本日、親しくさせてもらっている写真仲間より写真集に関してとても厳しい御批評を文書で頂戴致しました。 |
これは言っておきますが、先日の礼を失した人間とは違って熱い思いで敢えて苦言を呈してくれています。 |
私もとても痛いところをつつかれ過ぎて、グウの音も出ない状態です。それでも私の写真を日頃よく見て |
頂いているので、どうしてこんな写真を選んだんだと言った具体的な苦言も頂戴しました。 |
そこで敢えて他の方々にも公開することにし、その御意見についての私の感想を付記させて頂きます。 |
「それぞれの見開きのタイトルに相応しくないものがある。逆にタイトルに合わない写真を |
選んでいるところも目立つ。」 |
@P20,21「コチドリの写真は走るというよりも目つきが怖いところに目線が行き、また大きくアップでトリミング |
した為に足元に吸殻やゴミが目立ち見苦しい。」 |
私はタイトルについてはこれでいいと今でも思っていますが、それならやはりノートリミングで野鳥を小さめ |
にした方がより走っている雰囲気が出せたと思っています。レイアウト変更を要望するべきだったと思います。 |
AP17「セッカの写真は夏を感じさせない作品だから、夏をタイトルをつけることには疑問を感ずる。」 |
このタイトルは日本ではこの2種が夏鳥だからこのタイトルをつけただけで、写真のイメージでつけた訳で |
はないのです。しかし、はっきり言ってタイトルはどうつければいいのか悩みました。 |
BP6「ヒヨドリの写真に色を生きるというタイトルは納得できない。つけるならはばたきにした方がマシでは」 |
これについては失敗したかなと思っています。アオバトは色を生きるのタイトルに相応しいのですが、ヒヨドリ |
はそれ自体には色が乏しく、敢えて嫌いなカワセミ位を持ってきた方がタイトル通りになったかもしれません。 |
CP29「カイツブリが水面に浮かぶ写真には全く朝が感じられないからタイトルに朝をつけるのは疑問」 |
中に書かれているように、私は単純に朝撮ったからこのタイトルにしてしまいましたが、この写真には相応しく |
ないかもしれませんね。 |
DP35「シメの写真には日だまりという暖かさは感じられず、逆に寒い冬の光を感じる」 |
仰るとおりです。はっきり言いましてこのページは最後までタイトルがつけられず、納得できないままにつけた |
ものです。思い切って、大きなくちばしを持つ鳥たちぐらいにしとけば良かったでしょうか。 |
EP30,31「この見開きの写真には陰と陽の対照が全く感じられない。ホオジロ類は元来地味な種類だから |
とても無理がある。」 |
仰るとおりです。この見開きはノートリミングにすれば弱冠は修正されたでしょうが、それでもタイトルは合って |
なかったと思います。普通にホオジロの仲間ぐらいにした方がよかったと思います。はっきり言ってこのページ |
は失敗したと思っています。 |
「写真的にどうしてこんな作品を写真集に入れたのかと極めて疑問に思う。」 |
@P9「サルハマシギの写真を選ぶのはあなたらしくない。雰囲気を大事にするあなたの個性が死んでいる。」 |
仰るとおりかもしれませんね。しかし、この写真を選んだのは対のオオソリハシシギと共に、愛すべき甲子園浜 |
には嘗てこんなにいろいろなシギがやって来たんだというのを見せたいが故に選びました。それにしてもちょっと |
写真が大きすぎますよね。また見る側にとればどこで撮ったなのかなんて関係ないことですから。 |
AP12「こんな渡りで疲れたよれよれのキビタキの写真を何故選んだか、理解に苦しむ。まるでへくら島で撮影 |
したように見える。」 |
・・・・・・・・そうですか・・・・・・・よく見ますと疲れてますね・・・・・・・・・・・私の目は節穴ですね・・・・・・・・ |
BP19「野鳥を見下ろしている感じが強く、クサシギが緊張しているように見えて親しみが持てない。」 |
そうですか。しかし撮影状況からしてこれ以外の撮影方法を取ると、余計にクサシギ君に緊張を強いると思う |
