| 私は一生、ユニクロの服は着ないと思う。 |
| 最近、一種の流行のようになっているようで低価格とそこそこの品質を武器に急成長を続けている |
| ようだ。街中でもやたらにユニクロの服を着ている人間が目立つ。それも若者はもちろんだが中年 |
| と呼ばれる人間(私に近い世代)も着ている人が多いようである。(不景気が要因かも・・・) |
| 一種、ユニクロのブランドとしてのパワーはルイ・ヴィトンに似たものを持っている。所有していること |
| で他人との違いを明確にされることを拒否して安堵する傾向が双方にあると私は考える。 |
| つまり個性を持つことを根底から否定し、その他大勢になることに自らが満足しているのである。 |
| 時勢に流されるなら、えいままよ!という極めて傍観者的、消極的人間の囚人服がユニクロという |
| ブランドで現れたとしか私には見えないのである。(ユニクロファンの方には申し訳ないが) |
| 私はすべてに個性を大事にしたい主義で、これまでもこれからもそうやって生きてゆきたい。 |
| 写真も服装にしてもすべてにおいて、時代に流されない強固な自分を持っていたいと感じる。たとえ |
| それが独りよがりと冷笑されようと非難されようと一向に構わないのだ。 |
| 最近の日本人は非常に時代に流されやすくなっている。つまりは自分の意思をもつことは得策では |
| 今日たまたまテレビを見ていると、鉄棒の逆上がりが出来ない子供達にチャレンジさせている番組を |
| やっていた。 |
| 私も実は小学校の時代には逆上がりが出来ない子供で、体育の時間で鉄棒となると一気にブルーな |
| 気分になってしまったことを思い出した。 |
| もちろん出来ないのは私だけではなかったが、出来る同級生がとても羨ましかったことを覚えている。 |
| それからずっと鉄棒を触ることもなかったのだが、選挙の投票のためにかつて通った小学校に出向い |
| た時久々に鉄棒に触ってみた。逆上がりが出来なかったなあと思い出しながら試しに逆上がりをやって |
| みた。と、簡単に出来るではないか。それも何回でも出来るのだ。 |
| 恥かしい話だが、感動してしまった。小さい頃できなかった劣等感があった為か、高校生の体力測定で |
| 懸垂をさせられた以外は触ろうともしなかった鉄棒である。 |
| 要はタイミングと腕力の問題であったのだ。しかし、当時はガリガリで腕力などなかった私には逆上がり |
| などは出来ないもののトップ問題であった。 |
| 今の私は15kgのカメラ機材を背負い、カメラを持ちながらでも10数キロも歩けるほどの腕力がある。 |
| いろいろな意見はあると思うが、やはり池波正太郎、司馬遼太郎、藤沢周平の亡き御三方といえる |
| のではないでしょうか。 |
| 私はこの三人の小説はすべて読んでいる。それぞれの歴史への見方、価値観、小説の技法等全く |
| 異なることに驚きを覚える。 |
| まず池波正太郎氏はエンターテーメント作家である。実に連作的な書き方のツボを心得ておられる。 |
| なぜならそのほとんどが雑誌への掲載が根本にあるからなのです。 |
| とにかく読者を飽きさせないという点では他の二人を大きく引き離すテクニックがある。真田太平記 |
| は10巻以上あるのに一気に読まされた。そう、池波氏の小説は一種の麻薬的雰囲気がある。 |
| また池波氏が映画好きであったことと、舞台の演出家であったこともエンターテーメントを大事にする |
| 土台がある。また、氏の小説に出る食事風景が私は大好きである。文章で舌なめずりをさせるとは |
| 本当に恐れ入る。私が一番好きな作品は「剣客商売シリーズ」である。 |
| 次の司馬遼太郎氏の小説は一言でいうと、ヒーローもの創作作家である。「竜馬がゆく」を読んだ時 |
| には坂本龍馬に憧れ、「花神」を読むと大村益次郎に憧れ、「播磨灘物語」を読んで黒田官兵衛って |
