すのものの「いろいろ」(その124)

回文>「美しい意志、苦痛」(うつくしいいしくつう)

「美しい医師、苦痛」も考えられる。

「美しい大使、苦痛」(うつくしいたいしくつう)、 「美しい兵士、苦痛」(うつくしいへいしくつう)などとすると一文字長くなる。

2005-05-30 (1) 20:26:01 +0900

「美しい石工、つう」を思いついた。 ツルが、恩返しのため美しい女性の姿で現われ、石工として働き始めたのである。

2005-08-14 (0) 00:10:21 +0900

回文>「二階はいかに」(にかいはいかに)

本文ナシ

2005-05-30 (1) 20:25:04 +0900

回文>「素通りはリオどす」(すどおりはりおどす)

素通りするのはリオだ、と京都の人が言っている。

2005-05-30 (1) 20:23:56 +0900

回文>「鰻補う」(うなぎおぎなう)

本文ナシ

2005-05-30 (1) 20:23:01 +0900

回文>「権田作、草団子」(ごんださくくさだんご)

権田さんの作った草団子。

2005-05-30 (1) 20:20:43 +0900

回文>「古池や、夜警流布」(ふるいけややけいるふ)

後半は、夜警が何かを流布せしめているのであろうか。

2005-05-30 (1) 20:19:45 +0900

回文>「蝉の声、エコの店」(せみのこええこのみせ)

エコロジー関連グッズを売っているのであろう。

2005-05-30 (1) 20:18:36 +0900

本当に「月差 15 秒」というためには一カ月間ずっと見てないといけない?

「この時計は月に 1 秒も狂わないよ」 「ホントか、おい」 「先月のついたちの午後7時に7時の時報に合わせて、 きょう、おついたちの午後7時に見たら7時ちょうどだった」 「へええ。ちょっと見せろ。……。おい、これ、止まってるじゃないか!」

……というのはつまらない冗談だが、 厳密には、時針が回った回数を数えないといけないのではあるまいか。 実際には、ときどき見て、誤差が数秒未満であることを確かめるだけだろう。 そして、それで十分なのである。

2005-05-30 (1) 20:16:35 +0900

厳密に言えば、「年差 * 秒」モデルと「月差 * 秒」モデルとは比較できない

前項を読め。

2005-05-30 (1) 20:07:27 +0900

「年差 * 秒」よりも一年間を通じての最大誤差を言うほうがいいのでは

「年差 10 秒未満」は単純計算では月差 1 秒未満となるが、 必ずしもそうはならない。 季節によって進み遅れがあり、一年をならすと 10 秒未満、 ということらしい。

だったら、「年差 * 秒」をやめて、 ある日時から一年後までの最大の誤差をもって「年間最大誤差 * 秒」 のように言うほうがいいのではあるまいか。 ひと月ごとに誤差を計ってその最大、とする方法もあろう。 これだと、「月差 * 秒」モデルと比較できる。

2005-05-30 (1) 20:01:11 +0900

きょうの補筆箇所

2005-05-28 (6) 23:49:29 +0900

朝日新聞>「父親はマルクスと見てほぼ間違いない」ってことはあとは母親?

24日づけ大阪本社版文化面「単眼複眼」は 「マルクスの実像 原資料で紹介」。 《フレデリックがマルクスの子かどうかは議論があったが、 大村教授は「父親はマルクスと見てほぼ間違いない」としている》。 ってことは、残る疑問は母親がマルクスかどうか、ってこと?

「大村教授」とあるのは《大村泉東北大教授》のこと。 高久陽男と署名あり。

付) 上の大村教授の発言が単に「ほぼ間違いない」なら、全くノーマルな話である。 これではどちらなのかはっきりしないというなら、 「そう見てほぼ間違いない」とする。

付) 実際のところは、 《ヘレーナの子フレデリックが》 とあるので、母親は確定しているものと思われる。 ヘレーナはマルクス家の家政婦だった女性だそうである。

2005-05-28 (6) 23:14:20 +0900

A級戦犯の崇拝はいかんというがイエスも死刑になったではないか、と…

…トンチンカンなことを言っている人はいないだろうか。 菅原道真は左遷されただけで罪人ではない?

付) ローマ帝国側にはナザレのイエスの裁判・処刑に関する記録は何も残っていない、 と聞いたことがある。

2005-05-28 (6) 22:40:39 +0900

歩行者が青信号で自動車をやり過ごすようになれば、渡れなくなるのは必至

24日づけ朝日新聞大阪本社版「天声人語」。 前日づけで報道された交通事故に関連して、 《青信号でも左右を確かめて、 あやしい車はやり過ごすぐらいしか手はないのか》 と書いているが、歩行者がこれをやり始めれば、 すべての自動車が「あやしい車」のふりをして信号を無視し始めるのではないか。 信号のない横断歩道は横断する歩行者が最優先なのだが、 それが守られていないのと同じことになる。

この文章をもじって現状を嘆くなら、 《(信号のない)横断歩道でも左右を確かめて、 あやしい車はやり過ごすぐらいしか手はないのか》。 (多くの歩行者はこれが違法状態だということを知らないようだが。)

ほかの何かが事故を起こせば、 それの許可を簡単に与えすぎていないかとか、 そんなにそれが必要かとか書きそうだが、 今回はそういうことは一切書いていない。 自動車の運転免許を取りにくくするとか、 自動車を所有しにくくするとか。 (それでは仕事にさしつかえるという人もあるだろうが、 今回の事件は飲酒しての帰りであって、仕事ではなかったのである。)

2005-05-28 (6) 22:33:13 +0900

「歩道橋」は「橋」を音読みするのに「水道橋」の「橋」は訓読みだ

「すいどうきょう」と読む人もいるかもしれない。 固有名詞だから読み方は個別に覚えるしかないのだが。

2005-05-28 (6) 22:24:56 +0900

朝日新聞>早朝の交通事故の記事では、夜が明けていたかどうか書くべきでは

23日づけ大阪本社版第一面『「飲酒」の車暴走、3高校生死亡』。 《22日午前4時15分ごろ、宮城県多賀城市の国道で》 とあるが、この時点でどのくらい明るかったのか、 社会面の続きにも書かれていない。

理科年表によると、仙台における 1999 年 5 月 21 日の日の出が 4 時 21 分。 たぶん、十分に明るくなっていたであろう。 ここ金沢の日の出は 20 分ぐらい遅いようなので、 仮に私が日の出の時刻を知っていても、 現場が明るかったかどうかはわからない。

なお、原因は飲酒と居眠りだったので、明るさとは関係ないのだが。

2005-05-28 (6) 22:19:19 +0900

回文>「簡単短歌」(かんたんたんか)

本文ナシ

2005-05-28 (6) 19:02:37 +0900

回文>「マイケル桂馬」(まいけるけいま)

本文ナシ

2005-05-28 (6) 10:32:48 +0900

きょうの補筆箇所

2005-05-28 (6) 02:35:36 +0900

鉄道時計の高精度化はできるはずだが --- 年差10秒とか

鉄道時計は、セイコーから一種類だけ出ているが、月差15秒の、 クオーツとしては普通の精度である。 これを高精度化したモデルは出ないものか。 電波時計化されるよりも安心だと思うのだが。

