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  1. 基本的なところは? 20.04.2004
  2. 絡繰りを解いてみれば… 20.04.2004
  3. ネット上の匿名性 30.04.2004
  4. 小泉内閣に引導を渡せるか? 22.06.2004
  5. F1のスチュワードに物申す! 25.06.2004
  6. 「国際英語」小考 08.08.2006

基本的なところは?

 東京都の公立学校の卒業式で君が代斉唱の際に起立しなかった教育職員を教育委員会が処罰したことについて,反対の声が多々挙がっています。
 主なところを拾ってみると,「君が代を歌いたくない人もいるのに,君が代斉唱を強制するのは『思想・良心の自由』を侵す」のであり,「起立しないことで教育職員を処罰すると公言することは,生徒に『自分が起立しないことによって先生が処分されるかも知れない』と思わせ,結果的に圧力を加え,生徒の『思想・良心の自由』も侵すことになり,到底容認できない」と言ったところでしょう。
 また,君が代の歌詞が意味するところや,歴史的に君が代がどう利用されたかと言うことを考えると,君が代が国歌であること自体が問題だとする意見もあるでしょう。「悪しき天皇制の象徴」とか,「軍国主義の象徴」とか色々な言われ様です。一部には「十五年戦争で日本軍は,日の丸を押し立て,君が代を歌い士気を高揚させながら中国を侵略した」と本気で思っている人さえいるようにも感じます。
 まあ,私としての君が代が国歌にふさわしくない理由は,呉智英氏が指摘しているような「国歌として美しくない」、「日本の伝統的な旋律ではない」と言った「歌う気を起こさせない」ひどさにあるんですが,こう言う意見は少数派ですな。

 さて,この問題を「式次第」の面から考えてみると,君が代斉唱は即ち「国歌斉唱」であります。いかなる論争があっても,君が代という歌は現在「法律により国歌として規定されている」のであり,公立学校で国歌斉唱を式次第に組み込むことには形式上何の問題もないということを確認しておかなければなりません。これが前提です。
 また,学校側には式を整然と挙行する責任があることも確認されるべきでしょう。その責任を果たすためである限り,挙行を妨害する行為に処罰を以て望むことが憲法に違反する行為である,とまでは言えないのではないでしょうか。
 加えて,形式上問題ないなら,不斉唱を是とする人には,国歌斉唱を式次第から外す根拠を示してもらう必要があるでしょう。君が代の成り立ちや経緯などを理由とするのは,この場合根拠となりません。国歌斉唱を外す根拠ではないからです。
 反対派の方々はどの様な根拠を示してくれるでしょうか?

 さて,「国旗・国歌が日の丸・君が代であることに反対する」事と「式での国旗掲揚・国歌斉唱の際に不起立・不斉唱である」事とがリンクしているのですが,これって同列で語ることができるものなのでしょうか?
 まず,前者は思想で,後者は行動です。後者の思想は「式典での国旗掲揚・国歌斉唱に反対すること」であり,そのこと自体は,思想・良心の自由で守られるでしょう。しかし,不起立・不斉唱は思想の結果としての行動です。反対の思想を持っていることを表明するような行動に制約をかけることは,思想・良心の自由を侵すことになるのでしょうか? どうも,反対派の人達は思想・良心の自由の名の下に,何をやっても良いという雰囲気を持っているのではないかと感じられます。
 国旗国歌法が,いかに「不当な手段」で決定された事(反対派の考えるところでは)と言っても,一応決まっていることなのですから,それに基づいた式次第に形式上従うのは義務的行為であると言われても仕方ないでしょう。
 そうでないとするならば,憲法(の平和主義に関する部分)は守らなければならない,しかし国旗国歌法はないがしろにして良いと言う根拠は何になるのでしょうか? ひょっとして御都合主義ですか?

