関東の古墳 5世紀の前方後円墳を中心に(関東一円)

はじめに 1.武蔵 2.上毛野 3.下毛野 4.常陸 5.下総 6.上総 おわりに

5世紀は古墳時代中期に相当し、倭王権(後の大和朝廷、日本)の黎明期である。倭の五王の記事が宋書、後漢書など中国の史書に現れ、歴史的事実としての文献的な裏付が増す。5世紀築造の古墳とその副葬品など考古学的遺物は、もう一つの歴史的事実としての確証を与える。日本の正史を綴るとされる『日本書紀』は8世紀の編算で、時代を遡るとともに史料的正確性を欠くが、5世紀以前に築造された前期古墳は、考古学的に一貫した歴史経過を残している。

1.関東地方で確認されている前方後円墳と前方後方墳の数は、相模で13基と3基、武蔵で119基と11基、上総で273基と24基、安房で5基と0基、下総で421基と6基、常陸で376基と17基、上野で363基と33基、下野で224基と22基である。じつに総計1910基という前方後円(方)墳の数は、日本の他の地方に比べて圧倒的な多さを誇る。・・・・・また、関東地方の大きな特色である前方後円墳の多さは、後期(8期~10期)に異常ともいえるほどに集中して多くの前方後円墳が造営されたことに由来している。しかも、後期には、100m台の墳長を誇る大形前方後円墳が多いのもさることながら、墳長60mに達しない小形前方後円墳が大半を占めるという特色がある。下総や常陸に前方後円(方)墳の数が多いのは、そうした小形前方後円墳が多いためである。したがって、小形前方後円墳を除いて、副葬品の量や質を考慮すれば、前方後円墳の数からは比較できない上野や上総などの優位性が浮かびあがる。(杉山晋作「前方後円墳集成 東北・関東編 山川出版社 1994 より)

2. 陵墓でない殆どの古墳では、一般人の立入りが許されている。墳丘を眺めることが古墳入門の第一歩である。そして、墳丘に登り、その形態の美しさ・正確さ、その地の歴史的な深さを体験する。墳丘・濠の測量図とコンパスを用意しておくと一層古墳への理解が深まる。場合によっては石室内や石棺を見学することができる。副葬品・出土物を展示する埋蔵文化材センター・資料館・博物館を対にして見学できるように心掛ける。そこでの解説や常設展示の図録は、教育的なものが多い。持ち帰りゆっくりと眺めると、楽しさが倍増する。

3.七輿山古墳(上毛野)、前橋天神山古墳(上毛野)、お富士山古墳(上毛野)、大田天神山古墳(上毛野)、上侍塚古墳(前方後方墳)(下毛野)、石岡舟塚山古墳(常陸)、姉崎二子山古墳(上総)などは、その墳丘の美しさを現代に伝えている。埼玉稲荷山古墳(武蔵)、保渡田古墳群の二子山・八幡塚古墳(上毛野)、綿貫観音山古墳(上毛野)、三昧塚古墳(常陸)は再現した古墳として教育的である。岩屋古墳(下総)の正確な方形、装飾古墳としての虎塚古墳(常陸)も印象的だ。早期の前方後円墳の出現は、倭王権との早くからの接触を示すが、群馬・毛野国と房総・上海上国にその典型を見ることが出来る。毛野国の栄枯盛衰は、書紀伝承を加味して思いを馳せる事ができる。房総の神門古墳群、市原・姉ヶ崎の大古墳は、畿内の卑弥呼、崇神朝時代での関東の首長(豪族)の有り様を想像させる。古墳時代終末期の古墳として、群馬の高崎観音塚古墳、房総の金鈴塚古墳の副葬品は煌びやかで、畿内の藤ノ木古墳の豪華な副葬品、慶州・天馬塚の金銀細工の副葬品などとも比べうるものである。

4.訪れた古墳と資料館・博物館で、祈りと祭祀形態の原形を周溝墓から始まる種々の墳丘墓に見る。大規模の前方後円(方)墳は、政治・軍事思想の権力誇示として、あるいは墳墓造営技術の表現である。祭祀形態の違いは埴輪列に見られる。それぞれの古墳で行われていた原始的祭祀の主目的が、被葬者の弔いか、権力委譲かによって微妙に異なっている。「しもつけ風土記の丘博物館」で見た桑57号墳(帆立貝式)の埋葬形態や、出雲・四隅突出墳で説明されていた祭祀形態と併せて興味深い。

5.古墳時代中期は、倭の五王の時代である。畿内では百舌鳥・古市古墳群に超巨大な王墓が築かれた時代である。畿内古墳の巨大さと副葬品の新しさ・豪華さと比較すると、当時の関東豪族の位置が想像される。前方後円墳の造営規模(数と大きさ)は、毛野(とくに上毛野)国がとびぬけている。倭王権との一体観を感じる。日本書紀によると、毛野国は、4世紀前半に崇神天皇が東国を治めるべく遣わした皇子・豊城入彦命を始祖とし、5世紀・仁徳朝では上毛野君田道という新羅・蝦夷と勇敢に戦った名将を輩出し東国・東陸奥経営を一貫し受ち栄華を極めたが、7世紀前半の上毛野君形名の時代に脆弱化した。上毛野に残る巨大古墳の数々は、東国・蝦夷政策に関る政治・軍事・経済の名君・武将が葬られたモニュメントである。畿内倭政権にとっては、対外政策とともに蝦夷政策が重要な課題であり、これを受け持った毛野国の地位が伺える。

6.古墳時代早期からの房総南部(市原・君津・富津)の大型古墳も印象的である。上海上国では3世紀から4世紀に前方後円墳が出現し、馬来田国・須恵国で6世紀末まで大型前方後円墳の造営が続く。畿内政権の海路を利用しての東北進出と関連し、ヤマトタケル伝承にその一端が伺える。

7.上毛野国では方墳、前方後方墳から前方後円墳への変遷が早い時期に起こり、下毛野(那須国)では前方後方墳以降の変遷に時間がかかった。ここでとりあげた5世紀を中心とした前方後円墳の変遷は、諸地域の畿内政権との連携の深さによって様々な様相を示していた。古墳出現期と終末期古墳は、諸地域の首長(豪族)の栄枯盛衰を示している。

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