「お前は許せないから殺す」という考えをとるなら、 自分を許せない場合、自殺することになるだろう。 自殺は不可とするなら、自分を許せない人は、 たとえ他人を許せないとしても、決して殺してはいけない、 ということになるのではなかろうか。
サイゼリヤで赤ワインのデカンタ小 (250 ml) を飲み、 歩いて帰る途中の道で、こんなことを考えていた。
2009-03-23 (1) 20:34:54 +0900
きょうは職場の卒業式だった。 例年は私は何もしないが、今年卒業する学年とは少々関係があったこともあり、 学科の学位記授与式には出ることにし、スーツを着た。 *十年前の、成人式よりも前に買ったスーツである。 ズボンは、先におなかの前でボタンと金具をとめようとすると苦しく、 ファスナーを閉めてからとめた。 ベストはさらに大変で、まるでコルセットを締めるように --- といってもコルセットをつけた経験はないのだが --- してボタンをはめた。 一昨年の秋に某高等学校へ地域貢献で行った際にもこのスーツは着たはずで、 そのときはそれほど苦しくはなかったから、 それからまた太ったのであろう。 ベストとズボンの間から、わき腹のぜい肉がはみ出ている感じである。
苦しいので、ほかの仕事をするときは上着とベストは脱いで、 シャツ一枚になっていた。
学位記授与式のあと、簡単なパーティーになったが、苦しくて何も食べられず。 でも、学生とツーショットを撮ってもらったりしたので、まあ、 着ていってよかったと言えるであろう。
それでも帰りにはしっかりサイゼリヤによって飲み食いしてきたのであった。
2009-03-23 (1) 20:27:21 +0900
そんなものがあるわけはない、と言われて当然だが、私は見たことがある。
大学院生のころ、家から散歩に出かけ、ある公園をのぞいたときのこと。 名字(氏)と思われるものが五つ、落書きされており、 そのあとに「みんな合わせて五人トリオ」と書かれていたのである。 おそらく、小学生であろう。 「トリオ」の意味がわからず、 何人かが組になっているものはすべてトリオだと思ったものと思われる。
2009-03-23 (1) 19:15:26 +0900
さきほど、Yahoo! のトップページから
リンク「不発弾?拾った大学生が機内に
」をたどってたどりついた、
琉球新報のページ。
「不発弾らしきもの」の写真の脇に、青色のボールペンが添えられている。
これは明らかにボールペンで、
記事中にある「パイナップルの形
」ではない。
おそらく、大きさをわからせるために、一緒に写したのであろう。
一昔前なら、タバコの箱がその役目を果たしていたものだ。 タバコの箱と一緒に写すことで、その物体の大きさが読者にわかる、 という仕組みである。 しかし、タバコ離れが進み、これを写したカメラマン、 あるいは記者は、タバコの箱を持っていなかったのであろう。 だったら、それに代わる何かを、 常に持つべきではないだろうか? その「何か」が何かとは、 簡単である。メジャー(巻尺)である。 カメラマン、あるいは記者たるもの、 そのくらいのものを常時持っていないでどうする? と言いたくもなる。
私は普段はメジャーは持っていないが、 ファイロファックスは肌身離さず持っているので、 そこにはさんであるルーラー(定規)を一緒に写すことが可能だろう。
メジャーは、カメラのストラップにつけておくとよいだろう。 必要になったら、それをはずし、被写体と一緒に写すのである。
2009-03-23 (1) 19:06:04 +0900
……許されるべきではなかろうか。 苦しくて治る見込みがないと思ううつ病患者が自殺するのなら。
2009-03-23 (1) 02:32:59 +0900
2009-03-23 (1) 02:32:39 +0900
宿泊か、あるいは晩飯の話をしていて、それは御殿場になるか、というのである。
「晩って」となるほうが自然だろうが、それでは回文にならないので。
2009-03-23 (1) 02:23:27 +0900
時計のことか。
2009-03-23 (1) 02:22:36 +0900
聖書の通読は、 二三回前の出張で実家に泊まったとき、 実家においてある口語訳で「ヨブ記」第 38 章の、 神がヨブに語りかけられる直前まで読み、そこでストップしていたが、 再開した。
で、最後の散文の部分を読んでいて気がついたのだが、 神は第 2 章で、サタンに、いやな腫れ物でヨブを悩ませることを許された。 その病気が治った、とは書かれていないのである!
