関東の古墳 5世紀の前方後円墳を中心に(関東一円)4/a

はじめに 1.武蔵 2.上毛野 3.下毛野 4.常陸 5.下総 6.上総 おわりに

4/a 三昧塚古墳 石岡舟塚山古墳
4/b 水戸愛宕山古墳 島町梵天山古墳 虎塚古墳
茨城県立歴史館
の古代の展示
(パンフレットより)
『常陸国風土記』には、新治、筑波、茨城、仲(那珂)、久自(久慈)、高(多珂)の6国が出て来る。倭王権の命により、物部氏が筑波山の山麓を拠点に国造りをしたという。常陸国風土記は、藤原宇合が深く関与しており、鹿島出身の祖先・中臣鎌足を礼讃している。
大化改新後(8C)に成立した常陸国は、筑波、茨城、行方、香島(鹿島)、那賀、久慈、多珂など11郡からなり、現在の石岡に国衙が置かれた。常陸国は、その殆どの部分が現在の茨城県に相当する。

今回の古墳探訪は、5世紀を中心とした大型古墳に焦点を当て、その時代の倭王権とのつながりを求めている。茨城県内の大古墳として、石岡市の石岡舟塚山古墳(5C中)、三昧塚古墳(5C後)、水戸市の愛宕山古墳(5C後)、常陸太田市の島町梵天山古墳(5C中)を選び、装飾古墳としての興味から7C中築造の虎塚古墳を見て周った。

県立歴史館は、水戸偕楽園の北側にあり、茨城県の原始・古代から近現代までの歩みが展示されている。弥生・古墳時代については、三昧塚古墳で出土した金銅馬形飾付冠(模造品)を中心に、壷棺、埴輪、直刀、鏡、玉類、虎塚古墳石室の模造品、蕨手刀、須恵器、土師器、鉄製農具、舟塚古墳の復元模型と埴輪列の配置、5C後~6C前の力士埴輪などが展示されている。
その他の展示では、平将門、真壁氏と小田氏、徳川光圀と斉昭に関する展示が目立った。

三昧塚(さんまいづか)古墳  玉造町大字沖州467番地1
墳丘長85m、後円部径47m・高8m、前方部幅36.5m・高6mで、周堀をもつ。5世紀後半の築造とされる。墳丘には円筒埴輪が三重に巡り、後円部の中心に墳頂下2.7mに箱式石棺が置かれ、伸展葬の形で遺骸が埋葬されていた。副葬品としては、金銅製冠、金銅垂飾付耳飾、平縁変形四神四獣鏡などがあり、他に短甲、鉄鏃、円筒、形象埴輪が出土している。昭和30年以降に明治大学により3次の発掘調査がなされ、現在の姿は、平成16~17年に復元されたもの。勅使塚古墳を始として、三昧塚古墳、権現山古墳、大日塚古墳と築かれ、沖洲古墳群が形成された。
国道355に沿って三昧塚古墳があり、駐車場がある。墳丘のこちら(南西)側は土取りにより削平されていたのを復元。 東側から見た三昧塚古墳。農地保存地域である。
後円部からは石段で登る。 後円部墳頂には主体部が示されている。
前方部から後円部を見る。右奥(南)に霞が浦。 金銅馬形飾付冠(模造品)
(県立歴史館パンフより)
前方部を西側から。正面石段で登れる。 後円部墳頂からから西側を見る。畑の向こうを、鹿島鉄道の電車が通る。

石岡舟塚山(ふなつかやま)古墳  (石岡舟塚山古墳、愛宕山古墳) 
石岡市高浜北根本舟塚
 
舟塚山古墳と愛宕山古墳は、R355を挟んで西と東に位置する。R355に見学用の駐車場がある。
舟塚山古墳と三昧塚古墳とはほぼ同時期に築造され、愛宕山古墳が舟塚山古墳の後継と見られる。三昧塚からは豪華な金銅冠・耳飾などが出土しているのに対して、舟塚山は未発掘で僅かに埴輪列が確認されているに過ぎない。舟塚山古墳の雄大さは、5世紀の関東を考えるに重要な役割をもつと思われる。

三昧塚・舟塚山・愛宕山古墳の主軸方向
愛宕山は霞ヶ浦に向かい、舟塚山は西南に向かい、三昧塚は並行する。高浜、恋瀬川を中心にして、霞ヶ浦の両岸には古墳が多数あり、古代史的に興味ある地域である。

舟塚山古墳と愛宕山古墳の位置関係

石岡舟塚山古墳  
墳丘長186m、後円部径90m・高11m、前方部幅100m・高10mで盾形の周堀。5世紀中葉の造営で、墳丘は3段構成で、後円部径に比べて前方部が長く、大仙古墳に似た特徴をもつという。東国第2位の規模で県内最大の古墳であり、新治、行方、稲敷三郡を含めた大豪族(首長)の墓とみられる。周囲の濠は、立地上の条件から北側の方が南側より広い。発掘調査はされていないが、刀が多数出土したと地元の言伝えがある。周濠の確認調査では、円筒埴輪が出土しているが、形象埴輪は出土していない。付近の陪墳と見られる円墳から木棺が発見され、短甲、直刀、盾などの副葬品が出土している。
国道から西へ少し入ると、鳥居が見え、神社脇から後円部に登れる。 舟塚山古墳の説明看板
後円部墳頂からは筑波山が見える 後円部から前方部を見る
前方部墳頂の樹陰に「舟塚山都大志免根之命」の石碑 前方部墳頂より後円部を見る
前方部下正面から 軽トラで畑仕事に来ていた地元のおじさんに古墳の今昔を聞かせてもらった。古墳には大きな松が立っていたが、戦後の混乱時に伐採した人がいて怒られたとか、刀を掘り出した人がいるようだとか。前方部の一部は地元の方の墓として使用している。  西側の周濠部外から前方部を見る。こちら側の周濠から、家形・人物・動物・馬の埴輪が出土し、祭祀の際の埴輪の列び方が確認された。

府中愛宕山古墳  石岡市高浜北根本694番地外
石岡市教育委員会の説明看板によると、府中愛宕山古墳は舟塚山古墳の北東約300mに位置し、霞ヶ浦に舟を乗り出す形なので出舟といわれ、舟塚山古墳は入舟と呼ばれる。昭和30年東大・坪井正五郎が発掘調査し、無文素焼の壷7ケを発見したという。昭和54年の周溝確認発掘調査により、全長96.6m、後円部径57m・高8.5m、前方部幅57m・高7.5mの規模をもつことが明らかになった。6世紀前半の築造とされる。墳形は誉田山古墳(応神陵)に類似し、かつて墳丘から形象埴輪が出土したとも伝えられる。
後円部を下(周濠跡)から見上げる 後円部から前方部を見る

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