関東の古墳 5世紀の前方後円墳を中心に(関東一円)5/


はじめに 1.武蔵 2.上毛野 3.下毛野 4.常陸 5.下総 6.上総 おわりに

三之分目大塚山古墳 岩屋古墳(竜角寺古墳群) 殿塚古墳(芝山古墳群)
大化改新(645)以後の律令時代には、茨城南部を含む房総半島の北部は、千葉、印旛、香取、下海上、匝瑳(そうさ)を含む12郡からなる下総(”しもつふさ”、或いは”しもふさ、しもうさ”)国として、南部は、市原、上海上、長柄、山辺、武社を含む11郡からなる上総国と定められた。後に阿波国が上総国から分離された。

大化改新以前の倭王権時代(7世紀以前)には、総国(ふさのくに)と呼ばれ、阿波(あわ)、長狭(ながさ)、伊甚(いじみ)、馬来田(まくだ)、須恵(すえ)、武社(むさ)、菊麻(きくま)、上海上(かみつうなかみ)、下海上(しもつうなかみ)の国を、それぞれの国造(首長)が治めていた。この項では、房総北部の鍵となる三つの古墳を巡る。

7世紀以前の総国は、小国を支配した小国造(首長)から構成されており、上毛野国・下毛野国のように大国を支配していた大国造と区別されてきた。しかしながら、原島礼二「古代東国の風景」では、実は房国も、多くの小国造の大連合の下に、大海上(だいうなかみ)国が作られていたと見ている。

5世紀の房総の大古墳としては、下総の三之分目大塚山古墳と、上総の市川・富津周辺に集中する。5世紀に三之分目大塚山古墳を遺した下海上国には城山古墳群を遺してはいるものの、古墳時代の終焉の6世紀末から7世紀にかけては、印旛国(成田市)に我国最大の大方墳である岩屋古墳や大前方後円墳・浅間山古墳を含む竜角寺古墳群の造築が活発化し、殆ど同時期に、上総・武社国(山武市松尾町、横芝町)の大堤権現塚古墳(全長115m)や殿塚・姫塚古墳などが築造される。この下総・上総境界地域に起きた歴史経過を”房国の大連合(大海上国)の瓦解・分断”と見ることができる。上総・武佐国の殿塚・姫塚古墳を下総の項で並べて記しておく。

上総・武社(むさ)国には、倭王国大王の有力な外戚である和珥(わに)氏が関り、下総・印波(いんば)国に対しては、畿内の大豪族・丈部氏(安倍氏)が関ったとされている。更に、大化改新後から奈良時代の下総では、下海上の主要部は鹿島出身の多氏と中臣(藤原)氏が制するようになる。


三之分目(さんのわけめ)大塚山古墳  香取市小見川町三之分目字大塚    
三之分目大塚古墳は利根川右岸に位置する
5世紀前葉の築造で、全長123m、後円部径68m・高9.5m、前方部幅62m・高7.5mの前方方円墳である。長持形石財が露出していたことで研究者の間に知られていた。昭和59年に測量調査、61年に墳丘および周堀の確認調査が行われた。墳丘は三段構成で、下段テラスは5m、中段テラスは7mに位置している。埴輪が墳頂端、中段部テラス端、下段部テラス端に三重に巡っていた。主体部が失われ、副葬品も定かでないが、出土した埴輪は黒班をもつもので県内最古のものである。利根川により自然形成された堤防上にあり、利根川を通じて、上流の石岡舟塚山の首長などと交流したと思われる。
三之分目大塚山古墳の全景(右が後円部)
小見川文化財保存館で頂いた資料より 後円部には階段で登る。大塚山古墳の説明看板には(おみがわふるさと小径設置事業)とある。途中に神社、墳頂にお墓がある。
後円部の右(東)後側を見る 後円部の左(北)後側から見る。
墳頂のお墓の左端に、長持型石棺の石材といわれる筑波系絹雲母片岩が立てられている。
墳丘上で後円部を見る 後円部墳頂から前方部を見る
前方と後円中間より利根川の遠景 前方部正面のスロープ
小見川文化財保存館が、JR小見川駅の東北150mの小見川プラザ(くろべ館)の2階にある。入口横の事務室に観覧を頼むと、事務の方が鍵を開けてくれて、個人用の資料まで下さった。三之分目大塚山古墳の出土品は少ないが、小見川高校建設のため消滅した城山(じょうやま)1号墳からの出土品が多く展示されている。22.56cmの三角縁神獣鏡は舶載鏡で、「東王父・西王母」の文字が見られる。6世紀中葉築造の城山1号墳から副葬品として見付ったことが注目される。他に環頭大刀5、頭椎大刀、円筒大刀、武器・武具、鎌を付けた女性埴輪(70cm)なども出土した。両手を上げる人物埴輪(41.5cm)、みずら髷の男子埴輪、帽子をかぶる男の埴輪、冠をつける人物埴輪(78.5cm)などが展示されていた。


