| 皆さんも当方のホームページで多くの野鳥アニメたちが棲みついていることはご存知であろう。 |
| どれもが可愛くて、いとおしくてたまらない雰囲気があり、当方のホームページを楽しませること |
| に大きく貢献してくれている。 |
| これらは全て「けんぞうファクトリー」というページから譲り受けたものである。もちろんフリー素材 |
| ではあるが、今回フリー素材集でないにもかかわらず余りに惚れこんでしまったシロハラをどう |
| してもホームページに棲んでほしかった為に無理にお願いして住まわせることとなった。 |
| 私は本当に地味系の野鳥が好きな為に、トップページにいるツグミと今回のシロハラがいるの |
| を見てるだけでたまらなく幸せになるのである。 |
| いつも「けんぞうファクトリー」の工場長さんには無理ばかりいって譲り受けているので、是非どこ |
| かで感謝の気持ちを正式に残したかったのでこうして書いている。 |
| 工場長さん、本当にいつもお世話になっています。そして今後ともよろしくお願いします。 |
| 私が初めて感動した野鳥写真集は叶内拓哉氏の「鳥華抄」であった。初心者であった私にとって野鳥 |
| を風景的に撮ることを考えもしなかっただけに、非常に参考になった。 |
| 残念ながら叶内拓哉氏はこの写真集がピークで、その後はろくなものがない。ただ叶内氏の書いた |
| 「野鳥写真マニュアル」は私の撮影のバイブル的な本で、手垢で黄色に変色するほど読み返した。 |
| 氏の撮影マナーの悪さは好きにはなれないけれど、この本によって私は勉強させてもらった事は確か |
| である。次に購入したのが吉野俊幸氏の「鳥の組曲」である。どちらかというと山の鳥を非常に美しく |
| 撮影されており、このカメラマンの野鳥への愛情とこだわりが感じられて素晴らしい作品であった。 |
| また同氏の「野鳥風色」という写真集もとても味わいのある作品で、私が大好きな野鳥写真家である。 |
| そして次に尊敬する和田剛一氏の「Sing!Sing!Birds!」という写真集に出会ってしまった。この |
| 写真集ほど野鳥への愛情に富んだものは見たことがなく、私にはショックであった。また、ウイットに |
| 富んだ構図や野鳥の面白さに焦点を当てた意外性など驚くべき写真集である。 |
| その後に集大成として「野鳥生活記」を発表され、これにも感心させられたけれども私にはやはり |
| 「Sing!Sing!Birds!」に出会った時のインパクトの方が大きかった。 |
| 和田剛一氏が「野鳥生活記」のようにある意味完成された作品の後にどのようなものを発表される |
| か非常に興味がある。生半可なものが作れないだけに相当なプレッシャーを感じられるのではない |
| 先日、Jリーグの世界選抜と日本選抜の試合があった。最初の20分ほどを見て余りのつまらなさ |
| にテレビを消した。何かしら強烈な寂寥感を感じてしまったからである。 |
| 彼がいなくなったから。ドラゴン・ストイコビッチ。 |
| このファーストステージまでは確かにJリーグにいた彼。ストイコビッチ一人がいなくなっただけで、 |
| 正直なところJリーグへの興味が半減してしまった。ちなみに私は名古屋グランパスのファンでは |
| なく、セレッソ大阪ファンである。(但し、森島がいなくなれば話は別) |
| ストイコビッチほど魅力的で、攻撃的で、サッカーを愛していることをみなぎらせながら走り回る選手 |
| は世界的にも稀有だと思う。 |
| ストイコビッチにボールが回ると、次にどのような芸術的テクニックを見せてくれるかを期待して本当 |
| にワクワクしながらいつも見ていた。 |
| 残念ながらJリーグは最後までストイコビッチの最低レベルまでも到達はできなかった。しかし、彼は |
| 自身のサッカーを行うことによって多くのJリーグの選手を育ててくれたと私には思えるのだ。彼と |