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絡繰りを解いてみれば…

 イラクで日本人3人+2人が拘束された事件は,3人+2人が時を別にして解放されたことによって一応の解決を見た。
 この事件は実にいろいろなことを我々に投げかけてくれている。
 1.拘束された人々がイラクに渡航したこと。
 この点については,いかなる(高尚な)理由であっても,現実を見てみれば,渡航自粛勧告が出ているイラクへ渡ったことは責められても仕方ないことである。「日本国民」である以上,非常事態が起こったときには日本政府が動かなければならない。政府に面倒を見てもらいたくないなら,現行の制度の中では,「日本国民でなくなる」位しか解決法はないことも考えると,政府の勧告をある程度踏まえた行動が要求されるのはやむを得ないことかも知れない。
 一方,首相、官房長官を始め「自己責任」という言葉が良く聞かれたが,この言葉が何を意味するものなのかよく分からない。先に述べたように,日本国民である以上,日本政府にはその人たちを守る義務があり,その人が自分だけで責任を取ることはできない。「自己責任」という言葉自体は非常に通りが良いのだが,自己責任が取れないのが明らかなのに「自己責任」とは意味不明であるため,「政府に迷惑をかけるな」という意味で理解されているようである。「日本国民である以上,否が応にも政府の庇護を受けていると言うことを踏まえておきなさい」と言うことであればまだ理解はできるが,「個人の勝手でしょ〜,カーカー」と言われてしまえば反論できないし,難しいところであろう。
 でも,疲れた頃の首相の発言「どれだけ迷惑がかかるか考えてもらいたいね」ってのは愚痴だろね。何年か前の「寝てないんだ,私は」(某Y社の社長),「私だって寝てないですよ」(それに反論した記者)並の愚かなやりとり,…それしか取り上げるネタ無いのかよ。
 2.家族(特に3人の)の言動とそれに対する批判と反論
 最初に拘束された3人については,犯行グループからの要求が「自衛隊の撤退」であったことから,家族は「自衛隊を一時撤退させてでも救ってほしい」と語り,「(この状況下で)自衛隊撤退を行わないのですか?」と政府の対応に憤り,外務省担当者を難詰した。その他諸々の家族の言動と北海道東京事務所の無償利用を認めるなどの各機関の対応について,批判の声が噴出した。曰く,「何様のつもりだ」、「自己責任で行ったのだから政府に迷惑をかけるな」、「何公的機関を使っとんじゃ」等々。
 しかし,この批判は拘束された当事者(「本人」)と「家族」を混同していると言うほかない。家族がその一員のことを心配し,救出のためにあらゆる言動を行うのは理解されるべきであるし,そうでなければ家族の一員としてあまりにも無情ではないか。それを理解し,「家族は自分勝手なことを言うものだ」との前提でものを見るべきではないか。
 とは言え,家族に対して批判が集中したときに「家族の気持ちになって考えろ」とか,「自分が家族の立場になったらと考えろ」とか言って,批判を封じ込めにかかった一部のメディアにはあきれた。批判する人たちは家族ではないのだから,家族がどう思っているかを知る由もなく,自身の視点でものを言っているに過ぎないことを指摘するべきである。
 所詮,今回の批判者は「なんちゃって政府」,家族の気持ちを考えさせようとするメディアは「なんちゃって家族」,善いことをしているのだからと当事者の責任回避論を打つ人は「なんちゃって同士」であるな。今だけである。1週間も放っとけばほとんどの人が忘れちゃうことであり,何を言っても「なんちゃって」で済んでしまうのだから。
 さて,もちろんのことながら,家族の声を政府が取り入れるかどうかは別問題である。家族と政府とは立場が違うのだから,家族の声を一々聞いていては政府が成り立たない。政府の対応を考える際には,「政府がどの様な立場に立っているか」を考え,その整合性を問う必要がある。家族の声を取り入れないことが直接批判対象になる訳ではない。
 3.自衛隊をどうすれば?
 さて,犯行グループが求めた「自衛隊撤退」であるが,政府は拒否した。この態度は腰抜け外交が得意な割には評価できる対応である。やはり,暴力に屈する形で撤退するというのは最悪の方法であり,拘束された人々がどうなっても「そのことによって撤退を決定」するのは最悪である。
