ミステリ&SF感想vol.175

2009.12.09

三崎黒鳥館白鳥館連続密室殺人  倉阪鬼一郎

ネタバレ感想 2009年発表 (講談社ノベルス)

[紹介]
 双子のようによく似た壮麗な洋館――黒で統一された〈黒鳥館〉と白で統一された〈白鳥館〉の間には、滝を擁する深い谷が横たわっていた。復讐のために建てられたという〈黒鳥館〉と〈白鳥館〉では、新進の青年画家・鳥海翔と館の主人が、殺意を胸に犠牲者を待ち受けていた。招待状に従って深夜〈黒鳥館〉を訪れた東亜学芸大ファインアート研究会の学生・西大寺俊は、〈黒鳥館〉の大広間へ通されてウェルカムドリンクを振る舞われ、さらに奥の部屋へ――そして密室状態で他に誰もいないはずのそこで殺害された。続いてファインアート研究会の“女王”井田美知が、〈白鳥館〉に招待されて奥の部屋で殺害され、さらに研究会のメンバーが次々と……。

[感想]
 凄まじいバカミスだった『四神金赤館銀青館不可能殺人』と似たような題名の本書は、もはやバカミスの領域を突き抜けてしまい、何とも形容しがたい独自の境地に到達した作品といえるでしょう。「目次」に記されているように、「謎解き」「さらに謎解き」「もう一つの謎解き」「さらにもう一つの謎解き」、そして「おまけの謎解き」と、実に5段階もの“謎解き”が盛り込まれ、しかも見方によっては無駄とも思える膨大な労力がそこに注ぎ込まれているところに圧倒されます。

 序盤から、妙にしっかり書かれた部分と明らかに言葉足らずな部分が混在し、さらに地の文には時おり作者によるメタレベルの注意書き(のようなもの)が入り込む*1など、いかにもうさんくさい雰囲気が全開。とりわけ、相次ぐ殺害場面を中心にやたらに密度の低い描写がなされていることから、どのような種類のトリックが仕掛けられているかは一目瞭然といえます。しかしそれでいて、一見すると不可能としか思えない犯行をはじめ真相がさほど容易には見えてこない*2のが、その種のトリックとしてはユニークなところです。

 それはひとえに真相の突拍子もなさによるもので、(一応伏せ字)作中にばらまかれた親切すぎるヒントによって、作中での謎解きよりも前にある程度見当をつけることは可能とはいえ(ここまで)、思いのほか早く物語中盤――「謎解き」「さらに謎解き」で立て続けに明かされる、どう考えても常識的な発想では到底あり得ない強烈なバカトリック、そしてシリアスなはずの復讐譚が一転してどこか喜劇的な様相を呈する構図には、個人的には笑いが止まりません。

 しかしながら、実はそこから先が本書の真骨頂。ある種のヒントとして“作家・倉阪鬼一郎”の独特のスタンスを半ば自虐的なスタイルで紹介*3しておいてから解き明かされるのは、特に叙述トリックをメインに据えたミステリで散見される奇妙な“主客の転倒”――〈真相〉が示された後に出現する〈謎〉――を極度に推し進めたもので、〈○○〉と称しながらもあまりにアレなために○○としてまったく機能していないというツッコミは可能かもしれませんが、およそ例を見ない質と量の前にはそれも無力。

 さらに続いていく偏執的な“謎解き”においては、もはや通常のカタルシスは皆無といっても過言ではありませんが、狂気に近いこだわりが作品の隅々にまで徹底されていることを認識させられるに至り、脱力と感動が相半ばする不思議な感覚が残ります。読者を選びそうな問題作ではあるものの、あくまでバカトリックに重きが置かれた『四神金赤館銀青館不可能殺人』より一般受けする余地は(若干)あるようにも思われます。倉阪鬼一郎渾身の仕掛けをぜひ味わってみて下さい。

*1: 例えば、“名称だけが「奥の部屋」で、実は入口に最も近いところにあったというチープなトリックではない。「奥」という人物の部屋だったのでもない。”(15頁)や、“あわてて断っておくが、「ほう」は方角を意味するという叙述トリックではない。”(23頁)など。
*2: 少なくとも序盤では。
*3: このあたりは、『四神金赤館銀青館不可能殺人』中の名台詞、“袋小路と笑わば笑え。これも新本格だ!”にも通じるものがあります。

