私の主張  平成十八年十一月十七日更新 (これまでの分は最下段)    「契冲」のホ-ムペ-ジに戻る

教育再生への視點

                    ――「當用漢字」、「現代かなづかい」告示六十年に思ふ――

    

 

十一月十六日は日本の文化にとつて忘れてはならない日である。今から恰度六十年前昭和二十一年のこの日、當時の吉田内閣が「當用漢字」、「現代かなづかい」を告示したのである。戰後の「國語改革」は當にこの日に始つたのであり、贊成推進派にとつては「輝かしき革命紀念日」であり、反對保守派にとつては「痛恨の日」である。しかしこの日から干支一運した今日、人々の關心はもはや失はれてゐると言つてよい。日本の文化や傳統を繼承しよう、國語教育の充實を圖らうと主張する人達ですら、漢字や假名遣には一言も言及せず、何の疑ひもなく「國語改革」を受け容れてゐる。

ではこの「國語改革」は成功したのか、これに依つて民度は向上したのか、と問ひ返せば、前者は「普及」したといふ意味では成功したと言へるかもしれないが、後者に就いては明らかに否である。犯罪の兇惡化、學校に於ける學力低下や「いぢめ」、官僚の杜撰などこれ等全て民度の低下を物語るが、其原因の根柢に實は「國語改革」があることを示し、江湖の關心を呼び起こしたいのが本論の目的である。

 

結論から先に言ふと、「當用漢字」及び「現代かなづかい」のシステムとしての不合理性、脆弱性もさる事ながら、これらの致命的缺陷ゆゑの、鷺を烏と言ひ黒める類の強硬な中央突破の姿勢を行政當局が運用面に於て示した結果、末端に於ける「〜でさへあれば」といつた杓子定規な思考形式を助長し、延いて道義の頽廢を招いたのであり、これへの反省と是正がない限り、教育の再生はあり得ないであらう。

具體的な例を擧げれば限りが無いが、典型的なものをあげると、先づ漢字では、それまで流通してゐた漢和字典の類は如何にその撰者の學問的業績を集大成した名著であらうとも、「當用漢字」以外の訓や字體は全て誤と生徒に教へる、熟語では宛字は假名書きせよと言ひつつ「同音の漢字による書き換へ」を強行し、意味や由來を一切無視し「無慙」を「無殘」、「推敲」を「推考」とするなど「當用漢字」にあるかないかが全てを決するとした。また假名遣では教科書の五十音圖から「ゐ」「ゑ」を抹消し、從來用言の活用不變部を語幹と言つたが、「ありがたう」が「ありがとう」とならば「語幹も變化する」と言ひ、「笑はう」が「笑おう」とならばハ行四段は「ワア行五段に、しかも未然形が二通りある」と強辯した。

 

しかしこのやうな教條主義は必ず末端に於て狂氣染みた現象を誘發する。「當用漢字」、「現代かなづかい」告示が唯一の規範であり、これに合致してゐさへすれば何でもあり、逆にこれに合致せぬものは全て誤とするといふ絶對主義的な畫一思考がここに支配權を確立すると、「國語の民主化」の名の下に國語に對する見識など無くとも、「これは「當用漢字」にないから違反だ」、「舊かなの文章を「假名遣原文の儘」などと特權的に扱ふのは怪しからん」などと言へば誰もが降參することになつた。新聞は常に學歴社會を批判する一方で、義務教育のみの學歴者を常用漢字「しか」讀めない知的弱者と看做し、交ぜ書きだらうが宛字であらうが「當用漢字」のみで紙面を作るのが「親切な思ひやり」だとして、當局の強行突破路線を全面的に支持した。このやうな「國語改革」を拒否する知識人は三角帽子こそ被せられなかつたものゝ、ジャーナリズムからは新かなを條件とした寄稿を餘儀なくせられ、謂はば兵糧攻めに屈伏せざるを得なかつた。

 