2005-05-28 (6) 02:30:41 +0900

「君が代」の君はあなたの意味、という説明がなされた時代があったが…

…、あの時代に、首相の誕生日祝いの席などでも歌われていれば、 そういう解釈が定着したかもしれない。

2005-05-28 (6) 02:06:30 +0900

プロ野球>一晩に「リーグ内の試合を4試合、交流戦を2試合」とできないか

前項にも関連するが、交流戦ばかりだと飽きてくる。 各リーグ内での試合が2試合ずつで計4試合、 それと交流戦が2試合、ぐらいがいいのではあるまいか。

2005-05-28 (6) 01:57:17 +0900

プロ野球>交流戦はおもしろいが何かが欠けている。それは「首位攻防戦」…

…だった。 普通の、同一リーグ内の試合では、 その時点で首位のチームと2位のチームとの対戦を「首位攻防戦」と呼ぶ。 2位チームにしてみればゲーム差を一気に縮めるチャンスだし、 その結果、首位におどり出る可能性もある。 首位チームから見れば、勝ってゲーム差を広げるチャンスである。 その首位攻防戦がないのだ。

2005-05-28 (6) 01:55:57 +0900

いついつ新装オープンとはあるが「やっていません」とは書いていない張り紙

先日、金沢市の中心にある香林坊大和8階のレストラン街へ行ったら、 「あまつぼ」は囲われていて、次のような張り紙がしてあった。

ご案内

改装工事の為、 大変ご迷惑をお掛けいたしております。 この度、新たに「鮨 吉祥」として6月2日(木)オープンいたします。 引き続き変わらぬご愛顧を賜りますようお願い申し上げます

あまつぼ

どこにも、「いまは営業していません」と書いていないのだ。 囲いがしてあっても別に小さな入り口があったりする例はある。

しかし、一字一句まで書き写してくる私っていったい……!?

2005-05-28 (6) 01:39:21 +0900

初公開>三角関数の積和の公式の覚え方

だが、 「好き嫌い好き好き、 嫌い好き好き好きじゃない、 嫌い嫌い嫌い嫌い、 好き好き嫌いじゃない嫌い」 と唱えると一気に覚えられる。 「好き」がサイン、「嫌い」がコサイン。最初の子音が一致している。 否定形になっているところは負号がつく。 最後の「〜じゃない嫌い」の「嫌い」は 「〜の嫌いがある」の「嫌い」である、 と私は解釈しているが、それはどうでもいいことだ。

こうやって覚えてから三十年ほどになるが、忘れないものだ。

2005-05-28 (6) 01:23:29 +0900

最近の spam

ちょっと前まで、biglobe の新旧メールアドレスを公表していたこともあり、 両方に同じ spam がくる。 同じ Subject が並んだら spam だとわかるので意外と便利。 あなたの整理番号はこれこれですと書いておきながら両方で全く同じだったりして、 笑ってしまうことも。 (同一人物だとわかっているなら両方に出すなって。)

本文をシフト JIS で書いた spam が多いのは、 私みたいにソースだけみて捨てちゃう人にも読ませるため?

2005-05-28 (6) 01:06:34 +0900

回文>「友の会、スイカの元」(とものかいすいかのもと)

など考えてみたが、どれも意味不明。

2005-05-28 (6) 00:29:47 +0900

回文>「水墨画描くボイス」(すいぼくがえがくぼいす)

本文ナシ

2005-05-28 (6) 00:28:45 +0900

「よくない」と「いけない」を“同じ”だと思っていた

先日、TVアニメ「ちびまる子ちゃん」に出てくるブー太郎の物まねで 「いけないブー」と言ってみて、ブー太郎がよく口にするのは 「よくないブー」のほうだったなと思って、気がついた。

ローマ字でわかちがきして書くなら、「いけない」は ikenai で一語、 「よくない」は yoku nai で二語である。 そのことはわかっていたはずだし、こう書き分けたこともあったかもしれない。 しかし、話し言葉としては「よい」と「いい」のように、 同じ語の variant だと思い込んでいたようである。

2005-05-28 (6) 00:26:38 +0900

「雨ニモマケズ」のモデルとキリスト者

21日づけ朝日新聞大阪本社版、 「シンポ「『雨ニモマケズ』の心を探る」の面。 宮沢賢治の「雨ニモマケズ」のモデルではとされるキリスト者、 斎藤宗治郎の「二荊自叙伝」の刊行を記念して行われたシンポジウムの報告だ。 この中で、東北芸術工科大学教授の赤坂憲雄さんが次のように発言している。

ただ、私も「雨ニモマケズ」で賢治の人間性を評価し、 持ち上げるのは過失だと思う。 「ミンナニデクノボートヨバレ」という一節には、 むしろ強烈な我欲を感じる。 なぜ「ミンナ」なのか。

他者を巻き込まなくては自分のアイデンティティーを確認できない精神的な弱さが感じられる。 宗治郎なら、意識するのは「ミンナ」でなく神であったに違いない。 宗治郎は、 「ミンナ」に何かの名で呼ばれようという欲望を必要としていなかったはずだ。 だから「雨ニモマケズ」のモデルだと言われたら、 宗治郎は非常に抵抗を覚えたのではないか。

私はこの自叙伝を読んでいないし、 宗治郎の師であった内村鑑三の著作も十分に読んだとは言えない。 だから、 《宗治郎なら、意識するのは「ミンナ」でなく神であったに違いない》 という指摘が当たっているかどうか判断することはできないのだが、 ふと浮かんだのは詩篇 69 の 7 節から 12 節まであたりであった。 また、イザヤ書第 53 章の「主の僕」も思い浮かぶ。

2005-05-28 (6) 00:14:57 +0900

漢字の意味を考えれば智子は「さとこ」のほうが普通だ

朝日新聞の連載小説「花はさくら木」は読んでいないのだが、 毎回、「智子」なる人名に「さとこ」とふりがなが振ってあるのに気がついた。 いま、普通は「ともこ」と読ませるだろう。 「智」には「さとい」「さとる」の意味があるので、 それに基づけば「さとこ」のほうが自然に思える。

じゃあなんで「とも」って読むの?

付) 連載開始前の予告で後桜町天皇を描くと読んだような気がするのだが、 広辞苑第五版によれば後桜町天皇の名前は「智子」だが「としこ」と読む。

2005-05-27 (5) 23:55:55 +0900

「蒔く」を máku とアクセント表示して「巻く」と区別したら…

…「蒔かない」はアクセントの位置が後ろにずれるにもかかわらず mákanai と書く? それとも?