| ピッチ上でせめぎあうことで、彼の素晴らしいテクニックを確実に吸収してきたと思う。 |
| 彼ほどのレベルの人間が何故多くの欧米のオファーを断り、日本に居着いてくれたのか。それは彼 |
| が日本を愛してくれたこと。そして多くのサポーターの素晴らしさを感じたこと。そして恐らくではある |
| が、彼自身が日本のサッカーを育てることを一つの使命と感じてくれていたのではなかっただろうか |
| と私は思うのです。 |
| 朝の番組で蒸気機関車に乗った旅番組を見て懐かしく思い出した。といっても、私は蒸気機関車 |
| 年代ではない。思い出したと書いたのは京都にある梅小路蒸気機関車センターに小・中学生の頃 |
| によく通ったことである。 |
| 私は何をかくそう蒸気機関車の大ファンである。といっても自身で乗ったことはない。乗ることより |
| もあの姿を見ること、触れることが大好きであった。梅小路には数多くの蒸気機関車が扇状にて |
| 並んでおり、運転席にも乗って触れることが出来た。そして一日数回の直線コースでの実車運転 |
| も見ることが出来た。 |
| ここには数十回通った記憶がある。とにかく蒸気機関車は美しいのである。効率的なものでは |
| 決してないけれど、そのフォルムの美しさには圧倒されてしまう。 |
| その梅小路での100メートルほどの短い距離を走る蒸気機関車を食い入るように見つめながら |
| 憧れの気持ち一杯で行くたびに十分満足していた。 |
| たった一度、東海道線の何周年記念かで大阪ー京都間をC62だったと思うが走行されたことが |
| ある。あの日は朝から近くのJRの線路付近でワクワクしながら待っていた。もちろん他にも多くの |
| 観客が。来た!汽笛を鳴らし、煙と蒸気を奏でながらやって来る蒸気機関車は美しさそのもので |
| あった。そして私の前を通り過ぎる瞬間、至福を小さいながらも感じた。 |
| 私の初めての一眼レフは、中学校の時に父親からもらったニコンFであった。今から思えば中学生 |
| 風情でニコンFを使うとは何と贅沢なことだと思う。 |
| 父親は一貫してのニコンフリークで、一眼レフはニコン以外は一切使わない。だから私がキャノン |
| を今使用していることを快くは思っていないであろう。 |
| さて、ニコンFは当然ながらオートフォーカスなるものが出来るずっと以前のものである。だから露出 |
| もシャッタースピードも全て自分で判断しなければならない。それが中学生の私には面倒だった。 |
| というよりも当時は写真に全く興味がないのに、無理やり押し付けられたのが真相である。恐らく |
| 自分の趣味である写真撮影に興味をもってほしかったのだと思う。最初は弱冠の興味もあったので |
| 白黒フィルムで片っ端から撮影してみた。ただ、レンズが50mmしかなかった為にスナップ写真を |
| 撮るのがせいぜいで、すぐにニコンFは眠りについた。(飽きただけだろうが!) |
| そのカメラが急に使われる時がやってきた。そう、スーパーカーブームの時期である。私も世俗に |
| 流されやすい人間だったので、自転車に乗ってあちこちに撮影しにいった。そんなニコンFの使われ |
| 方に我慢できなくなった父親に、ある日強制剥奪されてしまった。それから野鳥撮影を始めるまで、私 |
| はいっさい一眼レフどころか、カメラに全く触っていなかったのである。 |
| 野鳥撮影での最初のカメラ(もちろん、初めて自分の金で購入)はニコンのF801であった。それから |
| 私の小さな頃に出向くのが一番楽しみな場所であった。今ではそうした店が当家の付近から消滅 |
| してしまったのであるが、どこかでひっそりとは残っているのであろうか。 |
| 子供の頃、数十円を握りしめて買い物をしに行くのが何よりも楽しみであった。一番好きだったの |
| がいわゆる「当て物」というもので、箱に入っている紙を引くと、その番号の賞品がもらえるという |