付) 「詩篇」は別に通読しているので --- これもストップしているが ---、 次は「箴言」にはいった。
2009-03-23 (1) 02:14:47 +0900
42,10 に「主はヨブの繁栄をもとにかえし
」(口語訳)とあるのが、
ヨブを癒されたことも含むのだろうか。
新共同訳では「主はヨブを元の境遇に戻し
」、
文語訳は「ヱホバ、ヨブの艱難(なやみ)をときて舊(もと)に復(かへ)し
」。
2009-04-02 (4) 00:45:45 +0900
デス・スター脱出後のファルコン号の中で、 ルークはベン --- ルークはオビ=ワンのことをこの変名で呼んでいた --- の死にひどく落胆する様子を見せ、それをレイアが慰める。
ルークがオビ=ワンについて知っていたことは、 殺された(と信じている)父の戦友であったこと、 ジェダイであること、 酒場で見せたようにライトセーバーの腕前が確かなものであること、 兵士の心を操ったり、 フォースで物を動かしたりできること、 などであろう。 オビ=ワンがルークに語ったことは、 映画の中で描写されているものでほとんどすべてだと思われる。 映画が始まる前の時点では、単なる変わった人だと、 おじさん・おばさんに思わされていたように見える。
一方、レイアは、養父オーガナ上院議員から、 ジェダイとしてのオビ=ワンの強さを聞いていたに違いない。 III の終盤で、 オビ=ワン、ヨーダ、オーガナ上院議員が、オーガナ上院議員の船の中で、 比較的じっくりと話をする機会が複数回あったように見える。 オビ=ワン、ヨーダの、観客が新三部作で見て知っている活躍は、 オーガナ上院議員も聞いて知っていたのではないか。 たとえば、Order 66 が発せられたのち、 オビ=ワンとヨーダの二人が、 ライトセーバーだけで、 ジェダイ寺院を守る数十人ものクローン兵を倒して侵入に成功したことなど。 レイアは、養父オーガナ上院議員から、 いざとなればオビ=ワンを頼れと言われていたわけで、 当然、彼が新三部作で見せた強さは聞かされていたと思われる。
そう考えると、落胆するのはルークではなくレイアのほうではないか、 と思うのだが。
なお、彼女がヨーダのことを聞いていたのかどうかはよくわからない。 ヨーダがダゴバに隠れたことは、 もしかしたらオーガナ上院議員もオビ=ワンも知らなかったのかもしれない。 V でオビ=ワンの“霊”がルークに「ダゴバへ行ってヨーダに会え」というが、 オビ=ワンはフォースと一体化したのちクワイ=ガンから聞いてダゴバのことを知ったと考えれば、 ヨーダ以外だれも知らなかった、と考えることも可能である。
2009-03-23 (1) 01:53:38 +0900
…観客、登場人物の間で、 どのようにして明らかになってゆくのだったか? いま、 DVD がすぐ見られないので、確かめることができないのだが。
レイアが、帝国軍に捕えられたのち、移された先はデス・スターであった。 そのことは、オルデラーンの爆破が彼女自身の目の前で起こったから、 わかっていただろう。 (そのときにベイダーかモフ・ターキンが「デス・スター」 という名称を口にしていたかも。)
で、冒頭に戻って、彼女は自分が R2-D2 に託したのがデス・スターの設計図だということを理解していたんだっけ?
ルークとオビ=ワンは、 R2-D2 がレイアから託されたのがデス・スターの設計図だと理解していたんだっけ?
