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トゥモロー・ワールド /
Children of Men

Alfonso Cuarón

2006 UK/USA 109 Min. 劇映画

出演者

Clive Owen
(Theodore Faron - エネルギー省の官僚)

Julianne Moore
(Julian Taylor - テオドアの元妻)

Michael Caine
(Jasper Palmer - テオドアの旧友、ヒッピー)

Claire-Hope Ashitey
(Kee - 妊娠8か月の女性)

Pam Ferris
(Miriam - 産婆)

Peter Mullan
(Syd - 国境警備隊)

Oana Pellea
(Marichka - キーたちを助ける女性)

Chiwetel Ejiofor (Luke)

Charlie Hunnam (Patric)

Danny Huston (Nigel)

見た時期:2006年11月

要注意: ネタばれあり!

見る予定の人は退散して下さい。目次へ。映画のリストへ。

見る前の期待 − 良さそうな映画だ、真面目に作っているらしい。

見た直後の印象 − 少ない、足りない、もっと何かを期待していた。崇高な意思を持って取りかかった仕事が、尻切れとんぼに終わった。

その後暫くの感想 − メディアの批評が良過ぎる。

その後 − 原作を所々変えたらしいと分かるが、良くなったのか悪くなったのかが分からない。

さらに距離を置いてからの感想 − 環境ホルモンの問題を扱っているのか!?それだったらもう少し突っ込めば良かったのに。

とまあ、(私の)紆余曲折が激しい作品です。

映画を単なる映画だと思って見ると、ストーリーの穴が邪魔で、楽しめません。ミニマリスムと呼ばれる手法があり、特にSFですと、細かい時代背景、政治背景などを思い切って削り、カフカ的不条理とも言える限られた環境を設定して、その中での出来事ということにして強引に通してしまうこともできます。例えばちょっと前にご紹介したニューヨーク1997。反対に町の様子などをたくさん見せてそういう背景を分かり易く詳しく出して来るのがブレード・ランナートゥモロー・ワールドは《全部描写路線》ではなく、かといって、ほとんどカットのミニマリスムでもなく、スイスのチーズのようにドンと出した塊の中にあちらこちら穴が空いているという手法(!?)です。

SFには私たちと直接関わりが無さそうな話を主題にしたものと、身近に迫って来る未来を早めに表現した(つもりの)ストーリーがあります。トゥモロー・ワールドはあまり洒落たタイトルではありませんが、身近に迫って来る世界を描いているので、当を得たと言えます。意味が分かり難かったのは原題の方。

見る前何に期待したかというと、クライブ・オーウェンとマイケル・ケイン。紹介の写真を見る限り真面目そうな雰囲気で、そこに2人が出るとなると見てもいいだろうという気になります。

ジュリアンヌ・ムーアは最近中堅女優としての地位を築いたのはいいのですが、母物など彼女に合わない役が増えたように思います。フォーガットンめぐりあう時間たち等よりブギーナイツビッグ・リボウスキの彼女の方が個性があっていいです。トゥモロー・ワールドでは積極的な役と母物をドッキングさせようと思ったのでしょうか。子供を思う反政府活動家という役です。しかし不発。

クライブ・オーエンはブラッド・ピットやレオナルド・ディ・カプリオ的な売り出し方をしない人で、くたびれた顔をしていたり、もさっとした役で良さを発揮する人です。最近のヒット作はインサイド・マン、ラストはお風呂に暫く入っておらず、ホームレス並の姿で退場という臭くて汚い役ですが、ストーリーとしてはスパっと決まっていて、カッコ良かったです。続編ができるという噂も出ています。

マイケル・ケインは外れが少ない俳優。間もなく探偵 <スルース>のリメイクで、かつて自分が対決したオリビエのアンドリュー役を演じるのだそうで、楽しみにしています。トゥモロー・ワールドは色々な点で不発に終わった作品なのですが、マイケル・ケインはそんな中でしっかり自分の役を作り上げていて、彼の出るシーンは見る価値があります。