のですが。この写真に関してはトリミングで鳥が大きくなっているだけで、クサシギまでは十数メートルもあって |
しかも撮影しているこちら側はクサシギには全く見えない位置なんですよ、ホント。 |
それでもそう見えるということは写真的に失敗なんでしょうね。 |
|
「トリミングした写真が多すぎる。写真は撮影した時点で完成されていなければならず、 |
トリミングは妥協としか言いようがない。」 |
まず、この方は残念なことに今回の私の写真集のコンセプトを全く判って頂いていない。写真集らしくないもの |
を作ることを前提に私は今回の写真集作りを始めたのだから。ノートリミングにしようとすればそれは簡単で |
いかにも写真集らしくなったことでしょう。それでは面白くないのです。あくまで野鳥の絵本のように見せる為に |
こうしたトリミングをしているのです。しかし、ちょっとトリミングしすぎて野鳥が大きすぎる傾向がある事について |
は納得していません。何故ならこの写真集を見て、「ああ、こいつは偉そうなこと言っておいてこんなに近づいて |
鳥を大きく撮っているじゃないか。」と思われる危険性があるからです。皆さんに言っておきますが、本来の写真 |
では野鳥はこんなに大きくありませんから。間違えないでください。私は野鳥のアップの写真は大嫌いなんです |
朝の芸能ニュースを何とはなしに見ていると、彼が亡くなってから十三回忌ということで、多くの芸能人が |
集まっていた。そうか、私が将来の日本映画を代表する俳優と期待していた松田優作がいなくなってから |
もう13年にもなったのかと感慨深く思ってしまった。 |
今の日本映画のつまらなさはもう破滅に近い。何よりも映画俳優がいなくなってしまったことが原因であ |
るのだが、日本映画界は映画俳優を新たに作る気はないらしい。何かチンピラレベルの俳優が何人か |
映画俳優気取りでいるようだが。失笑のみ。(アニメだけが元気のようだ。) |
ああ、彼さえ生きていれば日本の映画界はちっとはマシになっていたと確信する。彼には俳優としての |
素晴らしいオーラがあった。見ているでだけ、出ているだけで何かしてくれるのではと期待させてくれる |
稀有の俳優であった。最後の映画となった「ブラック・レイン」は癌で苦しみながらの演技であったと聞く。 |
あの映画での彼の存在感は圧倒的で、高倉健などどこにいたのかというほど印象を薄れさせるほどの |
鬼気迫るものであった。この映画の演技はハリウッドでも高く評価され、多くのオファーがあったと聞いた |
だけに本当に残念である。彼を最初に見たのはテレビの「太陽にほえろ」(マカロニ編)での端役出演で |
あったが、画面を見ただけでビビッとくるものがあった。案の定、マカロニが殉職してからはジーパン刑事 |
としてスターにのし上がった。あの日本人らしくない長身と足の長さ、そして怖い顔から時々現れる笑顔 |
の素晴らしさ。本当に大ファンになってしまった。その後、大都会パートUや探偵物語を適当にこなしなが |
ら、彼が最も力を入れた映画に没頭していった。しかし、彼の映画はあまりにアクが強すぎる為に大きな |
多くの方から掲示板を始めとして、メール、手紙、電話等で感想と御礼の言葉を頂戴した。何せ予想も |
しないことに皆さんから過分な褒め言葉を頂戴して面食らっている。長く生きてきたが、人に褒められる |
というのは初めてのことである。もちろん、多分にお世辞が入っていることは承知しているがそれでも |
苦労して作り上げた我が写真集を喜んで見て頂けることが出来たのだから、嬉しくない筈はない。 |
しかし私の写真集を人それぞれがいろいろな観点から評価してもらっているのは興味深い。また好き |
な写真もそれぞれが微妙に異なっている。もちろんそれぞれに好みがあるのだから、当然のことなの |
だが。私ならとても今回皆さんから頂戴したような、表現豊かな感想は書けなかったのではないかと |
