関東の古墳 5世紀の前方後円墳を中心に(関東一円)2/a

はじめに 1.武蔵 2.上毛野 3.下毛野 4.常陸 5.下総 6.上総 おわりに

2/a 白石稲荷山古墳 綿貫観音山古墳 正六浅間山古墳 観音塚古墳 保渡田古墳群
2/b 宝塔山古墳 前橋八幡山古墳 お富士山古墳 別所茶臼山古墳 太田天神山古墳

上毛野(かみつけぬ)国は、九州の筑紫国、関西の吉備国、などと肩を並べる大国(豪族、首長)であった。初期の倭王権(4~5世紀)は、畿内中枢の倭王国がこれら有力な諸国の首長と連合・統合することで成長した。

日本書紀によると、崇神天皇は皇子・豊城入彦命(トヨキイリヒコノミコト:異母兄が垂仁天皇)に東国を治めることを命じた。上毛野国は豊城入彦命を始祖とする。

上毛野国は、5世紀半ばに東国一の規模を持つ太田天神山古墳を築造し、東国西部を代表する首長である事を誇り、倭王権を代表して中国・朝鮮半島との外交、軍事に、あるいは蝦夷征討に携わった名門である。、倭の五王である珍(履中か反正)や済(允恭)が、中国南朝・宋に将軍号や軍事権の認定を申請した豪族の一と看做されている。

安閑期(534)に、「武蔵国造の乱」で一時的に上毛野の勢力は衰退したとはいえ、大和朝廷が確実な体制をとり始めた7世紀、推古12年(604)制定の冠位12階の第三位の大仁を上毛野君形名(かたな)が受けている。形名は、蝦夷制定に出向いた人である。東国で冠位12階の対象となった豪族としては、物部連兄麻呂(えまろ)がいる。兄麻呂は、舒明5年(633)に武蔵国造に任じられ小仁を賜っている。天武朝(7世紀末)には、「東国六腹の朝臣」として、祖を同じとする”上毛野、下毛野、大野、佐味、池田、車持”氏が、貴族として最高の位「朝臣」を賜っている。奈良時代の「大宝律令」(701)に従い、上毛野の”毛”をはずし、上野国となった。

上毛野国の大古墳の築造は、4世紀の高崎・前橋地区と太田地域での前方後方墳で始まり、5世紀の高崎、太田の前方後円墳につながる。5世紀前半の大古墳として、白石稲荷山古墳(藤岡市)、正六浅間山古墳(高崎市)、前橋天神山古墳(前橋市)、お富士山古墳(伊勢崎市)、別所茶臼山古墳(太田市)、大田天神山古墳(太田市)がある。

5世紀後半に、保渡田古墳群に大古墳が集中するが、6世紀には、榛名山噴火の影響もあって、大古墳築造は赤城山南麓に移り、前橋(総社)・太田・藤岡地区で終焉を迎える。

白石古墳群    (白石稲荷山古墳、七輿山古墳)              
藤岡市埋蔵文化財収蔵庫 藤岡市白石1291番地1
上信越自動車道・藤岡ICから富岡への道を行き、鮎川を渡った信号(上落合)を左折して少し走ると稲荷山古墳が右に見え、郷土資料館の小さな看板に導かれて広大な駐車場のある「歴史博物館」に到着する。上落合を直進すると七輿山古墳の駐車場に出る。藤岡ICから10分ほどである。
古墳探訪では、1.古墳がある古代の環境・風景を感じ、2.古墳の形・規模を実際に歩き、3.埋葬施設(石室・石棺など)や副葬品を見て、4.それらの解説書や写真が手に入れば満足となる。最近は、古墳公園として、あまりにも綺麗に整え過ぎていることも多いが、度を過ぎなければ初心者にはそれも有難い。
「藤岡歴史館」(藤岡市埋蔵文化財収蔵庫)は、「毛野国白石丘陵公園」として、整備が進んでいる地域の中央に設置されている。白石古墳群からの出土品を中心に、藤岡市の縄文・弥生から近世までが常設展示されている。平井1号墳からの出土品である金銅装単凰環頭大刀や銀象嵌円頭大刀、大刀形埴輪、家形埴輪などが面白い。稲荷山古墳出土の家形埴輪などは、東京国立博物館に収蔵されている。古墳歩きをするべく退館しようとした時、探訪に役立つリーフレットを渡してくれた。こんな心遣いも嬉しい。

