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新宮遭颶風



風雨相追徐福蹤,
雲生西海浪千重。
驚濤飛沫霑身上,
霧漫三千六百峰。



往路の和歌山県 周参見(すさみ)辺り?の海 徐福公園前にて
徐福の像
徐福の墓 熊野速玉大社の入口にて
熊野速玉大社 熊野川にて
                                                                  
                                       
風雨 ()ひ追ふ  徐福の(あと)
雲は 西海に生じて  浪は 千重(せんちょう)
驚濤の飛沫  身上を()らし,
霧は()つ 三千六百峰。

   *************      


 九月十六、七日、新宮市、那智勝浦町に行った。台風十六号の沖縄・九州襲来で天気が崩れる中、出かけた。
 第一日目は秦の始皇帝が派遣した徐福の墓のある徐福公園から熊野速玉大社へタクシーで行き、参拝後『熊野観心十界曼荼羅』の絵解きをしていただいた。その後、熊野川へ出て新宮の駅に戻り、勝浦へ向かった。
 (地ビール:「熊野古道麥酒」もなかなかの味だった)


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なお、熊野を詠んだ中国の詩に、明・朱元璋(大明太祖高皇帝)の『御製賜和』「熊野峰高血食祠,松根琥珀也應肥。當年徐福求僊藥,直到如今更不歸。」があり、それに対して日本の絶海中津の『應制賦三山』「熊野峰前徐福祠,滿山藥草雨餘肥。只今海上波濤穩,萬里好風須早歸。」がある。

・徐福:〔じょふく;Xu2Fu2○●〕秦・始皇帝の時代の人物。秦・始皇帝のために東海の仙島(ここでは日本)から不老不死の霊薬を持ち帰ろうとした人物。徐巿(じょふつ=徐福)は始皇帝に上書して皇帝のために東海の仙島に渡り、不死の薬を求めてきて献上するとして、援助を得、少年少女(や技術者、五穀の種子)を積んで出かけた。前出・『史記・秦始皇本義』「二十八年」(秦・始皇帝二十八年:紀元前219年:孝霊天皇七十二年)に「齊人徐巿(じょふつ)=徐福(じょふく)。なお「巿()」〔ふつ;fu4●:4劃〕と「市()」〔し;shi4●:5劃〕とは別字)等上書,言海中有三神山,名曰蓬莱、方丈、瀛洲,仙人居之。請得齋戒,與童男女求之。於是遣徐巿發童男女數千人,入海求仙人。」とあり、その古註に「正義括地誌云:『亶洲在東海中,秦始皇使徐福將童男女入海求仙人,止在此州,共數萬家。』」とある。また、『史記・淮南衝山列伝』によると、秦の始皇帝に、「東方の三神山に不老不死の霊薬がある」と上書し、始皇帝の命を受け、三千人の童男童女と、それをたすけるために、五穀の種子と諸々(もろもろ)の技術者を携えてでかけた。徐福は、平野と湿地帯を得て、その地にとどまって王となり、戻らなかった。『史記・淮南衡山列伝』に「秦皇帝大説,遣振(振:幼童)男女三千人,資之五穀種種百工而行。徐福得平原廣澤,止王不來。」とある。北宋・歐陽脩の『日本刀歌』に「昆夷道遠不復通,世傳切玉誰能窮。寶刀近出日本國,越賈得之滄海東。魚皮裝貼香木鞘,黄白韋カ鍮與銅。百金傳入好事手,佩服可以禳妖凶。傳聞其國居大島,土壤沃饒風俗好。其先徐福詐秦民,採藥淹留丱童老。百工五種與之居,至今器玩皆精巧。前朝貢獻屡往來,士人往往工詞藻。徐福行時書未焚,逸書百篇今尚存。令嚴不許傳中國,舉世無人識古文。先王大典藏夷貊,蒼波浩蕩無通津。令人感激坐流涕,鏽澀短刀何足云。」とある。

memo:新宮市・徐福公園⇒熊野速玉大社⇒熊野川⇒那智勝浦町(泊)⇒熊野古道…大門坂(大門坂茶屋、多富気王子跡)、熊野那智大社、青岸渡寺、那智の滝(飛龍神社・飛瀧権現)。
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・三千六百峰:古来、熊野の山々を謂う表現。
平成二十四年九月十六日




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