ここの背景画像は「QUEEN」さんからお借りしました。
「私は退屈が怖いのです」と旧体制の頽廃の象徴のような言葉を漏らした王太子妃マリー・アントワネットは1770年7月12日に、母マリア・テレジアに次のような手紙を書いています。
九時半か十時に起き、着替えをして朝のお祈りをします。それから朝食。それが終わると叔母様方のお部屋に伺い、普通はそこで国王陛下にもお目にかかります。十時半までいます。
続いて十一時に髪のセットに入ります。正午になると拝謁です。このときは、平民は別として誰もが部屋に入ることができます。私は紅を付け、みんなの前で手を洗います。その後殿方たちが退出しますと、私は婦人たちの前で着替えをします。
お昼にはミサがあります。国王陛下が宮殿にいらっしゃれば、陛下、夫、と叔母様方と一緒にミサに出かけます。いらっしゃらないと、王太子様と二人で出かけます。時間はいつも同じです。
ミサが終わると私達二人は参集者一同の前でお昼をいただきますが、二人はとても速く食べるので一時半には終わってしまいます。
それから私は王太子様のところへ伺います。公務多忙のときは私は部屋に戻り、読書をしたり書き物をしたり、お仕事をします。というのは、国王陛下に上着を作っているからですが、なかなか進みません。神様のご加護によって、あとニ三年で出来上がれればいい、と思っています。
三時になるとまたと叔母様方に戻りますが、この時間には陛下もおいでになっています。
四時には神父様が私の部屋にお見えになります。そして五時にはクラブサンか歌の先生が来て、六時までいらっしゃいます。
六時半には散歩に出ますが、そうでないときはと叔母様方のところへ参ります。このときは、たいてい王太子様も一緒に伺います。
七時にトランプかゲームが始まり、九時まで続きます。お天気がよければ、散歩に出ます。そのときはゲームは私の部屋ではなくて、と叔母様方のお部屋でいたします。
九時に夕食。国王陛下がいらっしゃらなければ、と叔母様方がおいでになってご一緒にお食事をいたします。陛下がいらっしゃるときは、夕食後に私たちがと叔母様方のところへ伺い、陛下をお待ちします。陛下は大抵、十時四十五分においでになりますが、それまで私は大きなソファに横になり、陛下がお見えになるまで眠っています。でも、いらっしゃらないときは、私たちは十一時に眠ります。
これが私の一日の全てです。
一日の大半をオールドミスの叔母様方と過ごしている若き王太子妃の生活は、この上もなく単調で退屈です。しかも、叔母様方は自分のことだけしか考えていないようですから、マリー・アントワネットへの悪影響は図りしれません。マリー・アントワネットを享楽生活に導いた影の功労者はこの叔母様方でしょう。
当時のフランスといえば、イギリスという目の上のたんこぶがあるにしろ、文化的にも経済的にもヨーロッパ一の大国でした。そのフランスの王妃といえば、フランスのファースト・レディと言うよりは、むしろヨーロッパのファースト・レディと言ってもいいくらいでした。
マリー・アントワネットはそのファースト・レディにふさわしい女性でした。美人だしスタイル抜群だし、ファッションセンスはいいし、ダンスは見事だし、とにかく宮廷の華やかな世界にまさにぴったりの女性でした。
ところが、意外なことに、王妃もしくは王太子妃がファースト・レディになったのは本当に久しぶりのことだったのです。マリー・アントワネットの前はデュ・バリー夫人でした。その前はポンパドール夫人です。ポンパドール夫人の前は、普通ならばルイ15世の妃マリー・レクザンスカがその位置に収まるはずでしたが、彼女は優雅とはほど遠い女性でした。ポンパドール夫人からデュ・バリー夫人に移る間も本来ならば、ルイ15世の息子の妻、すなわちルイ16世の母である王太子妃がファースト・レディになるはずですが、彼女もやはり宮廷に君臨するタイプではありませんでした。
早い話、フランスのファースト・レディの座はずっと寵姫が占めていたのです。ですから、ハプスブルク家の大公女と言う高貴な家の生まれであるマリー・アントワネットがファースト・レディになったとき、彼女自身の魅力とあいあまって、非常な人気を博しました。
おまけに、妻以外の女性には見向きもしないルイ16世は寵姫など作りませんでしたから、ファースト・レディの座は安泰でした。しかも、妻の言うことならば何でも聞いてしまう夫には、妻の暴走を止めることができません。もうフランスはマリー・アントワネットのために存在するようなものでした。
さて、寵姫というのは言うまでもなく、不道徳な存在でしかも市民の血税を浪費しており、宮廷でちやほやされてはいても民間では嫌われていました。逆にいえば、宮廷の悪口を一手に引き受け、王妃や王太子妃が民衆から嫌われることを防いでいたようなものです(尤も防いでくれなくても、彼女達は地味でしたからそれほど嫌われなかったでしょうが…)。
マリー・アントワネットは革命が近づくにつれて国民から集中的に嫌われるようになりました。これは彼女の不徳のいたすところであるのは間違いありませんが、寵姫という不道徳な存在がいれば、国民の憎悪はもっと分散されたことでしょう。