原作は推理小説家P・D・ジェイムズの書いたSF。なかなか評判は良かったのだそうです。私は読んでいません。映画化にあたって小説の主旨は受け継ぎ、細かい所は変えたとのことです。

監督はトゥモロー・ワールドの仕事依頼が来てから懸命に(賢明に)周囲の薦めに反対し、戦ったのだそうです。なるほどと思える点はあちらこちらに見えます。例えばデザイナーがすばらしい未来的な絵を何枚も用意してくれたのだそうですが、全部却下。画面は28日後・・・といい勝負の、2006年と言っても完全に通ってしまう描写になっています。家屋などは特に何も変えていませんし、乗り物もトム・クルーズやブルース・ウィリスのSFとは違います。

これを持ってSFとした監督に脱帽しますが、冒頭に「2020年だ、2030年だ」と言われれば「はい、そうですか」と受け入れることができてしまうので、監督のせっかくの努力はちょっと陰に隠れてしまいます。後で人の話を聞いて初めて感心するというのは不発弾。それが当たり前だとして、疑いも抱かず観客に受け入れられるといのは本当は大正解なのですが。映画にはわざとらしく描かないと観客に理解してもらえない面もあるようです。匙加減が難しいです。

冒頭に人類が今どういう事になっているかの軽い説明があり、クライブ・オーウェン演じるところの主人公テオドアが出て来ます。どうやらロンドンの町らしいのですが、汚らしく、荒れています。ここで観客はこれが未来の話だと思わないと行けないのですが、その未来が現在とかけ離れた描写でないので(ということはそれだけリアルなので正解なのですが)、観客は切り換え無しに何となくそのまま話に入ってしまいます。人がパリっとした服を着て、道路を闊歩する時代はとっくに終わり、バブル、繁栄がはじけ飛んでもう長い・・・町をきれいにしようなどという気のある人はおらず、ただ惰性で生きているような印象です。それもそのはず。

原作とは時間の設定が違うのだそうですが、映画では2027年を現在としています。2009年頃から突然誰も子供を産まなくなってしまい、人類で1番最後に生まれた人が18歳ということになっています。なぜ世界中の人が急に子供を産むのを止めたのかについては特別説明がなされていません。他の映画のようにビールスが発生したとか、どこかのアホが核爆弾を破裂させたという話にはなっていません。生物兵器もチャールトン・ヘストンも出て来ません。人の外見を見ると誰も傷ついたとか病気だという様子にはなっていません。人類総吸血鬼化が起こったわけでもありません。

説明不足が引っかかり、見終わっても暫く何かが抜けているという気持ちが残りました。そしてある日ふと思い立ったのは(環境)ホルモンではないかということ。原作者や監督がそれを意識してストーリーに織り込んだのかは私には分かりません。しかし、(環境)ホルモンですとトゥモロー・ワールドの状況に説明がつきます。

現在マジで心配している国がいくつあるのかは分かりませんが、日本は暫く前から(環境)ホルモンの問題を真剣に考えている様子。名称のつけ方で議論が出たり、研究中ということで確定していない事項も多いようですが、出所が天然の物であれ、遺伝子組換えの結果であれ、食品を入れる容器であれ、ホルモンというのは勝手に量を気にせず取って良いものではない事だけは分かります。こちらでは普通に使われている食料品の一部にホルモンの作用の強い物があり、私などは今ちょうどそれに振りまわされているところです。これはプラスティック容器の問題とは違うのですが、老若男女構わず同じホルモンを量の限定もなく取るような状況は後で大きな禍根を残すだろうと思っていた矢先、トゥモロー・ワールドを見てしまい、映画の中で不妊の原因をもう少し突っ込んでくれたら良かったのにと思いました。

ストーリーの方ですが、人類が子供を生まなくなりすでに18年。今後の人口増加は考えられないので、残った資源を仲良く分け合い静かに暮らせばいいのに、人類は争う道を選んでしまいました。舞台になる英国はとんでもないことになっています。18年前、最後に生まれた人が最近死亡。それを機に各地で混乱や暴動が起き、収拾がつかなくなっています。テオドアのように職もあり、恵まれた暮らしをしている人がおり、他はホームレス生活。 英国の外国人居住者はあれこれイチャモンをつけて収容所へ送られたり、地域外に追い出されたりします。その結果かつては立派だった市街は、28日後・・・ランド・オブ・ザ・デッドを混ぜたような状態になっています。