學年別漢字配當表も建前上は最低限の習得を義務付けるものであるが、實際は學年ごとに「じどう車」、「自どう車」、「自動車」の順に教へる教科書が檢定され、最初から「自動車」と教へる教師は批判されるのではないか。一年生が「自動車」と漢字で讀んだり書いた時、「まだ「自」や「動」は教へてゐないのだから「じどう車」と書きなさい」と大多數の先生は反應するのではないか。「子供の發達段階を考へてまだ「じどう車」と書く子を守る」などといふ理不盡な理窟が通つてしまふ。その生徒は餘計なことをする生徒、いけない生徒だと先生に叱られ、友達にいぢめるられ、それが亢進するとは容易に想像出來るではないか。「克く讀めたね、「自」や「動」はまだ教へてゐないけど、「自動車」を皆で覺えてしまはう」といふ極く普通の反應を躊躇はせる壓力が生まれてゐるやうにさへ思はれる。

理不盡ゆゑに極端に走るのは昨今のいぢめ事件が示してゐる。戰時中軍部は「英語は敵性語である」と言つた。野球界では「ストライク」や「ボール」は英語だから審判の判定は「ヨシ」、「ダメ」とした。敗色濃厚となると軍は「竹槍ででも抗戰せよ」と言つた。すると實際に主婦を集めて竹槍訓練をする樣子が新聞に載つた。しかし誰もこれを理不盡だとは言はなかつた。思ひ半ばに過ぎる事實である。

 

安倍政權が發足して教育政策として、全ての兒童に高い學力と規範意識を育てる公教育の再生を掲げた。吃緊の課題であり大いに贊意を表するものであるが、「學力」「規範意識」の具體的内容は人により同牀異夢と言へるのではなからうか。ここでは「學力」は一先づ措き、「規範意識」について考へて見たい。現在では規範意識と言ふと、法律や校則に從ふことゝ思はれ勝ちであるが、これでは上述の如く、法律萬能、その裏返しとしての「法律に違反さへしなければ」といふことにしかならない。「なぜ人を殺してはいけないのですか」と生徒に質問されて絶句する先生が居るやうであるが、合理的理由のある法律的規範しか教へないから當然かうした質問が出るし、「基本的人權である他人の生きる權利を奪ふから良くない」といつた「合理的な」しかし生徒を納得させることのできない答しかできなくなつてしまふのである。

 

人間には「父祖の掟」があつてこれが文化的規範と言はれるものである。この文化的規範には二つの大きな特徴がある。一つはその規範の合理的理由が必ずしもあるとは言へないこと、もう一つはそれらの規範は一種の修練を通じてのみ身に著くものである。第一は例へば人前に出るのにネクタイを締めることは日本人の文化的な規範であるが「合理的理由」がある譯では必ずしもない、どころか異る服飾文化圈から見れば異樣にさへ見える。しかし「お父さんはどうしてネクタイを締めるの」と子供に聞かれたら、「人前に出るから」と答へることが重要で、「合理的理由」をあれこれひねり囘すのは有害無益なのである。そして第二としてこの規範を身に著けるにはネクタイをきちんと結ぶ練習が必要なのである。

 

最近、國旗國歌の掲揚齊唱時の起立問題が論ぜられてゐる。これが法律問題として爭はれてゐることに違和感は無いのであらうか。國歌が演奏されたら起立して姿勢を正して齊唱することは、「合理的理由」など無くとも國歌を持つ全ての民族共通の文化規範であり、學校では之を練習させて身に著けさせるのは當然である。國際試合で外國選手が自國の國歌演奏に姿勢を正して齊唱してゐるのに、我が國の選手は姿勢もばらばらで君が代も歌つてゐないことが多いが、これは學校で十分な練習を課せられなかつたからである。畏れ多くも天皇陛下が「強制的でなく」と仰せられたのは、これを文化的規範として身に著けさせよとの大御心と解せねばならない。

 