ルーク、オビ=ワン、ハン・ソロは、 自分たちの乗ったミレニアム・ファルコンが引き込まれたのがデス・スターだと知っていたんだっけ?
デス・スター内で R2-D2 は自分自身をデス・スター内の回路につなぐが、 そのとき、自分が託されたものが、 いまいるこの巨大な宇宙ステーションの設計図だということを理解していたんだっけ?
オビ=ワンについては、 《日曜洋画劇場で「スター・ウォーズ特別編」を見た》 でも触れた。 R2-D2 が託されたのがデス・スターの設計図であり、 自分たちが吸い込まれたのがまさにそのデス・スターだと知ったら、 デス・スターの回路から R2-D2 に吸引ビームのスイッチを探させ、 それを切るのではなく、別のことをしたのではないか。 たとえば、 R2-D2 に託された設計図と合わせることでデス・スターの弱点を知り、 若い主人公たちを脱出させたのち、 デス・スターを内部から破壊するとか。 (最後、あの程度の大きさの爆弾で全体が爆発するなら、 内部からの爆破も不可能ではないような。)
ルーク、レイア、ハン・ソロたちは、 デス・スター内で一緒に行動していたときか、 あるいはファルコン号でデス・スターを脱出したあとで、 「いま脱出してきた宇宙ステーションこそが、 R2-D2 がレイアから託された設計図に基く最終兵器だったんだ」 という会話を、したんだっけ? 観客は知っているんだっけ? (その後、 ヤヴィンで反乱軍の他のメンバーと合流したあとは自然とわかってくる。 作戦会議でデス・スターの図が出るから。)
最後に: R2-D2 が託された設計図に基いて建造されたデス・スターの中にファルコン号が吸引された、 という設定は、そこに捕らわれていたレイアを助けるためには必然の設定だが、 それ以外に、生かされていただろうか?
2009-03-23 (1) 01:25:38 +0900
うるう年が四年ごとにはいると、 春分の時刻は四年につき 0.03 日ずつ早くなる。 1901 年から 2099 年までは規則的に四年ごとにうるう年がはいっているので、 2099 年の春分は 1903 年と比べて 0.03 * 49 = 1.47 日だけ早い。 (それを戻すために 2100 年、2200 年、2300 年は例外的に平年とするのである。)
サクラの開花が早まっていると言われるが、 この春分の移動は当然考えられているのであろうな。 それよりずっと早まっているのだろう。
2009-03-23 (1) 01:16:51 +0900
《グレゴリウス暦が完全だとすると、二十四節気の日付は3〜4日の範囲を動く》 の表で、2100 年、2200 年、2300 年の前後を見てみよう。 2096 年と 2103 年を比べると、春分などの時刻は 1.6975 日遅くなる。 このことから、2096 年の春分の日付と比べ、 2103 年の春分の日は1〜2日遅くなることがわかる。 2200 年、2300 年の前後も同じであり、 すでに過ぎ去った 1900 年も同じだったはずである。
また、あるときから過去二十年ぐらいを考えてみると、 ある二十四節気の日付が、
立春は現在では二月 4 日でほぼ変わらないが、これも同様に変わる。 1900 年前後の新聞は何か書いていないだろうか。
2009-03-23 (1) 01:03:06 +0900
前からの予定だから、ここにいてくれよ、の意。
「予定。抱いてよ」ともできるが、こちらの意味は各自で考えていただきたい。
2009-03-23 (1) 00:50:06 +0900
私は、自分の授業の試験の際、 「A4 サイズの紙一枚だけ、持込み可とします。 自筆であれば、何を書いてきても構いません」とすることがある。 先日、そのことをプリントに書いて配り、 「この紙には学科・学年・学籍番号・氏名を書いておいてください。 答案と一緒に回収します」 とも書いておいたところ、「この紙」を、その持込みの紙ではなく、 私が配ったプリントのことと誤解した人が何人かいた。 私も、書き方を工夫すべきだった。
2009-03-23 (1) 00:38:50 +0900
本文ナシ
2009-03-23 (1) 00:19:00 +0900
下から上がってきた役者の昔の話として、 最初についた役は通行人の役だった、死体の役だった、というのはよく聞くが、 「通行人の死体の役」というのはあるだろうか?