も思う。御送りした中には野鳥に全く興味がない方もおられる。そんな方でも、例えばコサギの写真に |
ついて「あなたが、この鳥とこんなに寒いところに一緒にいると思うだけで震えてくるような写真だ」との |
感想を頂戴した。ということは、写真を見て一瞬でもその風景に入り込まれたのである。お医者様なの |
だが、その言葉が実感だとすると一人のカメラマンとしてはとても嬉しい言葉である。 |
やさしい、柔かい、女性的、野鳥への愛情が強く感じられるなど、ご返事を頂いた方のボキャブラリー |
には驚きの連続である。逆にそうした感性豊かな方たちに私のようなアマチュアの写真集が見てもらえ |
たという喜びは計り知れないものがあるのだ。 |
ただ、自分として嬉しかったのはこの写真集が独りよがりにはならずに多くの方に共感して頂けたこと |
が一番の収穫であると感じる。私の野鳥への、そして自然への愛情を皆さんが感じ取ってくれたようだ |
本日は写真集の作品1枚ずつにコメントを書いていたが、それぞれの撮影状況はやはり忘れないもの |
だと改めて認識してしまった。どこでどの時間でどのような天候でどのような野鳥との出会いでと、気に |
入っている写真ばかりなので鮮明に頭の中に蘇ってくる。結構撮影初期の写真も多いのだが、本当に |
今眼前で自分が撮影している姿が見えてくる。そして撮影時の興奮や喜びまでもが湧き立ってくる。 |
すべての写真の場面を完璧に覚えているとは言わないが、保管している写真のBクラス以上の作品に |
ついては問われてもほとんど答える自信がある。 |
それに比べて昆虫や植物の写真の記憶は極めて曖昧である。被写体との出会いについての喜びが |
野鳥に比べると格段に落ちるからではないだろうか。とにかく予想していないシチュエーションで撮影 |
するということはこちらの場合はほとんどないからである。 |
野鳥の撮影はとにかく野鳥との出会いをいかに確実に捉えることが出来るかで勝負が違ってくるので |
ある。そう、野鳥撮影とは野鳥との一期一会をいかに写し止めれるかということではないだろうか。 |
今回の写真集はそう言った意味で思い出深い写真ばかりである。それぞれについては別ページで |
詳しく明記しているので見て頂けたら幸いである。(写真集を持っていなければ何のコメントやら・・・・) |
私の場合は、野鳥に撮らせて頂く精神で常に彼らと接しているだけに余りしつこく追い掛け回すことは |
めったにしない。ある程度の時間になると被写体が飛ばなくても勝手にこちらでやめてしまうことが結構 |
多いのである。それは私が1枚を写す事にもの凄い集中力を必要とするので、精神的に持たなくなって |
しまうという理由もある。一瞬を切り取る為の集中力、それこそが写真の成功の秘訣だと私はいつも思 |
っている。シャッターを押す時は正に野鳥と私の真剣勝負なのである。もちろん失敗も数多くありました。 |
私はB型である。最近は自分がいかにもB型だなあとつくづく思うようになっている。極めていい加減で |
お調子者で、自分勝手なところがある。しかし実行力があり、やるとなったら考えるよりも行動の方が |
先になる。それなのに極めて気が弱い。一言でいえば、とてもハタネズミ的な典型的B型人間である。 |
そんな私は高校2年まで、実は自分はA型だと思い込んでいたのである。父がAB型で母がO型だから |
何れかになるのであるが、両親、弟達からおまえは絶対A型だと小さい頃から言い続けられてきた。 |
そして本人も当然私はA型なんだと思い続けていた。 |
そんなある日、学校で自分の血液型を調べる授業があった。もちろん、A型だと思い込んでるから結果 |
など見ずともと思っていたが、なんと検査結果はB型と出たのである。何度やっても変わらない。 |
先生に向って「これ検査は間違いがでることはないんですか。」と質問しにいくと、「間違いはない」との |
返答が。何!俺はB型であったのか。正直、妙に嬉しかったことを覚えている。A型の方には誠に申し |
訳ないのだが、自分が消極的なのは血液型のせいだと思い込んでいたのである。 |