かうした文化的規範を受け容れる素地は言語の習得にある。公教育に於ける言語教育こそが文化的規範を育む最重要課程に他ならない。言語の習得には練習以外にはない。茶は點てる、味は見る、香は聞くといつた慣用句に「合理的な理由」などあらう筈が無い。無いが「茶を煮る」とか「味を舐める」、「香を嗅ぐ」などとは言はない。この事を練習で體得することが重要なのである。「これは配當表にある教育漢字だから遣つていい」とか「これは舊假名遣だから誤だ」といつた教へ方ではなく、國語の表記としてありの儘に教へ練習させるべきである。さういふ意味で正漢字や歴史的假名遣は重要な役割を果す。正漢字の學習は生徒が今後遭遇するであらう無數の漢字の基本構造を無意識に體得させる。常用漢字字體ではそれ以外の謂はゆる表外字との關聯性を切斷したものであるゆゑ發展的な漢字學習には繋がらないのである。また歴史的假名遣の學習は發音との乖離のゆゑに卻つて書き言葉への關心や國語の生理を實感させるものである。現代假名遣では發音通りといつて自己流の表記で書いて書けないことはないため卻つて假名遣を練習せず、「そおゆーこと」などと變な表記にも無關心となる。從つて今求められてゐる文化的規範意識を培ふ爲にも歴史的な表記を基礎とした國語教育が絶對に必要なのである。

 

今更歴史的假名遣など不可能だといふ論もある。しかし例へば來年の小學一年生から教へ、その翌年は二年生と一年生にと順次實施してゆけば、九年後には義務教育すべてを歴史的假名遣で賄ふことができるのである。新字新かなで育つてしまつた人には簡便な習得方法を提供するが強制はしないことにすれば混亂も防げるのではないか。從來この議論は國語表記の合理性や效率性といふ觀點からのみ論ぜられてきた。しかし幼少年への文化的規範を體得せしめる上で、文字の傳來以來千數百年にして漸く完成の域に至つた歴史的假名遣、正漢字による傳統的表記の有效な作用に思ひを致せば、その復活の重要性が理解せられるであらう。

 

思ひ起せば六十年前「當用漢字」「現代かなづかい」の告示は、意識してゐたかゐなかつたかに拘らず、明かに漢字廢止、ローマ字化に向けてレールを敷いたものであつた。しかもこれはその七ヵ月程前に出された米教育使節團報告書に基くもので、そこでは「この世に永久の平和を齎らしたいと願ふ思慮深い人々は、場所を問はず男女を問はず、國家の孤立性と排他性の精神を支へる言語的支柱をできる限り崩し去る必要があるものと自覺してゐる。ローマ字の採用は、國境を超えた知識や思想の傳達のために大きな貢獻をすることになるであらう」と記されてゐる。「孤立性と排他性」とには聞えの良くない負のイメージがあるが、孤立性とは他國と異なる獨自性を意味し、國家存立の基本的條件である。また排他性とは免疫現象でいふ意味での、文化的規範に合はぬことへの違和感乃至拒否反應を表す。當に文化の本質を表す術語であり、日本文化を支へる言語的支柱の崩潰を企圖してゐることは明かである。

 

不幸にもその效果は絶大で我が國の文化は致命的な打撃を受け、民族の規範を提供する能力が衰へた結果、全て法律の條文でしか判斷できない體質となつてしまつた。上述の「なぜ人を殺してはいけないのですか」などといふ質問がこれまでの世代に無かつたのは「いけない」といふ禁止語には「合理的理由」を超えた力を認める日本の文化的規範の作用である。このことを修得させる言語教育が行はれないから、「法律では十四歳以下なら何をしても罰せられない」ことばかりを論ふことになる。首相の靖國神社參拜は「公用車を使ひ祕書官が隨行したから公式で違憲」といつた議論などもこの例に洩れない。

 

民度の低下はかやうに目を覆はしむるものがある。しかし、極度に惡化した後には新しい息吹が蘇る一陽來復のあるのが宇宙の法則である。我々は希望を失はず、日本文化の復活に向け、先づ國語の正常化を成し遂げることに注力したいと思ふ。                          (平成十八年十一月十六日)

 

(平成十八年十一月十七日架網)

 

市 川   

昭和六年生れ

平成五年 有限會社申申閣設立。

正假名遣對應日本語IME「契冲」を開發。

國語問題協議會常任理事、文語の苑幹事、契冲研究會理事。

 

これまでの私の主張(ホームページ掲載分)日附降順

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忘れられる歴史的假名遣   「假名遣腕試し」に思ふ−「國語國字」第百八十四號(平成十七年十月十日)

朱鷺、信天翁、歴史的假名遣

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