| 単純なものである。もちろん一桁台にはとても魅力的なものがこちらを見て誘惑しているものだから |
| ついつい何回もお金を渡しては帰りに溜息をついて帰るのが常であった。(たまに当たる) |
| またお菓子もいろいろと安いものが揃っていた。私が好きだったのはグッピーラムネ、チロルチョコ |
| 、ヌガー飴、麩菓子、味カレー、亀の子(塩味で形はぼんち揚げの大きいタイプ)であった。 |
| また遊び道具も、銀球テッポウやブーメラン(紙製の)など豊富でいろいろ見ているだけでも十分 |
| 楽しめたものである。こういう駄菓子屋のおばさんは大概が子供に対して愛想が悪い(私の町だけ |
| だろうか。)当方の家の近くには3件あったが、全部愛想が悪かった。もちろん子供相手だからだと |
| 思うが、何か買わせてやってるというイメージがあって、子供心にも気分のいいものではなかった。 |
| (今の私ならぶん殴ってしまうだろうが) |
| それでも蝶が花に誘われるが如く、行かずにはおられなかった。特に遠足の時のお菓子を買いに |
| 行く時がとても楽しかったことを覚えている。 |
| 撮影地に出向く途中は必ずウオークマンが必需品である。好きなFM802と聞けない場所では |
| エルビス・コステロの音楽を聴くためには欠かせない。 |
| 本当はMDにしたいのだが、MDウオークマンではFMも聴けるタイプが全くないのである。そう |
| いう訳で今でもカセットタイプのウオークマンを愛用している。 |
| 今日、初めてウオークマンを購入した当時を思い出した。私は初めてSONYから出た時に予約 |
| をして極めて早々に購入したのだった。それは決して新らし物好きということだけではなく、本当 |
| にコマーシャルのようにいい音で聞けるかとの純粋な疑問を感じたからだ。当時で29,800円 |
| だから今の6,7万円イメージだろうか。 |
| 今のスレンダーなウオークマンからは想像できないガタのでかい本体と、野暮ったいヘッドフォン |
| (あくまで今と比較して)を手に入れて家に帰った。箱を開けるとサンプルカセットなるものが入って |
| おり、そこにはF1マシンと飛行機の音が録音されていた。ヘッドフォンを耳にあてる。でかく突き |
| 出た再生のボタンを押す。その時の驚きは今の若い方には想像できないであろう。 |
| 聴きながら思わずのけぞってしまった。予想していたよりもずっとクリアで迫力のある音質に感動 |
| してしまったのである。翌日、学校に持って行って自慢しまくったのは言うまでもない。学校でも |
| 一人も聞いた人間がいなかったので、それぞれがヘッドフォンから音を聞くたびに目をまるくして |
| 私には残念ながら絵心というか絵の才能がない。絵で評価されたのは小学校時代の給食をテーマ |
| にしたコンテストで校内に貼られたぐらいである。 |
| しかし、絵を見るのは大好きである。見たい絵があると不思議に美術館に足を運んだりする。撮影 |
| 時間を犠牲にしてもである。 |
| 学校の卒業旅行で人生最初で最後の海外旅行に行ったのだが、一緒に行った友人が絵が好きだ |
| ったので、主要な美術館はまわった。ルーブル美術館は日曜日に行ってしまった為に混んでいた。 |
| (確か日曜日は無料だったと思う。)またイタリアのウフッティ美術館では是非見たいと思っていた |
| ビーナスの誕生が貸し出されて見れなかった。絵ではないがダビデ像(アカデミア美術館)に感激! |
| そうした中で一番感激したのがプラド美術館であった。ピカソのゲルニカも良かったが、何よりも私 |
| を魅了したのがペラスケスという画家の作品であった。有名なLas Meninasも間近で拝見すること |
| が出来たが、その他にも素晴らしい作品群で見事に圧倒されてしまった。 |
| このベラスケスの作品は人物を画いている作品が多いが、遠近法と写真を撮影しているように光 |