通行人の役というのは主人公たちの後ろを横切ったり、 主人公たちとすれ違ったりするだけの役だし、 死体の役というのは刑事物か何かで、発見されてじっとしているだけの死体の役。 だから両立しないだろう。
そう思ったのだが、 東京大空襲のあと、道端に倒れていた炭化した死体の写真を、 岩波新書で見たことがある。 あれは通行人の死体ということになろう。
だから、ありえないことではない。 ただ、その場合、「通行人の」は役名につかないな。
2009-03-23 (1) 00:13:29 +0900
…… SON だった。ドイツ語表示でも土曜日は SAM になるんだった。
それだけ。
2009-03-22 (0) 19:47:37 +0900
大体でいうと、東西南北に道が走っている。 兼六園があるのはこの交差点の東南のかど一帯である。 西へは徒歩でしか行けず、橋で道路を渡って金沢城の石川門に至る。 東からは、確か一方通行で、よくタクシーが客を拾いにやってくる。 南北の道は南向きの一方通行で、北は兼六園下の交差点。 南へ向かうと、兼六園に沿ってゆき、やがて下って、広坂の交差点に至る。
この交差点は、従来は、交差点全体が、 東西に歩行者が渡る横断歩道になっていた。 東から進入するタクシーにしてみると、 横断歩道に直交するのではなく、 横断歩道の上を横断歩道と平行に走るようにして、横断歩道にはいるのである。
しかし、 優先されるのが南北の通りであることは道の広さから明らかである。 南北に抜ける歩行者が道の東側を歩いていた場合、 横断歩道は直交するように通り抜けることになるので、少々不思議な感じがしていた。
それが、さきほど通ったら、普通の交差点になっていた。 横断歩道は交差点の北側だけに、東西に渡るようについていた。 東からこの交差点にはいるときの規則はどう変わったのだろうと、 そちらへいって道路標識を見てみたら、 左折のみ可と、一方通行ここまでのマークと、横断歩道のマークが出ていた。 しかし、この先へ進むには左折するしかなく、左折すれば横断歩道は通らない。 不思議だ。
私は自動車の運転はできないからしないが、 歩行者の通行方法も変わっているといけないと思い、 警官に尋ねてみようと、兼六園下の交番を訪ねた。 しかし、巡回中とかで、誰もいなかった。 緊急時は 110 番、それ以外は以下の番号に電話で、 と書いてあったが、言語だけで説明できる自信がなかったので、 何もせずに帰ってきた。
2009-03-22 (0) 19:11:31 +0900
その後、いつだったかは忘れたが、割と早い時期に、 以前と同じ、変則的な横断歩道に戻っていた。
2009-06-09 (2) 22:47:24 +0900
傘がもるのだろうか。 きちんとした長い傘をさしていったのに、頭のまん中がぬれている。 防水のトートバッグの中も。
2009-03-22 (0) 19:10:12 +0900
2009-03-22 (0) 01:58:29 +0900
2月15日(日曜日)づけ大阪本社版テレビ面の「試写室」は、
朝日系の「逆転夫婦の珈琲ワルツ」。
《喫茶店を切り盛りする妻と妻を支える夫の日常を描いたドラマ
》
と始まるが、
最終段落の初めに
《エプロン姿で料理を作る夫に当たり散らすなど、
春子は「亭主関白」風の妻
》とある。
ここでエプロン姿なのは夫なのだろうか、
妻なのだろうか? 《そんな夫婦を「逆転」と呼び喜劇風に仕立てた
》
と続くから、夫のように思えるが、妻ととれなくもない。
《赤田康和
》と署名あり。
付)夫だとはっきりさせたければ、 「料理を作るエプロン姿の夫に当たり散らすなど」 とする方法があるか。
2009-03-22 (0) 01:46:41 +0900
2月15日(日曜日)づけ大阪本社版「声」に載った、
広島県神石高原町の中学生、池田泰衣さんの「水に苦労した祖母に教わる」。
おばあさんは水を節約しておられるそうで、