しかし価値観がそう急激に変わる筈もなく、ハタネズミの私は随所にB型いい加減さを発揮しながらも |
今まで劇的な変化もなく、しぶとく生きてきたのである。 |
結局、血液型の傾向は全体的には当たっていると思うものの、要は本人の人間性が一番大切だという |
ことにこの年になって気付くようになった。時すでに遅しである。 |
血液型は結局何も変えてはくれなかった。但し、献血にはよく行くようになった。理由はない。 |
先日、初めて堂島にあるジュンク堂書店の大阪本店に行ってきた。以前から大阪一大きいと聞いていた |
ので興味はあったのだが、梅田から如何せん遠い為になかなか足が向かなかった。 |
入っているビルの面構えが本屋が入っている雰囲気ではなくビジネスビルのようだったので戸惑ったが |
ようやく見つけて中へと入る。1階から3階までが書店になっている。当方の目的は写真集を見ることで |
あった為に2階へ。おお、何と広いことか。これでは目的の本のコーナーを探すのも一苦労である。 |
しかし、蔵書の数は大したものである。ようやく写真集の置いてあるコーナーに出向くが、品揃えの多さに |
またびっくりである。また大阪の他の大型店と違って非常に本が見やすく並べられているので助かる。 |
更にこの書店では出口のエスカレーター前に万引き防止のセンサーがある為に死角の場所であっても |
監視されている雰囲気がなかったので、万引きする気のない私はゆっくりと見ることができた。 |
しかし、野鳥の新しい写真が全くといっていいほど出ていないのである。ようやく見ていなかった写真集 |
を発見するも、ビニールでしっかりカバーをしてある為に中を見ることが出来なかった。しかし中味の |
判らない写真集を買う者などいるのだろうか。本、特に写真集は汚されると価値が著しく下がるというの |
はよく判るが、何か釈然としないものが残る。私なら買わない。(その日も何も購入せずであった。) |
しかし大きい本屋というものは回っているだけでとても楽しい。本を眺めているだけで幸せであり、また心 |
が豊かな気持ちがするのは私だけであろうか。 |
昔から本は好きで、よく買ってはいたのだが本屋に入ると何かを買わなきゃ出にくいという強迫観念が |
さて、関西人以外にこの言葉の意味が判る方はおられるのであろうか。いや関西でも使わなくなってい |
る言葉であると思う。 |
今朝、私の日常である朝日放送の「おはよう朝日です」の中で、ガーデニングを特集で取り上げていた。 |
出勤数分前であったが、緊張感もなくだらだらと見ていると、ガーデニングの先生が「水をこのようにやり |
ますと水がよくしゅんでいきます・・・・・・」 |
何!しゅんでいくだと。私は「しゅんでる」という言葉をかなり久しぶりに聞くことが出来て、猛烈に嬉しく |
なったのである。そして帰宅後このコラムに書いてやろうと思っていたが、帰った頃にはすっかりその |
言葉自体を一瞬失ってしまっていた。何せ今時の言葉でないからである。 |
「しゅんでる」とは染み込むということである。例えば、「このおでんは味が染み込んでいて美味しいね。」 |
というのが、「この関東煮は汁がしゅんでてうまいやないか。」と関西では言う事になる。いやかつては |
そうであったというのが正解であろう。今、関西でも普通にはおでんはおでんと呼び、染み込むことを |
「しゅんでる」とはほとんど使わないと思う。が、小さい頃にしゅんでるという言葉を何度か使っていた記憶 |
があって、本日の放送で聞いて懐かしく、かつ今でも使われている方に会えてとても嬉しかったのである。 |
やはり年配の先生ではあったが、日常でもよくお使いになっているのであろう。だからどうだという事は何も |
ない。こういう言葉がある事をもう一度思い出せたことの小さな喜びだけである。 |
あと一週間で写真集は完成してしまうこととなった。個展については知人の萩原氏と多くの方のご協力に |