| の陰影をうまく使っていた、特に馬に乗った若い貴族の大きな作品の前では30分見とれてしまった。 |
| それに有名なゴヤの巨人像も素晴らしく胸に迫ってくるものがあった。(後年、東京の国立博物館 |
| で再会したが、人が多くてスペインの時のようにゆったりとした時間の中で絵を見ることが出来な |
| かった。プラド美術館のように絵画はゆったりと鑑賞したいものである。) |
| そう、もう一人私の好きな画家を紹介しなくてはなるまい。イギリスの風景画家であるターナー。 |
| 学生時代に京都の美術館で開催されたターナー展で初めて接したのだが、あまりに素晴らしい空 |
| の色に感激した。風景画家だけにバックに描かれている空がとても素晴らしい配色で彩られている |
| のだ。全ての作品のそれぞれに空の表情が全く異なっているのである。 |
| 今回、写真集を作ろうとしている理由の一つに自分が生きてきた証明になるものを残したいという |
| 気持ちがある。年の近い知人が突然、白血病でなくなったことが大きな衝動となって今一歩踏み |
| 切れなかった自分を突き動かしたのだと思う。 |
| その方は立派なナチュラリストであり、立派な昆虫図鑑なども発売させ、また社会的にも立派な |
| 仕事をされた人である。これからという時の死は当人にとってどんなに残念であったことだろうか。 |
| その彼に比べて、私は全く意味のない人生を歩んできている。社会的にもいてもいなくても同じで |
| ある、いわゆる虫けら的人間である。 |
| そんな私でも野鳥等の写真への思い入れだけは唯一の喜びである。 |
| 知人の死をきっかけに、自分が今突然の死を受け入れることが出来るかをゆっくりと考えてみた。 |
| 長く生きてきたが、私は何かを成し遂げたという達成感というものを一度も感じたことがないので |
| ある。このままでは「無」のままで世の中から消えてしまうということにはっきりと焦燥感を覚える。 |
| だから写真集という「物」で残そうとは安直であるとお思いの方もいらっしゃるだろうが、それは違う |
| のです。写真集は結果であって私はそのプロセスを貴重に思いたいのです。それは十年以上もの |
| 間、休日は雨が降らない限り写真を撮りに出かけた自分へのご褒美でもあるし、またこれから作ろ |
| うとしている写真集の作成過程も貴重な、大事なプロセスとなるのです。 |
| そしてある日私という写真集が完成した時、本当の達成感というものを感じられるのではないかと |
| いう期待感でワクワクしている。(それが感じられない恐怖も隣合わせにあります。) |
| 何かを作ることの喜び、苦しみというものは何物にも変えがたいものがあると思います。 |
| 本日、本当に久しぶりにコカコーラを飲みました。まずい!相も変わらずの薬のような味でした。 |
| そう、日本ではずっとコーラといえばコカコーラでした。 |
| しかしながら私にはコーラといえば絶対的にペプシなのです。それには理由があります。高校生の |
| 時に夏場に百貨店関係の配達のアルバイトをやっていましたが、自転車に乗って炎天下を走る |
| 私にとっての一番の楽しみが途中にある売店で飲むペプシ・コーラでした。 |
| その当時はペプシ・コーラは極めてマイナーな存在で、圧倒的に売れていませんでしたがお金の |
| ない高校生には同じ値段でも500ml入っているペプシ・コーラはとても魅力的でありました。 |
| ですから、高校生活の3年間は夏にペプシ・コーラを飲みつづけたのです。だからといって飲み |
| 慣れた味だから好きだというわけではありません。本当においしいから飲み続けたんですよ。 |
| はっきり言って、未だコカコーラのどこがおいしいのかは私にとって永遠の謎です。昔から日本人 |
| は余程の味オンチなんだなと一人納得しておりました。 |