2009.10.18読了  [倉阪鬼一郎]

ハイペリオンの没落(上下) The Fall of Hyperion  ダン・シモンズ

1990年発表 (酒井昭伸訳 ハヤカワ文庫SF1348,1349)

[紹介]
 連邦の首星TC2から、謎の遺跡〈時間の墓標〉を擁する惑星ハイペリオンへ向けて出撃していくFORCE無敵艦隊。ハイペリオン星系へ侵攻しつつある宇宙の蛮族アウスターとの壮絶な戦いの火蓋が、今まさに切って落とされようとしていた。そのハイペリオンでは、連邦が巡礼として送り込んだ七人の男女がついに目的地〈時間の墓標〉へとたどり着いた――高度な予測能力を持つ独立AI群〈テクノコア〉の助言を受けて戦いに臨む連邦だったが、アウスターの大軍勢を前に苦戦を強いられる。一方、封印が開かれた〈時間の墓標〉では、巡礼たちがそれぞれの運命に直面し、それが戦いの帰趨をも左右することに……。

[感想]
 スケールの大きなSF叙事詩『ハイペリオン』の続編――というよりも、『ハイペリオン』で読者に提示された数々の謎の“解決篇”としての性格も備えた、一つの物語の後半部といった方が適切でしょうか。

 『ハイペリオン』では、連邦とアウスターとの間に開かれようとする戦端を背景にしつつも、ほぼ一貫して惑星ハイペリオンを訪れた巡礼たちに、とりわけ彼らがそれぞれに語る“過去”の物語に焦点が当てられていましたが、逆に本書ではすでに語られた“過去”を背景として、ハイペリオンの巡礼たちと連邦との“二元中継”――どちらかといえば連邦の側に力点を置いた――による、人類に迫る未曾有の危機を軸とした“現在”の物語が展開されていきます。

 正直なところ、『ハイペリオン』からの流れもあって)巡礼たちの方が気になってしまい、序盤は連邦の側に切り替わるたびに若干ストレスを覚える部分もあったのですが、この“二元中継”が単なる視点の切り替えにとどまらず、二つの物語の間に内容だけでない微妙な“つながり”が設定されているのが巧妙*1。特に、遠く隔てられた舞台でそれぞれに進行していく出来事の“同時性”が強調されているのが効果的で、二つの物語がより緊密に結びついていくように感じられます。

 前作『ハイペリオン』からして十分に壮大に感じられましたが、本書ではアウスターとの戦いが局地的なものに限定されることなく連邦/〈ウェブ〉全体を巻き込むことになり、さらに壮大な物語になっていくのが凄まじいところで、それを終始支え続ける作者の筆力はやはり圧倒的。その一方で、〈時間の墓標〉を訪れた巡礼たちについても何らおろそかにされることなく、前作で語られた個人的な事情に応じたそれぞれの決着に向かっていく様子がしっかりと描かれ、壮大な“本筋”に負けず劣らず強く印象に残ります。

 そしてもちろん、前作からの“積み残し”も含めた数多くの謎が、次から次へと解き明かされていく怒涛の展開が圧巻。どれもこれもが何ともものすごいことになっていますが、一つ挙げるならば『ハイペリオン』「司祭の物語」で語られた“聖十字架”の正体――それが予想もしなかった形で別の物語につながってくるのに脱帽。最終的には(多少気になるところもある*2にせよ)おおむねすべて収まるべきところへ収まり、まさに大団円というべき見事な結末に深い感慨が残ります。高い評判を裏切ることのない、必読の傑作です。

 余談ですが、本書終盤の(前略)愛なるものこそは、弱い相互作用、強い相互作用、電磁力、重力などよりも大きな力を持つ。そして愛は、この四つの力そのものであった。”(下巻508頁)というある人物の独白は、山田正紀の某作品*3のラストを飾る印象的な一文、“いつの日か、“愛”もまた物理的な力であることが証明されるときがきたならば――”に通じるもので、山田正紀のファンとしては思わずニヤリとさせられました。

*1: ただし、大森望氏の解説にもあるように“ちょっとずるい”手法ではあります。
*2: 例えば(一応伏せ字)ルナール・ホイト神父の扱い(ここまで)などは、“それでいいのか?”と気になってしまうのですが……。
*3: 1980年代に発表された長編SF(一応伏せ字)『最後の敵』(ここまで)です。