よって完全なものではないにしろ、数年前に共同開催してしまった。ということで、写真に携わるものとして |
は一応の目標を全て達してしまうこととなった。 |
この写真集作成を始める前は完成後に目標を失うことが怖かったが、今は新たな目標を設定することが |
出来た。このヒントを与えてくれたのは、出版社の編集長さんである。打ち合わせ中に、「蔭山さん、これ |
で終わりなどとは考えずに、この写真集が出来るまで10年ほどかかったのだからまた10年経ったら |
もう一度写真集の続編を作られたらいかがですか。その為にこれからお金をコツコツ貯めて。」 |
目からウロコが落ちるとはこのことである。今回の写真集を最終ゴールなどと決め込まずに、次回はより |
良いものを追求していけばいいじゃないか、と。 |
それまでは全くそうした先を見ずに、写真集を完成した後の虚脱感をひたすら怖れていた私には大変に |
ありがたい忠告でありました。 |
そう、一度夢を叶えたのだから、出来ないことはないのです。その為には満足出来るこれまで以上の写真 |
をたくさん撮っていかねばなりません。ですから、10月に入って写真集作りが始まっても変わりなく、いや |
今まで以上に精力的に撮影に走り回っている私がいるのです。 |
満足出来る写真が貯まるのは、早いかもしれません。いや、逆にとてつもなく遠いものかもしれません。 |
それでもいいと今は思っています。何かを作る楽しみを今回の写真集作りで私は体験できたのです。 |
この楽しみと達成感の為であったら、私はどんな困難にも打ち勝てそうな気が今はしています。 |
人間の人生などわかりません。いつ撮影できない状態に陥るかなど誰にもわかるはずはないのです。 |
気の弱い私には絶えず心配事が脳裏から消え去ることはない。仕事でもプライベートにしても四六時中 |
何か心配事を抱えている。だから1年の間で心が青空のように晴れ渡ることはめったにないのである。 |
これは人間として生きる上ではとても悲しいことである。動物で言えばハタネズミだろうか。 |
ほんの小さな事でも気になって眠れないことも多々あるのだ。本当に我ながら情けなくなることしばしば |
である。これをここに書き込むという事は現在、何かしら心配事を抱えてしまっているからである。 |
今の時期ということはもちろん写真集のことである。何回も見直すのはいいが、どんどんと問題点という |
かこうすれば良かった、あの写真を替わりに入れておけば良かったなどとくよくよ考えてしまっている。 |
また、もう少し作るのを後にもっていけば先週の素晴らしいノビタキの写真をあの写真の代わりに入れる |
ことが出来たのにとまた新たにくよくよの二段重ねにしてしまう始末である。 |
待てよ、この野鳥は向きが良くないとかトリミングはこうすればもっと良くなったんじゃないかなどと誠に |
男らしくない。 |
それで昨夜も2時間余りしか眠れなかったのである。アマチュアなのだから完璧な写真集など望めない |
とは思うものの、お金を払って買って頂ける方に対しての責任があるではないかともう一人の私が私を |
非難するのである。(これはいけない、ノイローゼ気味になってきた。) |
一つが気になるとどんどんと心配事が増えてかつ大きくなってしまうのである。もう印刷は始まっているの |
である。ええい、もういいじゃないか!なすがままよ。・・・・・・と一度でも思い切ってみたい。 |
この心配事は私からは永遠に消えないかもしれない。ハタネズミ系の私はこうして数十年生きてきたの |
である。一度も思い切れず、いつまでもウジウジとした極めて嫌で損な性格である。 |
上方落語は現在、東京の落語を質的に圧倒的に上回っていると断言させて頂く。古今亭志ん朝師匠が |
いなくなって、その差はあまりに歴然と開いてしまった。 |
私が好きな落語家を列挙してみる。 |
笑福亭松之助師匠。今はバラエティで犬の着ぐるみを被ったりはしているが、素晴らしい話し手であり |
また全く落語ができないさんまを弟子にとる広い許容心も持ち合わせている。 |