| カッコいいなあとひたすら思わせるのである。 |
| 多分に文章に誇張的表現があるが、それは同じ大阪人として共感できるものがある。また司馬氏は |
| 普通取り上げられにくい「菜の花の沖」や「坂の上の雲」の主人公を取り上げて、世に知らせるという |
| 重要な役割を果たしている。(しかし、NHKのドラマで高田屋嘉兵衛を竹中直人のような三文役者に |
| 演じさせたのには怒りを覚えた。イメージを大きく損なった。) |
| また、非常に登場人物についての好き嫌いが激しい趣きを感じる。司馬氏の世の中に対する怒りが |
| 実は歴史小説の名を借りて表現されていたのである。(と私は思っている。) |
| 一番好きな作品は高杉晋作を書いた「十一番目の志士」と先出の「菜の花の沖」である。 |
| 最後に私の一番好きな作家、藤沢周平の小説は読む人を主人公にしてしまう恐るべき作家といえる。 |
| 文章的には一番抑揚を押さえた文体ではあるがその緻密なまでの描写、特に江戸の町の市井の人々 |
| を描かせると怖いくらいの輝きをみせる。 |
| 私は藤沢氏の作品を読むときはいつも全神経を作品に集中する。そしていつの間にか主人公になり、 |
| 作品に描かれた人間と一緒に笑い、泣き、怒るのである。だから藤沢氏の作品を読み終わるととても |
| 疲れてしまうのだ。 |
| 用心棒シリーズや伊之助捕物、剣の技関係の小説などは結構メジャーである。また、「密謀」といった |
| 戦国武将を描いたものなどもある。 |
| がやはり藤沢氏の真骨頂は、先ほど述べたように江戸の町で細々と生きる市井の人々を描いた短編 |
| である。藤沢氏の作品はすべて読んだが、短編の方が内容がとても深く濃いのである。 |
| 一冊というなら是非、「橋ものがたり」(橋にちなんだ短編集である)を読んでください。 |
| 最後に藤沢氏の作品は映像にすべきではない。一度として作品の味わいを表現できたものを見たこと |
| がない。是非やめて頂きたい。テレビのつまらん作品を見て、藤沢氏の作品が評価されるのは心外で |
| ある。(大ファンとして許せない!) |
| 本日、作曲家の團伊玖磨氏が亡くなられた。私にとっては團氏は優れたエッセイストであった。 |
| その著書「パイプのけむり」は日本の文学界においてももっと評価されるべき素晴らしい作品である。 |
| この本でも團氏は海外を飛び回られていた。その氏が中国でお亡くなりになったのも世界人であった |
| この方らしいと妙に納得してしまう。 |
| 振り返ればこの著書を一言でいうと、自由闊達な團氏のプライベートと家族に対する「愛」に満ち溢れ |
| た作品といえる。何度本を読みながらニヤッと笑ってしまったことだろう。しみじみとしたことだろう。 |
| テレビで初めてお見かけした時は、とても嬉しかったことを覚えている。番組の中の團氏はまじめに |
| 見えた。もちろんNHKの音楽番組だから当然なのだろうが、パイプのけむりフリークの私はその影 |
| でアッカンベーをしている違った團氏を見ていたのである。(これは一方的な主観である、失礼) |
| あの八丈島の別荘(創作の部屋)は今でも健在なのであろうか。 |
| 学生時代以来読まなかった「パイプのけむり」をこれからゆっくりと読み返そうと思っている。 |
| 高校生時代にはまって読んだ時の印象と違ってどんな感想を自分が持つだろうかがとても楽しみで |
| ある。 |
| 本当に私の学生時代の愛読書の偉大なる著者がお亡くなりになってしまった。非常にショックであると |
| 共に自分がひどく年をとってしまった気がする。合掌。 |
| 私は車を使わない。免許は持っているだけの正統なるペーパードライバーである。 |
| その為、移動は主に電車を使うことになる。お蔭さまで私の住んでいる所は車がなくても電車だけでも |
| 十分にどこにでも行くことが可能である。 |
