ここの背景画像は「QUEEN」さんからお借りしました。
彼は革命政府にも協力したし、科学の発展にも非常に貢献したが、徴税請負人という前歴のため、「共和国に対し同盟した専制君主どもに対する戦争に必要な莫大な金額」を国家から巻き上げ、「搾取および公金私消」した罪を問われ、有罪判決を下された。(→もっと詳しく)
ラボアジエの業績に関する報告書が判決を下される前に提出されていたが、この文書は革命裁判所検察官フーキエ・タンヴィルの書類の中に今日までしまい込まれ、裁判で活用されることはなかった。
また、今やりかけている実験の結果が出るまで、2週間だけ刑の執行を猶予してくれ、と請願したが、それも無視された。
彼は妻に遺言を書いている。
私はどうにか長い人生を、しかも非常に幸福な人生を送ってこられた。そして、私の思い出にはいくらかの栄光が伴うだろう、と信じている。それ以上のことを何を望むことがあるだろう。私が取り包まれているこの出来事は、多分、私に老年の不如意を免れさせてくれるのだろう。 私はとにかく死んでいく。これは私がこれまで享受してきた数々の喜びに加える喜びだろう。私は、きょうお前に手紙を書いておく。この先、もう二度と手紙は書けないだろうから。そして、この最後の時に、お前や他の親しい人達のことだけを考えていられるのが、しみじみとした慰めになっている。 |
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1793年1月21日、水曜日。ルイ16世は牢獄で看守に起こされた。この世で最後の目覚めである。彼は前年の8月から王妃マリー・アントワネット、皇太子、王女、妹のエリザベートと共にタンプル塔で暮らしていた。
8時30分に最後のミサを受けることを許された。その後、市長所有の幌付き馬車に乗った。寒くて霧のかかった朝だった。群集が集まり、衛兵は革命広場まで4キロもの道のりを並んで護衛した。この場に及んでも国王を救出しようとしている者がいるから、それを恐れたのである。
太鼓が鳴りつづけ、道に立っている群集は静かに国王の馬車を見つめた。革命広場まで行くのに1時間かかった。革命広場に2万の群集が集まったが、声を発するものはいなかった。
10時に国王は断頭台に着いた。彼は牧師と共に処刑台に上り、自ら上着とスカーフを脱ぎ、襟元をゆるめた。両手は後ろで縛られ、髪は大きなはさみで切られた。それから、群集に向かって力強い声で次のように叫んだ。今まで鳴っていた太鼓の音が止んだ。
「余は、余が告発された全ての罪について無実のまま死ぬ。余は、余の全ての敵を許す。
余の血がフランス国民にとって有益ならんことを、そして神の怒りを鎮めんことを、余は切望する。
かつ、汝らの不幸な人民の怒りを…」
最後のほうは太鼓の音で消されてしまった。二人の処刑人が国王をつかみギロチンに載せた。
拍手が沸き起こった。群集は帽子を投げ、処刑台の周りで踊った。公式の死亡時間は10時22分。
存命中は、妻の言いなりになる優柔不断な国王だったが、最後ばかりは国王らしく堂々としていたと言う。
(ルイ16世はあまりに鈍いので、死に赴くということがわからなかったのではないか、という人もいるが、この善良な国王をそこまで悪く言いたくないと言うのが私見である。)