 しかし,全員が無事に帰った今こそが撤退の絶好機である。今でもサマワが派遣の前提である「非戦闘地域」に当たるかどうかは微妙な問題である。と言うより,私は(フセイン政権が滅び,暫定統治機構がアメリカに反対していない以上,国同士が戦争している状態にはないのだが)少なくとも現在イラク全域が戦闘地域であると思っているし,復興支援を整然と行える状況にないとも思っている(宿営地から出られない状況がそれを如実に示しているではないか)ので,時期を見て一旦自衛隊を引き上げるべきである。「(自衛隊は)復興支援のために行っている,イラクの人のために行っているのだから撤退する理由などない」と言うのは理解できる正論のようで,実はアメリカ主導の占領統治が欠陥品であることを批判できない裏返しである。欠陥品は欠陥品であると主張する意味でも撤退してもらいたいのである。
 そもそも,何が何でも自衛隊を派遣しようとしたことが問題であり,状況判断をねじ曲げた(としか思えない)政府は責められるべきである。「復興支援」よりも「自衛隊の海外派遣」を目的とした今回の派遣,自衛隊の人にとっては,自分の身を守ることがままならないような状況で派遣されることなど迷惑極まりない。
 問題の根底は,自衛隊と憲法との関わりである。自衛隊が憲法上規定されていない「法外の存在」であるから,その活動について法的に規定できていないのである。そう言った問題を全て棚上げ(解釈問題に)して,今回自衛隊の派遣に踏み切ったのは,決して誉められるものではない。一旦撤退させるべきだというのは,このような問題を解決し,自衛隊員の身を守る方法等,整備するべき点を整備してから再度派遣するべきであると言うことである。
 そもそも何故自衛隊を派遣するのかと言えば,自衛隊なら非武装のNGOが活動できない位治安の悪いところでも活動できるからだと私は思っているけれども,国会で議論を積み重ねた結果,自衛隊を派遣できるのは非戦闘地域に限られている。これは大きな矛盾である。まあ,「非戦闘地域=安全な地域」であるという根拠はないから,「安全な地域」と「非戦闘地域」との隙間(安全とは言い切れないが,戦闘地域ではない地域)を縫って活動しているとの言い方もできるのだろうが,それじゃあわざわざ「自衛隊を行かせる」意味ないだろが。
 4.解放された後,彼らはどうするべきか
 政府や外務省が外国に出ている日本人の安全を守るのは当然の仕事なので,それをさせたこと自体に彼らの責任はない(「わざわざ」させたことに対する責任はあるとしても)。が,それは同時に感謝しなくても良いと言うことを意味しない
 もう1回イラクに行きたがっているようだが,「家族の理解無しに遂行できない」ことや「否が応にも政府の庇護を受けている」ことを踏まえて計画を練り直してもらいたい。どれだけ高尚な目的を持っていても,目的は手段を正当化してくれないし,その目的を全ての人が理解してた上で接してくれる訳ではないと言うことも考えて行動してもらいたいのだが,これさえもNGO活動を抑圧する文言となるのかな?
 イラクの一般大衆のことを考えて活動するのは善いことかも知れないが,現状イラクの人々は閉鎖的コミュニティを複数作っており,十分に活動できる地域に直接出入りしないと異邦人扱いされると言うのをどう理解するのかな?
 5.救出にかかった費用は誰負担?
 「救出に多数の人が動いたので,それにかかった費用は5人が負担するべきだ」と言う意見が出てきている。「山岳遭難の場合,ある程度以上の費用を登山者側が負担しているので,今回の事態もそれと同様に考えるべきだ」との意見は多数の支持を受けているようだが,今回救出にかかった費用というのはどれくらいだろうか?
 候補に挙がるのは,「逢沢外務副大臣の渡航費用」、「5人のイラクから日本までの渡航費用」、「ドバイで受けた健康診断の費用」、「家族が利用した施設(北海道東京事務所)の使用料金」、「現地及び日本国内で対応に当たった外務省職員の残業手当」、「5人の安否取材のためにかかった費用(笑)」、「残業に際して消費されたコーヒーなどの消耗品代(笑)」等か。
 この内,施設の使用料金については,使用したこと自体に批判が集中していたが,北海道知事が無償提供でいいって言ったんだからしょうがないやね。料金請求は不要でしょう。
 残業手当は…,税金を使ったのだから当事者が負担するべきだという意見があるけれども,これもどれくらいの額になるのかねえ。そもそも,この事件だけのための残業手当なんて計算可能なのか? これも実際問題としては請求不可能か。
 外務副大臣の渡航費用もなあ,「外務副大臣が行かないと問題が解決しない」責任がどこにあるかを考えると,当事者に全費用を請求することはできまい。一部請求ってのも変な話だし,これも無理かな。
 コーヒー代の請求ってのは面白い話なのだが,実際に請求したら,色々批判されそうだな。
 当事者本人の交通費と健康診断費は請求できるかもな,完全な当事者のための費用であるから。しかし,この状況で「健康診断は当事者負担で」なんて言えるだろうか。国民保護の観点からすると,健康診断も政府の責任で受けさせるべきだとの意見が出てきても不思議ではない。
 結局,大半の費用は政府負担で決着しそうだ。税金,使わせたもの勝ちなのか?

