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ぴちゃん、ぴちゃん
木の葉から滴る水滴が、明快な音を奏で水溜りに綺麗な円を描いている。
少女が目覚めた次の日、ミッドヘヴンの森に久しぶりの青空が訪れたのだ。
ガライは大喜びで早速外へ遊びに行く準備をしていた。
そのとき。
「…あの……」
気弱な声がガライに掛けられる。誰のものかはすぐに分かった。
「どうしたんだい、エル?」
ガライは後ろを振り返り、昨日やっと目を覚ました少女に笑いかける。
「……私も、一緒についていっていいですか…?」
「いいけど、体のほうは大丈夫なのか?」
「うん……ごめんなさい、わがまま言って…」
うつむきながら話す少女に、ガライは再び笑いかける。
「何固まってるんだよ、別にオマエが悪い事したんじゃないんだから、もっとリラックスして!」
「……ごめんなさい……」
やっぱり少女はうつむいたままだった。
「だから、何敬語使ってるんだって! タメ口訊いていいよ…っていうかタメ使え!!」
ちょっと口調が荒っぽくなってしまった。
「…タメってなに?」
「はぁ?」
思わずガライは少女を見つめた。少女も今度は顔を上げ正面からガライを見ている。
…ウソをついている表情ではない。
「私…あまりそういうこと分からないの……ごめんね……」
また少女はうつむいてしまった。
「ようするに、普通にしゃべろってことだよ。分かった?」
「…うん」
弱々しくうなずく少女を見ながら、ガライは昨日の、彼女と自分たちのやり取りを思い出していた。
「名前、何て言うの?」
ようやく泣き止んだ少女に、まずミナの基本的な質問が浴びせられた。
「名前ですか…………………エル……と申します…」
自分の名前にも自信が持てないのか、しばらく沈黙した後に少女は頼りなく答えた。
「エル…いい名前ね。私はミナ。こっちが私の母メリダ。で…」
「俺はガライ。よろしくな、エル」
「…はい、こちらこそよろしくお願いします……」
「何畏まってんの。普通に話しなよ、それとも緊張してるの?」
メリダが、エルと名乗った少女の頭に軽く手を当て、ポンポンと叩く。
「……そういう訳じゃないけど…えっと……何て言えばいいのか分からない…どうしよう……」
エルは恥ずかしそうに顔を下に向けながら、か細い声でそう呟いた。
「気が付いたら知らない人の家にいて、やっぱり緊張してるのね。落ちつくまでゆっくり休みなさい」
「…はい……ありがとう…」
そのあと再びエルは眠りについてしまい、もっと彼女と話がしたかったガライは少しがっかりしていた。
だが、彼女がこんな季節にこの森に来た理由を考えると、今はガマンだと納得できた。
それに、彼女の言葉も気になっていた。
「どうして…どうしてこんな目に遭わなきゃいけないの? 私、何かいけない事したの???」
(一体このコ、何者なんだろ…)
どちらにしろ行きつく結果はその疑問。
(思いきって訊くか…それとも…)
「……私って、ヘンだね」
「は?」
少女の突然の言葉に、ガライは現実へ引き戻された。
「なんにもわからないし…なんにも出来ない…」
「そんなことないよ!!」
またエルが泣き出してしまいそうな気がして、ガライはエルの言葉を大きな声で遮った。
「それより、遊びに行こう! せっかくの雨上がりなんだからさ!!」
「…う、うん」
エルの手を半ば強引に引きながら、ガライは自宅から抜け出した。
「ちょっとガライ!! 風呂洗えって言ったじゃん!!!」
「ごめんな母ちゃん!!」
「おばさん、ごめんなさい!」
窓から怒鳴るメリダから逃れるように、ガライとエルは森の奥へと消えていった。
木々の隙間から漏れる太陽が、濡れた大地を輝かせている。
久しぶりの自由を得られた鳥たちが、嬉しそうにさえずっている。
沢を流れる小川はいつもより水が多く、ココア色に濁っていた。
「あった、これこれ!!」
