武術資料 > 天龍的口訣(サイト管理者の武術考)

◆ 意思 ◆

意志には肉体的な次元を遥かに超えた力がある。オリンピックのメンタルトレーニングや、以前話題になったある学習塾でのイメージトレーニングなど解り易い例だが、前者は自分が優勝し、表彰台に上がっているところをイメージし、後者は希望の学校に入学したところをありありとイメージする。また、マーフィーの法則なども、自分の夢を実現させるために直感を即行動に移すことを実行し、夢が現実になったところを細部に渡りできるだけリアルに想像することによって、実際に現象化させていく。
ヨガでは意識を、表層意識、潜在意識、超潜在意識の3段階に分け、呼吸法によって表層意識(日常的に自分と思っている意識)を静め、潜在意識、超潜在意識へとアプローチしていくが、潜在意識に入った段階で、自分のイメージが現象化するようになる。
以前ヨガの修行を続けている時、遠くに新幹線が通り過ぎていくのが見えていたのを、ふとあそこで止まれば良いのにと思ったら次に来た新幹線がまさに“そこ”で停車したことがあった。単純に偶然とは思えず、自分自身それ以後潜在意識の影響を考えるきっかけとなった。
ちなみにヨガの修行では、まず自分のイメージしたことを徹底的に実行していくことから始める。それがたとえ自分にとって不利なことであっても、イメージしたら必ず実行することにより、次第にイメージによって現象が変化していくようになるという。
武道に於いては初期の段階からのメンタルトレーニングを薦めたい。この間興味深いテレビ番組を放送していた。恐怖は自分自身の心が作り出すということを実験によって証明するという内容だったが、イメージ力によって限界を超えることもできれば、逆に限界を作ってしまうのも自分の心ということらしい。
五輪の書にある記述と同じ実験もしていた。地面の上に置かれた二本の棒の上を被験者に歩かせるのだが、目隠しをしている被験者は、地上5~6メートルのところを歩いていると思い込んでいるために、緊張してうまく歩くことができない。自分に限界を作ってしまう心の働きには、外界からの様々な情報や、過去の経験などが大きく影響しているように思う。
ヨガの修行に、“自分自身とはいったい何か”を瞑想するというものがある。・・・自分の名前が自分自身なのか・・・名前がなくても自分は存在する。生まれてから今までの経験が自分自身なのか・・・経験を全て忘れても自分がいなくなってしまうわけではない・・・と、最終的に本当の自分に到達するまで徹底的に瞑想を繰り返す。自分が自分だと思っているもの全ては本質的なものではなく、条件によって移り変わる非常に脆いものであるにもかかわらず、それらがあたかも本質であるかのように錯覚し、執着することによって限界が生まれ、それによって苦しみが生じる。武道においてもこの命題を克服しない限り、限界があるのではないだろうか。


武道もヨガも、道を求めるもの全ては最終的に同じ自己の開放に行き着くようだ。合気道の開祖が“我即宇宙”の境地に達し、相手と対立する気持ちを捨てて和合することで、最高の強さ、究極の武道のあり方を悟ったように。
・・・分け登る麓の道は多けれど、同じ雲井の月を見しかな。・・・(柳生心眼流)
表層意識は外部からの刺激によって常に揺れ動いている。自分の心は自分自身でコントロールすることが難しい。心には常に外界の刺激によって、ああしたい、こうありたいという欲求がわいてくる。普段の生活で自分だと思い込んでいる様々な情報を取り去って、本当の自分自身に到達したときに絶対的な武道の境地が訪れるのではないだろうか。

◆ 武術のパラドクス ◆

武術には二つの大きなパラドクスがある。ひとつは力を出すためには力を入れてはいけないということであり、もうひとつは相手に勝とうと考えると勝つことができないという問題だ。
前者は最近様々な解説書も出ているため、比較的理解し易いが、後者は一概にこの言葉だけで理解することは難しいかもしれない。相手に勝とうとする意識(自我)が隙を作ることになり、あるレベル以上の武術的な上達には限界ができる。但しこれもあるレベル以上の話で、それまでは自我が強い方が勝つ可能性が高いかもしれないが。
敵と対立せずに呼吸をひとつにすること、呼吸を合わせるように心がけて練習する。

