オーストリア女帝マリア・テレジアの子供で、ヨゼフ二世の弟。マリー・アントワネットの兄。フランス革命に強く反対した。
在位はわずかに二年だが、その間1791年、プロイセン国王と共にビルニッツ宣言を発し、これが契機となって以後フランス革命時代、ナポレオン時代のフランスとの間に長い戦争を始めることになった。
ロベスピエール(マクシミリアン・フランソワ・マリ・イジドール・ド・ロベスピエール「清廉の人」革命に人生の全てをかけた人。
北フランスのアルトワ州アラスに生まれ、弁護士をしていたが、1789年三部会の議員に選出されてから革命に身を投じる。
ジャコバン派のリーダーで、対外戦争よりも革命を徹底させるべきとの理由で、君主制の支配するヨーロッパに対する戦争に反対(1792年4月)し、その後、ルイ16世の処刑判決を招いた。
1793年、ジロンド派が失墜すると、ジャコバン派を率い、革命政府の指導者となった。 7月、公安委員会に入り、まもなくその原動力となり、民衆の要求に応えて反対派を次々と処刑するなどいわゆる恐怖政治(テルール)を行った。
また、フランス共和制に敵対する諸君主国に対する戦いを推進した。同士のダントンなどとは違い、賄賂を一切受け付けず、その潔癖なまでの厳格さに、「清廉の人」と言われた。
1794年には反対者のエベール派やダントン派をも粛清した。また、社会組織を深く変革することになる諸法律(ヴァントーズ法)や、恐怖政治を強化する法律(プレリアル法)を議決させた。宗教的には、最高存在の礼拝を創始した。
彼の清廉潔白さと独裁的な気配に不安を感じ、「次は自分だ」と思い込んだ(やましさが身に覚えのある)タリアンやバラスらが中心となって、テルミドールの反動を起こし、ロベスピエール派はあっけなく逮捕、処刑された。
当初、ロベスピエールは狂信者のように言われていたが、時代が進むにつれてその評価が高まってきている。もっとも、本人には今さら、どうでもいいことかもしれない。
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ナポレオンを発掘したロベスピエールの弟。
兄マクシミリアンと同じルイ大王学院に学び、弁護士となった。革命が激化すると、1792年、パリから国民公会議員に選出され、兄の忠実な補助者として革命政治に参加した。アルプス軍付き派遣議員となり、ツーロン攻囲の際、ナポレオンを知り、その昇進を助けた。
テルミドール九日の国民公会の席で兄が告発されたとき、ルパと共に「私も兄と徳を共にしたい。私に対する逮捕状を要求する」と叫んで、逮捕された。その後、自殺を図ったものの未遂に終わり処刑された。
ロム(シャルル・ジルベール・ロム) 1750.3.26.-1795革命暦の提案者。山岳派議員。
数学者、立法議会、国民公会の議員で山岳派となる。
1793年9月22日、共和国建国一周年の前日国民公会で共和暦の提案し、ファーブル・デグランティーヌが月の名前を付け、採用される。派遣議員等も勤めたが、テルミドール反動では、沈黙を守り、どちらの側にも付かなかった。
その後、プレリアルの蜂起に協力したものの失敗。死刑の判決を受け、自殺。
ロラン(ジャン・マリ・ロラン・ド・ラ・ブラチエール) 1734-1793ジロンド派内閣の内務大臣。ロラン夫人の夫。
当初は工業検査官だったが、夫人と共に革命後パリに出て革命家達と交際、1791年立法議会に入った。ジロンド派の指導者となり、夫人の力で二回内務大臣を務めた。革命が進行する中、ジロンド派山岳派と対立したが、敗北した。1793年6月のジロンド派逮捕事件の際、ルーアンへ逃れたが、妻の処刑を聞いて自殺した。
マノン・ロラン (ジャヌ・マノン・フィリポン・ロラン)1754-1793ジロンド派の女王。ジロンド派の黒幕
1780年、26歳で結婚。当時としてはずいぶん晩婚だった。1791年、パリにサロンを開き、そのサロンは有名になり、ジロンド派の中心となった。 ジロンド派の女王、もしくは黒幕と称され、ジロンド派が失脚した1793年6月に逮捕され、反ロベスピエール派ということで11月処刑された。死の直前、獄中で書いた「回想録」の内容は………。
処刑されるとき、「自由よ、汝の名の下でいかに多くの罪が犯されたことか」と言ったと言われている。