フランス革命人物 ら行


フランス語のアクセント記号は、文字化けするので省略してます。正しくは書籍などを参考にしてください。


< (ルイ16世から) >

ラファイエット (マリ・ジョゼブ・ポール・イヴ・ロッシュ・ジルベール・モチエ)1757.9.6.-1834 (3)
La Fayette (H11.2.15.UP) ラファイエット将軍

アメリカ独立戦争で活躍し、「新大陸の英雄」と呼ばれた。

オーヴェルニュの名門貴族の生まれ。17歳で結婚したのち、下士官として竜騎兵部隊に加わるが、伝統的な生活に否定的で、輝かしい英雄的な人生に憧れていた。 1777年、アメリカ独立戦争が勃発すると、莫大な遺産で船を買い、単身で独立軍に加担するため義勇兵として従軍した。ワシントン将軍を助け、陸軍将校の地位に昇り、武勲を立て国民的英雄となると共に、米仏関係上にも貢献することとなった。(本当に貢献だったの?)

フランス革命に際しては、自由主義貴族として活躍し、1789年の三部会では貴族の代表として参加し、国民議会議員となり、「人権宣言」の起草にも関係した。

バスチーユ陥落後、国民衛兵司令官となり、立憲王政確立を目指し、ジャコバン・クラブを離れ、シエイエスと共にフイヤン・クラブを結成した。

1791年7月、シャン・ド・マルス虐殺を鎮圧するなど、民衆勢力と対立し人気を失った。1792年対外戦争に司令官として出動したが、同年8月10日の革命の前後、国王を救おうとして失敗し、オーストリアに亡命、捕虜となった。

1800年帰国。ナポレオン時代は引退生活を送り、王政復古期には反政府の自由主義者として政界に復帰した。1830年の七月革命ではルイ・フィリップの即位を支持して再び国民軍指令官となったが、やがてこの七月王政の反対派に回りつつ、長い生涯を終えた。

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ラボアジエ (アントワーヌ・ローラン・ラボアジエ)1743-1794 (H11.3.30.UP)
ラボアジエ
ラボアジエ
Antoine Laurent Lavoisier

近代化学の父と呼ばれた人。

父はパリの裁判所の検事。法律を学び1764年区裁判所の弁護士になる。この間趣味として科学を学び、四年間、喜望峰に滞在して天文学の研究をしたり、数学、植物学、鉱物学、地質学、化学などを広範囲に学んだ。1766年、22歳の時、アカデミーの懸賞問題であった「都市の夜間照明について」ので優れた報告を行い、国王から金メダルを受けた。

1786年、科学アカデミー会員に推され、以後は研究に専念した。また、財産上の処理として徴税組合員となったが、後にこれが災いする。

フランス革命が起こると、革命政府のもとで新度量衡法設立委員会の主な委員となり、メートル法の確立に力を注ぎ、また、アッシニア紙幣が容易に偽造できないよう、政府は彼の助力を求め、財務委員会委員などに選出され、科学以外の面でも活躍した。

しかし、1794年、革命政府が旧政府の徴税組合員であった者を弾圧し始めると、彼もその前歴を問われ、自首したにもかかわらず、また友人達の救命運動も空しく、他の27人の徴税組合員と共に処刑された。その時の裁判官は、「共和国は科学者を必要としない」と言い放った。(もっと詳しく→)

フランスの科学者ラグランジュは、ラヴォアジエの処刑後、こう言った。 「彼の頭を打ちおとすのにほんの一瞬しかかからなかったが、これと同じ頭をもう一つつくりだすには百年かけても十分ではなかろう。」(もっと詳しく→)

元素の定義、化学命名法、質量作用の法則などを含む彼の新理論は全世界に受け入れられた。 (「人生の終わり方」を見る→)

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ラメット伯爵(兄) (シャルル・ラメット) 1757-1832 (H11.2.18.UP)
Carles Lameth

立憲議会での「三頭派」の一人。

古くからの帯剣貴族に生まれ、アメリカ独立戦争に参加し、武勇をうたわれた。

帰国後、1789年の三部会ではアルトワの貴族代表に選ばれ、改革を主張。革命的貴族とし、立憲議会ではバルナーヴデュポール、そして弟のアレグザンドルと結集し、中道左派の「三頭派」として活躍。

西インドの大地主の娘と結婚し、そのためもあって西インドの独立問題には保守的態度を取った。革命でも保守に転じ、立憲派と協力してフイヤン派を作った。

1792年、北部軍に将軍として参加したが8月10日の革命では抗議し、逮捕される。しかし、ハンブルグに亡命し、ナポレオンの時代になって帰国。征服地総督となり、王政復古後、保守党支持の議員となる。

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ラメット伯爵(弟) (アレグザンドル・ラメット) 1760-1829 (H11.2.18.UP)
Alexandre Lameth

