古代出雲の旅 2007_a(島根県)

古代出雲歴史博物館 日御碕 鷺浦 佐太神社 美保神社
大神山神社 神魂神社 熊野大社 加茂岩倉遺跡 荒神谷遺跡 西谷四隅突出墳丘墓

2007年5月10~13日、旧友10人での恒例旅が催された。今年は、出雲・山陰の旅だったので、昨年巡った神社・遺跡の一部を再訪問する機会を得た。今年3月に開館した古代出雲歴史博物館と美保神社は初めての訪問である。前回との重複は極力避けて、今回の訪問で新しく気付いた点および昨年と大幅に変わった点をここに記しておく。

島根県立古代出雲歴史博物館 
神話回廊、特別展示室、総合展示室、テーマ別展示室とに分かれている。
滞在時間の関係上、神話回廊は今回パスしたが、シアターでは出雲の神話を映像化して分り易く見せている。特別展示室では特別展「神々の至宝」が催されていた。総合展示室は古代から現代までの島根の生活を古代を重視して見せている。ここでは四隅突出型墳丘墓に関する展示を重点的に見た。出土品も展示されている。テーマ別展示室での目玉の一つは、巨大宇豆柱発掘により推定される出雲大社の古代の姿を5つの立場から復元模型で示していること、二つは、荒神谷遺跡出土の358本の銅剣、加茂岩倉遺跡から発掘された銅鐸、さらには神原神社古墳で出土した景初3年銘入りの三角縁神獣鏡など出雲の青銅器文明が強調されている。これだけ集中して集めれば、荒神谷博物館や八雲立つ風土記の丘資料館(現在リニューアル中)との整合が気になる。弥生後期から古墳時代後期までの間の出雲の歴史を知りたかったが、5世紀近辺(大和朝廷成立時)の出雲は、やはり謎のままに残った。
  南側正面左側から(突当たりが東入口)
左奥の建物はミュージアムショップでその前面に正面入口がある。
南側正面東(右)側駐車場側から
白い近代的な建物が展示室。

展示室に入ると正面に出雲大社高層神殿の巨大宇豆柱が展示されている。平成12年に発掘された「出雲」の象徴だ。
開館に併せて、特別展「神々の至宝」(3月10日~5月20日)が催されていた。宗像大社沖の島、熊野速玉大社、春日大社、祇園八坂神社、伊勢神宮、出雲大社、日御碕神社、佐太神社の神宝が一堂に会した。海の正倉院・沖の島の遺跡・遺物は、佐倉市(千葉)の国立歴史民族博物館で模型・複製で見ることはできるが、遺物の実物を見る機会は少ない。出雲の諸神社の神宝も普段見れないものが多い。それぞれ成立過程の異なる各神社の神宝を並立して見られ興味深かった。

『出雲国風土記』の国はコクと読まずに「いずものくにふうどき」、『出雲国造神賀詞』の国造はクニノミヤツコでなく「イズモコクゾウカンヨゴト」と読む。佐太神社の太はタでなく「サダジンジャ」である。私は”判れば良い”が、”正確さ”を求める方には問題となる。
出雲大社
出雲大社は、『出雲国風土記』では「杵築の大社」。今回は簡単に通り過ぎた。 大社の宮司である出雲国造家は、中世に北島・千両家に分かれた。

日御碕神社
『出雲国風土記』では、日御碕神社は美佐伎の社、『神名式』に御碕神社と記される。日御碕と呼ばれだしたのは中世以降らしい。
『出雲国風土記』での日御碕近辺の浜・埼・島の記述は、「宇礼保の浦(宇竜)。広さ七十八歩。船二十ばかり泊つ可し。山崎(権現島)。高さ三十九丈、周り一里二百五十歩。椎・楠・椿・松有り。子負島。磯なり。大椅の浜(おわす浜)。広さ一百五十歩。御前の浜(日御碕神社前の浜))。広さ一百二十歩。百姓の家有り。御蔵島(ウミネコ繁殖地の経島(ふみしま))。海藻生ふ。御厨家島(うまや島)。高さ四丈、周り二十歩、松有り。等々島(艫島)。貽貝・石花有り。・・・・・鮑は出雲の郡尤も優れり。所捕る者は、所謂御埼(日御碕)の海子、是也。」と記されている。(萩原千鶴「出雲国(いずものくに)風土記」)
御前の浜(日御神社前の浜)からの夕日。御蔵島(経島)の左に沈む。 2月21日(太陰歴の正月五日)に催される「和布(わかめ)刈神事」の因縁を伝える大額が神社入口にある。ウミネコが神社の欄干に三度にわたって掛けて飛び去り、それにより海藻としてのワカメの存在を知ったというもの。由緒ある古社に特有の神事。
神ノ宮(上宮)はスサノオ尊を祀る。 日沈宮(下宮)は経島に祀られたアマテラス大神を遷したという。