◆ 太極拳の常識? ◆

「太極拳は敵の攻撃を受け流す」「彼不動、己不動、彼微動、己先動(敵動かざれば我動かず、敵微かに動けば我先に動く)」太極拳練習者には当たり前の言葉だが、この言葉の解釈には問題がある。一般的には自分が攻撃する前に相手の攻撃を待ち、まず受け流してから反撃すると理解されているようだが、これは両者間にかなりの力の差がない限り難しい。初めから受けようと考えると意識も体勢も待ちの状態になり、いわゆる後手に回る。一度後手に回った意識と体勢を立て直して反撃するのは大変なことだ。
“我先に動く”というのは相手の隙を察知して、隙ができた瞬間に相手より先に攻撃する、すなわち先を取ることであり、先を取って攻撃し、且つ相手に逆らわないことで“敵の攻撃を受け流す”ことが可能になる。
老人が体格の良い相手の攻撃をかわしたと見るや、相手は反対の窓から外に飛ばされてしまった、というような話は拳法の逸話によくあるが、先を取るからこそ可能になる話しである。
宮元武蔵の五輪の書では先の考え方を、先の先、後の先、待の先として説明しているが、どれも全て先であり、常に自分が先を取る意識であれば、敵が攻撃した瞬間に自分の攻撃すべき隙が見える。
このときは「敵の攻撃を受け流す」という状態が実践できるが、決して受けているわけではなく、結果として相手を流して自分が攻撃した、となる。
また、受けようという意識は迷いが生じやすく、相手にコントロールされる危険がある。
五輪の書 火の巻にも「頭をおさへるということ・・・おさへんおさへんと思うは後手なり・・・」とある。
さらに相手の意識の隙(居ついた状態)を知る(あるいはその状態に誘い込む)ことで先の先を取ることを心がける。

◆ 中国武術は使えない? ◆

中国武術(特に太極拳)は実戦で使えるのか?ということは未だに議論されているが、実戦で使えないというのは相手と離れた状態から接近するまでの方法論がないことに原因がある。型の使用法のほとんどは相手と接近してからの技法であり、そこに至るための方法論が説明されていない。これはその過程が技法として説明することの難しい、感覚的なものだからではないだろうか。
中国武術の練習方法は、まず套路(型)を練習し、その後推手や対練(約束組み手)に進むのが一般的であり、相手の攻撃を限定した練習しかしていないため、ランダムな攻撃に対して臨機応変に対処する感覚が身につかない。
止まっている弟子を高々とふっ飛ばし、武術の達人といわれている人が、お粗末な対練を披露しているのを見たことがあるが、技法の鍛錬のみで感覚が鍛えられていない名人も多いのが現状だろう。

       

◆ 意志の鍛錬 ◆

武術の上達には、体と意識の両面を鍛える必要がある。ひたすら型ばかり練習しても意識の鍛錬ができていなければ使う自信がつかないのは当然で、これはパソコンのハードとソフトの関係に似ている。どんなに良いハードがあったとしても、ソフトがなければ使えないのと同様に、型の練習がメインになっている中国武術etcは、意識の鍛錬がなされないため実用にならない。武術を使えるものにするためには、体(ハード)の鍛錬と同レベル(あるいはそれ以上)に意識(ソフト)の鍛錬をする必要がある。
武術のある段階からは上達のためのメソッドに、意識レベルの占める割合が非常に大きくなるように感じる。 ブルースリーは「スパーリングをしない武術家は、水に入らない水泳選手だ」と皮肉っているが、型の練習だけに偏る武術は、自動車教習所のコースだけで練習しているペーパードライバーのようなもので、一般道での様々な危険に対して、瞬時に適切な判断をして運転するための能力を身につけるには、やはり路上に出なければ難しい。

◆ 武術に必要な精神的基礎 ◆

感覚的なトレーニングは、乱暴な考え方をすれば自由組手を徹底的に行なえばいいということになるが、体力的、精神的な制約から套路を応用できるほどの組手をこなすことは、誰にでもできることではない。また、自由組手には次のようなデメリットも考えられる。