| その為に野鳥写真を始めてからやたらに電車に乗る時間が増えた。実を言うと私は学生時代は電車に |
| 乗るのがとても苦手であった。基本的に人間が嫌いなたちであるため、見知らぬ人間達と一緒に強制的 |
| に詰められるのが我慢ならなかった。(今も人間は一番嫌いな動物である。) |
| 全く座席に座ることもなく、ひたすらドア近くに立って少しでも早い到着を念願していた。 |
| そんな私が今では電車に乗って移動する時間を楽しんでいるから、本当にわからないものである。 |
| 今では座席に座ってひたすら人間ウオッチングに徹している。昨年東京で2ヶ月余り生活していた時も |
| ひたすら電車に乗っていた記憶しかない。片道5時間をお尻の痛さに耐えたことも1,2回ではない。 |
| とにかく観察地までが結構遠いのである。それでも人間ウオッチングしていると飽きないものである。 |
| あちらの電車で感じたことは絶えず誰かに見られる、聞かれることを意識しながら乗車しなければならな |
| い苦労があることだ。やはり他人ばかりの街であることが人間を見ているだけで見えてくる。 |
| その点、関西にはそうした意識は希薄である。電車で若者が2人揃ってしゃべれば、漫才が始まるのだ。 |
| 彼らはそれを気詰まりと感じることなく聞かれることを楽しんでいるようにさえ思える。かくいう私にも俄か |
| 漫才的相棒がいて、彼といると24時間ボケ、ツッコミの漫才がはじまるのである。(ちなみに私はツッコミ |
| である。)とにかくあまりにつまらないボケにも絶えずツッコミを入れている私を電車の中で見られた方が |
| いるかもしれない。(哀しき関西人のサガである。) |
| さて野鳥撮影は始発電車に乗ることが多く、これはこれでなかなか観察しがいがある。多数は夜まで遊 |
| んだ若者と酔っ払いおじさんである。その座る配置にも微妙なニュアンスがあってそれを感じるのも極めて |
| 家に帰って家族から「河島英五、死んだで」と聞かされた時は一瞬倒れてしまいそうになりました。 |
| 私が日本で一番好きな男の歌い人でした。そして私が一番お会いして普通の世間話が出来ればと |
| 願っていた芸能人でした。 |
| 河島さんほど、画面から誠実さと歌っている時間を愛していることを感じさせる人はいませんでした。 |
| もちろん我々市井の人間には河島さんのその内面まではわかりませんが。 |
| しかし歌を聞き返す度にその詩の深さに思わず唸ってしまうこともしばしばでした。 |
| 河島さんの作詞ではなかったのですが、「時代おくれ」という曲で紅白に出場した時は家族の中でも |
| 一番光っていたなあと話していたことを懐かしく思います。そして我が事のように嬉しかったことを。 |
| もうお会いできないんですね、河島英五さん。あなたに普通に街であって握手してもらって、一言二言 |
| お話することを夢に見ていたんですよ。 |
| 今、あなたのベストアルバムを聞きながらこの文章を書いております。 |
| どれもこれも素晴らしい。ただ歌によく出てくる酒を飲みすぎたんでしょうか、河島さん。 |
| 死ぬ直前まで歌うことを欲せられたという事を聞き、私の想像通りの歌い人だったことを本当に嬉しく |
| 思います。 |
| 河島英五さん、あなたは本当に素晴らしい歌い人でした。誇りを持って安らかにお眠りください。 |
| 私は傘にとてもこだわりがある。傘はもちろん雨に濡れない為の道具に過ぎない。 |
| が私にとって傘はステッキであり、服装の一部であり、とても楽しいおもちゃであると言える。 |
| 社会人になって真っ先に買ったのは「丸善の傘」である。あの当時で結構の値段でした。 |
| 雨の日が待ち遠しかったのを覚えている。傘をさす時のスムーズな動きとさしごこちの気持ちよさ。 |
| その愛用の傘は何と9年も私と雨の日を供にしてくれた。いい傘はやはりいい友になる。 |
