九月十六、七日、新宮市、那智勝浦町に行った。台風十六号の沖縄・九州襲来で天気が崩れる中、出かけた。
第二日目は熊野古道を行き、大門坂(大門坂茶屋、多富気王子跡)から熊野那智大社、(青岸渡寺)から那智の滝(飛龍神社・飛瀧権現)を廻った。
東海の熊野は霧と雨だった。秦の始皇帝が望み、明の太祖が詠った熊野は、自來六百年、深く霧に閉ざされていた。
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熊野を詠んだ中国の詩に、明・朱元璋(大明太祖高皇帝)の『御製賜和』「熊野峰高血食祠,松根琥珀也應肥。當年徐福求僊藥,直到如今更不歸。」があり、それに対して日本の絶海中津の『應制賦三山』「熊野峰前徐福祠,滿山藥草雨餘肥。只今海上波濤穩,萬里好風須早歸。」がある。
・秦皇:秦の始皇帝。秦始皇。不老不死の霊薬を徐福に東海の仙島へ採りに行かせた。
・徐福:〔じょふく;Xu2Fu2○●〕とは、秦・始皇帝の時代の人物。秦・始皇帝のために東海の仙島(ここでは日本)から不老不死の霊薬を持ち帰ろうとした人物。徐巿(じょふつ=徐福)は始皇帝に上書して皇帝のために東海の仙島に渡り、不死の薬を求めてきて献上するとして、援助を得、少年少女(や技術者、五穀の種子)を積んで出かけた。前出・『史記・秦始皇本義』「二十八年」(秦・始皇帝二十八年:紀元前219年:孝霊天皇七十二年)に「齊人徐巿(じょふつ)=徐福(じょふく)。なお「巿()」〔ふつ;fu4●:4劃〕と「市()」〔し;shi4●:5劃〕とは別字)等上書,言海中有三神山,名曰蓬莱、方丈、瀛洲,仙人居之。請得齋戒,與童男女求之。於是遣徐巿發童男女數千人,入海求仙人。」とあり、その古註に「正義括地誌云:『亶洲在東海中,秦始皇使徐福將童男女入海求仙人,止在此州,共數萬家。』」とある。また、『史記・淮南衝山列伝』によると、秦の始皇帝に、「東方の三神山に不老不死の霊薬がある」と上書し、始皇帝の命を受け、三千人の童男童女と、それをたすけるために、五穀の種子と諸々(もろもろ)の技術者を携えてでかけた。徐福は、平野と湿地帯を得て、その地にとどまって王となり、戻らなかった。『史記・淮南衡山列伝』に「秦皇帝大説,遣振(振:幼童)男女三千人,資之五穀種種百工而行。徐福得平原廣澤,止王不來。」とある。北宋・歐陽脩の『日本刀歌』に「昆夷道遠不復通,世傳切玉誰能窮。寶刀近出日本國,越賈得之滄海東。魚皮裝貼香木鞘,黄白韋カ鍮與銅。百金傳入好事手,佩服可以禳妖凶。傳聞其國居大島,土壤沃饒風俗好。其先徐福詐秦民,採藥淹留丱童老。百工五種與之居,至今器玩皆精巧。前朝貢獻屡往來,士人往往工詞藻。徐福行時書未焚,逸書百篇今尚存。令嚴不許傳中國,舉世無人識古文。先王大典藏夷貊,蒼波浩蕩無通津。令人感激坐流涕,鏽澀短刀何足云。」とある。
memo:新宮市・徐福公園⇒熊野速玉大社⇒熊野川⇒那智勝浦町(泊)⇒熊野古道…大門坂(大門坂茶屋、多富気王子跡)、熊野那智大社、青岸渡寺、那智の滝(飛龍神社・飛瀧権現)。
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