| 現在はペプシもサントリーと提携し、コマーシャルも頻繁に流れるようになり本当に嬉しい限りで |
| す。コマーシャルの猿ではありませんが、本当においしいコーラは赤ではなく青です。皆さん、必ず |
| 青信号を渡りましょうね。コーラは絶対ペプシですよ! |
| ワイシャツの半袖は許さない。暑い夏に皆さんがうんざりしている時に頭が狂ったとお思いになる |
| かもしれませんが、私のこだわりなんです。 |
| 私がワイシャツの半袖を着たのは確か高校生の時が最後だったと思います。どんなに暑かろう |
| が、袖部分がビショビショになろうが全く気にはならないのです。 |
| 半袖は私の価値観からいうとワイシャツと呼んではなりません。カジュアルシャツの変態化した |
| ものと考えています。 |
| ワイシャツは私の場合、1社の作品しか着ないようにしています。現在15枚ほどありますが、 |
| どれもがお気に入りです。スキャッティというメーカーですが、とても着心地がよくていつも袖を |
| 通すのが楽しみなんです。 |
| 特にボタン・ダウンにいいものが揃っていて、購入する時にはとことん悩んで選ぶことにしていま |
| す。それがまた楽しみでもあります。 |
| もちろんこのメーカーにも半袖はありますが、私は見向きもしない為に時々馴染みの店の店員に |
| もどうしてなのかをよく聞かれるのです。 |
| そういう時は「こだわりだから」と答えることにしています。本当のことをいうとワイシャツを着た時 |
| の美しさは長袖にこそあると信じているからです。私は本当にヘンな人間です。 |
| 世界に通用する日本映画の巨匠と言えば、必ずこの二人の監督が挙がるといってもいい。 |
| 私は長年、熱狂的な黒澤ファンであったが、最近は小津ワールドにはまりつつある。というのも |
| 二人の作品は全く異質のものであることがようやくわかってきたからである。一言で言うと黒澤 |
| 監督の作品は初対面で評価が決まる。ほとんどが10点満点の8点以上(但し、「赤ひげ」という |
| 作品まで)をつけられる。但し、その得点はその後何回見ても上がりもしなければ下がりもしな |
| いのである。反対に小津監督の作品はインパクトが少ないだけに初対面ではあまり高い得点 |
| はつけられない。が、見る回数が増える毎に得点は着実に上がってくる。じっくり見ることで、 |
| 小津作品のディテールの素晴らしさを次々と発見することが出来る。 |
| これは、黒澤監督シンパがコッポラやスピルバーグなどアメリカの監督に多く、逆に小津シンパ |
| にはヴェンダースのようにヨーロッパの監督に多いことからもその映画の違いが判って頂ける |
| のではないか。アメリカ映画はファースト・インプレッションに力を注ぐ。それに比べてアクション |
| の少ないヨーロッパ映画はディテールにこだわる作品作りが多いのである。 |
| 黒澤監督は残念ながら、三船敏郎と別れてからはつまらない凡作しか作れなかった。「影武者」 |
| がカンヌ映画祭のグランプリを取ったではないかというけれど、あれは久々に作品を完成させた |
| 世界のクロサワに敬意を表しただけである。 |
| 小さい頃から我々が親しんでいたのはアメリカザリガニであることを、つい最近知ってしまった。 |
| 実は私はアメリカザリガニの子供をずっとニホンザリガニと思い込んでいたのである。 |
| ということは我々の子供の時期には、既に私の町からは日本固有種は姿を消していたのであろ |
| うか。明確な時期は極めて曖昧なのだが。 |
| さて、ザリガニ釣りを皆さんはされたことがあるだろうか。釣竿でザリガニを釣るのだが、これが |
| 結構面白かった。私はちくわで釣っていたのだが、ほとんどがハサミでつかんだところで上げる |
| とザリガニは放して逃げればいいものをしつこく挟んでいる。 |