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ネット上の匿名性

 掲示板ネットの「2ちゃんねる」上で,プライバシーが侵害されたとして歯科医師が2ちゃんねるを訴えていた事案で,2ちゃんねるの責任が認められ,発言者の情報開示と管理者への損害賠償請求が命じられた。
 2004年4月26日のMBSラジオ『こんちはコンちゃんお昼ですょ!』(メインパーソナリティ:近藤光史)の「吼えるコンちゃん」のコーナーでこの問題について言及があり,「意見を言うのに,自分は匿名で,安全なところにいて好き勝手なことを言うのは卑怯だ」とか,「自分の番組に匿名でなされた投稿は,いかに良いものであっても取り上げない」とか意見が出ていた。
 まあ,投稿を取り上げるか取り上げないかは,番組関係者の勝手なのでどうでも良いことだが,「匿名でなされた投稿」事と「ネット上において匿名で発言する」事とはちょっと意味合いが違ってくる。
 まず,近藤氏も言及しているが,「匿名希望の投稿(住所本名記載)」と「匿名の投稿」とは違うものである。「匿名希望」の場合,投稿を管理する者は投稿者についてのデータを一応有している(一応というのは,偽名の可能性による)。「匿名」の場合,投稿を管理するものですら,投稿者のデータを持っていない。ちなみに,「こんちは…」のようなラジオ番組の場合,投稿者のデータを管理するのは放送局であり,番組のパーソナリティである。
 では,インターネットの場合には? インターネット上では,「匿名希望」と「匿名」の差が非常に分かりにくい。「ハンドルネーム」は一種の「匿名希望」であるけれども,その素性は闇の中であることが多く,一見したところ「匿名」と変わりない。私もネット上ではハンドルネームを使っているが,これも「匿名」と判断されるのだろうか。
 2ちゃんねる上で発言する人の大半が「匿名」で,それによって多くの問題が生じていることはよく分かるのだけれど,「インターネット上で匿名発言するな」とも受け取れる意見(「意見を言うのに,自分は匿名で,安全なところにいて好き勝手なことを言うのは卑怯だ」)には全く賛成できない。著名人でない個人がインターネットでする発言には匿名性が認められるべきで,たとえ本名を明かさない「匿名希望」で行われる発言でも,それはそれなりに聞く価値がある。
 もちろん,「匿名」の利点を活かし,掲示板に無責任な発言を書き込む行為は,「自由を享受しながら,それにつれて生じる責任を回避している」点で責められるべきである。
 先に述べたように,ネット上で私はHPを公開しているが(皆さんが今見ているこのページです!!),名前はハンドルネームを使った「匿名希望」にしている。もちろん,メールアドレスをページ上に分かるように公開し,メール等による苦情などを受け入れる用意はしているが,素性がわかりにくいという点で,「匿名」と受け取られる可能性がある。
 となると,一見したところでは,私の発言も2ちゃんねるで無責任に行われる発言も「匿名で好き勝手にものを言う」ことになるのだが,その辺りについて,近藤氏などはどのような考えをお持ちなのだろうか,と疑問を持ったので,これと同じような趣旨を番組のメールフォームで送ってしまった。
 ちなみに,そこには私の住所氏名を記した。それは「素性を明かして意見を言う」意図ではなく,「メディアの管理者に発言者のデータを提供するのは義務」だと考えているからである(これもメールに付記した)。

