関東の古墳 5世紀の前方後円墳を中心に(関東一円)3/

はじめに 1.武蔵 2.上毛野 3.下毛野 4.常陸 5.下総 6.上総 おわりに

摩利支天塚古墳 笹塚古墳 上侍塚古墳
関東北西部は総じて”毛野国”と呼ばれていたが、5世紀末から6世紀初頭に、上毛野(現・群馬県)と下毛野(しもつけの 現・栃木県)に分けられ、それぞれに国造(くにのみやつこ)が置かれた。この時期の上毛野の中核は、保渡田古墳群など榛名山東南麓にあった。下毛野の新興勢力は、思川流域に大型古墳を造る。7世紀に北東の”那須国”と併合し、8世紀初頭(713)に上毛野・下毛野ともに、”毛”をはずして、上野・下野とする。下毛野に「那須国」が加わり、下野(呼び名は変わらず、”しもつけの”)となる。

下野でも「那須国」に相当する那珂川流域では、上侍塚古墳に見られるように、前方後方墳が多い。この地域では、5世紀中葉以降に目立った大古墳はない。

宇都宮に近い田川流域では、5世紀初には前方後方墳が築造されていたが、5世紀中葉には大規模の前方後円墳・笹塚古墳などが築かれた。

南部の思川流域では、5世紀初に山王寺大枡塚古墳(96m)の前方後方墳が築かれて以後目立った古墳は築かれなかったが、6世紀初頭の摩利支天塚古墳を始として幾つかの大規模前方後円墳が築造された。ここで、中央畿内政権をしっかりと捉え、律令国家での国府・国分寺・国分尼寺・薬師寺の建立の基礎となっているようだ。
下毛野朝臣古麻呂は、大宝律令(701)の選定に刑部親王、藤原不比等などと参加し、下毛野薬師寺創建に深くかかわった。仏教文化が華開いた下野で、天平7年(735)には日光を開山の勝道上人が真岡市に、延暦13年(794)には慈覚大師円仁が壬生町に生まれた。宝亀元年(770)には、政争に敗れた前の法王太政大臣・僧道鏡が下毛野薬師寺の別当に左遷されている。

摩利支天塚古墳 (摩利支天塚古墳 琵琶塚古墳)       
しもつけ風土記の丘資料館 栃木県下都賀郡国分寺町大字国分993
「しもつけ風土記の丘」
JR小金井駅から約4km、車で10分の所にある。栃木県南西部を流れる姿川と思川に挟まれた台地周辺は、律令国家として大和朝廷が成立する際の東国での重要拠点となる。国分寺・国分尼寺が建立され、思川西岸に下野国府が置かれる。9世紀には、姿川東岸に日本三大戒壇の一つとして下野薬師寺が建立される。東山道は信濃国、上野国、下野国を経て陸奥国へつながる。この一帯を「しもつけ風土記の丘」として整備・保存を行い、中心に「しもつけ風土記の丘資料館」が設置されている。資料館館員の方々の丁寧な説明を受け、貴重な資料を頂いた親切に感謝している。

この地域には、摩利支天塚古墳を始め古墳時代後期・終末期の古墳が集中する。資料館の南に琵琶塚古墳(6世紀前)、摩利支天塚古墳(5世紀末)など、北側に愛宕塚古墳(6世紀末)など、壬生駅の北側に壬生愛宕塚古墳(6世紀末)、下野国府跡北側に副葬品の豪華な星の宮神社古墳(6世紀)などがある。地域的な政治権力を誇示する巨大古墳から、畿内中央集権・律令国家への移行にともなう古墳時代の終焉を見ることが出来る。


資料館では、しもつけの古代文明を、導入部、古墳文化の展開、終末期の古墳、律令国家と仏教文化のテーマに分けて展示している。

Pから見る琵琶塚古墳

Pから見る摩利支天塚古墳(正面)
摩利支天塚(まりしてんづか)古墳
墳丘長117m、後円部径70m・高10m、前方部幅75m・高7mで、二重の周堀をもつ。5世紀末~6世紀初頭の築造。墳丘は自然の微高地を利用して築かれたもの。主体部は未発掘だが、倭王権による支配体制の中で、下毛野国をはじめて統括した大首長を埋葬していると思われている。後円部の墳頂に後年になって摩利支天社が祀られた。
摩利支天塚古墳への登り口 石段を登ると前方部に鳥居があり、後方部の摩利支天へ
前方部から古墳主軸を後方部(摩利支天社)へ 正面に摩利支天社 摩利支天は帝釈天と同属で、太陽の神、炎の神、軍神として信仰された。
後方部の北側に下りる 周濠を北西から 幅20mを越える州濠で、後方部では二重になっていたことが分っている。

