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 5.王制転覆  

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5.王制転覆
  1. 立法議会 1791年の憲法を基に新たしい議会「立法議会」が誕生しました。しかし、議会内外でそれぞれの思惑が交錯し、フランスは揺れつづけます。
  2. 国外の脅威と戦争ビルニッツ宣言や亡命貴族などの脅威から、フランスは戦争へと巻き込まれていきます。その中でただひとり、ロペスピエールだけが反戦を唱えますが、聞き入られません。
  3. 祖国の危機フランスは敗戦が続きます。議会は「祖国は危機にある」宣言を出しました。ロベスピエールの活躍により国民は愛国心に燃え、革命は次の重大な局面に向かっていきます。
  4. 8月10日の革命今までの革命の中途半端な成果に納得できない民衆は再び蜂起します。そして、彼らは王権の停止を要求し、それは実行されました。この蜂起は革命の大きな区切りとなりました。
  5. 9月虐殺外敵や反革命派に対する恐怖から、民衆はパリの監獄を襲い、反革命派の疑いのある囚人を虐殺します。そして、その興奮の中、フランスはヨーロッパ随一の軍隊プロシア軍をヴァルミーで破ります

iv.8月10日の革命

一言で説明すると今までの革命の中途半端な成果に納得できない民衆は再び蜂起します。そして、彼らは王権の停止を要求し、それは実行されました。この蜂起は革命の大きな区切りとなりました。

8月9日

民衆が蜂起することを予知して、国王はスイス人傭兵や国民衛兵にテュイルリー宮殿を警備させました。 8月9日の夜、パリ全市に警鐘が鳴りました。


8月10日

8月10日の革命
8月10日の革命
夜明けと共に
連盟兵と共に民衆はテュイルリー宮殿に向かいました。警備していたはずの国民衛兵が寝返り、民衆側に付いたので、スイス兵のみが民衆、連盟兵、国民衛兵を相手に戦うことになりました。

議会に逃げてきた国王はスイス兵に停戦を命じました。スイス兵は停戦しましたが、連盟兵はなおテュイルリー宮殿内に乱入してきました。略奪と殺戮が続きます。犠牲者は攻守合わせて1000人を超えました。


8月11日以降

8月11日、議会は戦いの経過を注意深く観察していました。どちらが勝つのかわからない間、議会はルイ16世を国王として扱いました。しかし、民衆側が勝利した時、議会は王権の停止を求めました。
タンプル塔
タンプル塔

8月13日、国王とその家族はタンプル塔に移されました。 こうして王権は停止したのです。戦争によって革命を抹殺させようとした国王の意図は、君主制そのものを抹殺しました。

その後40日の間、議会はジロンド派の旧大臣ダントンを臨時行政担当者に選びました。立憲派と穏和派は逃亡し、残った300人の議員は民衆的な改革路を取りました。


8月10日の革命の意味

今までの民衆の蜂起とその特徴を簡単に見てみましょう。

バスチーユ監獄襲撃(1789年7月14日):
ヴェルサイユ行進(1789年10月5日):食糧難の民衆が、国王と議会をパリに連れ戻した。
テュイルリー宮殿侵入(1792年6月20日):拒否権を発動してばかりいる国王へ抗議した。
そして、8月10日の革命で民衆は王制の廃止を要求し、実現させました。革命の大きな区切りとなります。

民衆の心の中には、信頼していた国王が国民を捨てようとしたヴァレンヌ逃亡事件への怒りがあったことは否定できません。

それとは別に今までの革命の成果が中途半端であったことへの不満もあります。その主な不満をリストアップしてみましょう。

1.人権宣言では国民主権とか平等とか言っているが、できあがった憲法はブルジョワ憲法だった。
2.封建制廃止令が発令されてはいるが、農民の負担は少しも軽減されていない。
3.教会の財産は売りに出されたが、喉から手の出るほど欲しい貧農、小作農には手が出せず(小売をしないので)、土地など必要のない金持ちが投資として手に入れてしまった。
4.物価の上昇は続き、経済は安定しない。アッシニアも信用できない。
5.戦争が始まり、外国に脅されている。

このように生活そのものに切羽詰っている民衆は、もう中途半端な革命にはうんざりでした。その結果、王権停止を要求し、それを勝ち得たのです。


「宣誓拒否僧侶」の追放に関する法令が発行

8月10日の革命の直後、王権が停止されました。その結果、国王が拒否した法令は全て即刻執行されることになり、「宣誓拒否僧侶」の追放に関する法令が発行されました。

疑わしい聖職者は牢獄に収容されました。8月14日になると、議会はさらに聖職者の服従を徹底させるために、自由と平等に対する忠誠の宣誓を強要し、これを拒否する聖職者は国外退去させる法令を発行しました。


国王の裏切り発覚

8月10日にテュイルリー宮殿に侵入した民衆は、王宮内で多くの秘密書類を押収しました。主なものは次の通りです。

1. 国王がパリにスパイ活動のための機関を設けていた事実を証明する書類。

2. 貴族の間で購読されていた新聞に国王が資金を提供していたことを証明する書類。

また、11月になると国王お抱えの錠前師ガマンが、王宮の秘密の棚を教え、その中を見ると、ミラボーデュムーリエラファイエットタレーランらと国王が秘密に交わしていた手紙が見つかりました。

国王の裏切りは動かぬ事実となって国民の前にさらされました。国王の裁判も時間も問題となってきたのです。


封建制廃止令の強化

1789年8月4日に公布されれた「封建制廃止令」を強化し、「一切の領主的諸権利はその性質、名称のいかんを問わず無償で禁止される」ことを決定しました。
また、これまで領主が取上げていた農民共有地を農民に返却することを承認し、国有財産(国が取上げた教会財産と亡命貴族の財産)を細かく分割して、売りに出すことにしました。これにより貧農や小作人も自作農の道が開けてきたのです。

革命はここで大きな区切りを迎えます。ここまでを通常、革命の第一期と呼び、これ以後を第二期と呼びます。


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ii.国外の脅威と戦争
iii.祖国の危機
iv.8月10日の革命

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