《食器洗いや歯磨き、洗顔なども調整しながら使っています
》
とあるのだが、洗顔は普通両手で行なうから、その間に蛇口をひねるのは無理だろう。
どのようにして調整しているのか、気になった。
いったん洗面器にくんで、それで洗うのだろうか。
いま、洗面所で実験してみた。 私の場合、水を出し始め、両手でその水を受け、両手で顔を洗い、 水を止めるまで、約5秒であった。 それと同じ5秒間、洗面器に水をくみ、 その水で顔を洗うと、洗えた。 洗面器に浅く水がたまるだけで、 すくえないかと思っていたのだが、 そんなことはなかった。 いったん顔を洗った水がまたその洗面器にはいるが、 それでもよいのなら、その水で何度か顔が洗える。 (蛇口から直接水を手ですくって洗えば一回しか洗えないところを。)
足でボタンを踏んでいる間だけ水が出るようにするとか、
光センサーで手を出している間だけ水が出るようにするとか、
そういう方法も考えられるが、
単に「調整しながら
」とあるので、気になったのである。
付) 蛇口から直接水を手で受けて洗う場合、 水を太く出すと、顔を洗っている間に流れる水の量が多くてもったいない。 よって水を細く出す、というのも考えられるが、 あまり細く出すと、 水が手にたまるまでの間に指の間からもれてしまう水がもったいない、 とも思える。
付) 数回実験し、顔は洗うたびにタオルで拭いたので、顔が少々痛い。
2009-03-22 (0) 01:22:28 +0900
2月16日(月曜日)づけ大阪本社版文化面
「朝日歌壇に入選重ねる / 謎のホームレス歌人」。
生活は苦しいらしい。
《選外だが〈百均の「赤いきつね」と迷ひつつ月曜だけ買ふ朝日新聞〉
》
とある。
これが真実だとして、朝日新聞は、ごみ箱に捨てられているのを拾うことにし、
その代金は食費にまわしたほうがよいのではと思うのだが。
昔は駅の外にもごみ箱があって、読み終えた新聞が捨てられていたりしたものだが、 最近はテロ防止などのため撤去されているのだろうか。
2009-03-22 (0) 01:15:52 +0900
2月4日(水曜日)づけ朝日新聞第2石川面の、 「南苑さんの漢字の周辺」の第 56 回。 筆者は書家、篆刻(てんこく)作家の北室南苑さんである。 今回の話題は漢音、呉音、唐音の区別。 その最後の部分。
外国人に日本語を教える時、 この区別をきちんとしているのか。 昨年来日した江蘇省の大学の日本語学部で教鞭をとっている中国人たちに尋ねると、 「もちろん」と言い、 「その区別が明記されている辞典を持っている」 と異口同音に返事があった。
日本で国語を教える時はどうしているのか。 少なくとも筆者は学生時代に教わったことがないのだが……。
日本語にはいった漢語は、「これはこう読む」と決まっているので、 それが漢音なのか、呉音なのか、唐音なのか、知る必要がない。 もちろん、知っていれば漢字に対する理解が深まるだろう。 (一つの漢語でありながら読み方が違うと意味が異なる場合もあるが。)
中国人が日本語を学ぶときにはそれらの区別も込めて覚えたほうが覚えやすい、 ということだろうか。 中国語は漢字一文字ずつが単語だが、 日本語にはいるとまとまって一つの単語になるということがあるであろう。 それを中国人が学ぶときは漢字一文字ずつに分解して理解しようとするため、 「この単語中のこの漢字は漢音で読む」「これは呉音」などと覚えるのだろうか。
……というようなことを書こうと思って始めたのだが、 よく読み直すと、質問と答えの意味がわからない。
「この区別をきちんとしているのか」とはどういうことを指すのか。
区別をきちんとして、日本語の熟語として正しい読みで発音しないと、
日本語の単語として通じない場合があるのは明らかだ。
《「声明」をショウミョウと読めば呉音、
セイメイと読めば漢音である
》とあるが、
読み方によって(日本語としては)意味が違うので、