この人の「始末の極意」の落語は素晴らしい。米朝師匠のものも聞いたことがあるが、表現力と話の |
持っていき方に松之助師匠のほうが数段優れていると評価したい。 |
また「らくだ」という落語も亡き松鶴師匠を除けば、この人以上に演ずることは出来ないであろう。 |
桂福団治師匠。この人の演技力、表現力は現役の上方落語界では1,2を争う実力をお持ちである。 |
例えば「くっしゃみ講釈」という演題を福団治師匠と若手の2つを時間をおいて見たことがある。雲泥の |
差、実力の差とはこういうことをいうのかと感心してしまった。話の途中の間の取り方などは話に観客を |
集中させる実にうまいテクニックを発揮するのである。この人の「蜆売り」。機会があれば聞いて頂きたい。 |
笑福亭松喬。実に個性のある声を持つが、落語は実にうまい。NHKで「首提灯」と「崇徳院」を聞かせて |
もらったがなかなかのものであった。惜しむらくは、もう少し間を感じて演じて頂けたらと思う。 |
桂文枝師匠。女性を主人公にさせた演題を演じさせたら、日本一の実力者である。とにかく色っぽくそして |
女性のディティールを細かにつかんで我々を魅了する。「猿後家」の素晴らしさを是非。 |
笑福亭松鶴(6代目、故人)。 |
一番好きな落語家である。未だにこの人の落語をビデオで見る度に感激してしまう。特に酒を飲む役を |
演じさせたら最高である。前出の「らくだ」などは、この人を抜く演技を行える人間は未来永劫出てこない |
であろう。また、「高津の富」という面白い演題などは最高に笑わせてもらえる。あの間の取り方と人物を |
演じる表現力。とにかく素晴らしいの一言。 |
そして亡き桂枝雀師匠。どうして死ななければならなかったのか。悔しいの一言である。 |
昔、親戚の家は土地持ちの家であった。庭で野球が出来るくらいあった。現在は全て売却して十数件の |
家が建っている。田舎ではないからバブルの時はとんでもない固定資産税を払っていたのではないかと |
思われるほど広かった。 |
その庭で親戚としての恩恵を受けてよく遊ばせてもらっていたが、庭には3本の大きな柿の木があった。 |
小さな頃の私にとってはとてつもない高さに思えたものだ。柿の木が実ると、先がY型になっている長い |
柿取り専用の棒を使ってとってもらった。その頃から柿には目がない私である。 |
とにかく秋は梨から柿に移る時期が一番楽しみである。柿を食べる時は自分で剥くことが多い。自らの |
手を使って食べると美味しく感じるのも柿の良いところである。 |
漫画でよくある柿泥棒などやったことはないが、美味しい柿の実がなっていたら思わずもありえないことも |
ない。柿は熟しすぎるのも問題である。やはり熟す手前の弱冠歯ごたえのある食感が一番の魅力的な |
果物である。ただ、毎日柿を食べていると便秘気味になるのが玉に瑕なのではあるが。 |
実は今日リンクして頂いている山柿舎さんから家で取れたものだとたくさんの柿を送って頂いてしまった。 |
インターネット上だけのお付き合いではあるが、話的に共感することが多くてとても波長が会う方なので |
ホームページで知り合いになれたことがとても嬉しい方のお一人である。 |
それにしても、私は一度もホームページで無類の柿好きであることを明かしたことはなかったのに、それ |
をお判りになるとは恐るべしお方である。 |
写真集の発行まであと10日余りとなりました。わずかな方々にでも目を通して頂けるということは作者 |
にとって、これに勝る喜びはありません。ところで問題にもしていましたが、写真集の題名を発表すると |
共にどのような思いで名づけたかをここに是非記しておきたくなりました。(結局、回答はゼロでした。 |
当てられたら本当に30冊差し上げたのに・・・・) |
では、発表いたします。(ドラムロール!ジャカジャカジャカジャカ・・・・・・・・・) |
写真集の名前は A!鳥絵 (アトリエ) です。 |