鷺浦 (さぎうら)
『出雲国風土記』の出雲郡の浜・埼・島の記載に、「鷺浜。広さ二百歩。」とある。鷺浜が鷺浦である。
日御碕から大社方面に少し戻り、途中平田方面への新舗装の地方道に入り山間をドライブする。鷹取山を左に巻いて、眼下の谷間に鷺浦漁港が見えてくる。”時代が止まった街”という。 漁港の裏通りは、中世に北前船の寄港地として栄えた街並みがそのまま残っている。各家には屋号がある。
江戸時代後期に塩飽(香川県丸亀市)の塩の売買の人が泊った塩飽屋(しあくや)住宅、、古い土蔵の漆喰彫刻、塗り格子の虫籠窓(むしごまど)などが残る街を散策する。山合いを鷺浦に八千代川が流れ込み、川向こうの丘上には文殊院がある。 八千代川の橋詰めに、出雲大社摂社「伊奈西波岐(イナセハギ)神社がある。稲背脛命を御祭神とし、八千矛神、稲羽白兎神、稲羽八上比売命を合祀神とする。「稲背脛命は、亦の名を天庚鳥命・天鳥船命といい、出雲国造の祖神・天穂日命の御子であり・・・」と案内されている。国譲り神話で大国主大神と美保岬で漁をしていた事代主神との連絡係をするアメノトリフネである。出雲国風土記にはこの社名は見つけられない。出雲大社の摂社として「同社」とあるのがそれだともいう。


佐太神社
『出雲国風土記』島根郡の浜・埼・島の項に、「加賀の神埼。即ち窟有り。・・・・・」として、現在の加賀の潜戸(くげど)での佐太大神の生誕神話がある。佐太大神は熊野大神などとともに出雲の古い神格である。記紀神話と離れた出雲神話がここにある。
『出雲国風土記』では、秋鹿郡(あいかのこほり)の社の先頭に「佐太(さだ)の御子の社」としてある。また山野・河川・陂(つつみ)・池の項には、「神名火山。郡家の東北九里四十歩。高さ二百三十丈、周り一十四里。所謂佐太大神の社は、即ち彼の山下之。」とある。神名火山は現在の朝日山。

『神名式』には「佐陀大社」。出雲国二ノ宮である。八百万の神々が集う「神在の社」。大社造りの三殿並立の社殿は建築史上特筆すべきもので、国の重要文化財に指定されている。正殿(中央)には、出雲国の祖神である佐太大神と出雲系の神々が祀られている。
殿(左側)には、スサノオ尊と秘説四座が祀られている。男千木(おちぎ)であるが、入口が左に設けられているところが珍しい。(普通男造りでも女造りでも入口は右側。) 北殿(右側)には、アマテラス大神とニニギノ尊(いわゆる天神系)が祀られている。千木は男千木である。

美保神社

『出雲国風土記』では、島根郡に美保の社と見える。
この神社は初めての参拝である。美保関からは、美保湾の向こうに、大山が望める。
みやげもの屋のはずれから、一の鳥居と二の鳥居。 拝殿に登る石段。
拝殿の後ろに本殿は隠れている。 本殿を右側から拝す。
本殿を裏側から見る 本殿平面図
『出雲国風土記』に、「美保の郷(さと)。郡家の正東二十七里一百六十四歩。天の下所造らしし大神命、高志の国に坐す神、意支都久辰為命(おきつくしゐのみこと)の子、俾都久辰為命(へつくしゐのみこと)の子、奴奈宜波比売命(ぬながわひめのみこと)に娶ひて、産ま令めし神、御穂主湏々美命(みほすすみのみこと)、是の神坐す。故、美保と云ふ。」とある。

天の下所造らしし大神命は大国主命。高志の国は「越」で、今の北陸地方。意支都久辰為命と俾都久辰為命は海辺と霊威を象徴した神名と解釈される。奴奈宜波比売命は『記』のヌナカワヒメに当る。御穂主湏々美命が美保神社の祭神・三穂津姫命(美穂津姫大神)である。

美保神社は、三穂津姫命と事代主神を祭神として、本殿は大社造りの二殿連棟の特殊な形式である。美保造または比翼大社造などという。外から見た時には、女千木をもつ女造りと左側の男千木をもつ男造が合わさると、神座が背中合わせになっているのかと不思議に思ったが、神社の御由緒に右上の平面図が示されており、神座は両棟とも正面を向いている。

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