白石稲荷山(しろいしいなりやま)古墳 
墳丘長175m、後円部径92m・高13.5m、前方部幅148m・高6m、の三段構成の前方後円墳である。墳頂部に二つの竪穴式礫槨(埋め戻されている)があり、副葬品が多数出土した。特に、家形埴輪(東京国立博物館に収蔵)が名高い。5世紀前半に造営された。陪墳を含めて全体が猿田川岸段丘の上にある。
藤岡歴史博物館(藤岡市埋蔵文化財収蔵庫)
桜の木がある所が後円部墳頂で、左(南)が前方部で、右(北側)に、陪墳である十二天塚古墳と十二天北古墳(いずれも方墳)が設置されていた。 白石稲荷山古墳の後円部の墳頂
家形埴輪の説明板、古墳の記念石碑などが立つ。
墳頂から北側を見る。現在陪墳は埋め戻され、平台地になっている。 南側の前方部を見る。前方部幅148mに広がった広大な墳墓である。
白石稲荷山古墳の前方部を正面から 猿田川沿いに歩き、振返って見る。車道と古墳の間にゴルフ練習場がある。
猿田川沿いに歩くと、皇子塚や七輿山に行ける。正面左の丘に皇子塚古墳が、その蔭向こうに七輿山古墳がある。 平井地区1号古墳(左)と皇子塚古墳(右)
平井地区1号古墳は、径24m、高さ4mの2段に造られた6世紀後半の円墳で、葺石、埴輪列、周溝、祭祀遺構が確認されている。横穴式石室は調査後埋められている。
皇子塚古墳(おうじづかこふん)は、径31m、高さ6mの4段に造られた円墳で、葺石と埴輪、周溝が確認されている。横穴式石室は調査後埋められている。築造は平井地区1号古墳と同時期。
両古墳の出土品は歴史館で見ることが出来る。
七輿山古墳 (ななこしやまこふん) 
墳丘長145m、後円部径87m・高16m、前方部幅106m・高16m、周囲に二重の周濠がある。中堤の前方部中央と右端に方形状の造り出し部が付設されている。6世紀前半の築造の三段構成の前方後円墳。
出土遺物は、円筒・朝顔形円筒・人物・馬・盾などの埴輪や須恵器・土師器がある。径50cm・高さ110cmで、7条の凸帯が巡る大型円筒埴輪を歴史館で見ることができる。
七輿山(ななこしやま)古墳を後円部南東から見る。
七輿山古墳は、6世紀代の古墳として、東日本最大級の前方後円墳である。畿内に巨大古墳が少なくなっていく中で、東国では引続き巨大古墳が造営されたその終焉の姿である。
二重の周溝が巡り、中・外提帯の平坦部に埴輪列が立並び、斜面には葺石がされていることが確認されている。
写真は、中提の外(北東)から前方部を左(東)側から撮る。右(西)側では三重目の溝もみつかっている。
前方部北西から見る。 後円部墳頂から前方部への稜線の道
中間地点より後円部を見る 七輿山古墳を一周して、広い周濠の外、南西から見る。


綿貫観音山(かんのんやま)古墳         
高崎市綿貫町
「群馬県立歴史博物館」が綿貫町の群馬の森にある。綿貫観音山古墳の出土品と古墳の説明が常設展示されているが、探訪日には臨時休館であった。利根川の支流である井野川の西岸台地上にある。
綿貫観音山古墳  墳丘長97m、後円部径61m・高9.4m、前方部幅64m・高9.1mで、二重の堀をもつ前方後円墳。全く盗掘被害を受けていなかった。23.5cmの中国製獣帯鏡、銅製水瓶、舶載品の鉄製冑、金銀を使用した多くの太刀類、煌びやかな馬具など多くの副葬品がある。6世紀末から7世紀初頭の築造。
後円部左真後ろから 後円部に石室が開口している。見学可。
前方部正面から 後円部墳頂から前方部の稜線
巫女、楽人、三人童女など種々の人物埴輪とその配列が確認され、古代葬送祭祀の様子が明らかとなった。 後円部に開口する横穴式石室 全長12.5m、玄室長8.3mで群馬県下で最大。
綿貫観音山古墳からの出土品は、群馬の森内にある群馬県立歴史博物館(高崎市岩鼻町239)に展示されている。未盗掘・6世紀末の遺物は、金色輝き眩い。まとまった埴輪群、武器類、装飾類、鈴、鏡など綿貫観音山古墳関係だけでも見応えがある。
他に、古代毛野を想像させる各時期の遺物が、分かり易く展示されている。古墳巡りの日は休館だったので、2008.3.18 に改めて見学した。
金銀装頭椎太刀  柄頭に連弧状の銀象嵌を施し、柄部に銀線を巻いた太刀 金銅歩揺付飾金具(重文)  花弁形の垂飾りが馬に付けられ、輝きと音が豪華さを演出する。
金色の装飾具 耳輪、ネックレスなど 獣帯鏡(重文)  内区を7ケの乳で区画し、その中に禽獣神仙を配した鏡で、百済武寧王陵や滋賀・三上山下古墳から出土したものと同じ。