琵琶塚(びわづか)古墳
墳丘長123m、後円部径74m・高11m、前方部幅64m・高8.5m。幅20mの周濠をもつ。6世紀前半~中期初に築造。栃木県内最大の前方後円墳。摩利支天塚古墳に次いで築造されたとみられる。自然地形の地ぶくれを利用して基壇を設け、さらに2段の土盛をして構成されている。幅20mの周濠が二重に回らされている。
前方部への登り口に石碑と説明版がある。 前方部へ登っていく。
前方部頂から後円部へ。主軸の長さを感じる。 前方部から後円部へ
後円部の墳頂への登り 後円部墳頂には基壇付きの祠が祀ってある。当然に後世のもの。
後円部の北東端に下りる。西日が墳丘に輝く。

笹塚(ささづか)古墳       
宇都宮市東谷町
墳丘長93m(復元長100m)、後円部径63m・高10.5m、前方部幅48m・高9mで盾形の周堀。5世紀中葉ー後半の造営で、栃木県南部・小山市の摩利支天塚古墳よりも半世紀ほど先んじるとされている。宇都宮市南部には、笹塚古墳の属する東谷古墳群の他に、茂原古墳群、塚山古墳群など4~5世紀の大小の古墳が数多くある。時期的には、笹塚古墳は、1km西にある前方後方墳で構成される茂原古墳群に次いで出現した。2006年、宇都宮市では発掘調査を行い、幅10mの二重周濠を確認し、3段構成の墳丘、葺石、埴輪などの出土を得た。当地域の最有力首長の墓と考えられる。
東谷町交差点からすぐにある。前方部を西(道路側)に向けている。 前方部への登り口
前方部から後円部墳頂歩く。後円部墳頂に薬師堂が建っている。 後円部を反対側に下る。
後円部の左後から見る。古墳の周辺には、盾形の周濠があったと推定されている。。 古墳の側面。右が後円部。左の前方部は西向き。

道路を挟んで見る。左端から登ると、前方部の頂上に出る。

上侍塚古墳 (下侍塚古墳 上侍塚古墳)       
なす風土記の丘資料館・湯津上館 栃木県那須郡湯津上村大字湯津上192番地 
「なす風土記の丘資料館」
湯津上村に下侍塚古墳と上侍塚古墳を見渡せる国道294沿いに立地する。那珂川右岸台地上にある。那須国造碑(国宝)を安置する笠石神社も1km北にある。上侍塚古墳、下侍塚古墳ともに、徳川光圀の命により、元禄5年(1692)に発掘調査された。出土品は埋め戻されたが、調査報告書が図面とともに残り、湯津上館に展示されている。湯津上館には、那須国造碑のレプリカと説明もある。
   なす風土記の丘資料館・湯津上館
   (栃木県立)

右側の建屋は大田原市の「湯津上歴史民俗資料館」で民俗資料を展示している。

笠石神社 安置する那須国造碑は、那須国造・那須直韋提の偉業を息子の那須国造家の意斯麻呂が銘碑を立てて威徳を讃えたもの。碑文にある「永昌元年」が中国の年号で689年を指すこと、国造(国を治める豪族)という制度と那須国が当時存在していたこと、直(あたい)という姓(かばね)《氏姓制》などが確認され、碑文の文化度から新羅人が関って作成されたことが分る。¥500で、宮司である80才のお婆さんが説明、開扉して拝観させてくれる。

那珂川(馬頭温泉郷にて)

下侍塚(しもさむらいづか)古墳
墳丘長83mの前方後方古墳。上侍塚古墳につづく首長墓。前方部一辺36m・高5m、後方部一辺48m・高9.4m 
後方部北東端から見る 前方部南東から
前方部正面 前方部南西から

墳丘上、前方部から後方部


侍塚古墳1号墳

侍塚古墳8号墳
下侍塚古墳の北側に大小の古墳群がある。1号墳は前方後円墳、8号墳は方墳、他は円墳である。

上侍塚(かみさむらいづか)古墳
墳丘長114m、後方部幅60m・高7m、前方部幅48m・高4mの前方後方墳。4世紀末の築造で、近くの那須八幡塚・駒形大塚古墳につづく首長墓と見られている。
後方部の東角 後方部から前方部への尾根
後方部西側から 古墳西側を後方部より前方部へ
前方部南西から 前方部東から
上侍塚北古墳は小さな前方後方墳
なす風土記の丘資料館・小川館
小川館は湯津上館から約4kmの地点にあり、近くに那須の郡役所跡がある。小川町には、県内最古(4世紀中頃)の築造と考えられる駒形大塚古墳(墳丘長61m)、那須八幡塚古墳(墳丘長61m)、吉田温泉神社古墳(墳丘長59m)など4世紀代の前方後方墳がある。小川館は企画展準備中だったが、気持ちよく展示を見学、説明までして貰えた。画文帯四獣鏡(駒形大塚)、キ鳳鏡(八幡塚)はいずれも3世紀の中国製である。
なす風土記の丘資料館・小川館 栃木県那須郡小川町大字小川3789番地   
なす風土記の丘資料館・小川館 付近はハイキングコースになっており、資料館の裏手に”ざぜん草・水芭蕉の群生地”が拡がっていた。

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