私は、mákanai のままのほうがいいと思う。 ただし、終止形を元にアクセント記号をつけるのが正しいかどうかはわからない。 考えたことがなかったからだ。いま考えよう。 「蒔きます」「巻きます」は同じだが「蒔き、」と「巻き、」は異なる。 「蒔けば」と「巻けば」、「蒔け」と「巻け」は異なる。 mákanai, mákimasu, máku, máku toki, mákeba, máke と書いてみると、最初の二つだけが実際のアクセントと異なるが、 これでいいのではあるまいか。 終止形のアクセント位置に基づいてこういうつづりを用いるのだと考えれば。

2005-05-27 (5) 23:23:26 +0900

理科年表では星座名は「カシオペヤ」、ラテン語の Cassiopeia に由来する

Phinloda 氏の 「Phinloda の裏の裏ページ」 への書き込みで、 一般には「カシオペア座」というが天文ファンは理科年表に従って 「カシオペヤ」ということが多い、と教わった。 手元の 1999 年版を見てみると確かにそうなっていて、 ラテン語形は Cassiopeia だ。 後ろから二文字目の i は半母音で、 それと語末の a を合わせて「ヤ」としたのだろう。 「〜ペア」がなまって「〜ペヤ」になったのではなさそうだ。

2005-05-27 (5) 23:22:22 +0900

おわびと訂正) 書き込みからきちんと写せば「天文をやってる人間の多くは」でした。 オフラインで記憶に基づいて書いたので不正確な表現になってしまいました。 どうもすみません。

2005-05-28 (6) 22:11:17 +0900

モンテスキュー「ペルシア人の手紙」を読み終えたが

大岩誠訳、岩波文庫で上下二巻本。 2004 年度 NHK フランス語講座入門編(杉山利恵子先生ご担当)の、 六月 10 日(木曜日)の Paris à travers la littérature に出てきた «Quand on a été femme à Paris, on ne peut être femme ailleurs.» がどんな文脈で出てくるのかと思って読み始めたのだが、 見当たらなかった。 (購入したのは 1997 年秋の復刊時。)

(下)の解説で原題を Lettres persannes としているのは誤り。 n は一つなのが正しい。 「岩波文庫 1927-1996 解説総目録」では正しくつづっている。

モンテスキューといえば「法の精神」で、 なんだか近づきがたいイメージがあるが、この本を読んだら見方が変わった。 もう一度読み返そう。

付) œ で始まる単語で文章を始めるときは Œ... とするのか、 それとも、O だけが大文字で e は小文字だったか、 《新共同訳聖書の句点とカギカッコの順序はフランスの TOB にならった?》 で悩んだが、(下)の解説に Œuvres という例があった。 ……と思ったら、Œvres と間違ってつづっている。 うーん、信用してよいものかどうか。

2005-05-27 (5) 22:33:49 +0900

クラウン仏和辞典には次が載っていた。 これらからすると Œ が正解のようだ。

これは、とある方がメールで教えてくださったものである。 この辞書は、私もメインに使っているので見たはずなのだが、 「用例では見出し語を「〜」で置き換えているので大文字の使い方はわからない」 と思い込んでいたようだ。 (大文字小文字の書き分けは文法書で学んでおくべきことがらなので、 これは決してこの辞書の欠陥ではない。)

2005-06-01 (3) 01:13:41 +0900

「∃x」で「There exists x such that」と漢文のように二度読んだら

数学者には「∃x s.t.」のように書く人が多いが、この「s.t.」はむだである。 漢文では「将」を「まさに……せんとす」と返って二度読む。 「∃x」をそう読めばいいのではないか?  これに気づくことができるのは漢文という変則的な読み方をしている日本人だけだ!

2005-05-27 (5) 20:32:01 +0900

ちょっと前の「サザエさん」にノリスケの母親が登場したが、波平の妹?

孫のイクラに会うため上京するのだが、 タイコさんの実母ではないことが明らかだったのでノリスケの母親に違いない。 波平から見るとノリスケは甥なのだが、 姓が異なるのはノリスケの母親が波平の妹だから、と読んだ記憶がある。 でも、磯野家にきたときの様子はあまりそれらしくなかった。 カツオたちから見るとおばにあたるわけだが、なんだかよそよそしくて。

三〜四週前の日曜日に放送されたTVアニメの話。

2005-05-27 (5) 20:21:38 +0900

朝日新聞「天声人語」>ホロコースト記念碑の「慰霊の対象」で正しいか?

26日づけ大阪本社版掲載分。 《ベルリンにできた「ホロコースト記念碑」》の話だが、 《完成に至るまで、慰霊の対象者などで議論があった》は正しいのか。 このあとは「追悼」という語が数回くり返される。 ここも「追悼の対象者」ではなかったのか。

プログレッシブ和英中辞典第2版で「慰霊」をひき、 見つかった語をジーニアス英和辞典でひくとそこに出ている訳語は「記念」である。 「記念の対象者」のほうが近いのかも。 しかし、これでは positive な感じがしてしまう。 「記念碑」はそうではないのだが。

2005-05-27 (5) 02:51:42 +0900

直立するレッサーパンダってシルバーシートの宣伝に使われないかな

若くて健康な人はこんな風に立って席をゆずりましょう、と。

2005-05-27 (5) 02:37:06 +0900

消費電力の大きい旧型を捨てて新型にかえるのは「もったいない」?

こういう悩みはいつもある。 (これは一般論である。 いまうちで何かを買い換えようかと考えているわけではない。)

2005-05-27 (5) 01:30:47 +0900

物理学における「力」は、数学的にはどう表わされる? 結合法則は?

数学におけるベクトルとは異なり、 物理学における力は“横に”平行移動させてはいけない。 たとえば、次の二つの力は別物である。

 ↑ ↑

だから、矢印の乗っている直線 --- ここでは仮に「作用線」と呼ぼう --- をも考えなければならないだろう。 そして、作用線の上で矢印を平行移動したものは、 同一の力とみなすことにする。

二つの力の作用線が交わる場合、 その交点を始点とするように矢印を動かしてきて、 周知のやり方で二つの力の和を定義する。 こう定義された和が結合法則を満たすことは、 私はいままで確かめたことがなかったと思う。

点Pの回りの力Fのモーメントは、 ベクトルとみたFと、PからFの作用線上の一点Qへ向かうベクトルとの外積である。 これは、作用線の上でQをQ’に取り替えると F×PQ’=F×(PQ+QQ’)=F×PQ+F×QQ’に変わるが、 FとQQ’とは平行だから第二項は 0 となる。 よって、これはQの取り方に依存しない。

二つの力が、足して一つにできる場合、 それらのモーメントの和は、 力の和のモーメントに等しい。 これは、上の定義におけるQを二つの作用線の交点に選べばわかる。

(外積を持ち出したくないなら、 モーメントは 「Pと矢印の始点を結ぶ線分lの長さ」 × 「Fのlに直交する方向の成分の大きさ」 にしかるべく符号をつけたものに等しい、ということに注意して、 二つの力を作用線の交点を始点とするように移動して考えれば明らかである。)

二つの力があり、任意の点のまわりのモーメントが互いに等しいと仮定しよう。 その点のまわりのモーメントが零になるような点の範囲が等しいことから、 作用線は一致する。 作用線から単位距離だけ離れた点におけるモーメントの大きさが等しいことから、 力の大きさも等しい。 よって、それら二つの力は等しいことがわかった。

二つの力は常に一つにまとめられるわけではなかった。 作用線が平行だが一致せず、矢印の大きさが等しく、逆向きの場合、 すなわち、偶力をなす場合は不可能である。 このことは、この二つの力のモーメントの和が、 いたるところで零でない一定の値をとることからわかる。 一つの力ではそのような現象は起こらないからである。

偶力については、 「大きさ」×「作用線の間の距離」が等しい組は“等しい” ことが示される。 互いに打ち消し合うような二つの力をうまく加えることで、 片方から他方へ移り合えるはずである。

(このことも、モーメントを利用して示せる。 F11 と F12 とが偶力、 F21 と F22 とが偶力で、 モーメントの和が等しいとすると、 「F11 のモーメント」引く「F21 のモーメント」は 「F22 のモーメント」引く「F12 のモーメント」に等しい。 これらを力に直してみれば、どんな力を加えたらよいのかがわかる。 (これも定数関数だった場合は、 「F11 のモーメント」引く「F22 のモーメント」と 「F21 のモーメント」引く「F11 のモーメント」 で考える。これも定数関数なら、 「F21 のモーメント」引く「F22 のモーメント」 が定数関数となり、すべての力のモーメントが定数関数となって、 すべての力が零だったことになる。))

