…そこから一般論が見えてこない。 つまり、10×10×10 = 1000 行からなる “虎の巻”をコンピューターに出力させることはできた。 しかし、「こういう場合にはこういう風に石をとればよい」 というパターンが見えてこないのだ。 必敗となる必要十分条件も見えてこない。
2009-06-28 (0) 21:06:12 +0900
計算機の授業で、三山崩しをとりあげようと思ってプリントを作っていて。
2009-06-28 (0) 21:05:12 +0900
いままでずっと、 「壁に耳がついていたり、障子に目がついていたりするはずはないが、 そういうことがあり得ると考えるぐらいに用心深くせよ」 という意味だと思っていたが、 今年の1月前半のNHKラジオ「実践ビジネス英語」のスキットで 「the walls have ears」という英語のことわざが出てきて、 もう一度よく考えてみたら、 「壁の向こうに耳があってこちらの話していることを聞いているかもしれない。 障子に穴が開いていてそこからこちらをのぞく目があるかもしれない、 と思うぐらい用心深くあれ」 という意味なんだとやっと理解できた。
2009-06-27 (6) 22:27:32 +0900
先日、休暇をとって帰京した際、昼間、NHKテレビを見ていたら、 国会中継をやっていて、 そこで質問者が取り出したパネルにそう書いてあった(と思う)。 (新聞のテレビ面によると24日水曜日の13時から15時に 『国会中継「衆議院決算行政監視委員会質疑」』と書いてある。)
「▲約**億円」ではなく、「約▲**億円」が正しいのだろうか? 負の数に 「約」をつけるときはおそらく「約マイナス**℃」のように言うだろうから、 それにならえばこれで正しいか。
2009-06-27 (6) 20:59:44 +0900
「90弱人分」ではなく「90人分弱」で正しいと思うが。
2009-06-27 (6) 20:57:32 +0900
新宿方面から東北新幹線・上越新幹線・長野新幹線を利用する場合、 東京から乗るよりも埼京線で大宮まで行きそこから乗ったほうが早いことがある、 と聞いた。
もしもそれらの新幹線が赤羽駅に停車すれば、 赤羽―大宮を、埼京線でなく新幹線で行けることになり、 さらに便利になるだろう。 上野発着の在来線を東京まで伸ばす計画があると聞いたことがある。 そうなったら、上野は特別な駅ではなくなる。 新幹線も上野に停まらない代わりに赤羽に停まる列車もあり、などとすれば、 それほど所要時間を増やさずに赤羽に停まれるのでは。 東海道新幹線には品川駅ができたことだし。
先日帰京したとき、 上越新幹線が赤羽駅を通っているのに気づいたら、思いついた。
2009-06-27 (6) 19:24:35 +0900
2009-06-22 (1) 02:09:55 +0900
たいていの会社は「9時―5時」であろう。 午前9時に仕事を始めて、午後5時に終わる。 それを、政府のキャンペーンか何かで、 「夏の間は午前8時に仕事を始めて、午後4時には終わりましょう」 とやれば、夏時間を導入したのと同じ時間帯に仕事をすることになり、 それに応じて交通ダイヤなども早めれば、時計の針をずらすことなく、 同じ効果が得られるはずだ。
さらに。「8時―4時に」と言い切るところがミソで、 こうすることで、残業が減らせる --- といいな、と思うのだった。
2009-06-22 (1) 01:44:21 +0900
21日日曜日づけ大阪本社版「天声人語」。
《仕事柄か、年のせいか、早起きの癖がついた。
この時期、東京だと4時ごろから空が白んで鳥が鳴き始める。
散歩もせずにパソコンに向かう当方を含め、
日本に暮らす人の多くが早朝の明るさを無駄にする
》。
この人がどういう部屋でパソコンを利用しているのかによるが、
屋外に面した窓がある部屋なら、部屋の明かりをつけなくて済むことで、
早朝の明るさを無駄にせずに使っていることになる。
《日本では夏を待ちこがれ、いとおしむ心情がピンとこない。
省エネを言いながら、みすみす朝の光を捨てる我らである。
夏時間を採り入れても、戸外での余暇に慣れぬ身は帰宅後の斜陽を持て余そう
》。
夏時間を採用しても一日24時間に変わりはなく、
翌日は一時間早く出勤するのだから、時間を持て余している暇はないはずである。
いままで時計の上でその時間にしていたことをすればよい。
その結果、たとえば、夕食をいままでは電灯の下で食べていたのが、
食卓に夕陽がさし、電灯をつけずに済むようになれば、
それで立派な省エネルギーになる。
また、夏時間採用か不採用か、という考えしかないようだが、 夏時間を採用しなくても、 「夏は早く起きて、職場・学校へ行く前に趣味に取り組みましょう」 とすれば済む話だ。あれは高等学校2年生の春から夏だったと思うが、 早朝、親の起きてくる前に、 隠れてラテン語の入門書に取り組んだことが思い出される。 また、夏時間を採用しても、一時間くりあがるだけでは、 5時ごろから空が白むことになるから、やはり日光の無駄になる。
もう一つ。夏至は最も昼間の長い日といってほぼ間違いないが、 日本の暑さはこれからやってくる。それを忘れてはいけない。 もしも可能なら、一度、「毎日夜明けとともに起きる」というのを、 冬至から夏至にかけてやってみたい。たぶん、それは健康によいと思う。 しかし、そのあとの猛暑の季節は、 いつ起きていつ寝るのが最も健康的かつ省エネルギーになるか、 私にはわからない。
2009-06-22 (1) 01:34:59 +0900
3月18日水曜日づけ朝日新聞大阪本社版の、
World Baseball Classic の記事。
プエルトリコ―ベネズエラの試合で、
《フェンスに当たり、跳ね返ってきた
》ので三塁打とされた打球が、
審判団が控え室にはいって協議した結果、本塁打に変わったそうだ。
なお、ビデオは見ておらず、
《一番見やすい角度で最後まで打球を見ていた三塁塁審
》
の判断に従ったそうだ。
同紙の見出しは「疑惑の判定 今回も」となっているが
私は、これは悪くないと思う。