まずこの名前をつけた理由の一つが、野鳥を撮影するフィールドが私のアトリエであること。(私の写真 |
撮影の仕事場)そしてこの写真集が私という人間が集約された一つの画室=アトリエだということ。 |
そしてもう一つはこの当て字からも判るように、野鳥を絵のように撮りたいという私の当初からの目標 |
が今回完成・成就したことを意味しています。 |
ですから、写真集というよりも絵本を開く、見るという楽しみ方を感じていただけたらと考えています。 |
写真もそうした意図を踏まえて選定しております。写真集らしくないという私の狙いはそこにあったので |
すが、その意味では100%満足の仕上がりとなりました。 |
そしてビックリマークをつけたのは、ほんの少しでもそうした私の思いを写真集で感じて頂くことができた |
らという理想の意味でのビックリマークなのです。 |
このタイトルは撮影を始めて3年目ぐらいにふと思いついたようです。というのも自身がどのような状況 |
で作りだしたか、全く覚えがないのです。(何せその頃は下手な写真ばかり撮っていましたから。) |
それでも語呂がいいのと、鳥絵という言葉がとても気に入ってしまったということからずっと忘れずに心 |
の中で暖めていました。いつか写真集を作ることが出来たなら、必ずこの名前をつけて発表してやると。 |
そしてその思いが実現する日がもう僅かとなりました。 |
最近は、お茶が富においしく感じるようになった。やはり人間の老化が進んでいるのだろうかと思う。 |
特に食事後に飲むお茶がおいしく感じると共にホッとする。ある種の極めて小さな幸せを感じているよう |
である。 |
コンビニでも飲み物の売れ筋がジュースからお茶に人気が移行しているとのこと。成る程、いろいろな |
メーカーがまろ茶なり生茶なり、しみじみ茶といった無理やりに近いネーミングと微妙に違う味で競争して |
いる。ちなみに私が好きなのは爽健美茶が一押しで、しみじみ茶も好きである。 |
ただ、写真撮影に行く時には必ずほうじ茶をボトルに入れていく。夏でも熱いほうじ茶である。一年中 |
変わることはない。実は最初は緑茶を入れていたのだが、今のボトルに入れると必ず変色してしまうの |
である。お茶屋さんによると、ステンレスの中で微妙に色が変わってしまうとのこと。(全く害はないよう |
であるが、あの色では茶欲が湧かない。)ということで、年中ほうじ茶である。 |
野鳥等を撮影しながら、熱いほうじ茶を飲むと何かしら体がゆっくりと癒されてゆくようであり、かつ集中 |
力が研ぎ澄まされて撮影にいい結果が確実に出ている。ほうじ茶を飲みだす以前と現在とはびっくりする |
位に撮影結果に差がでているのだ。 |
家では緑茶オンリーである。決して家ではほうじは飲まない。ただ、お茶の良し悪しについては全く自信 |
がない。唯一、香典返しのお茶はまずい!!・・・・というくらいは判るつもりであるが。 |
また夏場に冷やして飲むのは麦茶、ウーロン茶のローテーションである。とにかく一年中何かしらのお茶 |
を私は飲みまくっている。お茶のない世界では私は一日も生きていけないと信じている。 |
イチローと新庄の大リーグの挑戦はひとまず終了した。(イチローにはまだワールドシリーズへの道が |
目標として残されているが。) |
私の周りにいる人間の大部分がイチローは虫が好かない、新庄の方が魅力的だと答える人間が圧倒 |
的である。理由は最低年棒で挑戦した新庄の心意気が見事なことや、華のあるプレーがいいとの意見 |
もあるにはあるが、結局は新庄が愛想がよくてイチローは感情を表に出さず見ていて腹が立つという |
感情的な理由が多いようである。 |
私はそういうイチローが大好きであり、新庄はよくやったと思うが好きにはなれない。(タイガースを捨て |
たというのが基本的に気に食わない。それに愛想がいいというよりは、新庄の場合は永遠に子供であ |
り、言動が非常に判りやすいだけのことである。) |
イチローは確かに日本のマスコミだけでなく、アメリカのマスコミに対しても無愛想であるように見える。 |