 さて,2ちゃんねるで発言する上での匿名性に戻ると,2ちゃんねるで発言するときには「名前」、「メールアドレス」、「発言本文」の入力が求められるが,名前は当然ハンドルネーム等本名でなくても良いし,メールアドレスの欄は「省略可」となっている。ただ,発言すると,IPアドレスが加えて表示され,一応発言者の使用した回線を特定することができるようにはなっている。
 「名前(ハンドル可)」、「メールアドレス(省略可)」、「発言本文」のみの入力を求める形は,掲示板システムではよくある形であり,ネットカフェでの接続など,使用環境の多彩性を考えると,これ自体を問題とするのは無理がある。むしろ問題となるのは,発言者の匿名性を保護するが故に管理者に生じてしまう,発言への管理責任ではないか。
 そもそも,発言には「表現の自由」が認められるが,同時に,言及された側の名誉が侵害された場合,その名誉毀損行為に対しての責任も生じる。そもそも,匿名で他人のページに書き込んだ文章に,発言者の表現の自由はどこまで認められるのか。そもそも,匿名の意見は誰か「匿名希望」以上の明らかさのあるものの上でしか成り立たないのではないか。ほとんど話題にならないので,私の思うところをつらつらと。
 掲示板に関する注意書きで「公序良俗に反する類の書き込みは予告無く削除します」という類の注意書きをよく見かけるが,これは発言者の表現の自由を制限するものとなるのか。私は「制限するものとはならない」と考える。掲示板であれ,テキストページであれ,最終的に表現者となるのは管理者であり,表現に責任を負うのが管理者である以上,管理者には自分のページ上の表現を統制する権限が与えられているという立場だからである。掲示板に他者が書き込む形での表現であっても,それを表現として自分のページ上に残すか残さないかの最終判断は管理者ができるようにしておくべきである。まあ,それによって,発言者の表現の自由が侵害されるという考えがあるかも知れないが,これは「メディアが投稿を没にしても投稿者の表現の自由を侵害することにはならない」のと同じで,発言者の表現を抑制するものではないから,問題ない。
 さて,匿名について言えば,匿名の時に表現の自由は制限されるという規定がない以上,匿名であっても表現の自由は実名の時と同程度認められる。だから「匿名の時には表現の自由を制限するような形にするべきだ」と言う意見があるとすれば,それは否定されなければならない。  そもそも,匿名発言は,ある匿名でない誰かの協力によって初めて実現できる。2ちゃんねる,テレビ、ラジオ番組の掲示板,個人HPの掲示板,いずれも匿名でない誰か(「匿名希望」以上の明らかさを持つ者)が主催している。そこに「匿名」で発言することによって初めて「匿名」たり得る(もし自身が主催すれば,主催する過程で自分の素性が割れてしまうから,その時点で「匿名」→「匿名希望」となる)のだから,匿名発言は最初から管理者による統制を受けるのが前提となる。
 だから,匿名の発言でも表現の自由は実名の時と同様に認められるが,管理者による統制を受ける,という理解でよいのではないか。管理者による統制は検閲ではないし,発言者の表現の自由を侵害するものではないのだから,何の問題もない。

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小泉内閣に引導を渡せるか?

 6/22付朝日新聞朝刊の1面に「内閣支持率急落40%」との見出しが踊った。
 私はこれを見て,「これは相当ヤバいな」と感じた。
 自民党が負けるかも知れないと思ったのではない。これで自民党は楽勝かなと思ったのだ。
 これだけ(前回調査比−14%)支持率が急落すると,自民党内部に危機感が出て,組織の引き締めが図られるであろう。
 逆に,野党側は「勝てるかも知れない」という思いから油断し(あるいは大風呂敷を広げ),選挙が終わってみれば大敗という可能性もある。

 ただ,内閣支持率低下によって自民党敗北の地盤ができあがったのだから,チャンスはある。この機会を野党側が逃さず捉えることができれば,小泉内閣をひっくり返す原動力となるかも知れないということを肝に銘じて参院選を戦ってもらいたい。

 私が今の自民党政治を打倒する必要性を感じるのは,小泉純一郎という変革者であるべき人間は「結局,自民党の人間でしかなかった」ことが明らかになった今,自民党政治は終わるべき時にきたと思うからである。

 今回の年金改革問題と多国籍軍参加問題で,小泉内閣を完全に見限るべきときを迎えたと思う。いや,小泉純一郎は所詮新しい状況に対応できるタマではなかったということが明らかになったと言うべきか。
 これまでは,感性でものを言っても,その背景や状況について周りが分かっていたから,何となく言わんとすることが読みとれた。しかし,最近は,これまでになかった状況が出現してきている。そこにおいて,周りが状況を理解できていないのに,感性の物言いを続けられると,周りは?となる。だから,「人生色々,会社も色々,社員も色々」とか「自衛隊を多国籍軍に派遣しても,指揮権は日本にある」とかが迷言とされ,説明が足りないと言われることになったのである。
 小泉純一郎は「最近説明をおろそかにするようになった」のではない。もともと説明をする人間ではなかった。最近の,状況説明から始めなければならない時期になっても,感性の物言いを続けるから「説明がおろそかになっている」と言われるのである。小泉自身は何も変わっていない,そのことは認識されておくべきである。