本塁打なら試合はそこで止まる。 はっきりしないときは本塁打ではないとしてプレイを続け、 あとから審判団が協議のうえ判断しても、問題なかろう。 (本塁打以外の局面だと、 「もしもあそこで審判がアウトのジャッジをしていれば*塁へは投げなかった」 などと言われた場合、どのようにして試合を再開してよいか迷ってしまう。)
付)タイトル行の「三塁打? 一転本塁打」も同紙の見出しからとった。
2009-06-22 (1) 01:24:24 +0900
英語では、単語の出現頻度は当然研究されているだろう。 日本語の場合、それは調査されているのだろうか? それで上位何位までの単語に使われる漢字は常用漢字表に入れる、 と決めれば、 日本語で頻繁に使われる上位何位かまでの単語はそれらの漢字で書けるようになる、 というわけだ。
ある特定の単語にだけ使われる漢字でも、その語が頻繁に使われれば、 いまの漢字の使用頻度の順位よりも上にくるわけだ。 「迄」を漢字で書くことにしたら、かなり上にくるだろう。 (「迄」は漢字では書かないと決めたら、順位はぐっと下がる。)
2009-06-22 (1) 01:14:54 +0900
3月18日水曜日づけ朝日新聞大阪本社版文化面、
「新常用漢字表をよむ」は早稲田大学教授の野村雅昭氏。
新しく加わる漢字のうち、《社会生活ではあまり目にしないもの
》について、
こう述べている。
これらの字は、 最近の数千万字に及ぶ調査データの検討に基づいて選ばれた結果である。 もっともらしい理屈はついているが、 もともと漢字使用の統計的な解析では上位1500字ぐらいまでが信頼できる区間で、 それ以下は調査によるユレが大きくなる。 また2000字程度の漢字集合に10%程度の漢字を追加しても、 そのレベルの漢字の出現確率は十万分の一程度以下だから、 全体に及ぼす量的な効果はせいぜい1〜2%に過ぎないことも確認されている。
ということは、そもそも、どの字をいれるかという議論の前に、 あと何文字を常用漢字表にいれたら出現率・カバー率は何%上がるのか、 という議論から始めないと、無意味なことになるのではあるまいか。 その上で、カバーできない文字はどうやって使うのか、あるいは使わないのか、 という議論になるのでは。
数学をやっていると、「円錐(えんすい)」という語は必須である。 しかし、「錐」が表にはいっていないということは、 数学に限らない、文書一般の中でのこの文字の出現率はかなり低いのだろう。 私が授業で使うときは、 最初だけふりがなを振って漢字で書きとおすか、 最初に漢字を示してあとはカナで書くか、だな。
2009-06-22 (1) 00:56:39 +0900
五枚のカードが配られ、見てから、一度だけ、好きな枚数を交換できる、 というタイプのポーカーの一人ゲームがあったとする。
たとえば A が二枚あって、それは残してあとの三枚を交換し、 A がきてスリーカード以上になるのを狙う場合、 待っているカードはあと二枚しかない。残りの A 二枚である。
一方、A-2, 4-5 とそろっていて、 3 がくることを期待して残りの一枚を交換する場合、 3 はあと四枚あるのだ。
前者の場合、取り替えた三枚の中に同じランクのものがあることもあるから、 これだけからストレートを狙うほうが確率が高いとは言えないと思うが。
2009-06-21 (0) 22:25:16 +0900
……と思わず口をついて出ることがあるのだが、 野球の投手がストレートで勝負するときのイメージと勝手に重なっているのかも。
2009-06-21 (0) 22:23:25 +0900
ちょっと前に書いたのよりちょっとだけ長い。
2009-06-21 (0) 21:39:06 +0900
本文ナシ
2009-06-21 (0) 21:37:04 +0900
新日本式ローマ字にしたのには特別な意味はない。 日本式、訓令式でも回文になる。
2009-06-21 (0) 21:35:48 +0900
本文ナシ
2009-06-21 (0) 21:34:39 +0900
本文ナシ
2009-06-21 (0) 21:34:07 +0900
「余そう、王様」でもよい。
2009-06-21 (0) 21:32:31 +0900
これは新日本式ローマ字で「ucu bô, dôbucu」としても回文になる。
2009-06-21 (0) 21:27:24 +0900
「-i」は大文字小文字を無視して検索の意味。 「、su」は dump すると 81 41 73 75 となる。 「、」の2バイト目の 41 が「A」の ASCII コードと同じなので、 ひっかかるようだ。
前項、前々項を書くにあたってすでに書いたものをチェックしていて、気づいた。
2009-06-21 (0) 21:22:36 +0900
本文ナシ
2009-06-21 (0) 21:20:00 +0900
本文ナシ
2009-06-21 (0) 21:17:29 +0900
本文ナシ
2009-06-21 (0) 21:16:29 +0900
本文ナシ
2009-06-21 (0) 21:15:29 +0900
本文ナシ
2009-06-21 (0) 21:14:44 +0900
「抱こ」は「抱こう」の最後を長音にしない、俗な形。 「飲もう」を「飲も」とするのと同じである。
2009-06-21 (0) 19:21:45 +0900
私と同年代の人の名前の漢字は、たいてい、決められた通りに読むことになっていた。 たとえば「敦子」ちゃんは「あつこ」ちゃんだし、 「淑子」ちゃんは「よしこ」ちゃん、 「茂」君は「しげる」君で、 「好夫」君は「よしお」君だった。 音読み・訓読みなら、歴史的かなづかいでどう書くかも決まっている。 普通の訓読みではない読み方、 たとえば「智子」を「ともこ」と読む場合の「とも」なども、 戦前から使われていた読み方であれば、 歴史的かなづかいではこう書く、というのが決まっていたはずだ。 「とも」は歴史的かなづかいでも「とも」しかありえないのでそのままであるが。 漢和辞典をながめていて見つけた、歴史的かなづかいが気になる例は、 「律」を人名で「おと」と読ませるというのであるが、 別の字典にはこの読み方は載っていない。