2009.10.23 / 10.27読了  [ダン・シモンズ]
【関連】 『ハイペリオン(上下)』

災厄の紳士 Dead Trouble  D.M.ディヴァイン

ネタバレ感想 1971年発表 (中村有希訳 創元推理文庫240-05)

[紹介]
 根っからの怠け者で、ジゴロ稼業で何とか糊口をしのいでいるネヴィル・リチャードソンは、一攫千金の儲け話に手を出す。狙う相手は著名な作家エリック・ヴァランスの娘アルマで、父エリックの猛反対に遭った婚約者ハリー・フレデリクスに捨てられたばかり。その傷心につけ込んでアルマに接近するネヴィルは、わがままで気の強い彼女に手を焼くものの、“共犯者”の的確な指示を受けて着実にその心を篭絡していく。そしてついにヴァランス邸に招かれたネヴィルは、計画を無事に完遂させた――はずだったのだが、思わぬ災厄が……。

[感想]
 “ドミニク・ディヴァイン”名義で刊行された、作者の後期にあたる作品ですが、いきなりジゴロの青年ネヴィル・リチャードソンの視点で始まり、一攫千金を狙って金持ちの令嬢アルマ・ヴァランスに取り入ろうとする計画に重点が置かれたコン・ゲーム風の、既訳の作品とは一線を画した作者らしからぬ異色の発端にまず驚かされます。

 ネタが“結婚詐欺”だけにあまり趣味がいいとはいえないかもしれませんが、倒叙ミステリ的な展開の中で描かれるネヴィルの心理と手管には興味深いものがありますし、ネヴィルの真意が最初からはっきりと読者に示されていることで、かえって標的となるアルマや彼女を心配する姉のサラに感情移入しやすくなっている*1ように思われます。そしてまた、ネヴィルに指示を送る正体不明の“共犯者”の存在が、計画の裏に潜む(単なる結婚詐欺にとどまらない)得体の知れない悪意を暗示しているのがうまいところです。

 その一方、主にサラの視点で描かれていくヴァランス家をめぐる人々は、年老いて頑迷な父エリック、何事にも冷笑的なサラの夫アーサー、さらにアルマの元婚約者で金に取りつかれたハリー・フレデリクスなど、いかにも作者らしいくせのある人物揃いで何かが起こりそうな雰囲気を漂わせています。とりわけ、アルマとハリーの破局の原因となったエリックとフレデリクス家の確執、ひいてはその奥に隠された過去の秘密に、読者としては興味を引かれずにいられないでしょう。

 そんな中、着々と進行するネヴィルの計画がついに実を結んだかと思いきや、そこでコン・ゲーム風の倒叙ミステリから本格的なフーダニットに転じるのが本書最大の見どころ。鬱屈を抱えた地元警察のボグ警部の視点とサラの視点*2――ヴァランス家の“外”と“内”の視点が共感を育みながら、少しずつ事件に光を当てていく様子は読みごたえがありますが、真犯人を巧みに隠蔽する手腕に長けた作者らしく、周到な仕掛けによって真相は容易には見えてきません。

 緊張感が極限まで高まったところで示されるのは、十分すぎるほど意外な真相。そして、埋もれていた伏線が続々と掘り返される謎解き場面の中で、非常に秀逸な決め手(の一つ)にはうならされます。また、序盤にコン・ゲーム風の展開を取り入れた趣向が、単に目先を変えてみたというだけでなく、実に効果的に機能しているのも見逃せないところで、鳥飼否宇氏が解説で指摘しているように“倒叙物とフーダニットのおもしろさを併せ持つ”快作といえるでしょう。

*1: ちょうど“志村、後ろ、後ろー!”みたいな感じ、といえばわかりやすいでしょうか。
*2: この二人の設定が『こわされた少年』の同工異曲の感を免れませんが”という、解説での鳥飼否宇氏の指摘には、なるほどと思わされる部分もありますが。

2009.10.31読了  [D.M.ディヴァイン]

月光ゲーム Yの悲劇'88  有栖川有栖

ネタバレ感想 1989年発表 (創元推理文庫414-01)

