グロ画 |
説明不要の英雄。
コルシカ島の名門の出。パリ士官学校に学び、1785年砲兵連隊に入る。 革命中は、革命に味方する下級将校として勤務し、1793年末、ツーロン港砲撃で名を挙げ、ロベスピエールの弟と親しくなり、1794年イタリア軍砲兵司令官となる。テルミドールのクーデターでロベスピエール派とみなされ、一時逮捕されたが、のち釈放。
1795年、バラスによりヴァンデミエールの反乱で副官に抜擢され、鎮圧に成功し、国内軍指令官に登用される。1796年にはイタリア遠征軍指令官としてオーストリア軍を破り、カンポ・フェルミオ条約を結んで凱旋した。1798年、エジプト遠征。翌年、帰国。シエイエスらと共にブリュメールのクーデタを起こし、執政政府を樹立した。その後、第一執政となり軍事独裁へと進む。
1804年に皇帝となり、第一帝政が始まる。同時にこれまでの革命戦争は侵略戦争に変わり、戦火はヨーロッパ大陸全土へと広がった。
1812年、モスクワ遠征に失敗し、1814年退位。エルパ島に流される。翌年脱出して、百日天下を樹立したが、ワーテルローの戦いで敗れ、セント・ヘレナに流され、そこで死す。
ヌシャトー (フランソワ・ド・ヌシャトー) 1750.4.9.-??総裁政府での内務大臣。改革に力を入れる。
1797年9月、フリュクチドールのクーデター後、総裁政府で内務大臣を務める。大蔵大臣のラメルと共に改革に尽力した。
1798年秋、シャン・ド・マルスをで第1回の産業博覧会を開催し、大きな成功収める。また、合理的な人口調査や農業調査を実施し、学校の創設に努めるなど、真摯に改革に取り組んだ。そのおかげで中央学校の数は多くなり、国民教育上級会議が創設され、公共救済事業が再組織された。
ネッケル(ジャック・ネッケル)1732-1804革命勃発時の財務長官。
ジュネーブの教師の息子として生まれ、パリに出て投機に成功し銀行家となる。1776-1781、1788-1790年の二度にわたって財務長官になり、財政支出の縮減、特権身分の免税特権の廃止などによって財政再建を果たそうとした。国の債権者の信用を維持するために、彼は「会計報告」を出し、この中で戦費の記入を省略して、いかにも1000万ルーブル以上も剰余金があるように報告した。またさらに、廷臣たちの手当ての総額を公開したために、民衆の人気を得たが、当然ながら貴族は激怒した。
彼の免税特権の廃止の主張に対して、貴族ら特権身分は猛反発をし、三部会で廃止案を無効にさせようとして、三部会の召集を王に迫った。三部会はもちろん召集されたが、免税特権の維持どころか、これが革命の契機となり、貴族は没落していく。
ネッケルは外国人でしかも新教徒だったので、財務総監と同じ権力を持っていたが、<「財務総監」という肩書きをもらうことはできなかった。1790年9月に財務長官を引退すると、スイスに引きこもり革命についての著述を書いた。彼の娘は分筆家といて有名なスタール夫人である。
ネルソン(ホレイショー・ネルソン)1758-1805ナポレオンの永遠のライバルであるイギリスの提督。
若くして海軍に入り、東インド勤務、アメリカ独立戦争を経て、1793年、館長として地中海艦隊に配属された。1798年、ナポレオンのエジプト遠征軍をアブキール湾で撃破。1803年、地中海艦隊司令長官となり、フランス艦隊の行動を監視、1805年にはフランス・スペイン連合艦隊をトラファルガーの海戦で破って、ナポレオンのイギリス上陸作戦を挫折させた。だが、自らもこの海戦で戦死した。
ノアイユ子爵1756-1804封建的特権廃止の中心人物となった自由主義貴族。
猟騎兵連隊長。義弟のラファエットと共に、アメリカ独立戦争に参加。帰国後、ラファエットと同様、自由主義貴族として名を馳せ、カロンヌの名士会のメンバーになったり、三十人会のメンバーにもなった。また、貴族身分から三部会の代表に選ばれ、そのまま立憲議会議員としても活躍。
1789年7月14日のバスティーユ襲撃の際、パリでの出来事をヴェルサイユの国民議会に報告したのはこのノアイユ子爵である。
その年の8月4日、「賞賛され全ヨーロッパの模範となるような政府を選び、国民議会が国民の幸福と積極的に取り組んでいることを示すために」、全ての国民が資力に応じて納税する公式な義務、買い戻しに基づく領主税の撤廃、奴隷制の名残の全廃を要求し、熱狂的に受け入れられた(封建的特権の廃止)。
1791年北部軍の指令官。辞任して亡命。1800年帰国。