ところが、最近、どうしてこの漢字でこう読むのか理解できない名前、 あるいは漢字を当てていない名前がでてきた。 そういう名前は、歴史的かなづかいでどう書くのか、 ということを問うこと自身が無意味な名前である。
少し前の項に書いた「いまる」という名前はそれに当たるだろう。 歴史的かなづかいが「ゐまる」である可能性があるが、 カナで「いまる」という名前なのだから、それ以上考えようがない。 (ただし、彼女の両親による命名の由来を見ると、 歴史的かなづかいでも「いまる」になりそうである。)
別に、そういう名前が悪いというわけではない。 ただ、 「旧・漢字圏の名前でありながらどういう漢字で書くのか本人もわからない」 という名前の存在を残念に思うという発言を読んだ記憶があるので、 歴史的かなづかいでどう書くのかわからない日本人名も、 残念に思う人がいるのではなかろうか、と思ったのである。
付) 音読み・訓読みそのものの問題でよいなら、 「あい子」という名前が例になる。 漢字で書いて「愛子」なら歴史的かなづかいは「あいこ」、 「藍子」なら「あゐこ」である。 カナで「あい子」とつけた場合、 親が「藍色」の「藍」にちなんでつけたと言えば歴史的かなづかいでは「あゐこ」 となる、と言っていいのかな?
付) 外国人名にならった、「樹里(じゅり)」などの名前の場合は、 歴史的かなづかいを考える意味がないだろう。 ただ、戦前からの表記がある場合は別である。 大竹しのぶの母親の名前は「江すてる」だそうだが、 聖書にちなむとのことなので、 おそらく、旧約聖書「エステル書」のエステルであろう。 戦前に出た文語訳聖書ではこの人名は「エステル」と書く。 だから、歴史的かなづかいでふりがなを振る場合も「えすてる」とすべきだと思う。 (ちなみに、「江」の歴史的かなづかいも「え」である。)
2009-06-21 (0) 19:14:16 +0900
手紙、あるいはメッセージの最初の呼びかけの部分と、 最後の署名。
「太田家へ、加藤」と解しても構わない。
2009-06-21 (0) 19:12:56 +0900
明石家さんまと大竹しのぶの娘の名前が「いまる」であり、 ラテン字母では IMALU と書くようだ。 だから「いまる」は実在の名前である。
付) ラリルレロの子音を r で表すか l で表すかは慣習の問題に過ぎない。 (舌がうわあごの側につくから L だ、という議論は意味をなさないそうだ。)
2009-06-21 (0) 19:02:39 +0900
2009-06-21 (0) 01:43:37 +0900
前項を書きながら、路線図をながめていて気づいた例。 麹町から本郷三丁目まで乗る場合、最短経路は 麹町から有楽町線で市ヶ谷または飯田橋、そこから南北線で後楽園、 そこから丸ノ内線で本郷三丁目、だろう。 しかし、池袋で有楽町線から丸ノ内線に乗り換えるほうが、たぶん、 乗り換えは楽であろう。一回で済むし、 後楽園の乗り換えは高低差がずいぶんありそうだから。
東京メトロの(いわゆる)ホームページで調べてみると、 麹町―本郷三丁目は、上に書いた通りの、 途中で南北線を利用するルートが示されたうえで 160 円、 麹町―池袋は 190 円、 池袋―本郷三丁目は 160 円となっていた。 また、池袋での有楽町線と丸ノ内線の乗り換え時に、 副都心線が開業した現在も改札をいったん出る必要があることは、 Wikipedia で確認した。 路線図だけを見て池袋まで行ってしまうと、 有楽町線の改札を出る時にお金がいる、ということか。
別の例。 御茶ノ水―江戸川橋も、同様に途中で南北線を利用して 160 円。 御茶ノ水―池袋は 190 円。 池袋―江戸川橋は 160 円。 だから、160 円の切符を買って乗ると池袋で出ることはできない、 ということになる。 しかし、 江戸川橋―新大塚は池袋乗り換えで 160 円である。 よって、反対に江戸川橋から御茶ノ水に向かう場合、 池袋で有楽町線の改札口は出られるし、丸ノ内線の改札口をはいることも可能なはず。 ただし、切符に池袋で乗り換えたという記録が残るのだとしたら、 御茶ノ水で降りるときにだめと言われるのかもしれない。
2009-06-21 (0) 00:23:06 +0900
駅の切符の自動販売機の近くに備え付けてある、運賃表になっている路線図。 そのすべての駅間に、 「その運賃表がはってある駅からの最短距離が近いほうから遠いほうへ」 の矢印をつける。 ただし、両方の駅が同じ距離の場合は両方向きの矢印をつける。
こうすると、その矢印に沿って目的の駅まで進むルートで乗れば、 途中の乗り換え駅で余分なお金を請求されることがない。 ただし、その矢印に沿っていないルートでは余分なお金がかかる、 とは言い切れないから、あまりよい方法ではない。
経路の間違いでトラブルが発生しそうな駅では、 駅員が、運賃表になっている路線図のいくつかの駅を線で囲み、 「この中の駅へ行かれるお客様は、これこれの経路で行ってください。 そうでなく、**駅で乗り換えられる場合は、運賃は***円になります」 というような掲示をするのが適当か。
2009-06-21 (0) 22:32:14 +0900
同じ駅を二度通らない限りどんな経路を選んでもOKで、 運賃は最短経路で計算される。 実際に乗る経路にいったん改札口を出ないと乗り換えのできない駅が含まれる場合、 駅から出て、用事を済ませてから乗っても構わないのだった。 淡路町―新御茶ノ水で何度か利用した記憶がある。
いまは、できないはずだ。 ある駅の切符の自動販売機のわきに書いてあるのを見たことがある。 乗り換え駅までの運賃のほうが高い場合、その差額をいただきます、と。 では、どの駅に行くときにどこで乗り換えるのはOKでどこはだめか、 というのは書いてなかったような気がする。 今度帰京したら駅員に尋ねてみよう。
付)東京メトロの(いわゆる)ホームページを見てみた。 乗り換えは30分以内に、という注意はあるが、この注意は見当たらなかった。