正六浅間山古墳  大鶴巻古墳          
    浅間山古墳の位置
利根川の支流である鳥川の東岸台地上にある。南5kmに稲荷山古墳、東4kmに観音山古墳がある。
浅間山古墳と大鶴巻古墳近辺
正六浅間山(しょうろくせんげんやま)古墳  高崎市倉賀野町上正六
墳丘長171m、後円部径110m・高14m、前方部幅75m・高7mで二段構成の墳丘、周濠がある。5世紀初頭の築造。葺石、円筒埴輪、鰭付円筒埴輪などが出土しているが、未発掘である。鳥川流域の首長墓というだけでなく、鏑川流域から井野川を含めた連合体首長墓の可能性が大きいことが指摘されている。
県道のガスト側から見た浅間山古墳 前方部西側から見る
西側側面の浅間山古墳全景
大鶴巻(おおつるまき)古墳  高崎市倉賀野町下正六
墳丘長137m、後円部径72m・高11m、前方部幅54m・高4.5mで二段構成の墳丘、盾形の周堀。5世紀前半の築造。円筒、鰭付円筒埴輪、家形埴輪などの出土があり、葺石をともなっていたが、未発掘。浅間山につづいて築造された。
大鶴巻古墳は、浅間山古墳の東南600mにある。 後円部墳頂
前方部は南東を向いている。


観音塚(かんのんづか)古墳          
観音塚考古資料館 高崎市八幡町800-144
「観音塚考古資料館」 群馬八幡駅から徒歩25分である。車では、高崎から国道18号で安中方面に進み、安中バイパスから旧18号に逸れ、板鼻から県道前橋・安中線に入るとすぐに観音塚考古資料館の案内標識がある。平成18年度特別展「観音塚古墳の世界」-きらめく大刀、馬具、装身具ーが催されていた。宝珠形の”銅承台付f蓋鋺”は鍍金してあり、仏教色の濃い精巧な工芸品で、他に画文帯環状乳神獣鏡、五鈴鏡、銀荘圭頭大刀、金メッキした金銅製心葉形透彫杏葉などなど金銀製のものが多く、圧倒された。第二次大戦時に防空壕を掘ろうとして偶然発見された石室と出土品は地元の人に丁重に守られた。出土品30種類300余点は全て最高級品と言われる。築造期は聖徳太子時代に相当する。
観音塚古墳は、墳丘長105m、後円部径70m・高12m、前方部幅105m・高14mである。6世紀末の築造とされる。
観音塚考古資料館
特別展「観音塚古墳の世界」開催中だった。(平成19年5月6日まで) 古墳見学に懐中電灯を貸してくれた。
前方部右端から全景
前方部左端から 後円部墳頂から前方部を見る
後円部石室入口 石室は、巨石を使用した横穴式で羨道に続いて、玄室があり、玄室は二つに仕切られている。天井は朱に彩色されていたが現在は消失した。