| さすがに最後は骨が折れてどうしようもない状態になったので、お別れすることとなった。 |
| 私は雨の日はどんな人がどんな傘をさしているかをいつも観察している。そして本当にオシャレな |
| 人間こそが素晴らしい傘をさしている事を発見したのである。(私を除く) |
| 例えばカバンはルイ・ヴィトンで腕にロレックスをしていても、傘に全くお金をかけていない方を見る |
| と本当のファッションを知らないなと思ってしまう。(非常の独自で偏向した美観であるが・・・・) |
| また流行に流されて毎年傘を購入する女性を見ると???と感じてしまう。 |
| 傘ほど自己主張できるファッションはないというのに。だから電車の中で服装との見事なバランス |
| を保った傘を持つ女性を見つけてしまうと、エクセレント!と突然表彰したくなる衝動にかられる。 |
| 以前にも述べたが、今服装には一切費用はかけない主義である。が、傘だけは別である。 |
| 昨年、東京に仕事の関係で2ヶ月ほど生活した時にまず購入したのが「丸善の傘・三代目」である。 |
| 以前に比べるととてもスリムになり、まさにステッキ感覚に近づいた思いがする。 |
| え?二代目ですか。二代目は(遠くを見つめながら)そう、二代目は購入してわずか一週間の台風 |
| によって見事に潰されてしまいました。フッ。 |
| この三代目とはもうすぐ付き合って1年。これからも長いお付き合いをしていきたいと考えています。 |
| いい傘を買うと、絶対置き忘れはしません。(傘をよく忘れる方はいい傘をお持ち下さい。) |
| 私は昨年まで10年以上も仕事で京都を徘徊していた。 |
| 京都のお人はとても難しく、特に一見さんについてはとても冷たい土地柄である。それは歴史的にやむを |
| 得ないのである。応仁の乱から戦国時代にかけてや攘夷吹き荒れる幕末を生き抜いた京都人にとって |
| それこそ簡単に人間を信じることが死をもたらすかもしれないという意識が潜在的にあると私は考えてい |
| る。けれども一度信頼して頂くと、本当に長いお付き合いをさせて頂けるのが京都の人のいいところです。 |
| 今は大阪で働いていますが、未だに京都のお客さんとの親交は絶えることなく続いております。 |
| そして私が京都で一番好きになったのが京都弁である。学生時代に京都の知り合い(男)が「おおきに」と |
| いう言葉を平気で日常会話に入れてくることにショックを受けた。 |
| 「おおきに」という言葉は京都の女性だけが使う言葉と思っていたのである。俺は使わないと思っていたに |
| もかかわらず、京都に来て3年目にははや違和感なく使っていたのだ。 |
| それどころかこの「おおきに」という言葉が大層気に入ってしまって、今でも店での買い物や食事後に思わ |
| ず使っている自分に気付くことしばしばである。 |
| また「言わはる」「着やはる」「しやはる」といった柔かい言葉もとても好きである。 |
| お客さんのなかでも御年をめした方とお話させて頂くのがとても楽しみであった。本当の京都弁を聞くこと |
| ができるからである。 |
| 若い方は京都でも標準語や大阪弁なまりが結構入って来ており、このままでは純正の京都弁が消えてし |
| まうのではと危惧している。 |
| 今ではそうした本当の京都弁を聞く機会もなくなってしまったが、私の好きな京都はその言葉そのもので |
| ある。もし京都に行かれることがあれば、お年をめした方の言葉を楽しんでもらいたいものである。 |
| みなさん、いつも関西野鳥園をごひいき頂きましておおきに・・・・・・・である。 |
| 私の大学時代からの友人に香川君がいる。彼は今徳島にいるために会うこともほとんどなくなってしま |
| ったが、とても気の合う友人である。そしてTRAD仲間であった。 |
| TRAD。これは服装の一つのスタイルで、伝統的なという意味を持つ。 |