 (岩屋古墳、竜角寺古墳群、浅間山古墳) 房総のむら
千葉県印旛郡栄町竜角寺1024
千葉県立「房総のむら」は成田市から県道成田安倉線で10km余りの地点にある。敷地内の大小の墳墓と敷地に接する岩屋古墳、みそ岩屋古墳、浅間山古墳を竜角寺古墳群と呼ぶ。
風土記の丘資料館 瓢塚41号墳と竜角寺古墳群108号墳の石室を展示
岩屋(いわや)古墳  
竜角寺古墳群の最後の時期(7世紀)に築造されたもの。前方後円墳が造られなくなり、方墳に移行した時期である。一辺78m、高さ13mで、三段構成・墳長部の方形は東西17m・南北19mであり、幅3mの周溝があったと推定されている。畿内の同時期の大方墳である春日向山古墳(用明陵)・山田高塚古墳(推古陵)をもしのぎ、この時期の方墳として全国最大である。
墳丘の二段目の南面に石室が二つある。左側の西石室と中央やや東よりの東石室があ。東石室の方が大きく、築造時の主埋葬施設で、7世紀初めまたは前半のものと考えられている。 西石室はそれに続くものと見られる。            東南の方形のエッジ

          西石室内を覗く。
側壁を天井に向ってアーチ形に曲げているところが技法として新しい。石材は貝の化石を多量に含むこの地域の凝灰質砂岩である。
鍵がかかった西石室入口
主埋葬施設の東室は、封鎖されている。

竜角寺(りゅうかくじ)古墳群 総数113基のうち、16基が調査された。6世紀後半~7世紀の古墳が多い。
竜角寺101号墳 発掘調査され復元整備された。墳丘の直径24.1m、高さ3.6mで3.5mと3mの二重の周溝をもつ。当初は円墳であったが、後に手前に小さな前方部を造り帆立貝式古墳となった。6世紀前半の築造とされる。埋葬施設も4基見つかり、多数の埴輪が出土した。土師器、須恵器、直刀、鉄鏃、馬具、管玉、金銅製耳飾など出土遺物も多い。
101号墳前面(帆立部)の埴輪列。家型埴輪を真中に、巫女達が並ぶ。(上毛野などの埴輪配列と少し違う。) 前面左側に、水鳥埴輪、馬など動物埴輪、楯持ち武人埴輪が並ぶ。
78号墳(円墳)は、房総のむら入口から資料館に来ると、石棺展示の右側にすぐに目に入る群内最大の円墳。v直径35m、高さ4.5m。 みそ岩屋古墳 106号墳(方墳) 一辺30~35m、高さ4.7mの台形型の方墳。樹木で覆われている。
印旛沼の見える遊歩道を歩いていくと、80号墳などの前方後円墳や大小の円墳がひしめいている。 50号墳(前方後円墳)などがある展望所で印旛沼が見える
53号墳は、全長27m、高さ2.6mの前方後円墳で、昭和53年に整備し、石棺も公開している。
57号墳は資料館脇にある古墳広場の左端にある大きめの前方後円墳。 浅間山へは、白鳳道をまっすぐに、県道成田安倉線バイパスの下をくぐって竜角寺への道を歩く。

