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 6.国王裁判  

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6.国王裁判
  1. 国民公会革命の第二期を迎え、 国民公会が召集されました。ここで、ブルジョワジーを代表するジロンド派と、民衆を代表する山岳派が対立します。
  2. 国王裁判ここでも山岳派とジロンド派の行き詰まる論戦が交わされます。結局、民衆を背景に持った山岳派の理論がルイ16世に死刑を宣告します。

ii. 国王裁判

一言で説明すると…ここでも山岳派とジロンド派の行き詰まる論戦が交わされます。結局、民衆を背景に持った山岳派の理論がルイ16世に死刑を宣告します。

ジロンド派の対応

国王が革命に敵対し、外国と密通していたことは、8月10日、民衆がテュイルリー宮殿を襲撃した時、秘密文書を発見し明らかになっていました。ヴァルミーの勝利の勢いに乗って、国王を裁判にかければ革命が大きく前進することは明らかでした。しかし、革命の前進を望まないジロンド派は国王の裁判に消極的でした。

反革命の立場を取らない限り、国王裁判に反対することは困難でした。ジロンド派は、1791年の憲法に違反した国王に、今や無効となった1791年の憲法を適応することはできない」と言ったり、「人民の意見を聞くべきだ」と主張し、裁判の延期を画策しました。

一方、山岳派は、8月10日以降ルイ16世は一般市民と同じように刑法の適用を受けるべきだと主張し、両派の論戦が続きました。

11月20日、テュイルリー宮殿の秘密の戸棚から、国王が外国と密通していた証拠の文書が多数発見されました。これは秘密の戸棚を作った国王お抱え錠前師ガマンが、1年前、マリー・アントワネットにビスケットとワインをご馳走になった後、激しい腹痛に襲われたため、王妃に毒殺されそうになったと思いこみ、1年経った今、内務大臣のロランに通報したのです。

ところが、ロランは迂闊にも立会人なしで、ひとりでこの戸棚を開けたため、ジロンド派に不利な証拠を隠滅したのでは、という疑惑が持たれました。山岳派は勢いづきました。


サン・ジュストの処女演説

弱冠25歳のサン・ジュストは処女演説で、そもそも国王裁判などというものはありえない、王を一市民として裁判することなどできない、と主張しました。その理由を、この時の演説の有名な一節を引用して説明しましょう。

サン・ジュスト 「人は罪なくして王たりえない」

つまり、王の存在はそれ自体が「悪」であり、人民主権とは共存できないものなのです。王が犯罪を犯すと言うことは、王権神授説を受け入れて、それを認めるか、さもなければ、「敵」として処断するかのふたつにひとつです。

「私としてはその中間は認められない。この男は、王として統治すべきか、それとも死ぬか、それ以外はありえない」

と言う訳です。明確な理論です。この時代は、「演説」が大流行でした。政治を目指す人は、弁が立たなければなれませんでした。ですから、初めての演説を堂々とやりこなした人は、何もサン・ジュスト一人ではありません。しかし、彼のこの演説を他の人の処女演説と比べて格段に有名にしたのは、その内容です。25歳の、女性と見まがうほどの美貌の持ち主が、「人は罪なくして…」と言い出したら、やはり強烈な印象を与えるのでしょう。


ロベスピエールの演説

サン・ジュストに続き、ロベスピエールも演説しました。彼は、サン・ジュストよりも冷たい理論を展開しました。

ロベスピエールの微笑 「これは裁判の問題ではない」

つまり、裁判と言うのは、有罪か無罪を決めるものであるので、「無罪」の可能性を内在しています。しかし、共和制を樹立する、ということ自体が、ルイを裁き断罪しているのです。

「祖国は存在すべきものだから、ルイは死すべきである」

ロベスピエールとサン・ジュストらが率いる山岳派の冷徹な理論に、内気で人のいい善良なルイ16世が勝てるわけがありません。


再びジロンド派

論戦で不利になったジロンド派、オルレアン公も含むブルボン家全てを処罰することを要求して、山岳派を困らせようとしました。オルレアン公は山岳派の一員になっていたのです(おお、いつの間に)。しかし、この脅しは無視されました。

12月6日、国王の裁判に関する全ての投票は、傍聴席の人民の前で行われることが決定されました。ジロンド派は公開投票を恐れていることを言うことができませんでした。


投票!

1793年1月14日、次の3つの票決がなされました。

  1. 国王は有罪か。
  2. 国民投票をすべきか。
  3. 死刑が科せられるべきか。
議員達は投票に際して、その意見を公然と表明しなければなりませんでした。その後の彼らの運命がこのときの票にかかっていたのです。それでは、上記の投票の結果を表にしてみましょう。

内容賛成反対
国王は有罪か。721
国民投票の賛否286425
死刑の賛否387334

ただし、死刑賛成者の内、26名は執行猶予について検討すべきである、という条件をつけました。この26名を反対票とすると、361票対360票となり、賛否同数となります。ですから、18日、執行猶予についての投票が行われました。結果は380対310(合計数が合いませんね。棄権及び欠席票があるということです。)で、死刑は確定しました。

よく、ルイ16世の死刑の投票は1票差だったと言われますが、これは上の361対360のことを言います。 オルレアン公

また、特筆すべきは、オルレアン公がルイ16世の死刑に堂々と一票を入れたことです。この時ばかりは、さすがに国民公会の傍聴席からも驚きの声が上がったそうです。


国王処刑

裁判の期間中、議会外でも興奮は高まっていました。山岳派の一議員は暗殺され、ある役人は銀行家の援助で200万リーブルをばらまいて議員の買収を図りました。王党派は最後まで希望を捨てることができなかったのです。

ルイ16世の処刑 刑が確定して三日後の1月21日の朝、パリ・コミューンは全ての国民衛兵を動員して、処刑の行われる革命広場(かつてはルイ15世広場と呼ばれていました)までの道を警護しました。9時30分頃、死刑が執行されました。長い間神秘的な権威を持ちつづけていたブルボン王朝は、今、決定的に葬られました。

ジロンド派の投票

さて、不本意ながら投票に臨んだジロンド派の投票内容を見てみましょう。対象となるのは、以下の17名です。

指導者のブリッソー、バルバルー、ビュゾーコンドルセ、デュコ、ジャンソンネ、ゴルサス、グランジュヌーヴ、ガデー、イスナール、ケルサン、ランジュイネ、ラスルス、ルーヴェ、ぺチオン、ヴァラセー、ヴェルニオ

内容賛成反対欠席棄権
国王は有罪か。17
国民投票の賛否13
死刑の賛否12
執行猶予の賛否

この17名はジロンド派の中枢をなすメンバーです。それでも、投票内容はこのようにばらばらで、死刑に賛成する者が5名、執行猶予に反対する者が7名もいました。

歴史家の中には、ジロンド派を「エゴイストの集まりで、どんな指導者にも従わず、一致したプランを持たない全くばらばらの個人の集団」と言う人もいます。確かに、ジロンド派の行動を見ていると、「何がしたいの」と言うようなことも多く、ロベスピエールのような決然とした指導者のいる山岳派とは組織としてのレベルが違うようです。

当時のイギリス大使は、「ジロンド派はロベスピエールを倒すために国王を救おうとしている」と批評しています。彼らにとっての革命は、自分達の利益の追求以外のなにものでもなかったのかもしれません。


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