間違って読んだら日本人には通じない。
これは二通りの読み方がある例であって、
多くの単語では間違って読めば意味をなさないであろう。
だから、きちんと教える。
そういうことを言っているのか、
それとも、
単語ごとに「これは漢音で発音します」などと覚えるといっているのだろうか。
それだと、見たときにとっさに読めず、使い物にならないような気がする。
(フランス語の単語の psychologie はギリシア語からはいった語なので 普通はシュのように発音する -ch- を「ク」と発音する。 でも、フランス語学習者はこの単語を見たらすぐに 「プシコロジ」と発音できるようにしておくべきなのであって、 「ギリシア語からはいった語だから……」 と考えながら読むのでは間に合わないのと同じであろう。)
もちろん、日本語における漢字の発音を教える際に、 教養として、その音が漢音、呉音、唐音のどれなのかを覚えることは、 悪いことではないと思う。 (上の phychologie の例でいえば、 この語がギリシア語起源であることを知るのが悪いことではないのと同じである。)
辞典に区別が明記されているというのは、おそらく、 漢音、呉音、唐音のどれなのかを示すマークがついているということだろう。 それは、必ずしも、学習者にそれを覚えさせることを意味しない。 漢和辞典には区別が載っているが、 漢文を学習する日本人がそれを覚えるとは限らないのと同じだ。
まとめれば、こうなる。 中国人が日本語を学ぶとき、
付)
《羽咋市の禅寺「永光寺」も「永」を呉音としてヨウコウジと読む
》
とある。
初めてみた固有名詞を間違えずに読めればかっこいいとは思うが、
この例では「えいこうじ」と読み間違えても、それほど恥ずかしいとは思わない。
2009-03-22 (0) 00:01:32 +0900
2月14日(土曜日)づけ朝日新聞大阪本社版文化面に、 次のような断り書きが載った。
16日朝刊から始まる乙川優三郎さんの連載小説「麗しき花実」は、 昨年度まで通常の紙面で使っていた字で掲載します。 昨春から字が大きくなりましたが、 それまでの仕様で執筆が進んでいたためです。
用字が昔のなのではなく、以前のフォントを使う、というのである。
2009-03-21 (6) 23:56:20 +0900
「なこ+うど」、「わこ+うど」のように発音してはいけない。
2009-03-21 (6) 22:43:30 +0900
(123) は 1 を 2 に、2 を 3 に、3 を 1 に写す置換である。 これは間違いない。
(12)(13) と書いたとき、 写像だからと考えて右から先に置換を行なうと積は (132) となるが、 左から先に行なうと (123) となる。 これは στ と τσ の違いである。
群論を専門にしている友人とむかし議論していて気づいたのだが、 これとは別に、あと二つの定義の流儀があったような気がする。 それらは σ-1τ-1 と τ-1σ-1 でしかありえないと思うのだが、 どう定義するのだったか思い出せない。 (123) を、普通の意味での (123)-1 に解釈することになると思うのだが。
2009-03-21 (6) 22:37:40 +0900
ドアを開けるには、 そのわきにある裸眼立体視で浮き上がった文字・数字を打ち込まなければならない、 というようなシチュエーション。
裸眼立体視は、落ち着けば簡単だが、あせればあせるほどできなくなる。
2009-03-21 (6) 20:02:00 +0900
「3D」とか「立体視」とか、いろいろな言い方があるようだが、 携帯電話のディスプレイにも、そううたっているものがある。 映画などにもある。 物体が立体的に見えるのは、 両方の目を使ってものを見ているから、と理解しているが、 もしそうなら、 タイトル行に書いたように断らなくていいものだろうか?