町が荒れている描写はなかなかいいです。英国お得意のリアリズムですが、監督はメキシコ出身。英国の町を良く知っている人なのでしょうか。都市の建物、田舎を上手に使っています。上にも書きましたが、監督はこの描写に重きを置いていて、旧ユーゴスラビアや、中東関係の戦闘でメディアに出た画像などを参考にしたそうです。

クライブ・オーウェン、ジュリアンヌ・ムーア、マイケル・ケインの演技に期待したのですが、お世辞にも使い方がいいとは言えません(ドイツのメディアは誉めていますが)。映画を見た直後の「尻切れとんぼだ」という感想にはストーリーだけでなく、もっと演技ができるはずの俳優が力を出し切っていないという意味もあります。ケインほどでないにしてもそれなりにベテランのオーウェンとムーアは監督の言う通りに演技したのでしょう。長時間カメラを回すこともあったので打ち合わせは充分やったそうです。一応個性を出していたのはケインですが、セットが良かったからそういう印象になったのかも知れません。

人物設定の方は、こんな具合。昔ジュリアンヌ・ムーア演じるジュリアンと幸せに暮らしていたテオドアは現在ではくたびれ切った独り身の役人。アルコールに沈んだ人生。周囲を見ても誰1人楽しそうに暮らしていません。

ある日襲われテオドアは車で拉致されてしまいます。さらったのは元の妻ジュリアンとその仲間。テオドアとの間にできた子供が死に、夫婦生活は破綻し、現在はテオドアと別れて反政府活動を率いるリーダーになっています。会わなくなってから大分経っています。

テオドアをつかまえたのは、彼女が活動の一環で世話をしている女性キーを国外へ逃がすため。テオドアを通じて国境越えの書類を入手したいのです。原作ではテオドアはかなり高い地位にいる人ということになっているのだそうです。映画を見た後で知りました。トゥモロー・ワールドではそういう書類に手が届く程度の地位であればいいようです。

ジュリアンが助けたいキーはなぜか妊娠8か月で、ジュリアンたち反政府活動家グループはキーを自分たちとは違う活動家に引き渡す予定でした。キーが充分な医療処置を受けられるように、英国沿岸を通る医療船に引き渡すのが目的です。現在はかつて産婆だった女性がキーについています。

ここでプロットに穴がぽっかり。ロンドンにいる反政府活動家も、外でキーを受け取るべき活動家たちも何に向かって進んでいるのか、何に対して反抗しているのかが良く分からないのです。どのぐらいの規模でどのぐらい連帯しているのかも分からず、この国外の団体に届けばキーの将来が明るいのか、あるいは新たに彷徨うことになるのかも分かりません。キーに子供ができ、そのニュースが全世界に伝わるのか、この団体が彼女を匿って秘密裏に子供を育てるのか、あるいは彼女から子供を取り上げてしまい、キーは用済みでポイなのか、さっぱり分からなかったです。

なぜこんな不安に陥るかというと、反政府活動家が必ずしも理想を抱き、天使の心を持っているわけではないからです。映画を見終わって暫くしてふと思ったのですが、反政府活動家のシーンはアイルランド問題とかぶっているなあと感じました。北アイルランドでは30年近く混乱が続きました。真面目に地域の将来を案じる人たちの政党やグループもありましたが、近視眼的に主導権争いに明け暮れる人や、アドレナリンが上がり過ぎて争い無しの人生に耐えられず武装解除に賛成しなかった人たちもいました。一部この様子は劇映画にもなっています。ですから専制的な独裁政府に反対するという立場を取っている人たちにキーが保護されたからと言って、すぐそのままハッピー・エンドになるかは分からないのです。