ガライが茂みに腕を突っ込んで、赤く小さい木の実を数粒取り出した。
「甘いんだ、食ってみ!!」
「え…このまま???」
木の実を差し出されたエルは少し戸惑っているようだ。
そんな様子を見て、ガライもまた不思議な顔をした。
「このままって…このままこうやって」
ガライは実を一粒摘み上げると、そのまま口の中に放りこんだ。
しばらく口の中でコロコロ動かした後、ぷっと種を吐き出して
「わかった? サクランボと同じだよ」
と、再びエルに木の実を差し出した。
「そうじゃなくて…洗わないんだ」
「は?」
ようやくエルの言葉の意味に気付いたらしい。
「…もしかして、エルって思いっきり育ちいい?」
やっと出せた言葉はそんなマヌケなものだった。
もしかしたら、自分があまりに礼儀知らずなだけかも知れなかったのに。
「…うん……いちおう、生まれた家だけは」
答えるエルの声も少し恥ずかしそうだ。
「……」
そんなエルの顔を、ガライは思わずじっと見つめてしまっていた。
助けた時の様子からはとても想像できなかったが、
目覚めてからの様子を見ると、確かにそんな感じがする。
「…気になってるの? 私のこと……」
「うん」
即答だった。
「…このこと、誰にも言わないでくれる?」
「えっ!?」
エルの言葉にガライは驚いた。
まさか彼女が自分のことについて話してくれるとは思っていなかったのだ。
「わかった、誰にも言わない!」
少し慌ててしまった。
「…私、父さんから逃げてきたの」
木々と木漏れ日と雨雫の中、エルは自分の過去を話し始めた。
「アレリアの……貴族の家に生まれて、本当だったら何の不自由も無く暮らせる身分だった。
実際、周りの子はみんな贅沢してた。国民が圧政に苦しんでるのなんか他人事みたいにね。
でも…私はそう出来なかった。もし出来たって、しようとは思わなかっただろうけど」
「……父さんから逃げてきたって言ってたよね、それと関係あるの?」
「うん…」
辛そうに下を向くエル。
「私が、まだ小さかった頃…4歳くらいだったかな? 突然、父さんが私を苛めるようになったの」
「えっ!?」
「母さんも兄さんも、誰もいないとき、父さんは私を地下牢に閉じ込めて、殴ったりムチで打ったり…
…とても痛かった。苦しかった。母さん達が帰ってくるまで、誰も、助けてくれなかった……」
そう語るエルの声が少しずつ泣き声になっていく。
「ううん…それでも、母さんや兄さんがいたときはまだよかった。私の事、大切にしてくれたから…。
でも、一ヶ月前」
「一ヶ月前…?」
エルの瞳から一筋の涙が流れ出た。
「……兄さんが剣術修行の為に、ロンレストに留学する事になったの…
それに、母さんもついていくことになっちゃって……。私は……つれていってくれなかった。
ううん、違う…父さんが、許さなかったんだわ………私を…苛めたかったから……………」
話は、それで終わりだった。
いや、まだ続きがあったのかもしれないが、語り手のエルが声を上げて泣き始めてしまい、
もうこれ以上話す事が出来なくなってしまったのだ。
「エル……」
ガライはエルを辛そうに見つめた。
彼女の体には生々しい傷跡が無数に走っている。
何かで切られたようなもの。ムチで打たれたようなもの。火傷のようなもの…
これらを見て、ガライは始めエルを逃亡奴隷だと考えた。
しかし、もし彼女の話が本当だとしたら、
彼女は一体何の為にこのような傷をつけなければならなかったのか。
「……」
ふと気が付くと、右手がべちょっとした感覚に襲われている。
いつのまにか、木の実を強く握り締めてしまっていたのだ。
ジャムみたいになった果肉と、その形をあらわにした小さな種をガライは凝視した。
(まるで、エルみたいだ)
ふとそんなことを思った。
しかし、どうしてそう思ったのかは分からなかった。
結局エルが泣き止んだのは、しばらくして、メリダがガライを連れ戻しに来た時だった。