付) 用事を済ましたという例ではないが、 銀座線から東西線に乗り換える間に半蔵門線に乗れることに気づき、 乗ってみたくて、三越前から大手町まで、利用したことがある。 三越前でいったん改札を出るときに改札の駅員に説明したら 「このまま銀座線で行って日本橋で乗り換えればよい」と言われたこと、 三越前の乗り換えにかなり距離があったことを覚えている。
付)やったこともやろうとしたこともないけれど、 乗り換えますといってそこで降りてしまうことで、 安く済ませることもできたわけか。 いや、一度、結果としてやったことがあるが、安くなったかどうかはわからない。 たしか、やはり三越前での半蔵門線と銀座線の乗り換えで、 改札を出て周辺の案内図を見たら、 あと一駅乗るよりも直接目的地へ向かって歩いたほうが早いと気づき、 たしか切符は券売機そばにあった切符をいれる箱に入れて歩きだしたような記憶が。 でも、なんでそんなところにそんな箱があったんだろう? (当時は、 切符も定期券も改札職員の目によるチェックだけだから、 切符を買って乗って定期券で降りる場合、正規の買い方 --- 乗る駅から、定期券で乗り降りできる駅までの切符を買う買い方 --- をした場合でも、切符は改札で出さずに持ち帰る人が多かったように思う。 あるいは、電車の中に放置して行くとか。)
東西線でJRの東京駅、特に八重洲口に向かうには、 大手町で降りたら地下通路を歩くほうが、 丸ノ内線に乗り換えて大手町―東京と乗るよりも早い。 私は初めから知っていたのでその経験はないが、 私が三越前でやったのと同じことをする人が、いると思われる。 (いま Wikipedia で確認したところ、 東京メトロの各線は改札を出ないで乗り換え可能だが、 出たほうが早く、また出ることが許されている乗り換えがあるそうだ。)
付) 上に書いた三越前での件は、 正しくは、乗り継がないと決めた時点で改札に戻って、 駅員に運賃の確認をし、切符を渡さなければいけないのだろう。
2009-06-20 (6) 23:35:21 +0900
前項を書くため見ていた
http://www.jreast.co.jp/kippu/1103.html#05
に、
《途中で下車される場合は、
実際に乗車された区間の運賃と比較して不足している場合はその差額をいただきます
》
とある。
この、「実際に乗車された区間の運賃」とは、どう計算するのだろう?
「乗車された駅から下車される駅までの運賃」なら、
最も安い径路で乗ったとして計算する、と読み取れる。
しかし、上の書き方には「区間」とあるので、
実際に乗車したキロ数から計算した運賃、とも読める。
もしそうだとすると、あともう少しで一筆書き完成というところで途中下車する場合、
かなり多額の運賃を請求されることになろう。
その場合、「乗り越しです」と言って、
実際の乗車駅から実際の下車駅までの運賃との差額を払うことは許される?
許されるなら同じことになるが。
「区間」とは何か、という問題とも言える。 私には、区間と言ったら両端の駅だけでなく、 間の道筋も指しているように思えるのだが。
2009-06-20 (6) 23:27:47 +0900
通称「一筆書き乗車」だが、実際には一筆書きとは異なり、 同じ駅を二度通ってもいけない。 やってみようと思ったことはないのだが、 机の上で考えていて、 「大久保―千駄ヶ谷の切符で乗るとして、途中、 山手線で新宿―代々木を通るのはありなのかな?」と思ったことがある。 最短距離は当然、 中央線緩行線で大久保―新宿―代々木―千駄ヶ谷で、 そこに含まれる新宿―代々木を通ることになるからである。
http://www.jreast.co.jp/kippu/1103.html#05
によると
《重複しない限り乗車径路は自由に選べますが
》
となっているので、たぶん大丈夫だと思う。
2009-06-20 (6) 23:11:12 +0900
この話題についてメールでコメントしてくださっているかたから、 OK です、とメールで教えていただいた。
最初にこれに気づいたのは20年以上前のことで、 どうしてこれが気になったのか忘れていたが、思い出した。 普通の一筆書き乗車の場合、下車駅と乗車駅とを最短経路で結ぶと、 自分自身と交わらないループができる。 それに対し、これだと「8」の字状になる。 その点で普通でないので、大丈夫かなと思ったのだった。 しかし、元のルールに戻って考えてみれば、何でもなかったのだ。
2009-06-28 (0) 23:51:37 +0900
まだ大学院生だったときのことである。 当時、西荻窪、吉祥寺へのバスがあるエリアに住んでおり、 ふだんは先にきたほうのバスに乗っていた。 が、あるとき、東京都区内からどこかまでの国鉄の乗車券をもって、 吉祥寺行きのバスに乗ってしまった。 当然、吉祥寺から西荻窪までの切符を買わなければならない。 すごく損した気持ちになった。 (いま思えば、ふだん通学に使っていた方法で国鉄の駅へ出ればよかったんだよな。 でも、それだと最寄りの私鉄駅まで歩かなければならないし、 東京駅までに乗り換えがあり、時間もかかるのだった。)
2009-06-20 (6) 22:57:27 +0900
2009-06-20 (6) 01:48:08 +0900
「法師」が(いわゆる)辞書とヒットしたための誤変換か。
2009-06-20 (6) 00:54:35 +0900
…どうだろう? 臓器を取り出した人は、 法律では罰せられないがその人を殺したことにはなる、というわけ。 もちろん、本人や家族が反対の意思表示をした場合は除く。
2009-06-20 (6) 00:31:49 +0900
「白馬」は「白い馬」だから論理的に考えて馬だが、 「脳死」は「脳の死」だから。
きのうの朝刊に「脳死は死」という見出しがあって。
2009-06-20 (6) 00:28:54 +0900
きょうの分の「ラジオ英会話」もそうだったが、 最後のあいさつにはいる直前に、 この講座はインターネットでも聞けるようになりました、 というお知らせが、先生の声で挿入されることがある。 すると、その部分とその前後とで、声の質・声の高さなどが明らかに違うのがわかる。 「実践ビジネス英語」もそうだった。
