り締めて、悪の根源を砕き潰してください。あなたは身を守ることができます。そのような暴漢は、放置しておきますと何回でも繰り返します。全女性の敵と思って、二度とそのような振る舞いに出られないように、睾丸を潰してしまいましょう。

・・・いついかなる場合でも、臨機応変、落ち着いて状況を判断し、ただちに有効な対抗方法を取るべきです。単なる強盗ならば、命までとることはないでしょう。金銭ですむなら、幾分か与えてやればよい。しかし痴情や怨恨などで、はじめから傷害や殺人を目的としてきた場合は、必死になって抵抗し、そのために暴漢を死に至らしめても法の許すところです。 暴漢などに襲われたときには、いうことを聞くふりをして、人通りの多いところまで誘い出すのもひとつの方法です。またその手にのらないときは、やはり従うと見せかけてスキをみて強力な一撃を与えると成功するものです。決して最後まであきらめるな!!必ず助かるチャンスはある!!・・・


護身の心得

昔江戸町奉行の同心で、中山某という武芸の達人がいました。この人の奥さんもなかなかに胆力の座った人でした。家来を連れて旅行をしていたとき、さびしい山の中で、山賊に襲われましたが、彼女は髪を振り乱して、ゲラゲラと笑いながら近寄りました。族は気ちがいと思って、怖気づいて逃げ去ってしまいました。


柳生心眼流小山左門

柳生心眼流の名人、小山左門は江戸時代の人で、奥州柳生(宮城県柳生町)の住人でした。壮年の頃は江戸に勤番して勇名をはせましたが、晩年は竿を担いで魚を釣るのを楽しみにしていました。ある夕方、竿を肩にしてくると、草相撲の大関をはった大力の男が、後ろから力いっぱい組み付いてきました。さすがの小山左門もちょっとはずせない。痛めるのも気の毒と思って「おい、お前の力はそれだけか」と言うと、男は「なにおッ」と、もっと力を入れようとかかえをなおそうとしました。その瞬間パッとはずして、肩を越して前に投げつけました。これなども、もっと強く抱えようと力を入れる前に、ちょっと力が抜けるのを利用した臨機応変の機智でしょう。


塚原卜伝の無手勝流

塚原卜伝が武者修行の途中、近江(滋賀県)の琵琶湖で渡舟に乗りました。同じ船の中に武者修行者で豪傑らしい武士がいて、さかんに腕自慢をしていましたが、卜伝のおとなしいのを見て、からかい始め、しまいに卜伝と試合をしたいと言いだしました。そのとき卜伝は、「狭い舟の中では乗り合いの客に迷惑をかけるから、向こうに見える中州の上で立ち会いましょう」と言って、船頭に舟をつけさせました。豪傑は舟が中州に近づきますと、ヒラリと舟から飛び移って、さぁ来いとばかり身構えています。卜伝は船頭からさおを借りると、舟を中州から離して沖をさして漕ぎ出しました。悔しがってどなる豪傑を、中州におきざりにしたのです。これが有名な卜伝の無手勝流という話です。塚原卜伝は真の武人といえましょう。卜伝の高弟が暴れ馬の後ろをうっかり通りかかって、危うく蹴られようとしたとき、燕のように身をひるがえしてよけ、見ている人を感嘆させました。ところが卜伝はそういう馬の後ろを通るときは静かによけて通ったといいます。・・・

◆ 佐藤金兵衛先生と武道 ◆

また、同書には先人の逸話を引用し、真の武道は、生死を越えた悟りの境地に至るものであるとして、以下のように書かれている。


狭川新陰流狭川弥門

・・・昔仙台の狭川新陰流の名人、狭川弥門の道場に、仙台で手広く商売をしている商人が入門を願い出ました。弥門は早速道場に通して木刀を手にし、この商人に打ちかかって、道場をグルグルと追い回し、一時間近くも痛めつけました。毎日毎日繰り返して追い回し剣術は少しも教えません。一ヶ月もたったので商人は心の中に大いに不満を持って、どうぞ剣術を教えてください、と頼みました。すると弥門は、「商人は剣術を習っても利益にはならん。もし危険にであったら早く逃げるにこしたことはない。それで逃げ方を教えたのである。武士というものは、決して逃げることはできないし、いつでも死を覚悟して事に当たらなければならない。商人とは全く心構えが違うものである。この覚悟がなければ武術を修行しても上達することはできない。」と、答えました。商人は非常に感服して、礼を厚くして帰ったといわれます。


