関東の古墳 5世紀の前方後円墳を中心に(関東一円)1/

はじめに 1.武蔵 2.上毛野 3.下毛野 4.常陸 5.下総 6.上総 おわりに

田園調布古墳群 野毛大塚古墳 埼玉稲荷山古墳 野本将軍塚古墳
関東西部(武蔵国、毛野国)
注目する大古墳
古代の武蔵国は、荏原郡、多摩郡、足立郡、葛飾郡などからなっていた。荏原郡は、平川(神田川)を境とする西南、現在の港区・千代田区から旧多摩川流域までの地域で、「南武蔵」と呼ばれる。南武蔵には、4世紀後半から5世紀にかけて築造された亀甲山古墳、宝来山古墳(大田区)、野毛大塚古墳(世田谷区)や芝丸山古墳(港区)、白山古墳(川崎市・加瀬、消滅)などの大古墳がある。「北武蔵」は、武蔵国の埼玉郡、入間郡、比企郡などをいう。北武蔵には、埼玉稲荷山古墳、二子山古墳、(行田市)、野本将軍塚古墳(東松山市)などの大古墳がある。

辛亥(しんがい)の年号を記した金錯名鉄剣が、北武蔵の埼玉稲荷山古墳から出土した。辛亥年は、471年説と531年説があるが、471年説が有力である。埼玉稲荷山古墳は、5世紀後半に築造されたものとされている。

日本書紀・安閑紀には、安閑天皇元年(534)に「武蔵国造の乱」として知られる北武蔵と南武蔵との争いがあった。武蔵国の国造権をめぐってのものである。北武蔵の笠原直使主(かさはらのあたいおみ)は中央の倭王国に、南武蔵の小杵(おぎ)は上毛野国の小熊(おぐま)に援助を求めたために、倭王国と東の強国・上毛野(かみつけぬ)国との争いに転化した。倭王国は使主を国造に任命し、小杵を誅殺させる。5世紀後半に太田天神山古墳など巨大古墳を誇っていた上毛野国の古墳が小規模になり、武蔵国では南武蔵の勢力が衰弱したかに見えるのを、この「武蔵国造の乱」の結果と看做す考えがある。

(南武蔵)


田園調布古墳群の管轄は、大田区の区役所で行っており、大田区立郷土博物館(南馬込)に行けば、古墳出土品などの展示を見ることが出来る。以下の記述は、郷土館編集の「古墳ガイドブック」と付録の散策マップを参照した。
多摩川下流沿岸に「荏原(台)古墳群」がある。現在の区割りでは、大田区田園調布、世田谷区尾山台・等々力・野毛に相当する。地域的に二分して、田園調布古墳群と野毛古墳群に分けられている。現在の大田区内には弥生遺跡も多く、4世紀末から5世紀前半には、その首長は宝来山や亀甲山古墳に埋葬された。出土品は祭祀型のものが多い。5世紀前半に、現在の世田谷区に武人型の首長が現れ、武器を中心とする出土品を多出する野毛大塚古墳が出現した。
田園調布古墳群 亀甲山(かめのこやま)古墳 前方後円墳 4世紀後半
東急線・多摩川園駅から亀甲山古墳が見える。左方が後円部で、右方が前方部である。 駅を出て、標識に従い坂を登ると、後円部の正面に出るが、後円の後裾部が削られていて、いきなり頂上を仰ぎ見ることになる。
後円部から前方部への移行する部分。多摩川台公園の散歩所で、眼下に多摩川が流れ、ジャイアンツの練習場があった。 亀甲山古墳は、墳丘長107m、後円部径66m・高10m、前方部幅49m・高7mで、4世紀後半の築造である。同じ古墳群の宝来山古墳に葬られた首長の次代の首長の墓とされるが、発掘調査はされていない。
  多摩川台公園古墳展示室
前方部の正面は北西を向いている。 前方部の東側は、多摩川台公園で、古墳展示室があり、ここでも古墳散策マップを手に入れることが出来る。