 自民党はしがらみが多くて改革できないとよく言われるが,改革できない理由はそれだけではない。自民党の議員は改革によって自分の利権が失われるのを嫌がっている。現に,自分にとって痛くない部分では改革を了承しているではないか。
 まあ,誰にも共通している部分,自分にとって痛い部分の改革はしてもらいたくないという思いは,自民党議員の場合,政権に関わっているから顕著に出るだけなのであるが。
 自民党は組織力で持っている政党なので,組織力を弱める選挙戦を展開できれば,野党に希望の目はある。しかし,投票率を高め,組織票の影響力を弱めさせるのは私たちの一票一票である。

 余談として,自由民主党と民主党がよく似ていると言われているが,私の感じている違いを述べてみる。
 自由民主党は名前に自由があり,民主党は党内環境が自由である。悪く言えば,自民党内には自由がなく,民主党はみんな好き勝手やっている
 …こんな感じ。

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F1のスチュワードに物申す!

 先日行われた2004年F1世界選手権第9戦アメリカGPでは主催者の不手際が余りにも目立った。
 まず,J-P.Montoyaについて,失格の裁定が遅すぎる。フォーメーションラップスタート直前の違反についての裁定なのに,レースの55周を消化した時点まで裁定を下せなかったのは,不手際というほかない。「セーフティカー導入やR.Schumacherの事故などで対応が遅れた」等という下手な言い訳は聞きたくもない。J-P.Montoyaが事故を起こさなかったことは,儲けものと思ってもらいたい。

 次は,1回目のセーフティカー後のリスタート(5周終了時)。ラップチャートを見ないと分からないが,放送用画面に出た5周終了時の1位はM.Schumacher(4周終了時2位)となっていた。これが正しいとすれば,コントロールラインを越えるまで前のマシンを抜いてはならないという規定に,M.Schumacherは違反していると言うことになり,少なくとも審議対象になるはずである。ところが実際には,何らの措置も取られなかった。一体どういう事なのか?
註:結局ラップチャートでは5周終了時1位はR.Barrichelloであった。なので,M.Schumacherに対して措置無しということは問題とはならないという事であった。

 最後はR.Schumacherの事故に対する対応である。この事故でセーフティカーが導入されているが,導入直後にピットに入ったM.Schumacherがトップのままコースに復帰できた。このことについて疑問が多かったようだが,佐藤琢磨がレース後の会見で「ホームストレートが普通に走行できない状態だった」と言っているように,R.Schumacherの事故で生じた破片がホームストレート上に散乱していて,速度制限を受けてでもピットロードを走った方が速い状態だったのではないか。
 このような状況でレースを続けようとしたことは,危険極まりないし,マシンの破片を踏んでしまう可能性が増す点で大問題である。加えて,レースを続けるなら,ピットインしたマシンに余りにも有利な状況を相殺させるような措置(ピット入口もしくは出口を封鎖する等)が必要だった。これをしなかったことが,さらなる問題である。
 この混乱の中で得をしたのがFerrariの2台で,圧倒的な差で1−2を決めた背景となっている。
註:F1の雑誌によると,セーフティカーが入った直後にM.Schumacherがピットインしたが,そのときにR.Barrichelloがスロー走行をしたということが言われている。だとすれば,R.Barrichelloはペナルティ対象となるはずなのだが…。

 何せ,F1にはセーフティカーが入る前後についての規定がない(最近整備されたが,それも有名無実であることが明らかになった!)。このことはセーフティカー制度導定の時からの問題であるが,10年間放ったらかしのツケは確実に回ってきている。
 アメリカのCARTやIRLの規定を取り入れている訳ではないのに,セーフティカーの制度だけを導入したのは,レースの赤旗中断を避けようとしているだけのように見える。
 確かに,2ヒート制や合計タイム制は,見た目の順位やタイム差が実際と異なるので,見ている側にとって理解しにくい面がある。しかし,それを廃止したのは,レースを分かりやすくすることによって,F1について知識のない人でも簡単にレースを見てもらえるようにしようという姿勢でしかない。
 2001年ドイツGPでも同様のことがあった雑論3−7.で述べたとおり)。3年経っても進歩のないスチュワードをどうにかしない限り,F1は「金持ちのお遊び」としてしか認識されなくなるだろう。
 …いや,すでにその認識しかないか?