渋々元妻の依頼を引き受けたテオドアは成り行きからキーを別な活動家に引き渡す場所まで付き合うことになってしまいます。

ジュリアンには活動家仲間がいて、アジトへ向かいます。聞くところによると原作では仲間はこんなに多くはなく、数人。どちらかというとインテリ層で、ドンパチやる人たちではないのだそうです。トゥモロー・ワールドでは派手に撃ち合います。ジュリアンの仲間の活動家の間には内輪もめがあり、結局仲間内でリーダーを殺すというところにまで発展してしまいます。たまたま事情を知ったテオドアはキーと産婆をせかしてアジトから逃げ出し、旧友のジャスパーの助けを借ります。

ここにたどり着くまでに主演のジュリアンヌ・ムーアは昇天。

マイケル・ケイン演じるジャスパーは老ヒッピーで、体が不自由な妻と田舎の一軒家に住んでいます。妻が車椅子生活になるにあたっても過酷な運命のストーリーがあるのですが、その辺は見ていてあまり大きな印象に残りません。ケインが長年連れ添った妻を見殺しにできない人だというのは分かるように描いています。テオドアとジュリアンが幸せだった頃からの知り合いで、博学。田舎にいても世の中がどうなっているかは充分承知しています。 この家で暫く楽しい時間を過ごします。はい、ここで息抜き。

しかしその直後にジャスパーはテオドアたちを逃がし、自分は犠牲になって昇天。おいおい、だんだんキリスト教みたいになってくるぞ、テオドアも死ぬんだろうなあとの予感。

SFですが、できるだけ普通のデザインにしてあって、ジャスパーの家はごく普通の田舎の一軒家。インターネットに繋がっているらしきPCがあるのですが、書籍も図書館と言っていいぐらいあり、2027年と言わず、2006年と言っても通ります。今考えてみると90年代と2006年の違いも携帯電話が小さくなったことと、最近は多くの人が液晶薄型のモニターを使っているという程度の違いで、田舎暮らしをしている人の外見はさほど大きく変わらないかも知れません。

近年お先真っ暗のSF映画が増えていますが、それでもストーリーがしっかりしたものはそれなりに見ごたえがあります。トゥモロー・ワールドには、「これもそういう映画の1つだよ」という雰囲気があります。ところが見終わってみると小梅太夫の最後の一言が出てしまいます。こちらがあれだけ気合を入れて見たのに、「何じゃこれ、詐欺だ!」と感じてしまうのです。

どこに気合が感じられるかと言うと、後半の半壊した建物の付近、中での戦闘シーン。制服組とアナーキー化した市民が四方八方撃ちまくるのです。マシンガンやピストルの弾が飛んで来るだけでなく、バズーカや戦車も出て来ます。このシーンはかつてのユーゴスラビアの混乱を思い出させ、ドンパチ言うたびに私の体もすくんでしまいました。ユーゴスラビアはドイツから車で行ける距離で、私がドイツに来た頃は大勢のユーゴスラビア人がベルリンに住んでいたのです。人事ではない。

「戦争に反対する映画で撃ちまくるのはどういうことだ」と昔は考えたこともあったのですが、トゥモロー・ワールドに限って言うと、戦闘シーンがあるために、ますます戦争は嫌だという気分になります。銃を使った反戦キャンペーンがうまく行くこともあるのか・・・。

しかしプロットの方は惨憺たるものです。ジュリアンがやっている反政府運動の目的が結局最後まではっきりせず、見せられるのは偉そうな顔をして一端の主張をする仲間ばかり。1人が1つの党かというぐらい皆好き勝手。皆がリーダーのようにふるまい、命令系統はしっかりしていません。相手が何か言っても先に聞いてから考えるのではなく、すぐ反対意見が口から飛び出します。

ジュリアンがキーを引き渡すはずだった別な運動家の団体が何をやっているのか、他の国の状況は(ちょっと台詞で「地球の反対側も同じさ」という形で触れるだけ)ほとんど分からないまま終わります。