多摩川台公園の北西側に、前方後円墳の第1古墳を含む8つの円墳よりなる多摩川台古墳群があり、古墳散策路がつづく。
田園調布古墳群 宝来山(ほうらいさん)古墳 前方後円墳 4世紀前半
紅橋を渡り、多摩川台古墳群の第9号(新第8号)古墳を過ぎると公園に入り、その奥に宝来山古墳の前方部前面が見える。 古墳を囲んで柵があり、昼間は開けられている。くびれ部の辺りから前方部を横切り、反対側に出る。
宝来山古墳は、墳丘長97m、後円部径52m・高11m、前方部幅37m・高8mで、4世紀前半の築造である。粘土郭を持ち、四獣鏡1、紡錘車形碧玉製品1、太刀10、槍2、刀子1、勾玉4、管玉67、丸玉173、小玉391が出土した。

武蔵国で代表的な最古の前方後円墳である。後円部は宅地造成で削られている。

宝来山古墳からは、田園調布4丁目・5丁目の住宅街を歩く。十数ケの小古墳(西岡古墳)があるが、宅地に隠れていて、見つけられない。尾山台に入って、八幡塚古墳に出会う。
野毛古墳群
八幡塚古墳は、宇佐神社の裏山・八幡塚であり、頂上には奥宮がある。 八幡塚古墳(5世紀中築造の径30m、高5mの円墳)
直刀2、槍1、石製模造品22、袴帯金具2、土師器などが出土した。


狐塚古墳(5世紀後築造の径40m、高6mの円墳)
円筒埴輪が出土した。
現在は、尾山台クラブの公園となっている。
御岳山古墳(5世紀中築造の径40m、高7mの円墳)は、”等々力不動”の道路向こうにある。粘土郭が発掘され、七鈴鏡1、鉄三角板鋲留短甲1、鉄横矧鋲留短甲1、直刀、土師器、円筒埴輪と出土品が多い。 御嶽社があり、石仏の立並ぶ道を登ると、墳頂に不動尊が祀られている。

野毛大塚(のげおおつか)古墳 帆立貝形古墳 5世紀前半         
野毛大塚古墳は、墳丘長82m、後円部径60m・高10m、前方部幅40mの帆立貝形古墳である。後円部は3段になっており、前方部は極端に短く低い。現在、世田谷野毛公園の一部となっている。墳丘、葺石、埴輪配置、左くびれ部に一段と低い造出部、周囲に最大幅13mの馬蹄形周濠が復元されている。5世紀前葉の築造であり、出土品より、武人である首長が埋葬されたと思われる。畿内中枢・倭王権の力が強くなってきた5世紀では、権力構造に見合う墓制を作り、前方後円墳を最上とし、前方部の長さの短い帆立貝式前方後円墳、帆立貝形古墳、造出付円墳と階層化したと発掘報告されている。

第一主体部より、長方板皮綴短甲1、頸項、肩項、三角板皮綴衝角付冑1、鉄剣・鉄刀19、鉄続鏃25以上、刀子1、鉄鎌2、銅剣1、内行花文鏡1、石製模造品18、堅櫛30以上、勾玉4、管玉30、丸玉2、小玉・白玉2000以上など、第二主体部より、鉄刀、甲冑、石製模造品243、勾玉12、白玉37、第三主体部より、鉄剣・鉄刀32、鉾2、鉄鏃約200、石製模造品14、第四主体部より、直刀1、鉄剣1、丸玉2の出土があった。

石製模造品は、武器や生活用品をまねて作られたもので、祭祀に使われる道具とされている。上野毛(かみつけぬ)・白石稲荷山古墳でも同じセットが出土しており、上毛野から持ちこまれたもの、出土した甲冑は、武蔵で最古のもので、これも上毛野から与えられたらしいと推定し、「武蔵国造の乱」と結びつける説の証拠とする考えもあるが、発掘報告書では、野毛大塚古墳の第一主体部の石製模造品は畿内から持ち込まれたこと、大量の武器・武具の副葬品の品目と配列状況は、むしろ畿内の古市・百舌鳥古墳群を形成する中規模古墳と一致し、上毛野勢力でなく、畿内中枢と直結するとしている。