ここで、力の定義を少し広げて、 普通の力、または、偶力を考えてみる。 この集合は、「どの点の回りのモーメントがいくらか」に対応するから、 平面の上のアフィンな関数の全体に等しい。 つまり f(x,y) = ax + by + c と書ける関数の全体に等しい。 f が定数関数の場合が偶力である。 それ以外の場合、f の零点のなす集合、 すなわち {(x, y)| ax + by + c = 0} が作用線であり、 力の大きさは a²+b² の平方根に等しい。

そう思うと、このような関数の全体が加法に関して加法群をなすから、 これらの全体も加法に関して可換群をなすことがわかる。

付) ここでは、 力そのものを考えるのではなく、 「どの点の回りでモーメントがいくらか」を示すスカラー場を考えたのであった。

付) 三次元の場合は、作用線がねじれの位置にある力は合成できないようである。 たとえば、 (0,0,0) を通って成分が (1,0,0) の力と、 (0,1,0) を通って成分が (0,0,1) の力とを考えると、 (0,0,0) の回りのモーメントは (0,0,0) + (-1,0,0) = (-1,0,0), (0,1,0) の回りのモーメントは (0,0,-1) + (0,0,0) = (0,0,-1) となる。 この二つの力が一つに合成されたとすると、 その方向はこれら二つのベクトル (-1,0,0), (0,0,-1) に直交する。 すなわち、y 軸に平行となる。 しかし、元のベクトルの位置の対称性から、合成が y 軸に平行とは考えられない。

2005-05-27 (5) 00:34:59 +0900

エスペラントは「ˆ」つきの字母の代わりに数字か記号を使ったら? …

…と考えたことがあった。 「ˆ」つきの字は電報などでは不便だったのである。 (私が持っていたタイプライターはインターナショナル配列だったから打てたと思う。)

たとえば、j に「ˆ」が乗った字はフランス語の je の子音のような音を表わす。 発音記号は 3 とちょっと似ているから、3 をこの字の代わりに使う。 たとえば bova3o(ボヴァージョ、牛肉の意)、 3urnalo(ジュルナーロ、新聞の意)とか。 大昔はアルファベットが数字も兼ねたのであるから、 数字がアルファベットを兼ねてもいいではないか。

でも、最近海外からよくくる spam の文面とちょっと似てくるし、 C の関数 isdigit() とかはどうなるんだろうと気になる。 (だからこれはよくないアイディアなのである。 なお、spam は字面が似た字を使うので、本質的には全く異なる。)

$ や # も使えないかと考えた。 それ以前に、使わないで残っている w, x, y を使うことも考えた。 u の上に「)」を時計回りに 90° 回したものをつけた文字は w でいいし、 s の上に「ˆ」をつけた文字は x でいいんじゃないか。 j は y で置き換え、j の上に ˆ のついた字は ˆ を取ってしまう。 しかし、全部で字母は 28 あるので、 どうしてもアルファベットだけでは足りなくなるのだった。

2005-05-26 (4) 21:07:20 +0900

「愕然」って、“強い衝撃を感じる”って意味じゃないんだ

前項を書きつつ辞書をひいて知った。 じわじわっと気づいて強い衝撃を感じた場合には使えないようだ。

前項に適切なのは「悄然」か。

2005-05-26 (4) 20:50:53 +0900

なんだかボケているな(その1)

午後の一時間目、とある学生と出会った。 先日、きょう質問にくると言っていた学生だ。 いま質問していいですかと聞かれたのだが、 これからすぐに食事してくるからと言い残して食堂へ行き、 食事している最中に 「急いで食事しようと思っていたのはあとでその学生がくるからだった」 と気づき、強い衝撃を受けた。 最初の予定ではもう少し早く食事を済ませてその学生を待つはずだった。

かなりボケている。

2005-05-26 (4) 20:49:40 +0900

「〜さながらに」という用法はあるのか?

たとえば「歌手さながらに歌う」。 辞書によると「〜さながらの」はあるから、 「歌手さながらの歌いっぷり」はよさそうだが。

「さながらに絵のようだ」は岩波国語辞典第三版に載っている例。

2005-05-26 (4) 19:27:14 +0900

スカイパーフェクTV社長の重村一氏の「スローな世界」ってどういう意味?

22日づけ朝日新聞大阪本社版の、中のほうのテレビ面、 「TVダイアリー」は重村一氏の 『「スローな世界に戻ろうよ」』。 前半を引用する。

朝10時以前と夜19時以降の楽器演奏を禁じる張り紙が、廊下にある。 住宅街ならまだしも、東京芸術大学音楽学部の校舎内となると驚かずにいられない。 もう7年、私は非常勤講師としてメディア論を教えている。 最初に赴任した時から、この注意書きが気になった。

ピアノを弾く、ヴァイオリンを奏でる。 明日の芸術家を目指し、自らの技量と感覚を磨いている彼らとの触れ合いは、 いつも新鮮な刺激を与えてくれる。 そんな彼らが、授業の終わった後も研鑚を積むことは、 ほめられこそすれ、非難されるものではないと思う。 近隣の騒音問題もわからぬ訳ではないが、 何かおかしい。

芸術家を育て、新しい文化を創造するための試行錯誤に、 もう少し寛容な気持ちを持って臨み、ゆっくり、 のんびり生きるべきではないのか。 スローな世界にもう一度戻ろうよ。そんな気が日増しに強くなる。

まず、 読んでわからないのは、 その張り紙がどういう理由で張られたものなのか、である。 近所から騒音に対する苦情がきたから張られたのか。 7年間非常勤講師をしていて気になるなら大学側に確認するのが普通だろうし、 確認したのなら、 「近隣の騒音問題もわからぬ訳ではないが」 というあいまいな書き方でなく、はっきりと書けるはずだ。 (全く無関係な場合にもこういうことをぽろっと書く人がときどきいる。 (念のために書いておくが、この人がそうだと言っているのではない。 そうでないなら、 そういうのと誤解されないよう、きちんと書くべきだ、というのである。))

もしもそうだとして、の話だが、 騒音に「寛容な気持ち」を持つことがどうして 「スローな世界」なのか。 近くに住む人も、知的な活動をするため、 あるいはくつろぐために静かな環境が必要だろう。 その人たちが「がまん」することが「スロー」なのか?

別の見方をすれば、翌朝 10 時から練習すればいいのに、 夜のうちにどうしても練習したいと考えることのほうが 「スロー」に反しているのではないか?

「自分の権利を主張するのは「スロー」じゃない」 なんて世の中にならなければいいと思うのだが。

付) 東京芸術大学音楽学部ともあろうところが、 完全防音の練習室を用意していないことがそもそもおかしいと思う。

付) よく読むと、張り紙があるのは芸大の校舎内の廊下だが、 演奏が禁じられているのがどこなのかが書かれていない。 「防音装置の完備していない下宿・アパートでは」の意味かもしれない。 昔の感覚ではそのような“常識”には大学は介入しないものだったが、 最近はそうは言っていられない。 大学に苦情がくることがあるからである。 私の勤務先にも、それに類する学生向け掲示がいくつか張られている。

2005-05-26 (4) 02:55:11 +0900

朝日新聞>京料理にだしが大事なことはわかったけど、何でとるの?