録音機材などが違うからか、それとも、 普通の人は毎回違うように話しているということか。
2009-06-19 (5) 22:31:59 +0900
前々項に関連。
日本標準時は東経 135 度の、明石市を通る子午線上の時刻にほぼ等しい。 (実際は UTC を 9 時間進めたものと定義されているはず。)
もしも夏時間を導入するなら、 それは東経 150 度の子午線上の時刻にほぼ等しい。 その子午線上で北半球かつ陸地といったら、ロシア領であろう。 地図によると、ウルップ島を通るようである。 だから、ついでに、夏時間はロシア語で言うようにしたら、 混乱が防げるのではなかろうか。
……と思ったのだが、夏時間になったら、 夏時間の7時には標準時の7時にしていたことをする、 のが原則だ。呼び名が日本語とロシア語で変わってしまっては、 それができにくくなる。だめか。
2009-06-19 (5) 19:11:19 +0900
前項に関連。
標準時と夏時間とで同じ「1時」「2時」……を使うと、 換算の際に1を加えるのか減ずるのか間違えそうだ。 たとえば、夏時間になったら昔の「九つ」「八つ」……「四つ」と呼ぶようにする。 あるいは、「子の刻」「丑の刻」……「亥の刻」と呼ぶようにする。 そうすれば、換算の間違いはなくなるのではないか。
だめか。
2009-06-19 (5) 19:11:19 +0900
日本国内でエレベーターやエスカレーターに乗っていて 「5」の数字が見えたとき、 私は «quatrième étage» とフランス語でつぶやくことがある。 quatrième は「第四の」の意味であり、 日本語の「五」から一を引くと、 フランス語としての正しい言い方が得られる。 このとき、一を足すのか引くのかを間違えたことはない。
標準時と夏時間の間の換算では、一時間を足すのか引くのか間違えそうなのだが、 それは同じ「一時」「二時」……ということばを使うからではあるまいか。
2009-06-19 (5) 19:05:13 +0900
いまから十数分ほど前のこと。 私は、浅野川の右岸を、川下に向かって歩いていた。 この浅野川と犀川が、金沢の二つの大きな川である。 いずれも、南東から北西に向かって流れている。 よって、私の斜め左前、すなわち、川の向こう側かつ下流側に、 沈みつつある太陽が輝いていた。
ところが、それから90度ほど左を向いた方向の川面に、 太陽光を反射しているように光る場所があった。 なぜここが光る? 流れが非常に浅くなっていて、 川底が光るのだろうか? としばらく考えてしまった。
それは、川の向こうの家の窓ガラスに反射した太陽光が、 川面でもう一度反射して見えているのであった。
付) 「ラインの黄金」のように、川の中に黄金があって輝いているのではとは、 残念ながら、思わなかった。
2009-06-19 (5) 18:55:47 +0900
2009-06-19 (5) 01:52:10 +0900
本項は今晩、あるいはあす未明にアップロードする予定。 けさ未明のアップロード時には忘れていた。
2009-06-19 (5) 18:54:50 +0900
合格の番号ならびとびとびの数字の間のその子を思う」
3月16日月曜日づけ大阪本社版、朝日歌壇の、東深雪さんの歌である。
選者の永田和宏さんは
《合格発表の季節。
自分の番号を見つけて飛び上がって喜ぶ子としょんぼりその場を立ち去る子
》
と書いている。たぶん、そういう意味であろう。
私も味わい深く読んだ。
が、しかし、国公立大学の後期入試の場合、 出願してあっても前期入試で合格したため受験しなかった子の番号、 ということもありえる。 昔の二期校もそうであったそうだ。
関係ないが、ここでも「数字」が「数」の意味で使われている。 《「六百六十六」は獣の“数字”でいいのか? “数”ではないのか?》 参照。
2009-06-19 (5) 00:45:33 +0900
3月16日月曜日づけ大阪本社版スポーツ面、World Baseball Classic の、
「米コールド負け」の記事。負けた米国チームのジョンソン監督について、
《子供の結婚式で当初はベンチ入りしない予定だったが、
「結婚式を早めに切り上げてきた。でも、こんな結果なら、
私がいなかった方がよかったかもしれない」
》。
「切り上げる」は早く終えるの意味だ。 なんとなくだが、 “早く抜けてきた”のつもりで書いているような気がしてならない。 父親が仕事のため結婚式を早く抜け出してくることはあっても、 早く終わらせることはできないのが普通だと思う。
2009-06-19 (5) 00:29:06 +0900
3年間凍結と聞いたとき、そう思った。
2009-06-19 (5) 00:19:06 +0900
3月16日月曜日づけ朝日新聞大阪本社版社会面「麻生首相語る」の、
『漢字誤読「原稿見て話さず」』。
《「原稿をあまり見てしゃべることをしないということが大きいと思います」。
麻生首相は15日のNHKのテレビ番組で、演出家のテリー伊藤さんから、
漢字の誤読の原因を問われ、こう答えた
》とあるのだが、
どうしてそうなるのかわからない。
原稿を見て話しても見ずに話しても、
「ふしゅう」と発音する語は「腐臭」「浮舟」「俘囚」ぐらいしかないのだから、
「踏襲」を「ふしゅう」と読むことはありえないと思う。
よく原稿を見ていないので「踏襲」が「腐臭」に見えていた、というなら話は別だが、
それなら、それでは意味をなさないと気づくはずだ。
2009-06-19 (5) 00:10:18 +0900
旧暦を使っていた時代、四月・五月・六月を、閏月も込めて「夏」 と呼んだことがあるらしい。その意味では確かにことしの夏は長い。
前に 《旧暦>「夏に閏月がある」ための必要十分条件は「夏至が新月に近い」》 と書いたが、 国立天文台のサイトによると、 今年の夏至は6月21日14時46分。 その近くの朔は6月23日4時35分だ。
2009-06-18 (4) 23:39:47 +0900