しかし、ポスティングシステムでの入札により十数億円もの移籍料でマリナーズに決まったということで、 |
大きな責任を背負わされたのである。もちろん、イチローは大リーグに行くのが夢であり、嬉々として彼 |
なりにプレーしているのだと思う。しかし、日本にいる時からイチローのクールなプレースタイルは全く変 |
わってはいない。それを能天気な新庄のインタビューをはやしたて、ほとんどテレビでのインタビューに |
答えようとしないイチローを消極的に非難することには我慢できない。 |
今年のイチローは正に1年目の選手として、そして7年連続日本の首位打者の誇りを持って全力で試合 |
に臨んだ。それは衛星放送でのマリナーズの試合を見れば判ることである。本当に素晴らしかった。 |
あの全力疾走をあの盗塁を何故日本でやらなかったと批判する方もいるが、それはイチローがすでに |
日本のプロ野球に魅力を感じなくなっていたからであろう。今は全力疾走で普通の内野ゴロをヒットにする |
イチローを見るのが、私はこの上なく好きである(今の大リーグでは彼にしか出来ないことである。) |
アメリカでの前評判は決して高くはなかった。日本のプロ野球の野手がアメリカで通用するものかと多分 |
にあざけりの思いで見ていたのであろう。そういう点でざまあ見ろという小気味よい感覚が日本人として |
ある。(このことに関しては新庄も本当によくやってくれたと思う。) |
この1年はイチローと新庄・野茂に大リーグの面白さを堪能させてもらった。もちろん、日本人の出ていな |
い他の大リーグのチームなどに全く興味はない。そういえば、現在大リーグで活躍しているほとんどの選 |
手が関西のチームか若しくは出身者が多い。これは同じ関西人としてとても誇りに思う。 |
イチローは来年、ますますマークがきつくなるだろうが彼はきっと乗り越えて、今年以上に楽しませてくれ |
そうである。それに対して新庄の活躍は難しいかもしれない。というのは在籍するメッツが今年の不振を |
現在、深夜の3時半である。眠れなくてふとパソコンで私の掲示板をのぞくとOWLさんという方から新た |
な書き込みを頂いていた。前回の私の「写真を撮る意味」についての感想であった。 |
そのご意見を聞いて、私は率直に自身が間違っていることに気付いて大いに反省をしてしまった。そし |
て今、新たな観点から写真撮影に向うことが出来るような気がする。 |
写真は感性を表現すると共に自己表現をする場でもある。私のように独りよがりの写真を撮っていては |
個人では楽しめる写真ではあっても、他人が見ても何ら感じさせることは出来ないつまらない退屈な |
作品でしかありえない。 |
プロとアマチュアの写真家には根本的なところで大きな違いがあることにも気付いた。それはアマチュア |
には逃げ道が用意されているということである。いつでもやめようと思えばやめられるし、そこに感覚的 |
な弱さがある。しかしプロは違うのである。彼らはこの道一本に人生の全てを賭けようとリスクを承知で |
飛び込んだのである。そこに気概があり、明確な目的を持つことが出来る。それは我々のような甘い |
感覚のアマチュアが決して持つことの出来ないものである。そこにある差は果てしないものである。 |
そして前回、写真は感動させることが全てではないと書いたが、果てしもない思い上がりだったような気 |
が今はしていて本当に恥かしい限りである。私がアマチュアながらも自費出版で写真集を作ろうとしたの |
も他人に自分のメッセージを伝えたかったのであり、それは感動とはいかないまでも何かを感じて頂くこと |
を密か期待していることは間違いない。写真集はアマチュアの私であっても自己表現の場であり、それ故に |
今回ホームページ上でも予約を募集したのである。私の写真を見ていろいろな感想を聞いてみたいという |
欲望・願いがあったからに他ならない。そうした明確たる気持ちを持たなければこのアマチュアのどうしよう |