| そして香川君と私は授業とアルバイト以外は神戸を中心にそれ関係の店巡りばかりしていた。だから |
| といってそんなに買うお金もどちらも持ってはいない。とにかくアルバイトでお金がたまったら何を買おう |
| かと品定めに回っているだけなのである。 |
| 香川君はどちらかというとアイビー(これも一種のスタイル)傾向が強く、VANがとても好きであった。 |
| 彼が初めてステンカラーコートを着てきた時の嬉しそうな顔は今でも鮮明である。 |
| 私もあの当時はMENS CLUBを毎月購入し、コーディネートを頭の中で組み立てたものである。 |
| そして二人は店に行ってはあれがいいこれがいいと買う気もないのにウンチクを並びたてるのである。 |
| そんな二人が他の友人と連れ立って卒業旅行でヨーロッパに行くことにした。私と香川君の一番の楽し |
| みは最後に出向くロンドンであった。二人は旅行の数ヶ月前からあの店に行こうこの店はどうだとまたも |
| ウンチクを述べ合っていたのであった。 |
| そして念願のロンドン。彼は最初にスコッチハウスという店に行き念願のセーターをいくつか購入した。 |
| 私はネクタイがとても好きだったのでここでもチェックのネクタイを購入。他の店でもネクタイばかりを買 |
| い集め、帰る頃には十数本も購入していた。もちろん、日本より値段が安く品もとても良かった。 |
| 学生時代に購入したものは今でも使用している。お蔭で現在は他のお金を全てカメラにつぎ込むことが |
| 出来るのである。(ちなみに最近は服関係は買った記憶があまりない。) |
| ところで香川君は最後に念願のブレザーボタンを購入したのだが、日本に帰ってからも既製品にはつけ |
| にくいということで一度も使用しなかった。彼はまだあのボタンをしまったままだろうか。 |
| 私が日本で一番好きな歌手で、今でも一番歌がうまいと思っている方である。 |
| 今はメジャーではなくて残念である。懐かしの音楽としてテレビに出るタイプでもないし。でも当時は本当 |
| に輝いていた歌手なのである。 |
| もちろん今も活動されてはいるが、私が希望していた方向から外れていっておりとても残念である。 |
| 彼女の歌の素晴らしさは、歌詞の情感溢れる言葉遊びとポップな曲調である。スローバラードも多いの |
| だがその根底には首尾一貫したとぎすまされた感性が滲み出ていた。 |
| 彼女も私たちと一緒に年をとり変化をしている。ショーロというバンドとめぐり合い、自分の声をますます |
| 透明感のあるものにしてしまった。しかし、私が彼女に求めていたのは年相応の音楽ではなく、いつまで |
| もポップに弾んでいる音楽的な若さと美しさであった。 |
| 彼女の曲には今でも誰かがカバーしてくれたら、必ずヒットしそうな曲がたくさんある。 |
| 女性の気持ちを歌わせたら、今の歌手なんて足元にも及ばないのだ。(男の管理人がいうのも何だが) |
| 私の好きな歌に「私について」がある。 |
| 歌詞の中で「 未来の私に手紙を書いたら 宛名がちがうと返事がきたから 明日の風をさまよう私を |
| さがさないわ」とある。 |
| この歌は全てを聴かないとそのよさは伝えられないが、その当時私はこの歌詞に何かしら感動を覚えた |
| 記憶がある。もちろん今でも時々聴いては楽しんでいる。 |
| どちらかというと彼女の歌は当時、CMでよく曲が使われていたから私と同じ年代の方には聴いたことが |
| ある曲が多いと思う。若い女性に是非とも聴いてもらいたい歌手である。 |
| 彼女のベストアルバムは「FIRE & SNOW」(ロンドンで録音された逸品・1991年作品) |
| 好きな曲は他に「朝のドライブ」「12月のエイプリル・フール」「私の気持ちが何故わかる」 |
| 私が書くことが好きなことを自覚したのは中学生位だったろうか。もちろん今のようにパソコンがある筈も |