勝負の心得

尾張(愛知県)の武士に星野勘左衛門という豪傑がいました。あるとき家老のところへ行ったところが、家老が角力好きで、丁度角力取りが来ていました。この角力取りは五百石積みの船のいかりを片手で振り回すほどの大力でした。家老が勘左衛門に、「この角力取りと試合してみよ」と言いました。勘左衛門は何回も辞退したが聞き入れられませんので、やむを得ず立ち会うことになりました。角力取りは裸になって出てきたが、勘左衛門は袴のもも立ちをとって、刀をさしたままです。行司がこれを見て、「角力をとるのに刀をさすのはないでしょう。」と咎めますと、「私は武士であって、角力取りではない。家老の望みで試合をするので、武士は両刀を腰にするのが作法です。」と言いました。角力取りがつかみかかると、勘左衛門は抜き討ちに角力取りを袈裟切に切り殺してしまいました。まわりにいた人達が驚いて騒ぎますと、勘左衛門はゆっくりと刀を鞘に納め、家老の前に進み出て、「武士が勝負を争うことは、このようなものであると存じています。」と言って、一礼して帰ってしまった。家老は心の中で非常に怒ったが、どうにもしようがないのでそのままにしてしまった。その場に居合わせた人には、「星野勘左衛門の振る舞いは、武士としてもっともなことである。角力取りと武士が試合をするなどは、すじちがいのことで、家老の誤りである。」と言ったそうです。


兵法の極意

徳川将軍指南役の柳生宗矩のところに、入門を願い出たものがありました。宗矩はこの武士をひと目見て、「貴殿は一流に達した達人と見えるが、何故に入門を希望するか。」とたずねますと、「私は一度も武芸を修行したことがありません。」「さては余を試しに来たのか、将軍家の指南役をする余の目を偽ることはできぬぞ。」というと、「私は子供の頃から、武士は命を惜しんではならぬと厳しく言い聞かせられました。いつもこのことを心掛けて、今では死ぬことをなんとも思わないようになりました。このほかに思い当たることはありません。」と答えました。宗矩は非常に感心して、「兵法の極意もその一事である。これまで数人の高弟があったが、極意を許したものはひとりもない。あらためて剣を学ぶ必要はない。」と言って、免許皆伝の巻物を授けたということです。それから宗矩は人に語って、「大剛に兵法なし-死生の悩みを解脱した真人にはもはや武道の必要はない。」と。

武道というのは、古来から武士の間に修行され、血と汗で研究され、伝承されてきたものです。「殺さねば殺される。」 この殺気を持ってまっしぐらに敵の心肝に突入するのが武道であります。一撃たちまち首と胴体が離れ離れになる必死必殺の道が武道です。私が最も尊敬している江戸時代末の名人、平山行蔵先生は、その忠孝真貫流規則に、「敵の撃刺にかまはず、この五体をもって敵の心胸を突て背後に抜けとをる心にて踏み込まざれば、敵の体にとどかざるなり。かくの如く、気勢いっぱいに張り満ちて、日々月々精進して不倦(うまず)、刻苦して不厭(いとわず)、思ひをつみ功を尽す時は、しない太刀を取りて立ち向かうと、自然と敵が後ずさりをし、面(おもて)を引くようになる。如斯(かくのごとし)にならざれば、真実の勝負は中々存じよらざること也。」と述べています。


このようにして生き死に、殺すか殺されるかと真剣になって修行することによって、はじめて大事に望んで生死を明らかにすることができるのです。生にあっては生の道を尽くし、死にあっては死の道を尽くす。まことの人間となるのが武道なのです。
この観点から見まして、現代のわが国に武道の名に値するものがはたしていかほどありましょうか。規則を決めて危険をなくしての斗技は武道ではなくて、単なるスポーツや体育にすぎないのです。


相馬大作

松江藩(鳥取県)の川上伝左衛門という不伝流の剣術の名人が、平山行蔵のところへ他流試合に行きました。行蔵はちょうど外出中でしたので、高弟の下斗米秀之進(有名な相馬大作)が相手に出ました。川上は六尺の長竹刀を用いましたが、秀之進は一尺三寸の短い竹刀でこれに向かいました。互いにしばらくにらみ合いましたが、秀之進の「敵の心臓を突いて背後に抜けとをる」ような気分に押され、川上は思わずじりじりと退き、破れかぶれに打ち込もうとした瞬間、秀之進の猛烈な突きをまともにくらって、羽目板にたたきつけられたと言います。


武道の修行

武道というのは、敵を殺傷する技術から入って、必死三昧に修行して生死の道を明らかにし、独立自在の境地に至ることなのです。敵をして施すところなからしめ(必殺の気)、生々発展する正大の気(健康で長生き)、天地自然従順の生活(神人合一(さとり)の境地)に至るのです。この道は一朝一夕になるものではありません。正しい指導者について、うまずたゆまず、一心になって修行してはじめて到達し得るところなのです。真の武道を修行するならば、わざわざ座禅することも、神仏に頼ることもいらないのです。武道の修行がすでに宗教そのものなのですから。・・・

    「太極拳入門〔近代的護身法と太極拳の秘術〕」より