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「国際英語」小考

 「国際英語」,何とも「良さげ」な響きがする言葉ですが,チャイナ・スクール(外務省とは何ら関係がない)にいると言われている私は,「国際英語」というものに関する議論にあまり関心がありませんでした。

 しかし,先日の授業で「国際英語」を研究テーマにしているという後輩が炎上した(研究テーマだけでM1が教授とD3から論戦をかけられて炎上するという姿は,ややかわいそうなものがありましたが)ので,「国際英語」についてちょっと考えてみました。

 まず,「英語は国際語」という観点から考えてみましょう。確かに,現在英語は世界各地,国語・公用語としない地域でも,通じる可能性の最も高い言語でしょう。それを「国際語」というなら,それは否定できません。もちろん,それは英語に関する様々な意見に根拠を与えるものではありません(「国際語」だから云々は根拠希薄ということです)。

 しかし,「国際英語」となるとどうでしょう。…そもそも「国際英語」とは何でしょうか。今のところ,はっきりとした定義付けはなされていないように思います。
 「英語」と聞いた段階で思い浮かぶのは「アメリカ英語」や「イギリス英語」なわけですが,英語を母語とする人はアメリカ,イギリス以外にも多数いるわけで,その人たちの話している英語(アメリカ英語ともイギリス英語とも違うもの)は「英語」ではないのかと言うことが問題視されたことが,「国際英語」の背景にあるようです。
 そこで,アメリカやイギリスだけでなく,他の地域も含めた「国際的」な英語を構築していこうというのがこの考え方の根底にあると言うことなのですが…。

 「国際英語」の問題点はまさしくここにあるのです。「国際英語」というものが果たして可能かと言うことが問題なのです。「国際英語」を作り出す方法にはいくつか種類があると思われます。
 その中でも代表的なものは,何か基準となる方言を決め,それを基に「標準語」を作り出すという方法。これは中国語の「普通話」や日本語の「国語(標準語・共通語)」に見られるようなものです。この考え方の特徴は,基準となる言語が存在するために,「標準語」が文化的背景を持ち,同じ文化的背景を持つ人々には比較的受け入れられやすいということです。しかし,この方法は,文化的背景を異にする人たちに対しては文化侵略的な側面を持つために,現在の英語のような世界レベルの言語には適用しにくいでしょう。

 特定の方言を用いることが文化侵略につながるという批判に対して,いっそのこと新しく言語を作りだしてしまえばよいと言う考え方も登場します。数ある中で,比較的成功を収めたものにエスペラントがあります。
 ただ,「世界語」と呼ばれたエスペラントは,「人工語」なので基底の文化がない(故に言語としての発展性に乏しい)という問題があるという見解があります。そのためエスペラントは広まっていないとも言われます。私はこの考え方に大筋で賛同しますが,やや異なります。  確かにエスペラントは「人工語」で,特定の基底文化を持たないのですが,それはエスペラントの「売り」の1つです。誰も母語にする人がいないので,誰にとっても「平等」と言うことです。特定の言語を世界共通にすることは,その言語を母語とする人に有利で,それ自体が既に「格差」を生んでいるという問題意識がエスペラント推進者にはあります。
 しかし,よく知られているように,エスペラントもロマンス,ゲルマン,スラブの諸語から語彙を選択していることから,これらの諸語が基礎になっていると言えます。と言うことは,エスペラントは欧州系の言語に基礎を置く言語ということになるのです。それゆえ,エスペラントの世界においても,誰も母語にしている人がいないという「平等性」を強調する割には,欧州系の言語を知っている人がやはり有利なのです(語尾およびその活用によって言葉に意味を与える方式は,欧州系の特徴)。
 さて,エスペラントが広まった理由としては,以下のものが考えられるでしょう。

  1. 欧州系の言語の特徴を残している
  2. よって欧州文化を基底文化とする
  3. 造語法が存在する
  4. 母語とする人がいないという点が,母語とする人が少ないラテン語と似ている

 実は,この4点が,エスペラントの「平等性」を失わせているのです。つまり,広まる要因を持っているからこそ,エスペラントも特定の人に有利な言語だと言うことになるのです。

 ここから考えると,「誰にとっても平等な言語」というものは,人工的にすら作り出せないということになるのではないでしょうか。現在地球上にある全ての言語を分析して,その体系から全く自由な言語を人工的に作り出すことによって,理論的には可能なのでしょうが,そのような言語を誰が覚えるかというのは大問題です。

 さて,その中で,「国際英語」をいかにして構築していこうというのか,研究者の腕の見せ所でしょう。

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