朝日新聞の販売店がくれるカレンダーには六曜が載っており、 それを見て、いつが旧暦の月のかわりめか調べて印をつけるのだが、 今年の六月のカレンダーは全く規則的に六曜がめぐっていたので、 しばらく考えてしまった。 理由は、旧暦五月が30日まであり、閏五月があるからであった。 旧暦五月も閏五月も1日を大安とするので、そうなるのである。
それ以外にも、六月1日が旧暦の五月1日で、旧暦の五月が30日まである、 というケースも考えられるが、毎月チェックしているので、 そういうケースではないと初めからわかっていた。
2009-06-18 (4) 23:33:38 +0900
やはり、「裏」「表」という感じがするからであろう。
2009-06-18 (4) 23:29:39 +0900
どちらも自然に生えるものだが。
ひげはそるもの、髪は適当な長さに伸ばすもの、という社会だからだろう。
2009-06-18 (4) 23:28:37 +0900
乗合バスで、高い位置にある前向きの座席に、 “危険ですので小さなお子さまやお年寄りの方はご遠慮ください” と書いてあることがある。 席につくまでに段を上らねばならないので、 お年寄りにとって危険が伴うことは理解できる。 しかし、小さい子の場合、親などがかかえて座らせてしまうことがほとんどだろう。 その場合でも危ないのだろうか? もしも、 急ブレーキの際に飛び出したりして危ないのだとすると、 床に近い、低い席でも、 小さい子が一人で座ったら危険ではなかろうか? 落ちたときの衝撃の大小を言っているのだろうか? もしそうなら、 小さい子どもは低い席からでも落ちたら危険だろう。 「小さな子どもは一人では座らせないで」となるのではあるまいか。
2009-06-18 (4) 23:20:05 +0900
が、どうやって確かめたらよいかわからない。
2009-06-18 (4) 23:18:06 +0900
ファイル iroiro.html の、 最新のファイル名を更新するのをうっかり忘れたため、 iro0198.html なのに iro0197.html となっていた。
2009-06-18 (4) 19:17:00 +0900
浦和区とは、さいたま市浦和区のこと。 あるいは、「力なく笑う裏枠なら勝ち」でもよい。 「裏枠」というのは、表には出せない枠のようなもの。 「笑う浦和」を中に含むが、 その外側の「力なく区なら勝ち」だと意味がはっきりしないので、 単なる合成ではないと考える。
2009-06-18 (4) 01:50:16 +0900
「蟹田(かにた)」という地名はあるが、 「蟹田(かにだ)」という姓があるかどうかは不明。
2009-06-18 (4) 01:48:07 +0900
医王山は石川県と富山県の境にある山。
以前、冬に軽装で登って、眠って凍死した男性がいた。 そのとき、確か北國新聞に載った見出しが「男性の 死因は凍死 医王山」 という、五七五のものであった。(特にそれとの関係はない。)
2009-06-18 (4) 01:42:13 +0900
Google 検索で,この項目がひっかからないのだ。スペースのせい?
2018-04-20 (5) 20:32:34 +0900
セナケリブは列王紀下 18,13-, イザヤ 36,1- に登場する人物。 彼がユダにやってきたのは、決してブリをけなすためではない。
2009-06-18 (4) 01:30:54 +0900
何をなそうとしたのかは不明。
2009-06-18 (4) 01:26:33 +0900
小さい子の頭にシャンプーをつけて、 キューピーみたいにしているところを想像していただきたい。
2009-06-18 (4) 01:25:43 +0900
漢字かなまじり文でかけば「オーラ党さ、麻生太郎」。 「オーラ党」というのは私が作った語。意味は不明。
2009-06-18 (4) 01:23:50 +0900
Uranus はラテン語、神名。
2009-06-18 (4) 01:21:50 +0900
「信成」は人名。全体の意味は不明。
2009-06-18 (4) 01:17:26 +0900
前に 《回文>「嘉納のか」(かのうのか)》 というのは書いた。
2009-06-18 (4) 01:16:19 +0900
本文ナシ
2009-06-18 (4) 01:15:32 +0900
里佳は人名。
2009-06-18 (4) 01:13:51 +0900
紀香は人名。
2009-06-18 (4) 01:11:28 +0900
本文ナシ
2009-06-18 (4) 01:10:52 +0900
《回文>「タカは博多」(たかははかた)》、 《回文>「高橋は肩」(たかはしはかた)》 に類似。
2009-06-18 (4) 00:58:07 +0900
本文ナシ
2009-06-18 (4) 00:56:53 +0900
前項をカナ漢字変換で打ち込んでいて。
2009-06-18 (4) 00:55:40 +0900
ベートーベンの初期のスケルツォなら、 早めのメヌエットという感じで、 踊れるかもしれない。
2009-06-18 (4) 00:54:43 +0900
投票率70%といえば、いまの日本では高いほうだ。 そのうちの過半数が賛成したとしても、 賛成票を投じたのは有権者の35%にすぎない。 意外と少ない。
このあたりが、国民投票法に最低投票率を設けるかどうかの議論の、 一つのポイントなのではあるまいか。
2009-06-18 (4) 00:51:54 +0900
関手は数学用語 functor の訳語。別に「看守」とかでもよいのだが。
2009-06-18 (4) 00:50:06 +0900
新規に禁酒を始める、と。
2009-06-18 (4) 00:49:13 +0900
これで回文になっているが、文章としては断片である。
2009-06-18 (4) 00:48:14 +0900
本文ナシ
2009-06-18 (4) 00:45:59 +0900
張り紙か何か。
2009-06-18 (4) 00:45:17 +0900
……と思う。その前の音節の子音が無声音か有声音かの差?