浅間山(せんげんやま)古墳
全長70m、後円部径45m・高7m、前方部幅48m・高7mの前方後円墳で、平成8年に発掘調査された。全長7mの横穴式石室を持ち、副葬品として金銅製馬具、金銀装の飾り金具、小札、鉄鏃、太刀などが前庭部から出土した。出土品は7世紀前葉~中頃のものである。
後円部(神社)への登り 後円部を見上げる。墳頂の神社は石塔
墳頂から前方部へ道がついている。 前方部を示す祠


殿塚古墳、姫塚古墳 千葉県山武郡芝山町芝山     
6世紀に武社国が急速に勃興したことを語る古墳群が、木戸川流域の松尾・横芝・芝山と成東川流域の成東・山武にある。ここでは、はにわ出土で有名な芝山(中台)古墳群の二つの前方後円墳を訪ねた。
芝山には二つの”はにわ博物館”がある。芝山公園にある「芝山町立 芝山古墳・はにわ博物館」は、県内の出土埴輪を比較し、埴輪の種類・特徴と古代文明を示す第1展示室、古墳時代の生活を紹介する第2展示室、考古学研究の紹介をする第3展示室に分れている。お子さん教育をベースとしているようだ。公園の一画には、殿塚古墳の縮小モデルもあり、はにわのレプリカが並べられている。近くの成田空港から飛び立ったジェット機が埴輪の真上を飛ぶ。
芝山仁王尊・観音教寺の本堂隣に仁王尊の「芝山ミューゼアム芝山はにわ博物館」がある。1Fが、殿塚・姫塚古墳から出土した本物の出土品が展示されている。片手を挙げる男子、背丈の高い男をはじめ、経僧塚出土の飾馬、巫女などが見事だ。住職とお寺の方々が発掘調査に熱心にかかわったと聞いた。2Fは釈尊館として仏教美術が展示されている。天応元年(781)光仁天皇の勅命により征夷大使藤原継縄が守り本尊の十一面観音を安置したことを開基とする。”厄除け・火事泥棒除け”で有名。お寺の方は親切で、閉館直前にもかかわらず、明かりを点けてくれ、説明書までいただけた。
殿塚古墳(左)と姫塚古墳(右)が美しく並ぶ。
殿塚(とのづか)古墳
全長88m、後円部径58m・高8.6m、前方部幅55m・高7.7mの6世紀中葉に築造した前方後円墳である。二重周溝があった。横穴式石室で前後二室に分かれている。1956年に早稲田大学が発掘調査し、全国でも珍しい形象埴輪の行列をほぼ完全な形で出土した。出土品は形象埴輪の他、頭推大刀、青銅鏡・勾玉・切子玉・金環・飾り大刀・馬具などがある。

(左)殿塚古墳と(右)姫塚古墳
後円部右後(北東)から見る
姫塚の間を歩き、前方部の左前(北西)から見る 桜退の木々の間を、前方部の正面を登る
前方部より後円部を見る 後円部から前方部を見る
姫塚(ひめづか)古墳
全長58.5m、後円部径35m・高4.5m、前方部幅36m・高4.8mで横穴式石室をもつ。6世紀中葉の前方後円墳である。出土品は方頭太刀、直刀13、鉄鏃、刀子、金銅製雲珠、鉄地金銅張杏葉、金銅鞍金具、轡、玉類、金銅製耳輪、鉄釘、埴輪、須恵器、土師器など。
殿塚から仕切りになっている樹々の間から姫塚を見る 後方部の後(北東)にある小さな駐車場から見る姿の良い古墳
前方部の右前から見た全景 前方部墳頂から後円部を見る
6世紀後半、ようやく倭(大和)王権の形が整い、古墳の大きさで威勢を示さなくてもよくなった時代に、なおも前方後円の大古墳である大堤権原塚古墳などが築造されたこの地は面白い。山武市歴史民俗資料館と合わせて再訪したい。

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