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一言で説明すると…今までの革命の中途半端な成果に納得できない民衆は再び蜂起します。そして、彼らは王権の停止を要求し、それは実行されました。この蜂起は革命の大きな区切りとなりました。 |
8月10日の革命 |
議会に逃げてきた国王はスイス兵に停戦を命じました。スイス兵は停戦しましたが、連盟兵はなおテュイルリー宮殿内に乱入してきました。略奪と殺戮が続きます。犠牲者は攻守合わせて1000人を超えました。
タンプル塔 |
8月13日、国王とその家族はタンプル塔に移されました。 こうして王権は停止したのです。戦争によって革命を抹殺させようとした国王の意図は、君主制そのものを抹殺しました。
その後40日の間、議会はジロンド派の旧大臣とダントンを臨時行政担当者に選びました。立憲派と穏和派は逃亡し、残った300人の議員は民衆的な改革路を取りました。
今までの民衆の蜂起とその特徴を簡単に見てみましょう。
民衆の心の中には、信頼していた国王が国民を捨てようとしたヴァレンヌ逃亡事件への怒りがあったことは否定できません。
それとは別に今までの革命の成果が中途半端であったことへの不満もあります。その主な不満をリストアップしてみましょう。
1. | 人権宣言では国民主権とか平等とか言っているが、できあがった憲法はブルジョワ憲法だった。 |
2. | 封建制廃止令が発令されてはいるが、農民の負担は少しも軽減されていない。 |
3. | 教会の財産は売りに出されたが、喉から手の出るほど欲しい貧農、小作農には手が出せず(小売をしないので)、土地など必要のない金持ちが投資として手に入れてしまった。 |
4. | 物価の上昇は続き、経済は安定しない。アッシニアも信用できない。 |
5. | 戦争が始まり、外国に脅されている。 |
このように生活そのものに切羽詰っている民衆は、もう中途半端な革命にはうんざりでした。その結果、王権停止を要求し、それを勝ち得たのです。
疑わしい聖職者は牢獄に収容されました。8月14日になると、議会はさらに聖職者の服従を徹底させるために、自由と平等に対する忠誠の宣誓を強要し、これを拒否する聖職者は国外退去させる法令を発行しました。
1. 国王がパリにスパイ活動のための機関を設けていた事実を証明する書類。
2. 貴族の間で購読されていた新聞に国王が資金を提供していたことを証明する書類。
また、11月になると国王お抱えの錠前師ガマンが、王宮の秘密の棚を教え、その中を見ると、ミラボー、デュムーリエ、ラファイエット、タレーランらと国王が秘密に交わしていた手紙が見つかりました。
国王の裏切りは動かぬ事実となって国民の前にさらされました。国王の裁判も時間も問題となってきたのです。
1789年8月4日に公布されれた「封建制廃止令」を強化し、「一切の領主的諸権利はその性質、名称のいかんを問わず無償で禁止される」ことを決定しました。
また、これまで領主が取上げていた農民共有地を農民に返却することを承認し、国有財産(国が取上げた教会財産と亡命貴族の財産)を細かく分割して、売りに出すことにしました。これにより貧農や小作人も自作農の道が開けてきたのです。
革命はここで大きな区切りを迎えます。ここまでを通常、革命の第一期と呼び、これ以後を第二期と呼びます。
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