すなわち、野毛大塚古墳の平成元年から四年の発掘調査では、5世紀の南武蔵を「上毛野との協調」の下で見るか、「倭王権との直結」で見るかの問題を提出している。
1.「上毛野との協調」説では、南武蔵は最初田園調布地域に倭王権の庇護を受けた祭祀型首長が君臨し、次いで、野毛大塚地域に倭王権と決別し、上毛野に庇護を求めた”小杵”に代表される武人型首長が現れ大円墳や前方部の短い大きな前方後円墳が築造されたと看做す。「武蔵国造の乱」で勝利した武蔵国造”使主”は、南武蔵の横渟(よこぬ;多摩横山と埼玉県横見郡の二説)、橘花(たちばな;川崎市と横浜市港北区の一部)、多氷(たひ;多摩地区)、倉樔(くらす;横浜市南部)を、倭王権に直轄地(屯倉)として献上した。野毛大塚古墳群は衰退し、再び田園調布地域に小規模の古墳が築造されるようになったとする。
2.「倭王権との直結」説では、むしろ南武蔵では早くから倭王権との交流が深く、野毛大塚の首長は、田園調布勢力よりもいち早く倭王権と直結する官僚的首長に生まれ代わり、古墳形態も前方後円墳よりもランクの下がる帆立貝古墳を採用したとする。その後、野毛地域の古墳が衰退したと見えるのは、野毛大塚古墳の第一主体と第二主体の埋葬を二世代首長のものと見られることも考慮して、地方官的な地位を確保して事実上の中央官僚への進出と見る。
古墳の右側には造出部はない。 墳頂に登ることが出来る。
第一主体部から第四主体部まであり、第一主体部(最長のもの)は、粘土郭にくるまれた長さ8mの割竹形木棺で多くの副葬品があり、第二主体部(最奥)からは石棺が発掘された。甲冑、石製模造品、刀剣、鉄鏃と玉類が副葬され、3番目の埋葬である。第3主体部(手前二番目)からは、長さ4mの木棺で、武器類(刀剣など)が副葬されて、第一主体の王の軍事的腹心の墓とされる。第4主体部(最手前)は最後の埋葬で副葬品は少ない。第一→第三→第二と埋葬された。 復元模型として、後円部基壇と前方部には朝顔型円筒埴輪と普通円筒埴輪で縁取りし、前方部には家・壷・水鳥の埴輪が置かれている。造出部は柵形埴輪で縁取りされ、家・鳥の器材埴輪が置かれている。
野毛大塚古墳の管轄は世田谷区立郷土博物館(東急世田谷線・上町駅より徒歩5分)で、出土品の一部、短甲や石製模造品が展示されている。平成11年度特別展「野毛大塚古墳の時代ー畿内王権と古代の東国」の展示図録に、野毛大塚古墳の発掘状況・出土品が、他の古墳からの出土品などと掲載されている。

(北武蔵) 埼玉稲荷山古墳 と さきたま風土記の丘      
北武蔵には、埼玉郡の埼玉古墳群のほか、比企郡に、吉見百穴を含める古墳群(東松山市)がある。比企の古墳群では、5世紀の末に野本将軍塚古墳が大古墳として出現するが、それ以降は大古墳はない。埼玉vs比企を「武蔵国造の乱」と見ることもあるが、既に述べた北武蔵vs南武蔵の方が可能性が高い。
さきたま風土記の丘

5世紀末から7世紀始めに造られた9基の古墳が群集している「埼玉古墳群」は、行田市大字埼玉の地にある。

埼玉県では「埼玉」の地名発祥の地であるこの地域を、昭和43年(1968)以来、「さきたま風土記の丘」として保護・整備してきた。稲荷山古墳の発掘調査では鉄剣および鏡のほか、甲冑・馬具装飾品・埴輪などが見つかった。

前方後円墳としては、
5世紀後半に稲荷山古墳(大型)、
6世紀第1四半期に二子山古墳(大型)と愛宕山古墳(中型)、鉄砲山古墳(中型)、
6世紀第2四半期に将軍山古墳(大型)と瓦塚古墳(中型)、
6世紀第3四半期に中の山古墳(中型)、

大型円墳の丸墓山古墳は6世紀前期中頃に築造された。
鉄剣出土から10年を経た昭和53年に、鉄剣の表裏に”辛亥”を含む151文字の「金錯銘文」が発見された。以後、金錯銘鉄剣と呼ばれる。 ”辛亥”は西暦471年に相当することが埋葬品や土層から推定された。銘文中の「ワカタケル(獲加多支鹵)大王」が雄略天皇であること、この銘文を記したヲワケの臣(乎獲居臣)が地方豪族か倭(大和)政権からの派遣かなどが議論されている。古代の東国の状況、三輪・河内王朝(倭政権)との関係など興味がつきない。