◆ 自由組手の問題点 ◆

武術らしい動きができない(できるまでに時間がかかる)。技が使えない。
体格差の影響が大きい。
体格はスピード、感覚、技法などと同じように、武術の要素のひとつであり、他の要素が身についていない段階では体格差の影響が大きい。
上達するための練習意識よりも勝ち負けにこだわってしまう。
武術の感覚をつかむまでに時間がかかり、喧嘩の延長線で終わってしまう場合が多い。
怪我をしやすい。
恐さ痛さに敏感な人は練習できない(恐さ、痛さは徐々に克服する必要がある。いきなり組手を始めるのは、泳げない人を水に突き落とすのと同じ。恐怖心を煽る結果になり、武術を続けられなくなってしまう)
年功序列の意識が邪魔になる:先生や先輩に対して、初めから遠慮して組手を行う場合、あるいは練習相手に痛い思いをさせることを気遣った結果、劣勢になり、負けたような後味の悪さが残る。この場合は遠慮される側にも、本気で打ち込まない相手との練習で強くなった錯覚を持たせてしまう。
これらの問題をなくし、誰でもできる意識の鍛錬はどうすれば良いのか。それにはスパーリングとメンタルトレーニングを含め、必要な要素をひとつずつ効率良く身につけるための練習が必要である。いきなりスパーリングや組み手と言い始めるのは問題があり、特に中国拳法は神秘的な強さをイメージしている人も多いらしく、練習中に痛い、怖いということがあると長続きする人は少ない。
以前武術雑誌の編集長が、神秘的な内容がないと読者の反響が悪い、と残念がっていたのを思い出す。

◆ スパーリングと防具 ◆

スパーリングには防具を付けて行なうものと、防具なしで行なう練習がある。
始めはしっかり防具を付けて練習し、慣れるに従い軽めのプロテクターに変えていく。
防具なしの組み手は、実戦の感覚を身につけるためには必要だが、それだけに偏ることは危険がある。
防具を付けない組み手は、遠慮しないほうが優位に立つ傾向があり、悪い言い方をすれば乱暴なほうが強くなったような錯覚を持つ。大半の人は怪我をさせまいとして本気で攻撃することができず、中途半端な攻撃になる。防具を付けない組み手だけに偏った場合、本気で打ってこない相手と戦って、使えると考えてしまうという危険がある。
以前UFCの試合に実戦経験のないカンフー師範が出場し、悲惨な結果に終わったことがあったが、このパターンの典型だろう。
また、防具無しの組み手は、誰もが感覚を身につけられるわけではなく、前項でも書いたように、遠慮した側に負けたような後味の悪さが残るというデメリットもある。
スパーリングは、素手、素手対武器、武器対武器、1対1、1対多といった様々な状況を考えて行なうことが必要だ。また、場所、服装、持ち物、明るさ、精神状態等のシチュエーションも変化させて経験しておくことは決して無駄にはならない。

◆ スパーリングにおける立場の設定 ◆

初心者はできる限り同じ立場でのスパーリングをしないようにした方が良い。特に同じレベルの人間が組む場合、勝敗にこだわるようなスパーリングは極力避けたい。
勝ち負けにこだわらず、技術の向上を意識して練習できるシチュエーションを作る(例えば一人は積極的に打ち込むといったような条件を付ける)ことが重要だ。
スパーリングでは、相手のどんな攻撃に対しても瞬時に反撃できる態勢と気構えで望むと、相手はそれを感じ、どこからどうやって攻撃をするか迷うようになる。相手が迷うと自分も相手がどこからどんな攻撃をしてくるかわからなくなり、意識が居つく場合がある。意識はリラックスし、且つ集中した状態を保つ。先達の教えにも、敵と対峙するときは、霞のかかった山を眺めるようにする、とある。

◆ 構えについて ◆

自分が武道の経験者であることを相手に気付かせることは得策とは言えない。油断している相手にはそれだけ楽に対応できる。
特に凶器を持った相手に対して構えてしまうのは最悪で、構えなければ相手の攻撃はある程度限定される。
実際に危険な場面に遭遇した場合、自信がないほどプライドが邪魔をして、見栄を張ってしまうことがあるが、君子危うきに近寄らず、避けられるものは避け、戦わずに収めることが武道の極意と心得ること。練習を通して相手と和合する気持ちを養っていきたい。