22日づけ大阪本社版文化面「にっぽんの知恵」。「今日のお題」は「だし」。 京料理のだしをたたえる内容だが、京料理のだしはなんでとるのか、 まったく書かれていない。

私の頭の中では、かつおぶし・こんぶ・しいたけが日本の三大だしであり、 それぞれおいしさが違う。 どれをさしているのか言ってもらわないと激しく不満である。 (煮干しはやや野生的だが、独特の風味があって、 料理の種類によっては、悪くない。)

大村治郎と署名あり。

付) 《京都を代表する料亭の一つである瓢亭の主人》である 高橋英一さんの発言に 《「だしをきちんとひいてほしい」》 《きちんとひいただしで作ったみそ汁のおいしさ》 とあるが、「だしをひく」は標準語の「だしをとる」にあたるのだろうか。 それとも、だしをとる材料を細かくすること?

2005-05-26 (4) 02:26:21 +0900

IE5.5 では <em> と <strong> の“重ねがけ”ができるけど

<em> は斜体に、<strong> は太字になる。 両方で囲むと、斜体の太字になる。

2005-05-26 (4) 02:18:00 +0900

中国の反発を「内政干渉」だと言うと「公式参拝」を認めたことになるのでは

25日づけ朝日新聞大阪本社版社説「日中関係 / ああ、なんと不毛な」に 《自民党の武部勤幹事長は王家瑞・中国共産党対外連絡部長との北京での会談で、 「首相の靖国参拝に対する中国側の批判は内政干渉だという人もいる」 と述べた》とあるが、 首相の私的な参拝であれば「内干渉」にはなるまい。

2005-05-26 (4) 02:08:56 +0900

岩波文庫「紫式部日記」カバーの「式部独特の鋭敏な感覚」って?

持っていたような気がしたがみつからないので、 岩波の新刊案内でいま在庫があることを知ったこの機会に、 生協に注文して買った。

カバーの文章に「式部独特の鋭敏な感覚」とあるのだが、 紫式部を式部と略すのは適切なんだろうか? 式部は役職名であり、 夏目漱石を漱石、芥川龍之介を龍之介と略すのとは異なる。 それに、和泉式部と区別がつかなくなるではないか?  (ほかに知らないやつ>自分)

「式部という役職にある人独特の」の意味じゃないよね?

付)和泉式部と清少納言の悪口が書いてあるのはこの日記だったのかー。

2005-05-26 (4) 01:22:49 +0900

募金ってどのくらいの金額が集まるものなのだろうか?

駅前に子どもたちがずらっと並んで 「**募金にご協力をお願いします!」と叫ぶのを見ると、 “人数を減らして、 あとの者はどこかで働いてそこで得られた収入を募金したほうがいいのでは?” と思ってしまうことがある。

2005-05-26 (4) 01:15:27 +0900

江戸時代は不定時法だったわけだが寺子屋の開始・終了時刻は?

仮に四つから九つとしてみると、 春や秋にはいまの10時から12時までの二時間だが、 冬には短く、夏には長くなる。 でも「四つから九つ」と決めて季節によって時間(←時刻でなく)が違ったのか、 それとも、だいたい同じ時間が経過したところで終わりとなったのか。

芝居の始まり・終わりも気になるが、昔は一日じゅう見てたんだっけ?

2005-05-26 (4) 01:11:38 +0900

朝日新聞>「小6に売春させた疑い」って強制猥褻・強姦にはならないのか?

タイトル行の引用は21日づけ大阪本社版社会面見出しから。 記事本文によると 12 歳だから、 “客”には刑法第 176 条の強制猥褻か第 177 条の強姦が適用されるような気がするのだが。 ただし、第 180 条により親告罪。

2005-05-25 (3) 02:44:19 +0900

朝日新聞>四コマ漫画に転向したみたいだがやはり意味不明

21日づけ大阪本社版オピニオン面の、ふだんなら一コマ漫画が載る欄に、 四コマ漫画が載った。一コマずつ簡単に説明すると、

  1. 男が、ちゃぶ台で食事を終えたところ。 “尾頭つき”の魚の骨を一本折っている。 戸が開いている。
  2. それを楊枝代わりにしていて、 戸から猫があがってこようとしているのに気づく。
  3. 外から見た絵。 猫はさっきの魚の背骨の部分を残して去って行く。 その上に、男の足元が見える。 猫は舌を出している。
  4. 男は洗面所で鏡に向かい、 その骨をくし代わりにしている。
タイトルは「MOTTAINAI!」で、作者ははちのじ・やすひこ氏。

読み返せば読み返すほど、意味がわからない。

もしかして、二コマ目と三コマ目の間で男が猫に食べ終えた魚をやり、 猫が骨だけを残していったのをさらにくしとして使ったら、 陰徳あれば陽報ありで毛がはえてきた、という意味? 「もったいない」 がローマ字なのは最近外国人が使って話題になったから?

の人である。

2005-05-25 (3) 01:54:50 +0900

朝日新聞>「う」「ん」「こ」からなる覆面算

21日づけ大阪本社版科学面「パズル横丁」は「運を重ねて幸運」。

  うん
× うん
――――
こううん
という覆面算だが、問題文に
       「こ」と
「う」と「ん」の各文字
は、
とあるのを見たときには、「う」「ん」「こ」かと思ってしまった。

2005-05-25 (3) 00:44:26 +0900

カトリック系の学校出だと「ローマ法王」は知らないかも / 教皇と呼ぶので

21日づけ朝日新聞大阪本社版 be の b4 面「フジマキに聞け」に 《前のローマ法王が亡くなった時、 大学生の長男Kが、 「ローマ法王ってなーに?」と聞いてきた。 私は情けない気持ちでいっぱいになった。 親に高い授業料を払わせ、Kが6年も通った中高一貫校は、 カトリックの私立校だったのである》 とあるのを読んで。

私が高等学校の生徒だったときの世界史の教科書を出してみたが、 そこにも「教皇」と書かれている。

2005-05-25 (3) 00:38:48 +0900

きょうの補筆箇所

2005-05-24 (2) 02:06:58 +0900

朝日新聞>「温存することなく」の意味を取り違えていないか?

20日づけ大阪本社版スポーツ面のプロ野球「阪神−西武」の交流戦の記事。 阪神は、先発二塁手の関本に、4回で代打・浜中を送った。 そのことについて、 《内野陣に打撃力のある藤本が戻ってきたことで、 代打の切り札を温存することなく、逆転機をものにできた》 とあるが、この「温存することなく」は変ではないか。 温存とは、大事に保存しておくことであり、 使わずじまいにすることではない。 また、「〜することなく」の「〜する」には自分の意志ですることははいらず、 はいるのは自分の意志とは無関係にそうなること、ではあるまいか。 たとえば、「勉強することなく」「禁煙することなく」はおかしい。 この点からも、 「温存する」を使わずじまいになることだと思っているような気がする。 平井茂雄と署名あり。

2005-05-24 (2) 01:44:52 +0900

朝日新聞>記事「新品タオルでぞうきん!?」での「ぞうきん」の定義は?

