オーストリア出身の音楽史上最大の天才作曲家。
モーツァルト |
ドイツ古典音楽の確立者。音楽家一族の出身。3歳の頃息子の才能に気が付いたザルツブルクの宮廷音楽家を務めていた父レオポルト・モーツァルトにより、幼児から厳格な音楽教育を受けた。
、1762年1月、6歳の時、ピアニストとして父や姉とともにミュンヘンのバイエルン選帝侯を訪れ、その年の9月にはウィーンのシェーンブルン宮殿に招かれ、マリア・テレジア一家の前で天才振りを披露した。その時、1歳年上の皇女マリー・アントワネットに「大きくなったら結婚してあげよう」と約束したというエピソードも残っている。
以降もパリ、ロンドン、ミラノ、ナポリ等各地を巡演した。
1781年、ウィーンに定住、翌年結婚し、作曲・演奏・教授の報酬で生活し始めた。その生活は窮乏していると言われていたが、近年の研究ではかなり裕福だったと言われている。
1791年12月5日の真夜中過ぎ、未完の傑作「レクイエム」を残したまま帰らぬ人となった。
35歳という短い生涯に600以上もの交響曲・室内楽・オペラ等を作曲した。
モーリー (ジャン・シフラン・モーリー) 1746-1817熱心な王党派として活躍した司祭。
靴屋の息子から司祭となる。聖職者代表として三部会に選出され、そのまま立憲議会の議員となるものの、熱心な王党派で反革命派として活動。
1791年、亡命。法王によりニース大司教に任命され、ローマではルイ16世の叔母アデライトと共に法王をけしかけて革命の進行を止めようとした。その後、ナポレオンにも仕えて枢機卿になる。
モンテスキュー (3) 1689-1755「法の精神」(1748年)の作者。世界史で勉強しましたね。
ボルドーの名門法服貴族の生まれ。法律を学んで弁護士となり、その後イギリスに渡ってイギリスの議会政治に感銘を受ける。
後に高等法院長となり、現実政治的には保守的な政治活動を行っていたが、「法の精神」を著し、立法・行政・司法の三権分立を主張することにより、近代社会科学の先駆者の一人となった。
著作の中で、全ての社会現象は支配者(国王)の意志や人徳とは無関係であることを説き、「歴史を作るものは、王たちでも神でもない。歴史はひとりでに作られる」という基本的な考え方を取った。この考えは、フランス革命のみならず、アメリカの独立にも影響を与え、多くの国の民主国家思想の元になった。
晩年にモンテスキューの視力は盲目に近い状態にあったが、パリで悪質な熱病で没した。
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