私自身は、左目が右目よりもかなり強い近視なので、 眼鏡をはずすと裸眼立体視はうまくゆかない。
2009-03-21 (6) 19:58:09 +0900
au の新聞折り込み広告には、
「3D表示の見え方には個人差があります
」
と書かれていた。
2009-03-30 (1) 23:03:02 +0900
2009-03-21 (6) 01:36:02 +0900
《三つ編みには裏表がある》、 《続・三つ編みには裏表がある》 に書いたが、髪の毛をすべて頭の後ろで一つにまとめて三つ編みにしたものには、 ま後ろから見たとき「ソの字」になるものと、「ハの字」になるものとがある。 私は、「ハの字」なら自分でできるが、「ソの字」はどうしてもできない。 本当にどうしても「ソの字」にしなければならない場合、 最初に一つにまとめた髪を 「左の三分の一」「中央の三分の一」「右の三分の一」 に分けた時点で 180 度ひねってから「ハの字」に編み始め、 最後にそのひねりを戻せば、「ソの字」になることに気がついた。
なお、「ハの字」の三つ編みも、かろうじてできているだけのようである。 右手と左手の使い方を観察してみたら、対称に使っていないのだ。 (「観察」と書いたが、頭の後ろで起こっていることなので、 目で見て観察するわけではない。)
2009-03-21 (6) 01:02:35 +0900
仮に、ムスタファーの戦いでオビ=ワンが敗れたか、 あるいは勝ったとしてもそのあとやってきた皇帝によってパドメを奪われたとする。
皇帝は、アナキンをだましたときは「人を死から救う術を知っている」 と言っていたが、実はその術はまだ知らないのだった。 これから二人で探し出そうと、 (アナキンにしてみれば)心細いことを言われたわけだが、 V で登場した、カーボン冷凍の技術は、当時はまだなかったのだろうか。 もしもあったなら、瀕死のパドメをカーボン冷凍し、 人を死から救う術が発見されてから解凍すれば、救うことができた?
ヨーダ、オビ=ワン、オーガナ上院議員はそんな術のことは知らないから、 たとえカーボン冷凍の技術があったとしても、それを使うことは思いつくまい。 (ヨーダはあの時点で冥界のクワイ=ガンと交信し、 死後、フォースと一体化する術があることを知っていたはずだが、 それはフォースの強い者が、自分で自分を救う術だから、 パドメには有効でない。)
2009-03-21 (6) 00:52:12 +0900
……教師はどうするだろうか。
現在では天皇の地位は憲法で決まっているので、 憲法を改正すれば公選制をとることも可能である。 そして、自分がその選挙に立候補して当選したい、というのは、 「将来は総理大臣になりたい」というのと変わらない。 (総理大臣は国会議員の互選で選ばれるから、一段階、間接的ではあるが。)
でも、これを卒業文集に書くと言い張ったら、教師はやはり困るだろうなあ。
2009-03-21 (6) 00:41:37 +0900
2009-03-20 (5) 02:46:49 +0900
1月30日(金曜日)づけ朝日新聞第2石川面
「ナカニシ先生の万葉こども塾」。
筆者は《奈良県立万葉文化館長・中西進
》氏である。
今回の歌は
「あな醜(みにく) 賢(さか)しらをすと 酒飲まぬ 人をよく見れば 猿(さる)にかも似る
」。
訳に
《えらそうに「酒なんか飲んではいかん」などと言っている人をよく見ると
》
とあるが、
私は「(自分は)酒は飲まない」と言っているだけの人のことだと思っていた。
つまり、単に下戸をあざけっている歌だと思っていたのだが。
2009-03-20 (5) 02:31:59 +0900