19日づけ大阪本社版生活面。 ちょっと前の、「言いたい」への読者からの投稿の反響編だ。まず、 最初の投稿が再掲されている。 《入園説明会で、ぞうきんについて「必ず新しいタオルで作ったもの」 と注意があり、驚きました。 ふきんを新しいタオルで、というなら理解できます。 でも、床をふくぞうきんなのに(以下略)》。

これが載ったあとで寄せられた投書から。 使い古しのタオルで作って出したら返された、という経験をした人のもの。 《なぜ未使用のタオルでないといけないのかと園に聞くと、 「もらってしばらくは食卓で台ふきとして使うので」という。 それで納得したが、 「最初からそういってくれればいいのに…」と、 不満が残った》。

私の育った家では、食卓は絶対にぞうきんではふかない。 食卓をふくのは「おぜんぶきん」と呼ばれる専用のものである。 これはわが家のローカルな名前だったようだが、 とにかく、それとぞうきんとは全く別扱いである。 (わが家では、 おぜんぶきんはおぜんぶきんとして使ううちにぼろぼろになってしまい、 それをぞうきんに回すこともしていなかったと思うが、 その話はおいておいて。)

だから、この二番目の人の場合、 なぜ保育園が「タオルで台ふきを作ってもってきてください」と言わなかったのか、 そこが不思議である。 そう思って読み返してみると、上の 《「最初からそういってくれればいいのに…」》は 「台ふきといってくれればよかったのに」の意味なのか、 「新品をといってくれればよかったのに」の意味なのか、 はっきりしない。

少し先の、保育士の意見。 この方の勤務先も、新しいタオルでとお願いしているという。 《「床をふくだけでなく、 机のふきんとしても使うのでしょう。 うちはそうしています」》。 これにはぶっとんだ。 私の実家では、ふきんとは、食器を洗ったあとに拭く、 家の中で最も清潔な(はずの)布を指していたからだ。 それで机を拭いたら、間違いなく母にしかられる。 (ここに気づいてから最初の投書を読み直したら、 そこでも「ふきんを新しいタオルで」と書いてあった。 「これは前に見た投書だ」と思ってよく読まなかったようである。)

以上から、私は、ここで報告されている行き違いは 「ふきん」 「台ふき」 「ぞうきん」 の意味をどう理解しているかの違いに基づくように思った。 しかし、記事を読むかぎり、書いた記者は そのことに全く気づいていないようである。 斎藤博美と署名あり。

付) ただし、小学校では机をぞうきんでふいていた。 確かそこにビニール製のテーブルクロスを敷いて、 その上で給食を食べるのである。

付) いまの私が素足をふくのはぞうきんである。 床をふくのもぞうきんだが、それはこれとは別。 書斎の机をふくぞうきんはまた別だ。 ぞうきんにはさまざまの清潔さのものがあるが、 台ふきは全く別にしている。これは間違いない。

付) 岩波国語辞典第三版、新明解国語辞典第五版、広辞苑第五版を見たところ、 「ふきん」「ぞうきん」は上に私が書いたとおりの意味であった。 あとの二つには、「台ふきん」または「台ぶきん」という言い方が載っていた。 これが「おぜんぶきん」「台ふき」にあたるようである。

これらを別の意味で使うのは方言なのだろうか。 あるいは、最近の用法かも知れない。 その方面からまとめてみるのもおもしろそうだ。 この記事にまた反響があれば、そういったものになるかも知れない。

付) ろうかの「ぞうきんがけ」を知っていれば、 あれに使うのがぞうきんだとわかると思う。 やったことないのかな。 TVアニメ「サザエさん」ではよく見かけるが。

2005-05-24 (2) 01:29:21 +0900

「音家・清水家ご結婚ご披露宴」だと「音消し水家」みたいに聞こえるかも

本文ナシ

2005-05-24 (2) 00:49:51 +0900

回文>『……。「否」らし。漏れ打破。絵悔ゆ。ノン。逃げ』

全部書けないんでタイトル行では前半を省略したが、全部書けば 「下人の行方は誰も知らない。「否」らし。漏れ打破。絵悔ゆ。ノン。逃げ」 (げにんのゆくえはだれもしらないいならしもれだはえくゆのんにげ)。 前半は芥川龍之介「羅生門」の最後の文章(のはず)。 後半はそれをひっくり返したものに無理やり意味をあてはめたもの。

2005-05-24 (2) 00:46:37 +0900

朝日新聞>「非力」の意味を「パワーがない」だと思っている?

19日づけ大阪本社版スポーツ面「立浪二塁打タイ記録」に 《身長173センチ。非力な巧打者の印象が強いが》とあるが、 ここでの「非力」は「それほどはパワーがない」のつもりだろうか。 一般には、トータルで力がないの意味だろうから、 この記事には不適だと思う。

2005-05-24 (2) 00:41:50 +0900

一円玉を拾うエネルギーは一円では買えない(かも)/ 時間は買えないな

子どものころだったと思うけど、 一円玉を拾うために必要なエネルギーは一円では買えないから一円玉を拾うのは損、 と聞いたことがある。 (エネルギーということばは「ウルトラマンの太陽エネルギーは……」 のナレーションとかで小さいころから知っていたと思う。)

一円玉を拾うのにはどれだけのエネルギーが必要で、 それにはいくらかかるのか、の計算のしかたはわからないが、 一円玉を拾うのにかかる時間なら、実演してみればわかる。 仮に 6 秒としよう。 時給 600 円の仕事をしている人は分給 10 円。 6 秒で 1 円だ。 確か、時給 600 円はいまでは安すぎて認められないはず。 ということは、 「一円玉を拾うのにかかる時間は 1 円では買えない」 ということか。

2005-05-22 (0) 16:25:03 +0900

ドイツ音名 Eis の発音は? 「エイス」と読んでいたけど「アイス」?

刺身定食の氷を見てふと思ったのだが、楽典の本を見ると「エイス」になっている。 「アイス」は Ais だった。 一種のつづり字発音として、このときは「エイス」と読むのだろう。

2005-05-22 (0) 09:30:11 +0900

「誰それが投げ、誰それが打つ。そんな夢のような試合が見たい」

タイトル行は、大リーグのオールスター戦開催のきっかけとなったという、 一人の少年からの手紙の文面である。 (18日づけ朝日新聞大阪本社版オピニオン面、「海老沢泰久のベースボール伝説」 から引用した。 そこでは「カール・ハッベル」「ベーブ・ルース」と名前がはいっている。)

いっときの読売ジャイアンツは、両リーグから、 優れた選手を集めていた。 そこで、ジャイアンツにきてしまった投手と野手 --- 誰だったかは忘れたが --- に対し、 「誰それが投げ、誰それが打つ。そんな夢のような試合が見たい」 とつぶやいたこともあったのだった。

2005-05-22 (0) 02:34:59 +0900

ドイツでは死後も百歳の誕生日とかに親類が集まるのか……。宗教色なしに。

18日づけ朝日新聞大阪本社版国際面「特派員メモ」はベルリンから。 タイトルは「100歳の誕生日」で、《能登智彦》と署名がある。 ドイツ人の知人の、 すでに亡くなった祖父母の100歳の誕生日に親類が集まってパーティーを開き、 思い出話に花が咲いた、という話。 珍しいことではないらしい。 《日本では墓参りなどで死者をしのぶが、厳粛で堅苦しさも漂う。 お国柄や宗教などの違いだろうが、死者の誕生日にパーティーを開く発想は、 ちょっと「粋」に感じた》という締めくくりだった。