保渡田(ほどた)古墳群   (二子山古墳、八幡塚古墳、薬師塚古墳)    
かみつけの里博物館 群馬県群馬郡群馬町井出1514
「かみつけの里博物館」には、三ツ寺遺跡の発掘調査から推定された古代王族の居館の復元模型と保渡田(ほどた)古墳群で発掘された人物埴輪・動物埴輪・形象埴輪の実物が展示されている。人物埴輪の出現は五世紀第2四半期に北九州と河内で発生し、第3四半期で河内で完成し、すぐに東国に伝播し、第4四半期以降に埼玉稲荷山古墳とこの地・井出の二子山古墳で定型化し、多彩な埴輪群が東国全域に広まった。
保渡田古墳群は、五世紀半ばから六世紀初頭にかけて順次築造された井出二子山古墳、八幡塚古墳、薬師塚古墳よりなる。二子山古墳から出土した人物埴輪群は、同時代に築造された埼玉稲荷山古墳から出土した人物埴輪群とともに、定形化した人物埴輪の初出例として貴重である。埼玉稲荷山古墳と同様に、これら人物埴輪群は、墳丘外の特定区域に樹立され、その種類も多い。古代の葬送儀礼を表現したものとして注目される。
群馬(ぐんま)は、古くは「久来末(くるま)」と訓み、「車評(くるまのこほり)」の木簡が残っている。三ツ寺遺跡とその奥津城・保渡田(ほどた)古墳群は「東国六腹の朝臣」の車持氏と関連づけられている。かみつけの里は、西暦500年前後に榛名山・二ツ岳の大爆発によるう大火砕流の被害を受け、三ツ寺居館の主は移住した。

かみつけの里博物館
二子山古墳から出土した埴輪が展示されている。「冑を被る男子」「島田髷の女子」、甲冑着用武人」、「赤児と思われる人物」や新たに登場した造形として「倚座の人物」「鷹匠」「腰間に猪をつるした男子」など面白い埴輪がある。
その他、三ツ寺居館の復元模型など見るべきものが多い。常設展示解説書「よみがえる五世紀の世界」により多くの教示を得た。
井出二子山(ふたごやま)古墳
全長111m、後円部径74m・高8m、前方部幅69m・高6m、二重の周濠を持ち4っの中島を持つ前方後円墳である。5世紀第3四半期の築造。昭和5年(1930)、昭和59年(1984)に発掘調査がされた。
平成18~20年に復元整備される。後日、復元現場(ロールオーバーで表示)を見た。古墳公園として、古墳が新しく造られている。
八幡塚(はちまんづか)古墳
八幡塚古墳は全長102m、後円部径56m・高10m、前方部幅57m、二重の周濠をめぐらし、内堀に四つの中島を配置する。舟形石棺が出土したが、既に発かれていた。中堤の前方部前面の東寄りと西側南寄りから多くの人物埴輪が出土した。最初の発掘調査は、昭和4年に行われ、多くの人物・動物埴輪が出土した。平成5年から史跡整備のための調査が行われ、全体像、埴輪配列、石棺の内容などが判明した。発掘終了後の現在、築造当時の姿に復元されている。
後円部をとり囲み祭祀場と見られる4つの中島がある。多数の円筒埴輪、人物埴輪が出土した。
後円部には、舟形石棺の復元模型が展示されている。 八幡塚古墳の前方部から後円部を見る。円筒埴輪と葺石が敷かれている。
発掘調査より得た知識より、葬送儀礼(王位継承)を表現した埴輪列のレプリカが、円筒埴輪で仕切られた中堤の前方部前面の東寄り(東西10.8m、南北4.5m))に再現されている。埴輪の復元実物は「かみつけの里博物館」の中に常設展示されている。

八幡塚古墳墳頂から
薬師塚古墳を見る

舟形石棺は、薬師塚古墳の後円部墳頂の小屋に収められている
薬師塚(やくしづか)古墳は、墳丘長105m、後円部径56m・高10m、前方部幅57mで、出土した遺物は古墳脇の西光寺に保管されている。昭和63年の調査で内堀と外堀が確認された。 薬師塚古墳を最後に、井野川中流域の前方後円墳は突然終焉した。その背景には「二ツ岳の大爆発」があったようで、保渡田古墳群の主と推定される「三ツ寺居館の主」も他所に移住した。ここで行われた葬送儀礼と人物埴輪は、6世紀に井野川下流、群馬県東部、利根川中流域に築造された前方後円墳に普遍していったと想像されている。
三ツ寺Ⅰ遺跡
榛名山東南麓の井野川流域を拠点とした王は、この館にあって上毛野(群馬県地域)を代表する勢力として活動した。
現在、上越新幹線下に看板があるだけだが、かみつけの里博物館に、詳しい説明、出土品、復元模型模型を見ることが出来る。4mの堆積火山灰下から発掘された貴重な古墳時代の豪族の館跡である。

三ツ寺の王は、車持氏と考えられている。車持氏は、「三代実録」で、上毛野、大野、池田、佐味、下毛野と祖を同一にする上毛野の有力豪族である。榛名山噴火の後に、中央政府の高官になったとも推察される。

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