[紹介]
 江神部長、部員の望月と織田、そして新入部員の有栖川有栖――英都大学推理小説研究会の面々は、夏合宿で矢吹山のキャンプ場へとやってきた。現地で一緒になった他大学のグループとも意気投合し、キャンプを楽しんでいた一同だったが、突如矢吹山が噴火してキャンプ場は陸の孤島と化してしまった。そして極限状況の中で、一人の学生が何者かに殺害され、地面には被害者が残したと思しき“Y”の文字が。その意味も、そして犯人も不明なまま、さらに事件は続いていく……。

[感想]
 有栖川有栖のデビュー作にして、英都大学推理小説研究会に所属する学生・有栖川有栖を語り手とした、いわゆる“学生アリス”シリーズの第一作。そして「Yの悲劇'88」という副題からも明らかなように、作者のエラリイ・クイーンへの傾倒が如実に表れた作品となっています。

 クイーンといえば、いわゆる〈国名シリーズ〉などに代表される、“読者への挑戦”を盛り込み論理的な解決に重きを置いた作風がまず思い浮かぶところではないでしょうか。そして本書では、現代の(ある程度)“現実”に即した物語の中で論理に基づく推理を可能とすべく*1クローズドサークルが採用されています。現在ではかなり一般的な手法となっている感もありますが、本書の発表当時にはあまり見受けられなかったような記憶があり*2、本書が後の“流行”の先駆けといってもいいように思われます。

 “推理のための空間”の構築を第一義としてはいるものの、クローズドサークルを構成するのは火山の噴火*3という天変地異であり、事件が発生する前にしてすでに命がけの極限状況となっているのが目を引くところ。そしてそれゆえに、“誰が犯人なのか?”のみならず、“なぜその状況で?”――犯人自身も被害者も含めた全員の命が危うい中で、あえて殺人を犯そうとするのはなぜなのか――という疑問が、不可解きわまりない謎として浮かび上がってきます。

 もっとも、そのあたりを突き詰めて考えていくと(一応伏せ字)動機らしきものがおぼろげに見えてしまう(ここまで)きらいもあり、さらに総勢十七名もの登場人物たちの(一応伏せ字)描き分けが今ひとつで存在感の強い人物が限られている(ここまで)こともあって、推理によらずして犯人の見当をつけることはさほど困難ではないでしょう。しかしそれは、本書においてはさしたる瑕疵とはいえません。というのは、本書の見どころは犯人そのものではなく、あくまでも犯人特定の論理であるからです*4

 論理的な解決を重視したミステリにおいては、作者は真相のみならず“真相につながる論理”をも読者の目から隠しておく(しかも“フェア”に)必要があるわけで、そこには(叙述トリックとは違った意味で)読者に対する作者のトリックが存在するともいえます。そして、犯人によるトリックがあまり見当たらない本書にあって、作者によるトリック――思いのほか多くの手がかりをばらまきながらも、犯人特定の論理を巧みに隠し通す手腕には脱帽せざるを得ませんし、それが探偵役・江神部長によって解き明かされる場面は圧巻です。

 ちなみに、登場人物のすべてが大学生である本書は、当然ながら青春小説としての側面も見逃せないところではありますが、今回二十年ぶりに再読してみるとある種の“痛さ”が目について読み進めるのに苦労したのも事実。それはおそらく、登場人物たちが世代(もしくは学生という立場)のみを共通点として意気投合するあたりが、どことなく排他的な雰囲気をかもし出しているように感じられてしまう(年寄りのひがみかもしれませんが/苦笑)からで、やはり若いうちに読んでおくべき作品だということなのかもしれません。

*1: 閉鎖状況での連続殺人によって生じるサスペンスよりも、容疑者の限定並びに警察による(科学)捜査の排除に力点が置かれています。
*2: そもそも、クイーン風の論理的な解決を重視した作品自体が物珍しい時代が続いていたので。
*3: 作中でも言及されている通りエラリイ・クイーン『シャム双子の謎』の山火事を髣髴とさせるところも、クイーンを意識した作品であることの表れでしょうか。
*4: このあたり、“犯人だけ当てられても痛くもかゆくもない(大意)という、綾辻行人との推理ドラマ〈安楽椅子探偵シリーズ〉での作者自身の決め台詞(?)を思い起こさせます。

2009.11.08再読了  [有栖川有栖]
【関連】 『孤島パズル』 『双頭の悪魔』 『女王国の城』 / 『江神二郎の洞察』

騙し絵 Trompe-loeil  マルセル・F・ラントーム

ネタバレ感想 1946年発表 (平岡 敦訳 創元推理文庫271-03)

