ここの背景画像は「QUEEN」さんからお借りしました。
これは有名なお話ですから、ご存知の方もたくさんいらっしゃるでしょう。
天才少年モーツァルトは幼い頃からヨーロッパ中を演奏旅行していました。1762年10月6日、6歳の時、彼は両親と姉と召使と一緒にウィーンに行き、神聖ローマ帝国の女帝マリア・テレジアに謁見を賜り、女帝、夫君フランツ一世、マリア・アントニア(マリー・アントワネットのドイツ名)の前で御前演奏をしました。
音楽をこよなく愛する両陛下はモーツァルトと姉の幼い姉弟の才能に感嘆したのは言うまでもありません。モーツァルトも演奏が成功したことに喜んで、女帝の膝の上に跳び乗り、その頬にキスをしたと言われています。
また、モーツァルトが宮殿の床に滑って転んだ時、あと何日かで7歳になる(したがって、まだ同い年の)マリア・アントニアが駆け寄って助け起こしてくれました。すると、モーツァルトは喜んでこう言ったそうです。
「あなたはいい人だ。大きくなったらお嫁さんにしてあげる」
こういう言葉が咄嗟に出るということは、早熟の天才モーツァルトはやっぱりおませだったということでしょうか。でも、転んでしまってものすごく恥ずかしい思いをしていたに違いない時に、さっと助けてくれたのがとてもきれいな王女さまだったのですから、感激もひとしおだったことでしょう。
マリー・アントワネットはモーツァルトの死の2年後に断頭台の露と消えることになりました。
フランス革命史の中には思いもかけない人間同志の邂逅があります。これもそのひとつですが、お互いの人生に大した影響を与え合わなかっただけに、微笑ましいエピソードとして残ります。これ以外にも徐々にご紹介する予定ですが、例えば、ルイ16世とロベスピエール(これも有名ですね)、デュ・バリー夫人と処刑人サンソンなどいくつかあります。この人達は、お互いの生死に深く関わっているので、マリー・アントワネットとモーツァルトのエピソードのように「かわいいこと!」ではすまされません。
マリー・アントワネットと言えば、とにかく国庫を湯水のごとく使った、というのが一般的なイメージでしょう。確かに、その使い方は尋常ではなく、義弟のアルトワ伯から「赤字夫人」などと言う不名誉なあだ名までもらってしまいました。
しかしながら、フランス国庫はマリー・アントワネットひとりの浪費などで揺らぐものではありません。個人の浪費などたかが知れている、というものです。フランスが破産寸前になった一番の原因は戦争に次ぐ戦争でした。王室が使った出費は国庫の10%にも満たないそうです。(それでけでも充分すぎるかもしれませんが)
ちなみに「赤字夫人」の浪費振りをちょっと見てみましょう。
以上が主な浪費です。とにかく彼女の浪費は目立つものばかりですから、中傷するには好都合と言うものです。
このような浪費は弁解の余地のないものですが、ほんの少しだけ弁護すれば、ルイ16世との夫婦関係があげられます。これも有名な話ですが、ルイ16世の身体的欠陥から二人は長いこと夫婦としての結びつきがなかったそうです。しかも、夫は簡単な外科手術で治る、と言われているのに、手術を恐れて何もしようとはしないし、マリー・アントワネットがこのことでずいぶん苦しんだことは間違いのないことでしょう。そのやり場のない寂しさをその場しのぎの遊興で紛らわせたのだ、というのが通説になってます。
でも、それにしても、です。王妃なんですから、気晴らしの程度と言うものもあるでしょう。確かに、どうしても皇太子を生まなければならないという立場もありますし、夫婦の秘密をあのデュ・バリー夫人に宮廷中に広められた、という悔しさもあるでしょうが、いろいろ弁護しても、結局、王妃としての自覚がまるでなく、人を見る目がまるでなく、その場が楽しければいいという軽佻浮薄な性質がいけないのです。
ちなみに、マリー・アントワネットの浪費は初めての子供(王女)が生まれてからぴたっとなくなったそうです。
ヴェルサイユには浴室がありませんでしたが、オーストリア育ちのマリー・アントワネットはお風呂が好きでした。
お風呂に入る日の朝、王妃の部屋にスリッパ型のお風呂が運び込まれ、イギリス製のガウンをまとい、ボタンを下まで付けてお湯につかります。もちろん、王妃の寝室にお風呂が運ばれるわけですから、思いっきりよく石鹸をつけて身体をごしごし洗う、などということはできません。品良く座るのです。
そして、食事を載せたお盆をお風呂の蓋の上に置いて、朝食を取ります。朝食は、生クリームを入れたホットチョコレート(私も好き!!)、もしくはコーヒーとクロワッサンという実に簡素なものでした。
さて、お風呂から上がるときは、女官頭が他の女官たちの目から王妃の身体を隠すようにして大きな布を掲げ、それを王妃の肩に掛けます。ついで、他の女官がその布で王妃を包み、水気をすっかりふき取ります。それから白いベッド用ガウンをまとい、レースで縁取りしたスリッパを履きます。その間に別の女官がベッドを温めておき、そこへ着替えの済んだ王妃を移すというわけです。
この間、王妃がすることといったら朝食を取ることくらいで、後はゆっくりお湯に浸かっているか、立っているだけでいいのです。何から何まで女官達が世話をしてくれますから、ずいぶん楽ちんなことでしょう。
私達の感覚からすれば、こんなのは入浴とは言いがたいのですが、入浴の習慣そのものがなかった当時からすればきわめて異例なことでした。もし、マリー・アントワネットが日本人だったら間違いなく温泉めぐりをしたことでしょう。