稲荷山鉄剣の金錯銘文の解読により、明治6年、熊本県・江田船山古墳から発見された太刀の銀錯銘文の不明部(獲□□□鹵)が「獲加多支鹵」であることも判明した。雄略天皇は記紀や宋書など文献資料では二面性があり不可解な部分が多い。銘文は古代政権についての考古学的な資料を与える。

同時に発見された画文帯環状乳神獣鏡は、同形式の鏡が群馬・千葉・三重・宮崎・福岡の古墳からも出土している。当時の”祭祀・祈り”は、中国・朝鮮から伝来された神仙思想を基としている。

さきたま風土記の丘の南端に、「さきたま資料館」がある。資料棺には、金錯銘鉄剣や画文帯環状乳神獣鏡が展示されている。
金錯銘鉄剣 (きんさくめいてっけん:稲荷山古墳出土品;国宝)
(写真はパンフレットより)

「さきたま資料館」の中央には、窒素ガスケースで保護された「金錯銘鉄剣」(国宝)が展示されている。あまりの銘文の鮮やかさに見とれる。151文字中、80文字がAu70%,Ag30%、25文字がAu90%Ag10%、3文字がAu99%と分析された。

(口語訳)辛亥(471)の7月中旬に、私、ヲワケの臣は記しておく。私の遠い祖先の名はオオヒコ。其の児、(名は)タカリのスクネ。・・・・・・・・・・・・其の児の名は私、オワケの臣である。私の家は代々杖刀人の首として、大王にお仕えして今に至りました。ワカタケル大王(雄略天皇)の朝廷がシキの宮におかれていた時、私は天下を治める事業を補佐し、この鍛えたよく切れる刀を作らせて、私が大王にお使えした事由を書き残しておくものである。

金錯銘にあるワカタケルは雄略天皇と比定されている。雄略天皇は「宋書・倭人伝」の倭の五王の”武”に相当する。

すなわち、オオヒコから始まるヲワケまでの八代の系譜を示し、ヲワケが雄略天皇にお仕えしたことを記す。オオヒコ(意富比垝)は日本書紀・崇神紀の四道将軍の一人「大彦」で、大彦伝承がこの時代にに存在したことを示す。
画文帯環状乳神獣鏡 (がもんたいかんじょうにゅうしんじゅうきょう:稲荷山古墳出土品;国宝)
(写真はパンフレットより)

資料館壁壁の展示ケースには国宝指定された品々が並ぶ。中でも面計15.5cmの中型銅鏡「画文帯環状乳神獣鏡」が興味をひく。名称の由来は、画文(紋)帯とは厚く平らな縁に模様をつけること、環状乳とは内区に8ケの乳(小円)を同心円上に描くこと、神獣鏡とは”獣を背にして神仙が座る図像”が東西南北を示す四隅に描かれることである。

三角縁神獣鏡(縁の断面が三角)が畿内でよく副葬されているのと比べ、画文帯環状乳神獣鏡は地方で多く出土する。環状乳神獣鏡は、畿内政権が地方の首長に分配し威力を誇示した、あるいは地方豪族が赴任先の畿内政権より持ち帰ったかである。

画文帯環状乳神獣鏡は3世紀の呉で多く造られた。稲荷山古墳出土の銅鏡は中国から伝来した踏返鏡(既存の原鏡をもとに二次的な鋳型から作られるもの)と考えられている。製作場所が中国か大和地方かまたは埼玉地方かは分り難いし、年代も同定し難い。同型鏡が稲荷山鏡のほか、群馬県・八幡観音塚古墳、千葉県・台古墳、三重県・塚原古墳、宮崎県・山ノ坊古墳、福岡県・京都群出土の五面ある。

”不老長生”を願う「神仙思想」は、後に「道教」の中心になり、我国には3世紀代に呉の工人によってもたらされた。神獣鏡の内区王紋として、琴を弾く神仙(伯牙)が上に、龍虎座に坐る東王父と西王母が左右、黄帝が下に描かれている。陰陽二気の化勢と合一を表す。