2009-06-18 (4) 00:43:11 +0900
でも、「はっきり」と「はきはき」、 「すっきり」と「すきすき」はあまり関係ないようだ。
2009-06-18 (4) 00:41:42 +0900
元の読み「かっせん」で変換すればできるが、 ほとんどの場合、前に別の語がついて「がっせん」と読まれるから、 「かっせん」の読みを知らない人がいることも十分考えられる。
2009-06-18 (4) 00:37:23 +0900
ナディアは人名。
2009-06-18 (4) 00:35:49 +0900
試験に受かったので気楽、と。
2009-06-18 (4) 00:34:53 +0900
イクラはTVアニメ「サザエさん」に登場する幼児の名。
2009-06-18 (4) 00:33:22 +0900
(2n+1) 人で行なう、全員が「n 勝 n 敗」のゲームを考える。
プレイヤーは 2n+1 人である。 それぞれに、n 枚のカードが、ほかの人には内容が見えないように配られる。 そこには、一枚につき一人の、自分以外のプレイヤーの名前が書いてある。 そして、Aに配られたカードのうちにBと書かれたものがあれば、 Bに配られたカードのうちにAと書かれたものはないし、 Aに配られたカードのうちにBと書かれたものがなければ、 Bに配られたカードのうちにAと書かれたものがある、とする。 このとき、プレイヤーは、適当な順番で、 自分の持っているカードをうちの一枚を開いて見せることができる。 もしもAの開いたカードにBの名前が書いてあれば、 「AはBを倒した」「BはAに倒された」と呼ばれ、 Bは以下のゲームに参加できなくなる。 こうしていって、最後まで生き残ることが第一の目標、 それまでに、なるべく多くのプレイヤーを倒すことを第二の目標としよう。 (カードを開く順番を決めていないので、 このルールではまだあいまいさが残っている。)
「三すくみ」の場合を考えよう。 X、Y、Zの三人のプレイヤーが参加する。 Xに配られたカードにYがあれば、 Yに配られたカードにはZと書かれているはずであり、 Zに配られたカードにはXと書かれているはずである。 このことは、ルールから、三人ともすぐにわかる。 XがYを倒せば、次にZがXを倒すだろう。 結果は、Zの一人勝ちである。 Xがしかけて、Zが一人勝ちだから、Xはしかけようとはしない。 Y、Zも同様である。 つまり、三人は「三すくみ」となる。 いつまでもカードを出さず、そのままの状態が続くのである。
「五すくみ」の場合を考える。 《五種類の動物間に、どれもが二勝二敗になるよう決める方法は本質的に一通り》 の表を再掲しよう。 名前を取り替えるのは別とすると、これ以外の勝ち負けはありえない。 ありえないから、この表は彼らの頭の中にあると仮定してよい。
A | B | C | D | E | |
---|---|---|---|---|---|
A | ○ | ○ | ● | ● | |
B | ● | ○ | ○ | ● | |
C | ● | ● | ○ | ○ | |
D | ○ | ● | ● | ○ | |
E | ○ | ○ | ● | ● |
CかBは残っているが、そのプレイヤーには、自分がCかBであるとわかる。 なぜなら、Aに倒されるプレイヤーで残っているのは自分だけだからである。 また、自分がCなのかBなのかもわかる。 倒されたプレイヤーを自分も倒せたならBであり、そうでないならCである。
倒されたのがBかCかで、二つの図が書ける。
E―――→A E―――→A ↑▽ ▽| ↑\ ▽| | \/ | | \/ | | /\ | | /\ | |/ \↓ |/ △↓ D←―――C D←―――B左の図のとき、CはDまたはEを倒すことができる。 その結果は三すくみになるからである。 右の図のとき、BはDを倒せない。そうすれば自分が倒されるからである。
DとEについて考えよう。自分はDかEであることはわかっている。 上の二つの図を合わせると、DとEが二つずつ現われているが、 自分がそのうちのどれかなのかは、左の図のEを除いて、わからない。 左の図のEは、倒せる相手がAのみになったことで、ほかと区別できる。
左の図で、DがEを倒すと、三すくみになる。DはAを倒してはいけない。 同じく左の図で、EがAを倒すのは不可である。 右の図で、DはEかAを倒せるし、EはAを倒せる。Bは倒せない。 まとめるとこうなる。
第一の場合 | 左の図のE | Aを倒せない | A以外で倒せるものはいない |
第二の場合 | 左の図のD | Aを倒せない | A以外で倒せる者は倒せる |
右の図のE | Aを倒せる | A以外で倒せる者は倒せない | |
右の図のD | Aを倒せる | A以外で倒せる者は倒せる |
DとEは、待つ。実は最初に倒れたのがBであって、すなわち、左の図であったら、 CがDかEを倒しにくるであろう。倒されなかったほうは運がよい。 三すくみで、生き残ることができるから。
DとEが待っても、誰も行動を起こさなければ、 それは右の図だということである。 このとき、DかEは、Aを倒して、三すくみに持ち込める。
もう一度、初めから考えてみると、 AがBを倒せば、CがDかEを倒して三すくみになり、Aは生きのびることができる。 しかし、AがCを倒すと、Bが行動を起こさないということで、 Aが倒したのがCであったとDやEにわかり、 DかEはAを倒して三すくみに持ち込める。 Aには、どちらがBでどちらがCかわからない。 よって、Aが最初に一人を倒したのは、確率二分の一で自分が死に至る行為である。 ゆえに、それは行なわれない。