| なく全て手書きであったが、いろいろとラジオや雑誌等に投稿したものである。 |
| 高校時代には朝日新聞の声に投稿することにはまっていた。投稿すれば全てが掲載されていた記憶が |
| ある。おかげでたくさんの本をもらい、学校でも有名であったものだ。 |
| また受験生時代には旺文社の蛍雪時代という雑誌があって、詩の部門で1席をもらったこともある。 |
| いろいろな雑誌にも掲載していただき、少ないながらもファンもいたのである。 |
| (ペンネームが女性の名前をもじっていた為に男からの問い合わせが編集部に多かったとのこと。こちら |
| は女性のつもりで書いたことは一度もなかったのだが・・・・) |
| ともかく全体を通して言えるのは私の実績が実にショボイということである。 |
| 致命的なことは長い文章が書けないということである。一度、ラジオドラマの素晴らしさにハマって作品を |
| 作ろうと試みたことがある。しかし、人間の会話というものでドラマを構成することが私には出来ずに原稿 |
| 用紙3枚で断念した。ゼミの卒業論文も実に苦労したことを覚えている。 |
| ホームページでフィールドノートやコラムを書きながら、私には短い文章が適していることに気がついた。 |
| もちろん作家になったり同人誌を作ろう等の気持ちは全くない。 |
| 今は野鳥及びネイチャーフォト撮影が私の表現の場だと思っている。しかし文章を書くことは楽しいのだ。 |
| こうして読んでももらえないコラムを永遠に書き続けるつもりでいるのである。 |
| 私は撮影時には常に小さな手帳を携帯して、思いついたことは書き留めることにしている。それは野鳥の |
| ことであったり、実につまらないことであったりもする。 |
| また封書を書くのがとても好きで、愛用の万年筆で書く時は恍惚感すら感じる。(もちろん縦書きである。) |
| ここに書くテーマも考えるだけで既に50はあるのだ。とにかく書き続けていたい。 |
| 私は中学生の時から映画が好きであった。そして何よりも映画音楽が大好きであった。 |
| 最初に好きになったのは「荒野の七人」(1960・アメリカ)という映画である。 |
| ユル・ブリンナー演じるクリスというガンマンのかっこよさに憧れ、途中で子供をかばって |
| 撃たれて死ぬチャールズ・ブロンソンに泣いた。 |
| しかしこの映画の素晴らしさは音楽である。エルマー・バーンスタインという作曲家による |
| もので今でもこの曲を聞くだけで、陶酔状態に入ってしまう。 |
| それからは映画よりも映画音楽に断然興味が湧くようになり、よくFMで流れていた映画 |
| 音楽をエアチェックしたものである。今のようにタイマー設定がないので流れくるのをひた |
| すら待つ状態であった。FMレコパルという雑誌を目を皿のようにしてチェックし、朝の5時 |
| にあるならその時間に起きて録音し、また寝るということをしていた。 |
| 私が好きな番組はNHK−FMの「夜のスクリーンミュージック」という週1回の40分番組で |
| あった。関光夫氏という今は亡き映画音楽の権威がパーソナリティをつとめており、とても |
| 素晴らしい番組であった。私はかかさずリクエストをし、関光夫氏に番組で「なかなかの映 |
| 画音楽通」と紹介されたことを今でも誇りに思っている。 |
| 世の中の流れでその番組が終わることになった時のショックはひどかった。それ以来映画 |
| 音楽番組はFMから姿を消したのである。(特番は除く) |
| 今私の家にはその当時に録音した400本ほどのカセットテープが残されている。(TDKの |
| ADやマクセルのUD,クロームテープなどがあった時代である) |
| 番組を丸ごと録音していたので関氏の声を聞きながら昔を懐かしんでいる。 |
| しかし、最近の映画音楽は印象に残るものがほとんどない。それだけ映画音楽作曲家の |