[紹介]
 亡き祖父から孫娘アリーヌ・プイヤンジュに贈られた253カラットのダイヤモンド、〈ケープタウンの星〉。長年の間銀行の金庫で保管され、幾度も盗難の危機を乗り越えてきたこのダイヤが、アリーヌの結婚披露宴の日にパリの屋敷で披露されることになった。世界6カ国の保険会社は、この宝石のためにそれぞれ自国から一名ずつ、警備要員として警官を派遣してきた。だが、六名の警官による厳重な警備にもかかわらず、いつの間にかダイヤは偽物にすり替えられてしまったのだ。あり得ない不可能犯罪に捜査も行き詰まる中、さらに不可解な事件が続き……。

[感想]
 英米の作品に比べるとどうしても紹介される量が限られているフランス・ミステリの中にあって、わずか三作を残してフランス国内でも半ば忘れ去られていたという作者による本書は、まさにカバーの惹句通りの“幻の不可能犯罪ミステリ”といえるでしょう。第二次大戦末期、収容所での捕虜生活の間に書き上げられたという逸話も、雰囲気を高めるのに一役買っている感があります。

 物語は、名探偵ボブ・スローマンの友人シャルル・テルミーヌを語り手に据えた一人称を基本としていますが、冒頭の約三分の一――〈ケープタウンの星〉と名付けられたダイヤモンドの来歴に始まり、事件を知ったスローマンが捜査を始めるまで――のみ、無名の“編集人”による三人称で記述されており*1、読者に対する要領のいい説明と(ミステリマニアらしい)“ワトスン役”による記述へのこだわりとを両立させようという意気込みがうかがえます。

 この三人称による記述が効果を発揮しているのが事件当日の様子で、思い切って小説らしい描写を必要最小限にとどめ、数多い関係者たちの動きを台本のように時系列に沿った形で提示することで、事件発生前後のやたらに複雑な経緯が多少なりとも把握しやすくなっているのは確か。そして“紛れ”を生じる余地の少ないシンプルな記述ゆえに、六名の警官が厳重に警備する“密室状況”での本物と偽物のすり替え――密室に対する“侵入”と“脱出”という二重の不可能状況が大いに際立っています。

 しかして、さしたる手がかりを残すことなくダイヤが鮮やかに盗み出されて終結したはずの事件は、そこから何ともおかしな展開を見せ始めます。(一応伏せ字)推理の手がかりを示す(ここまで)ためもあって、新たな動きを起こす必要があるという作者の事情は理解できますし、これはこれで十分に面白くはあるのですが、単に不可解な出来事が相次ぐというだけでなく、何というか、“読者への挑戦”まで盛り込まれた本格ミステリのイメージにそぐわないストーリーには、少々違和感を禁じ得ないところがあります。

 さすがに“読者への挑戦”を挟んで解決篇に入るとそれらしい雰囲気となりますが、そこで少しずつ明らかにされていく事実はやはりどこか変ですし、極めつけのあまりにも奇天烈なすり替えトリックには思わず唖然。それ自体のインパクトもさることながら、相当な発想の飛躍がなければ“読者への挑戦”の時点でトリックを見抜くのはほとんど不可能*2なのがものすごいところで、よくも悪くも大胆すぎる作者の企みが強烈な印象を残します。

 実をいえば、殊能将之氏の“わたしは「フランス人は本格ミステリについて何か重大な勘違いをしている」という確信をいだいている”2001年9月25日の日記より)というフランス・ミステリに関する見解*3に、数少ないとはいえ個人的な読書経験からかねてより賛同するところがあったのですが、本書もまたそのような意味でフランス・ミステリ的な味わいに満ちた作品といえます。その、英米の本格ミステリとは一味違った読後感は好みの分かれるところかもしれませんが、一読の価値はあるといっていいでしょう。

*1: 人称が切り替わる箇所に挿入された、“やれやれ! 編集子もひと安心。ここで語り手は交替とあいなる。”(126頁)というメタな記述のとぼけた味が何ともいえません。
*2: 犯人については見当をつけることも十分可能なのですが……。
*3: ただしポール・アルテについては、“まったくフランスミステリ的ではない”などと評されています。

2009.11.22読了  [マルセル・F・ラントーム]