話はどんどん危なくなりながら先に進み、ジャスパーのつてでシドという男に上手く守られて国境を越えます。しかしここで産婆が捕まってしまい、テオドアはキーと2人きりになってしまいます。産婆の生死は不明。国境を越えたところでシドのつてで言葉が全然通じない女と会い、アパートの一室が使えるようになります。キーはバスに乗っている時から産気づき、そのアパートでテオドアの助けを借りて子供を産み落とします。女の子。

国境のこちら側はいつどこから弾が飛んで来るか分からない世界。なるべく早くキーを予定の船に引き渡さなければなりません。言葉の通じない女の手を借りながら、少しずつ目的に近づいて行きますが、この女は2人を助けられるだけ助け、最後はついて来ません。ボートには3人乗るスペースはあるのですが。

小さな手漕ぎのボートには今ではキー、娘、テオドアの3人だけ。霧の深い中、約束のブイに来ます。予定の時間はとっくに過ぎています。そこへまたもやトラブル。テオドアは撃たれて死んでしまいます。やっぱり殉教映画だった。この作品は特別な宗教を信じる人の活動を描いているわけではないのですが、こういう死に方にはキリスト教っぽいイメージがついて来ます。

最後にキーが収容されるはずの船は、特に行き先があるわけでもなく、助かった後彼女と子供がどういう方向に行くのかは分からないままです。 ウォーター・ワールドですと、小さいながら陸地があり、そこで幸せに暮らすという風なささやかな希望が残りますが、トゥモロー・ワールドでは、苦労の第1章が終わり、これからキーは子供を守りながら次の新しい環境で生き延びていかなければならず、観客はあまりほっとできません。

その方が現実的だろうという意見もあるでしょう。私もそう思います。ただ、それですと、キリスト教の殉教パターンと上手く合わず、映画全体が矛盾に見えてしまいます。その点はチャールトン・ヘストンやアーノルド・シュヴァルツェンエッガーの死に方の方が、全体に統一性があり、矛盾しません。全米ライフル協会の会長とか、戦争を始めた政党に属する州知事などという顔を持つ俳優がなぜずっと前に映画では人類を救う殉教者の役をやったのかは良く分かりませんが、映画のストーリーには一貫性がありました。

キーが産むのが女の子だというのは実際面で重要な意味があるのですが、それにはほとんど触れていません。彼女が男の子を産むと、その子が成人した時に彼が妊娠させることのできる年齢の女性がいるかが分かりません。ちょっと前に18歳だという、1番若い人が死ぬので、単純計算すると、この子が妊娠させることのできる女性は1番若くても36歳以上。高齢出産のゾーンに入ります。高齢出産では母子ともに命の危険があります。人類が不妊になってしまった理由がはっきり示されていないので、原因が男性にあるのか女性にあるのかも分かり難いです。女性たちが守備良く妊娠してくれるかが分からず、若いキーの息子に無理矢理誰かを妊娠させろと命令するわけにも行かず、筋が足元で崩れます。

女の子が生まれると、その子が成人した時に彼女を妊娠させることのできる男性は女性よりやや年齢の巾が広いです。ただ、その子が産めるのは通常1度に1人。それに彼女に無理矢理妊娠しろと強いるのも無茶な話です。結局こういう所でぼろが出てしまい、このストーリーには共感できませんでした。

この作品のクライマックスは、キーに子供ができたことを知って、それまで戦闘状態だった市民と軍が一時戦いを止め、中には祈る人まで出て来ること。ところがこれも短い静寂。間もなくまた戦闘になり、人はばたばたと死んで行きます。アホか、君たちは。

映画を見終わって数日しないと考えがまとまらない、雑誌の記事を読まないままだと感心する種がなかった、結局何が言いたかったのか良く分からないというのは、成功作とは言えません。部分的に良い所があったのは確かですが、28日後・・・のようにスパっと決まっていません。最初にも書いたように、崇高な意思を持って取りかかった仕事が、尻切れとんぼに終わったと言うしかありません。

いろいろ突っ込みましたが、部分的にはいいシーンもあったので、この監督には今後も期待をしていいかも知れません。

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