立憲議会での「三頭派」の一人。

ラメット家の末弟で容姿端麗な宮廷貴族。

アメリカ独立戦争に参加し、自由の精神と同時に野心を抱いて帰国。1789年の、三部会ではペロンヌ代表で選出されれ、反専制への活発な発言を行った。

立憲議会では兄と共に「三頭派」の一人となる。革命穏健派のミラボーをパンフレットで個人攻撃したが、民衆の闘争に恐怖を抱き、ヴァレンヌ逃亡以後は、やはり兄と共に王室側に付いた。

1792年北部軍に参加し、8月10日の革命以後、ラファイエットと共にオーストリアに投降し、そこで逮捕され、三年間囚人となった。1799年ブリュメール18日以後、帰国してからはナポレオンの忠実な臣下となり、王政復古後、議員となった。

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ラモワニヨン (クラティアン・フランソワ・ラモワニヨン・ド・バスヴィーユ)
1735-1789
(H12.1.29.UP)
Chretien Francois Lamoignon de Basville

旧体制末期、ラモワニヨンの改革を行う。

歴代大法官や大臣を輩出している法曹界の名門出身。

マルゼルブの従弟でもあり、植物学者としても著名だったラモワニヨンは、1788年、ブリエンヌが財務長官になったとき、「国益のために学者を諦めるように」と説得され、国璽尚書に就任した。優れた知性と高潔な人格でパリ高等法院の評定官の中でも特に広く賞賛と尊敬を受けていた。

高等法院の度重なる反抗に対し、「ラモワニヨンの改革」と呼ばれる厳しい改革を断行した。この画期的な法案は、コンドルセのように知的な人々から高く評価された。もう少し早い時期に、徹底して行われればそれなりの効果をあげたかもしれないが、しょせん手遅れだった。

1789年春、旧体制を持ちこたえさせようとして懸命に努力を重ねた末に、力尽きて倒れたラモワニヨンは、地方の領地で銃殺死体で発見された。狩猟中の事故であると言われている。

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ラリー・トランダル侯爵 (トロフィーム・ジェラール・ラリー・トランダル)
1751-1830
(H13.1.20.UP)
Trophime Gerard Lally-Tollendal, marquis de

立憲議会議員。亡命後は反革命運動に走る。

騎兵隊長。立憲議会議員、王党派。

若い頃、インドにおける軍事上の失敗のスケープゴートとして裁判にかけられ処刑された父親の名誉を回復しようと不屈の努力をした。ルイ16世の治世下、ラリーの努力により父の裁判と判決を無効とした。これらの経験から革命貴族の道を選んだ。

1789年8月4日、封建的特権の廃止の決議では、この熱狂に不安を持ち、議長を務めていたリアンクールに「皆まともな精神状態ではないのだから、会議を延期していただきたい」とメモを渡したものの、最後には喜びに酔いしれた。

ヴェルサイユ行進後、亡命。

「国王は議会の虜、議会は民衆の虜であり、革命は自由の妨害物になりさがった」等と反革命宣伝に熱中。亡命先のイギリスではスタール夫人のサロン(スタール夫人自身はフランスにいた)の常連となり、タレーランらとも親交を結ぶ。1792年帰国。投獄されたが脱獄し再亡命。ナポレオンのもとで帰国。王政復古後枢密院顧問官。

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ランジュイネ (ジャン・ドニ・ランジュイネ伯爵) 
1753.5.12.-1827 (H13.4.22.UP)
Jean-Denis Lanjuinais, comte

ジロンド派の主力議員

レーヌ出身。教会法の教授で弁護士。1789年の三部会の議員から立憲議会の議員を務め、ミラボーが立憲議会の議員でありながら大臣を嘱望したとき、それを阻止。後に国民公会の議員となり、ジロンド派の主力議員として活躍。

1793年4月15日、他のジロンド派議員と共にパリの代表者から告発され、自派の追放後、地方に潜伏。テルミドール反動後、五百人会議議員。ナポレオンのもとで元老院議員。王政復古後には上院議員。

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ロベール・ランデ (ジャン・バプティスト・ロベール・ランデ) 
1746.5.2.-1825 (H13.4.21.UP)
Jean-Baptiste Robert Rindet

革命裁判所を提案したハイエナ。

弁護士出身。立法議会と国民公会で議員を勤める。山岳派。

1793年、ルイ16世裁判では、二十一人委員会の代表として起訴状を作成する。ハイエナとあだ名され、革命裁判所の組織を提案。この革命裁判所は多くの人々の死を招いたが、提案者はこれを免れた。

1793年4月、公安委員会が設立されて間もなく委員に選出される。のち、カルノーサン・タンドレ達と共に、一日16時間も経理、軍隊への食糧供給等の実務を積極的にこなす。

ダントン派ではなかったが、同じような考え方も持ち、ダントン逮捕のときには、断固として署名を拒否した。次第にロベスピエールとは考え方が合わなくなり、意見が衝突しがちになった。

テルミドール反動後追及されたが恩赦。バブーフ陰謀に関係したが無罪。総裁政府の元で大蔵大臣、ナポレオンの元で弁護士として活動した。

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