日本では、 親類が死者にかこつけて集まるときは宗教行事としなければならない、 という思い込みがあるのではないか。 このパーティーは、宗教とは無関係のものに感じた。 ただ、どちらが信仰心があついといえるのかは、また別の問題である。

付)誕生日だから宗教と無関係で当然なのでは、 と思う人もいるかもしれないが、 プロテスタントの教会では「誕生日献金」をする人もいる。

2005-05-22 (0) 01:43:04 +0900

指名手配の写真に「現在のイメージ画」が添えられていた

乗合バスの中で見たポスターの話。 写真は少し前のもので、それに「現在のイメージ画」が添えられていたのだが、 「想像図」とでもいうべきものだろう。 このことから、 日本語の「イメージ」には「想像」に近い意味があることに気がついた。

2005-05-22 (0) 01:30:49 +0900

「セントラル」「パシフィック」が何を意味するのか語られることはまずない

プロ野球のリーグ名の話。 「パシフィック」は太平洋のことだと思うけど、違うかな。

2005-05-22 (0) 00:12:06 +0900

「グリーンピース」の最後は「ズ」と濁らなくてはと言ってる人いないかな

英語では green peas だから有声音、 よって「グリーンピーズ」が正しい、という考えだ。 「阪神タイガース」は誤り、というのと同じ。 《朝日新聞>「ヤンキース」「タイガース」は「日本語読み」?》 参照。

ただ合ってる合ってないだけでなく、 「グリーンピース」は GreenPeace にゆずれば、 区別することができるようになる、という利点もある。

2005-05-22 (0) 00:01:01 +0900

朝日新聞>「獲得賞金1億円を突破した昨年の大活躍を象徴する形」は変だ

17日づけ大阪本社版スポーツ面「高額納付番付 / 藍は沖縄4位」。 高額納税者番付でプロゴルフの宮里藍が沖縄県の4位になった、という記事だが、 《納税額は9570万5千円。 19歳で獲得賞金1億円を突破した昨年の大活躍を象徴する形となった》 はなんだか変だ。 象徴しているわけじゃないし、形になったわけでもない。 「獲得賞金1億円を突破した昨年の大活躍の結果だ」ではないのか。

2005-05-21 (6) 02:17:40 +0900

プロ野球>交流戦が消化試合になってそこで個人記録が決まるようだと…

…自分のチームの選手に本塁打王を取らせるため相手チームの選手を敬遠、 なんてことがなくなるよな。 だってリーグが違うんだから。

2005-05-21 (6) 02:10:18 +0900

「えみ」「ゆか」といった女性名はそもそもどういう意味だったのか?

いろいろな漢字をあてるのでかえってわかりづらくなっているが、 「えみ」は「笑み」と関係するのではあるまいか。 「ゆか」は「ゆかしい」?

2005-05-21 (6) 02:02:39 +0900

「コーランをトイレに流す」って本を水洗トイレに? 朗唱の録音を?

17日づけ朝日新聞大阪本社版国際面 『「誤報かも」米誌が謝罪 / 米軍コーラン冒涜事件で』に 《尋問官がコーランをトイレに流したことが》とあるが、 どうやら、これは水洗トイレにコーランの本、 あるいはそのページを流したということらしい。 私は最初、トイレでコーランの朗唱の録音を聞かせたのかと思った。

2005-05-21 (6) 02:02:06 +0900

皇位継承は男子のみだが女系も認める、という案は出なかったのか

その中に、 男系・女系によらず順位を定めるやり方と、 男系を優先するやり方とが考えられるだろう。 後者にはさらに、 男系の継承者が足りない場合のみ、 特定の女子に対し、幼いうちから、 “その子孫に継承権を認める”と決めておく、 というやり方も考えられる。

2005-05-21 (6) 01:40:42 +0900

朝日新聞>靖国神社に首相が公式参拝するのが信教の自由か?

17日づけ大阪本社版「政治・総合」面、 『アジア外交 / 発言は様々 / 「ポスト小泉」世論読む』。 靖国神社について、 《安倍氏は同じ番組で 「次の世代の総理も当然、参拝すべきだ」と強調した。 参拝を批判する中国については 「共産主義の国だから(信教の自由に)理解がないのかもしれない」と述べ》 とあるが、 カッコの中の「信教の自由に」は朝日新聞の記者が補ったのだろう。 首相として公式に特定の宗教施設を参拝したい、 というのは信教の自由ではなかろう。 安倍氏のいうところの“信教の自由”というつもりで補ったのか。

2005-05-21 (6) 01:32:13 +0900

きょうの補筆箇所

2005-05-20 (5) 02:50:16 +0900

朝日新聞「天声人語」>列車ダイヤの縦軸横軸がなんだか決めつけてません?

19日づけ大阪本社版第一面掲載分。 列車ダイヤの話で、「スジ」という俗語を説明したのち、 《「スジを立てる(傾斜をきつくする、つまり列車の速度を上げる)」、 「スジを寝かす(傾斜をゆるくする、つまり速度を下げる」 などの言い回しがある》 と書いているが、 縦軸横軸のどちらが位置でどちらが時刻だかを説明しなければ 「つまり」にならないではないか。

後半は先日分の言いわけである。

先日、尼崎駅の時刻表に触れた。 朝8時台に大阪駅や京都駅方面に向かう電車が40本あり、 東京の山手線が二十数本だから、確かに、かなり密だと思ったと書いた。 山手線は複線だが、尼崎の方は複々線だ。 従って、山手線ほど密とは言えない

ただ、 日頃から東京の通勤線については、 「密」を通り越した「過密」という思いがある。 それほどではないにしろ、 尼崎の方も既に「かなり密」な状態と感じられた

こういうのを「負け惜しみ」とか「往生際が悪い」とかいうのだろう。

2005-05-20 (5) 02:47:29 +0900

朝日新聞>タンホイザーの「騎士ヴィーテロルフ役」っていったい何?

19日づけ大阪本社版芸能面記事に 《領主ヘルマン役(22日)の同会理事長でもあるバリトン木川田誠は、 日本での原語初演(66年)に騎士ヴィーテロルフ役で出演した》とあるが、 ワーグナーの原作にはそういう名前の騎士は登場しない。 ビテロルフは Biterolf である。 記者がカン違いしたんだろう。 《ワーグナー中期の人気作品》とか、 《騎士タンホイザーの愛の遍歴が、 歌合戦の場面を軸に描かれる》とか、なんだかずれているし。 (「オランダ人」の次に書かれた作品だから、中期というよりは初期であろう。 この説明では女性の自己犠牲による救済が全く抜け落ちている。)

付) たぶん違うと思うけど、 この歌手が実は騎士の一人として合唱に出ていたのを、 “その騎士の名前はヴィーテロルフだ”と言って記者をからかった、 とも考えてみた。

2005-05-20 (5) 02:33:23 +0900

朝日新聞>校閲部の「もったいない」の話は過去の用例がないのが物足りない

16日づけ大阪本社版 Weekly 教育面「ことば力 養成講座」は「もったいない」。 由来や、英語でいうとしたらこうなる、という話はそれなりに興味深いが、 「校閲部・加勢健一」と署名があるからには、 朝日新聞では何年ごろにどういう意味でどのくらい使われていた、 というデータを載せてほしかった。

以前、オピニオン面に載っていた「ことばの交差点」 が移ってきたものだと私は理解している。 そのうえで、の意見である。

2005-05-20 (5) 02:18:33 +0900

「もったいない」には「自分は捨てていいけど」というニュアンスがないか?