| やはり習性的に一度掴むと放すもんかという意識が本能として働くのであろう。だからこそ、こう |
| したザリガニ釣りなるものが遊びとして成り立ったのではあるが。 |
| ところで家でも10匹以上のザリガニを飼っていたのだが、餌はチリメンジャコがメインだったよう |
| に思う。だがかすかな記憶でご飯を与えていたような極めて曖昧な記憶もある。果たして私は |
| ザリガニにご飯を与えていたのだろうか。そしてザリガニはそれを食べていたのだろうか。 |
| ザリガニに色んな物を挟ませて遊んだ記憶もある。一度はせんたくバサミを挟ませて延々と闘わ |
| せたものだ。ザリガニはハサミに挟まれたせんたくバサミを猛烈に嫌がって放そうとするのだが |
| 私が万年筆を使い始めたのが高校2年の時であった。何がきっかけかというと、シャーペンで書く |
| 私の字が極端に下手だったので、自分自身で嫌になってしまったのだ。 |
| そこでテストの時以外は万年筆を使用し始めた。少しは字がましに書けるからである。 |
| それ以来ずっと万年筆一本の私である。最初はもちろんもらいもののセイラー万年筆でシルバー |
| の味気ないデザインだった記憶がある。それからはパイロットやプラチナ、そしてドイツのラミーの |
| 万年筆を特に愛用していた。1本3000円くらいで全くカジュアルなデザインが気に入って長年に |
| 渡って使用していた。今は仕事用にプラチナ製を、そして私用にはモンブランの一番握りの太い |
| タイプを愛用している。このタイプはインク瓶から使用時にインクを吸い取る必要があるが、それが |
| またとても気持ちがいい。また使用感も最高である。何せ学校の卒業旅行の時にいの一番に購入 |
| したものである。日本ではまだまだ高かったのだが、確かアンカレッジの免税店で安く購入したと |
| 思う。帰ってからは何かしら手紙を書く時はこの万年筆を使用することにしているのだが、最近は |
| 出番が少なく、机の中で睡眠していることが多い。というのも、今こうして打っているようにパソコン |
| がメインになった今、書く必要が著しく減ってしまった。 |
| 本当はこのコラムも私の万年筆での見事な字で皆さんに読んで頂きたいのだが、本当に残念であ |
| る。その時はもちろん縦書きである。本当に残念! |
| 山に入って何が怖いって、スズメバチほど怖いものはない。ヘビよりも熊よりも気持ち的には怖い。 |
| (まだヘビにも熊にも全く襲われたことがないから言っているだけであるが。) |
| スズメバチには一度追いかけられたことがある。まだ刺されたことはないが、極めて痛いと聞いて |
| いる。また二度目に刺されると免疫が一度刺されることによってなくなってしまい、死に至るとさん |
| ざん脅されている。(これは本当なんだろうか?) |
| 耳音で何度も一番大きいオオスズメバチの羽音を聞いたことがあるが、生きた心地がしない。 |
| そんな私が一度とんでもないやせ我慢を行ったことがある。深泥池の池近くの樹のうろになんと |
| キイロスズメバチがでっかい巣を作ってしまった。その場所は私がこの池で撮影する定位置から |
| わずか数メートルのところであった。私は基本が偏屈な人間なので、スズメバチに負けて場所を |
| 譲ることは許せなかった為に、それから数週間何とその定位置に坐り続けた。更にその場所とは |
| 水場でよくスズメバチがやってくる場所であった。椅子に坐っていると頭上を何匹ものスズメバチ |
| が通過していく。ただ、スズメバチは刺激しなければ人を襲わないという事を信じていたのでそれ程 |
| 怖いとは思わなかった。何度か巣に近づいて観察もしたが、全くこちらを気にしていなかった。 |
| そして1ヶ月後、いつものように池に出向くと巣が焼けてしまっている。何ということだ。知り合いに |
| 聞くと高校生らしき人間が遊びでスズメバチの巣に火をつけた新聞紙を突っ込んでしまったとの事。 |