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最終更新日03/10/16

コラム

コラム136

厳しさ

 今まで、自分自身の事、他人への考え方を話してきました。
私自身が難しい面(考え方)を持っているのは、私としても重々承知しています。

ただ、その難しいとされている考え方も年齢と経験に伴い自分の考え方に変化が起きて、人に対してどう接していくのがいいのか・・・考えながら変わって行きました。

厳しさと言うのは他人への厳しさです。感情と考えでもすでに話している事ですが・・・。
今まで、実際に何人かに「厳しいね」と言われた事があります。
上辺の接する分には厳しさは関係ないのですが内面として、例えば、親友、彼女とかの場合、どうしても人間性を見なくてはならなくなります。
その時の基準がかなり厳しいと言われました。(弱さと恋愛でも話しています)

私が身近な距離の人に求めるのは人間性です。
人への接し方、外向性、考え方、教養、思いやりなど、自分が「まだまだ」と思えるような自分よりもクラスの高い人を望む所がありました。
自分より優れた人と言う意味を技術的、社会的な面で見るのではなく人間性で自分よりも優れている人と言う見方(珍しいかもしれません)の為、かなり厳しい基準になってしまっていたようです。

昔は、この考え方に迷いもなかったし、また自分から見ても関心する、目標にする人に多く出会いました。今でもそれらの人たちに会っているつもりですし・・。
ですが、この厳しさ故に、自分が望んでいる人が「いない」と嘆いた事かありましたが、それが一種の傲慢かもしれない・・・と思ったりするようになったのも、ここ数年ですね。

今迄、生きていく中で自分で経験した事を考えて来た事で、昔から見ればちょっぴり大人になってきました。

私は他人に期待しすぎて裏切られたり、期待しすぎた反動で相手にがっかりしたりしていく中で人は自分が思っている以上にいい加減で、愚かだと言う事を他人と自分自身の経験から教えられました。
だから、悪い所ではなく「良い所を見よう」、単純に人を判断しないで「人の繋がりを大切にしよう」と言う考えに変わりました。

昔、仲のいい人は「頻繁に連絡を取っている人を言うものだ」と思っていました。
今は頻繁に連絡を取っていない人であっても友達であり仲のいい人がいます。これは私の考え方の変化して来た例の一つです。
『厳しさ』の考え方で経験で変わった例ですと、
嫌いな人の友達も『嫌い』になるとは限らないと言う経験があります。
実際にあまり仲の良くない知り合いから友達を紹介されたら、その知り合いを差し置いてその友達と仲がよくなったという事も有りました。
・・・・・・今迄自分の他人への『厳しさ』がどう影響したのか、自分なりに考えて見ると、結構損している事が多かった気がします。
これは反省点になってしまいますが・・・・・・後悔しても悔やんでも他人と自分の違いを知りながら「これからも生きていくのだろうな」と思うようになってきました。

私自身の厳しさは空くまで私自身の問題点である事を、その事実を自分でやっと気づきました。
昔は全然、知りませんでしたし、そんな事考えもしませんでした。
そして、自分が好きな人、嫌いな人が居るのは誰でも当たり前ですね。
なので、単純に嫌いだから付き合いを切ると言う行動をした事がありますが、それが視野の狭い考えであると気づいてからはその距離、その距離を測りながら人との関係を保つようになりました。
考え方の変化に応じていい場合と悪い場合とがあるとしか言えない時があります。

自分の経験で考えて見ると『厳しさ』が良いのか悪いのか・・・よく分かりません
どちらにしても今の私は自分の事だけを追及していられます。
その追求の結果が今の僕自身の人格に影響しています。厳しさの根本は性格に依存している為、変わりずらいですが、人の接し方を変える事と経験で緩和され大分よくなってきましたが、厳しさを状況に応じて使い分ける『すべ』をまだ確立していないのが現状ですね。自分の厳しさに嫌になることがあります。

考え方の『厳しさ』は自己のプライドに繋がっている場合も多く、面倒ですけどね・・・。

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