稲荷山(いなりやま)古墳 
主軸長120m、後円部径62m・高12m、前方部幅74m・高11m(復元)
昭13年(1938)、愛宕山・瓦塚・奥の山・中の山などとともに古墳群として、史跡名勝天然記念物に加えられた。稲荷山古墳の前方部は、史跡指定前に耕地整理作業用として削られていた。戦後、1950年代後半の高度経済成長期に、この地域が「さきたま古墳群」・「さきたま風土記の丘」として整備され始めた。稲荷山古墳は昭43年(1968)調査・発掘され、墳丘の全容・礫槨・石室・周濠の配置などが次第に明らかになり、金錯銘鉄剣など多くの副葬品が出土した。稲荷山古墳は古墳群の中でもっとも古い築造で、5世紀後半と想定されている。
平成9年(1997)から5年かけて、前方部、周掘は復元された。復元された前方部の南側に頂上への階段が設置され、古墳を横断できる。 前方部より後円部を見る。昭和初期までは後円部の墳頂に前玉神社・稲荷社があった。周辺は掘削され水田となっていたが、現在は「さきたま古墳公園」として整備されている。
後円部の頂上(墳頂)には、金錯銘鉄剣が発見された舟形礫槨(れきかく)と粘土槨(発掘時に掘り荒されていた)が再現されている。中央部は未掘であるが、この墓の主人が埋葬されてた空白部が見つかってい。複数埋葬の古墳とである。”中央部(主体部)にヲワケの臣が、礫槨にヲワケの子が埋葬された”との説もある。     西側から見る稲荷山古墳の全景。
墳丘は空掘で囲まれ、くびれの少し後円部よりに”造り出し”がある。人や馬の埴輪が並んでいたらしく、埋葬後の祭祀に使われたと思われる。須恵器と土師器が出土し”辛亥”の年代確定にも寄与した。
二子山(ふたごやま)古墳(主軸長138m、後円部径70m・高13m、前方部幅90m・高15m)を東南から見る。6世紀前半の築造。武蔵国で最大の古墳で、丸墓山・鉄砲山古墳とともに昭10(1935)いち早く史跡名勝天然記念物として仮指定された。6世紀以降では、前方部と後円部の高さがほぼ同じ前方後円墳が造られるようになった。
「武蔵国造の乱」の笠原直使主の墓とする説もある。
さきたま古墳公園内には、稲荷山古墳と隣り合って日本で最大(径105m,・高さ19m)の円墳である丸墓山(まるぼやま)古墳もある。
稲荷山の後、二子山古墳に先立って築造されたとされる。

北武蔵        野本将軍塚古墳                    
埼玉県東松山市下野本
全長115m、後円部径65m・高15m、前方部幅50m・高8m
葺石があり、埴輪・須恵器の存在が噂されるが、未発掘で検証されていない。
5世紀末に築造された(4世紀末説もある)比企の古墳群中最大の古墳である。以後はこの地方には大古墳の出現はない。
稲荷山古墳を造り出した埼玉の豪族は物部氏系の豪族・埼玉物部連で、比企地方に野本将軍塚を築いたのは大伴大連と結びついた豪族であった。これら北武蔵の豪族の台頭によって、それ以前に上毛野氏と友好関係にあった南武蔵・玉川下流域の豪族にとって代って武蔵国を牛耳ることになった。中央王権の権力の拡大が見られる。
2008.3.1に、埼玉県の古墳で行き忘れていた野本将軍塚古墳を訪れた。南武蔵との関連、行田の稲荷山古墳との関係、さらには群馬・上毛野氏との関連など、今一度関東の古代あるいはそれ以前を考える上でその位置と現状を確認しておきたかった。
後方部の裏手にある野本小学校と無量寿寺側から見る。
右に周りこむと、くびれ部に鳥居が立ち、を前方部の付け根に上る階段がある。 さらに後方部へは石段で上りる。後方部には神社拝殿が建てられている。
前方部中央に志魂碑が立てられている。従軍者芳名の石碑があり、よく見ると「西南の役・・・」とある。その由来は分からない。 南側に無量寿寺の入口がある。古墳の前方部左端に当たる。

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