フランス王妃と言えば、フランスばかりではなく全ヨーロッパのファースト・レディと言っても過言ではありません。革命前のマリー・アントワネットには崇拝者や追従者が掃いて捨てるほどいて、日夜遊びのお相手をしてくれました。
しかし、革命が勃発すると、それらの人々は掌を返すようにマリー・アントワネットの前からいつのまにか姿を消していったのです。一人ぼっちになった彼女を、恋人の フェルセンが支えたのは有名な話ですが、フェルセンよりも身近で彼女の心の支えになってくれた女性がいます。ランバル公爵夫人と国王の妹エリザベートです。
ランバル公爵夫人は、革命が始まる前、マリー・アントワネットから離れていた時期もありましたが、革命が勃発し友人と称していた人々が忽然といなくなった時、ひとり果敢にもテュイルリー宮殿に舞い戻りました。その上、危険を顧みず、自分の部屋をマリー・アントワネットと国王支持派の人々が密かに会う場所として提供し、王妃を支え続けました。でも、8月10日、テュイルリー宮殿に侵入してきた民衆は王妃をタンプル塔へ、ランバル公爵夫人をフォルス牢獄へ収容しました。
そして、数週間後に起きた「9月虐殺」。民衆はランバル公爵夫人を殺害し、死体を汚し、その首を王妃が収容されているタンプル塔の窓辺に置きました。それまでずっと気を強く持っていた王妃でしたが、その変わり果てた姿を見て失神してしまいました。
革命が勃発した時、彼女はなぜマリー・アントワネットの元に戻ってきたのでしょうか。そのまま安全な場所にいつづければこんなに惨い殺され方をしなかったのです。王妃に対する忠誠でしょうか。心から王妃を愛していたのでしょう。
もう一人の女性、エリザベート王妹は、それこそ王妃の生涯で一番身近にいた女性です。ヴァレンヌの逃亡でも一緒でしたし、1792年6月20日、民衆がテュイルリー宮殿に押し入ってきたときは、王妃になりすまし、人々のののしりをじっと耐えてくれたのも彼女です。タンプル塔でもずっと一緒に過ごし、国王の処刑のときも、王子ルイ17世から引き離されるときも、王妃を支え続けました。
そして、マリー・アントワネットが処刑の前日、「妹よ、あなたにこそ、これを最後と手紙を書きます」と言う出だしで始まる遺書を書いた相手こそ、まさにエリザベート王妹だったのです。王妃がどれだけ信頼していたのかわかるでしょう。
その後、王妹は王妃の代わりにマリー・テレーズ王女とタンプル塔で過ごしましたが、その7カ月後1794年5月9日、兄ルイ16世と兄嫁マリー・アントワネットの後を追うように処刑されました。
なぜ、エリザベート王妹が処刑されなければならなかったのか不思議です。彼女には国王夫婦と違って何の力もないし、彼女を助け出そうとする人間がいたわけでもありません。革命前から貧しい人に施しをするような心優しき女性だったのです。恐怖政治の罪のない犠牲者なのでしょうか。それとも、ルイ16世の妹は存在そのものが罪だったのでしょうか。
マリー・アントワネットの有名な言葉は? と聞かれたら誰でもまずこの言葉が頭に浮かぶでしょう。ちょっと趣味に走りますが、私の大好きなブリティッシュ・ロックグループの「クイーン」に「キラー・クイーン」と言う曲があります。これは高慢な高級娼婦(何か意味が違うみたい。でも、コールガールのこと)の歌ですが、その中で「キラー・クイーン」と噂される女性は、「マリー・アントワネットのように『お菓子を食べさせたらいいじゃない』と言う」("Let'em eat cakes, she said, just like Marie-Antoinette")、と言う歌詞があります。
何か話がそれましたね。でも、言いたいのは、それほどこの言葉が有名であるということです。世界中の人が知っています。
この言葉は、次のような状況で出てきました。
廷臣「王妃様、民衆は飢えております。もはやきょうのパンさえありません」
マリー・アントワネット「あら、パンがないのならお菓子を食べればいいじゃないの」
つまり、高貴な生まれで、ロココの女王である王妃には「パンがない」、という意味が全くわからないということです。パンのない人にお菓子なんて手に入るはずがないのに、それすらわからない、つまり、王族の暮らしは民衆とあまりにもかけ離れている、ということを端的に物語っています。
確かにそうです。全く、身分の高い人は一般大衆のことがわかってません。ですが…。ここからが問題です。この言葉は当時のジャーナリストが王妃をことさら悪く言おうとしたでっち上げなのです。マリー・アントワネットはこんなこと言ってません。
この言葉は、実はルイ15世の娘(ルイ16世の叔母)であるヴィクトワール内親王がかつての飢饉のときに言った言葉と言われています。
国王に関してはまだ好意的であった国民が、王妃をオーストリア女と呼び、悪者にしていました。それをさらに煽情するために流布されたものなのです。と言って、マリー・アントワネットに罪がないわけではありません。こんなことを言われるのは十分な下地があるからです。
農民がどんなに悲惨な生活をしているのかなんて少しも理解できず、プチ・トレアノンという所で偽物の牧歌生活を楽しんだり、毎晩国民の税金を使ってギャンブルをしたりしていた方が悪いのです。だから、国民は敵意も込めて、国王の叔母なんて言う誰だかわからない人よりも、ロココの女王の方がずっとこの言葉にふさわしいと思ったのでしょう。