◆ 対凶器練習 ◆

模造のナイフを使った練習を長く続けることで、模造ナイフを本物のナイフや包丁に変えても模造にしか見えなくなる。

◆ 練習の目的 ◆

スパーリングをする場合、練習中に、何を目的として練習しているのかを良く認識することが大切だ。同じ練習でも本人がどう認識しているかで効果は大きく違ってくる。
また、スパーリングでは小手先の技がうまく決まることがある。何度か決まると、今度も相手がこう来たらこうしてやろうと考えるようになる。初期の段階ではこのような得意技を作ることは悪くないが、いつまでもこういった状態を続けることは上達の妨げになる。こう来たらこうしようと考えることは、意識が居つくことになり、柔軟な対応が難しくなる。

◆ 初心者にありがちなスパーリングの問題点 ◆

相手の攻撃に対して目を瞑ってしまう。
踏み込めない。 踏み込みが足りないため一番危険なポジション(距離)を取ってしまうが、怖さを克服しなければ間合いを詰めることは難しい。「切り結ぶ白刃の下こそ地獄なり。一歩進めばそこは極楽」
相手の攻撃を中途半端に手で迎えてしまう。
上半身だけ進んで腰が引けた状態になり易い(気持ちは前に行っても体は正直)この状態を有効な攻撃に変えたのがイスラエルのクラブマガであり、また、孫ぴん拳もクラブマガの攻撃法と似ている。

◆ 摔法の要領 ◆

摔法(体当たり)の場合、初心者は相手に遠慮して入るため技が決まらないことが多い。
自分の重心は、相手の重心を奪う位置まで一気に移動するべきところを、中途半端に踏み込んで、相手がまだ十分重心を保っている状態を腕力で崩そうとするために、相手に抗力が生じて押しくら饅頭になり易い。
武術に採脚中間という言葉があるが、摔法の場合は相手の中間あるいはそれ以上のところまで踏み込んで重心を奪ってしまうことが大切だ。いかに相手の重心を自分の重心に取り込むかということが、技が決まるかどうかのポイントになる。
相手と接触する部分に力を入れないことは重要で、できる限り接触部分の力は抜いてリラックスし、地面からの力を膝から腰を通して相手の中心を崩すようにする、あるいは逆に自分の重心を地面の中に落としこむようにする。どちらも相手の中心軸を崩す意識で入るようにすること。
また、これも初心者にありがちなことだが、相手に対して直線的に力をかけた場合、相手に無意識の抗力が生まれるため力がぶつかり合ってしまう。
力のかけ方は1方向よりも2方向、2方向よりも3方向の力を同時に使う方が、相手の体に抗力が生まれ辛くなる。1方向というのは直線、2方向というのは例えば縦と横の力が同時に働く状態、つまり円。これが3方向になるとさらに立体的な円、すなわち螺旋の動きに変化していく。ここで注意することは、体の中の動きとしては螺旋状に動こうとしないこと、螺旋状に動いた場合、相手と接触している部分には直線に近い力がかかり易く、その結果抗力が生まれて相手とぶつかることになる。押す、沈む、左右に引く、といったような別々の方向の動きを同時に行なった結果が螺旋状の方向性をもつようにすること。

◆ 上下相随 ◆

武術を習い始めたときにまず気をつける点としては、手足の動きを腰の回転と同調させることがある。基本的には右の腰が前に出たときに、右膝、右肩、右手が前に進むこと、左の腰であればその逆。両手は僅かにたわませた状態で両肩を沈め、肩甲骨を前に押し出すようにする。この動きが身につけば、例えば相手の攻撃を右で流すのと同時に、左が前に出て攻撃することが可能になる。〈形意拳の六合、太極拳の上下相随〉
同時に気をつけることとしては、正中線の意識がある。自分自身の中心を意識して練習することで、無意識の自然な動きが武術につながる。