そんな気がしてきた。 たとえば古くなった服について「まだ捨てたらもったいない」というとき、 すぐに使うあてがあるわけではなく、捨ててもいいような気がするけど、 なんだかいけないような気がする、という感じ。 「こんな天気のいい休日に家で寝ていたらもったいない」というときには、 実は自分は家で寝ていたいのではあるまいか。

2005-05-20 (5) 02:12:27 +0900

朝日新聞>「与ふるは受くるよりも幸いなり」は旧カナと新カナが混在だ

16日づけ大阪本社版オピニオン面「時流自論」は資生堂社長の池田守男氏。 《聖書に「与ふるは受くるよりも幸いなり」とある》とあるが、 「与ふる」は歴史的かなづかいで、 文語の下二段動詞「与ふ」の連体形であろう。 一方、 「幸い」は現代かなづかいであり、歴史的かなづかいで書くなら 「さいはひ」である。

口語訳・新共同訳用のコンコルダンスで「与える」 を探したが見出しになっていなかったことは前項に書いた。 欽定訳から grep で give を検索したが、福音書、書簡とあたって発見できず。 新共同訳用で「受ける」をひいたら、使徒行伝 20;35 だとわかった。 文語訳では「與ふるは受くるよりも幸福(さいはひ)なり」となっている。 経歴に《東京神学大神学部卒業》とあり、 《クリスチャンである私の信条から》とも書いておられるので、 いい加減な引用をされたとは思われない。

「あたふる」と発音する動詞がある、という解釈もできよう。 正岡子規「歌よみに与ふる書」が有名であるから。 しかし、この形でのみ知られていると思われるので、 未然形を「与ふらない」だと思っている人がいるかも知れない。

2005-05-20 (5) 01:51:07 +0900

日本語聖書用のコンコルダンスに「与える」が載ってない!

新教出版社から出ている、口語訳用と、新共同訳用の二つに当たってみたが、 載っていない。 想像だが、口語訳用の見出しを元に新共同訳用を作ったのではあるまいか。 それで、もれが継承されてしまった、というのが私の推測である。

2005-05-20 (5) 01:25:06 +0900

現行の皇位継承規則を半開区間 [0,1[ の実数に対応させることで述べてみる

現行の皇室典範による継承規則で継承権のある者を、 半開区間 [0,1[ の実数に対応させてみよう。 初代は 0 に対応させる。 子の数に上限を設けないためには、 初代の子たちは 0.5, 0.75, 0.875, ... に対応させるのがよいだろう。 二進表記すれば 0.1, 0.11, 0.111, 0.1111, ... である。

0.1 の子は 0.1 より大きく 0.11 よりも小さいから、 0.101, 0.1011, 0.10111, 0.101111, ... が適当だろう。 よって、いわゆる直系は 0.1, 0.101, 0.10101, 0.1010101, ... となることがわかる。

逆に、 二進の有限小数 0.c1c2c3...cn が与えられたとしよう。cn = 1 とする。 小数点から先の数の並びを考える。 上で述べた対応のつけ方から、0 が二個以上並ぶことはありえない。 0 は 1 を区切っているが、1 が、上位から順に i1 個、 i2 個、 ...、 ik 個並んでいたら、 初代から見て 第 i1 子の 第 i2 子の ... 第 ik 子であることがわかる。

付) 前項で述べたことは、この考察によれば、 {0, 0.1, 0.101, 0.10101, ... } の次に小さな実数に対応するものがいないことに当たる。

2005-05-19 (4) 23:55:56 +0900

上の「付」について。 可算人の子がいても、ある桁以降 1 だけが並ぶ数に対応する子はいないから、 たとえば「0.10111... と 0.11 は実は同じ数である」 ことに由来する問題は発生しない。

2005-05-22 (0) 10:10:36 +0900

いま、次のようになっていたとしよう。 左端の 0 が現天皇である。

--- 0    -+- 0.1  -+- 0.101   -+- 0.10101
          |        |
          |        +- 0.1011
          |        |
          |        +- 0.10111 -+- 0.1011101
          |
          +- 0.11 -+- 0.1101  -+- 0.110101
天皇が亡くなって、皇太子が即位したとする。 数はそのままでもよいのだが、新天皇が 0 になるよう、 各人から 0.1 を減じてみよう。
--- [ ]  -+- 0    -+- 0.001   -+- 0.00101
          |        |
          |        +- 0.0011
          |        |
          |        +- 0.00111 -+- 0.0011101
          |
          +- 0.01 -+- 0.0101  -+- 0.010101
前には長男は 0.1 だった。それに合わせるなら、 各人を 100 倍すればよい。
--- [ ]  -+- 0    -+- 0.1     -+- 0.101
          |        |
          |        +- 0.11
          |        |
          |        +- 0.111   -+- 0.11101
          |
          +- 1    -+- 1.01    -+- 1.0101
1 以上の人が現われたので、最初の取り決めが崩れてしまった。 しかし、それでもよいとしたらどうだろうか? さらに代が移ったとしよう。 また 0.1 をひいて 100 倍する。
--- [ ]  -+- [ ]  -+- 0       -+- 0.1
          |        |
          |        +- 1
          |        |
          |        +- 1.1     -+- 1.101
          |
          +- 10   -+- 11      -+- 11.01
叔父は 10, その子は 11 となり、規則が崩れてしまった。だめか。

最初の図に戻り、初代を 1 としてみると、次のようになる。

--- 1    -+- 1.01  -+- 1.0101   -+- 1.010101
          |         |
          |         +- 1.01011
          |         |
          |         +- 1.010111 -+- 1.01011101
          |
          +- 1.011 -+- 1.01101  -+- 1.0110101
代がかわったとし、1 を引いて 100 倍する。
--- [ ]  -+- 1    -+- 1.01    -+- 1.0101
          |        |
          |        +- 1.011
          |        |
          |        +- 1.0111  -+- 1.011101
          |
          +- 1.1  -+- 1.101   -+- 1.10101
さらに代替わり。
--- [ ]  -+- [ ]  -+- 1       -+- 1.01
          |        |
          |        +- 1.1
          |        |
          |        +- 1.11    -+- 1.1101
          |
          +- 10   -+- 10.1    -+- 10.101
こんどはうまくいったようだ。 弟は 1.1, 叔父は 10 でいいんだろうか? 規則からそうなりそうだ。 (弟が何人もいれば上から順に 1.1, 1.11, 1.111, ... となり、 叔父は 10, 11, 11.1, 11.11, ... となる。)

2005-05-24 (2) 02:04:07 +0900

各男子に可算人の男子が生まれると皇位継承順位に関して整列集合にならない

現行の皇室典範による継承順位の話である。

初代の天皇の継承順位を 0 として番号を振ってゆくと、 長子が 1, その長子が 2, その長子が 3, ... となる。 その次に高い者がいたとしよう。 そこから父親をたどっていくと番号の振られた者に到達するが、 初めて到達した者が n に対応していたとすると彼の順位は n の第二子以下だから、 n+1 の第二子のほうが上になって矛盾する。 よって、彼らは継承順位に関して整列集合をなさない。

2005-05-19 (4) 23:35:29 +0900


すのもの Sunomono