これで、「五すくみ」であることが判明した。
ただし、「DとEが待つ」というところが微妙である。 どれだけ待ったらよいか、はっきりしないからである。 はっきりさせようと思ったら、AからEまでの五人の間に順番を決め、 その順で「カードを開く」か「パスする」かを選び、 というような規則を付加せねばなるまい。 複雑になりすぎるので、今夜はここまで。
2009-06-17 (3) 23:50:37 +0900
実は左の図のようになっているのに、 すなわち、Aに倒されたのはBで、Cが生き残ったのに、 Cがわざと何もしなかったらどうなるか。 上で述べた通りにDやEが行動すれば、Aはそのどちらかに倒され、 C、D、Eが残るが、CはDをもEをも倒せるので、 Cの一人勝ちになる。 すなわち、Cの戦術としては、 DかEを倒せるのに倒せないふりをすることで、 一人勝ちに持ち込める。 ただし、倒した人数は、最小の場合、Dの一人だけとなる。
だから、この追記以前に書いたことは、正しくない。 正当化するためには、「パス」をきちんとルールに取り込む必要がありそうだ。
「七すくみ」かありえるかどうか考える場合、次のような勝ち負け表がありえる。
A | B | C | D | E | F | G | |
---|---|---|---|---|---|---|---|
A | ○ | ○ | ○ | ● | ● | ● | |
B | ● | ○ | ○ | ○ | ● | ● | |
C | ● | ● | ○ | ○ | ○ | ● | |
D | ● | ● | ● | ○ | ○ | ○ | |
E | ○ | ● | ● | ● | ○ | ○ | |
F | ○ | ○ | ● | ● | ● | ○ | |
G | ○ | ○ | ○ | ● | ● | ● |
B | C | E | F | G | |||
---|---|---|---|---|---|---|---|
B | ○ | ○ | ● | ● | |||
C | ● | ○ | ○ | ● | |||
E | ● | ● | ○ | ○ | |||
F | ○ | ● | ● | ○ | |||
G | ○ | ○ | ● | ● |
n 勝 n 敗の勝ち負け表は、(2n+1)×(2n+1) 行列で、 成分が -1, 0, 1 のどれかであり、歪対称であり、 各行・各列の和が 0 であるものにほかならない。 そういうものは、行と列の同時交換を除いてどれだけあるのだろうか?
2009-06-18 (4) 19:21:02 +0900
2007 年のお正月に食べた紀文の伊達巻の包装に、そう書いてあった。 「ベタベタ」を名詞に使っているのがおもしろい。 これが一番わかりやすくていいと思う。
古いメモを整理している。
2009-06-17 (3) 00:37:39 +0900
別々の機会に覚えたので、どうも違うものをさすようなイメージが。
2009-06-17 (3) 00:22:19 +0900
二週間ぐらい前のこと。 食べられない人がいるらしく、のせてもいいですかと聞かれたが、 たぶん初めて食べるのでわからず。 たいていのものは大丈夫なので、のせてもらったら、 非常に独特の風味でおいしかった。 それは一週間だけの期間限定だったので、確か、二度食べた。 そのときはよく名前を聞かなかったので、 あとから、そのときの従業員さんにその野菜の名前を尋ねたら、 「パクチー」とのことだった。 Google で検索したら、Wikipedia の「コリアンダー」がひっかかった。 それによると、「パクチー」はタイ料理での名前で、 ベトナムでは「ザウムイ」というらしい。
和名はコエンドロ。ということは、 出エジプト記に出てくるあのマナがこの味!? と思ったが、 マナは色が、このコエンドロの実のようだ、と書かれているのであった。
2009-06-17 (3) 00:04:33 +0900
そのベトナム風ラーメンには「バミーナーム」という名前がついており、 誰かが書いた一言カードで、それはタイ風ラーメンだと知った。 Wikipedia でも「タイ料理」の項目にはいっている。
2009-06-18 (4) 00:20:29 +0900
上に書いた「バミーナーム」だが、 食堂の表示で母音の長短がこの通りだったかどうかは、 記憶がはっきりしない。「バーミーナム」だったような気もする。 「バミーナーム」は Wikipedia の記述によった。
2009-06-18 (4) 19:13:39 +0900
だいぶ以前、某ファミリーレストランに行ったときのこと、としておこう。 奥のほうに“宴会”を始めてしまっている団体があり、 そちらのオーダーが大量にはいったのか、 ほかの客の注文したものがなかなか出てこなかったことがあった。 いや、厳密にいうと、私たちはあまりそうは感じていなかったのだが、 帰り際になって、店長らしき人が出てきて、一般客のテーブルをひとつずつ回り、 事情を説明して謝っていたのだ。
きょうふと思ったのだが、宴会客というのは、少しぐらい料理がこなくても、 会話で盛り上がっているからそれほど問題がない。 「あのグループは宴会客だ」と店側が判断すると、 一般客のオーダーを先に通す、なんてやり方もできるのではないか。 その場合、その宴会客にも、そういう扱いをさせてもらいます、 と断らなければならないか。
2009-06-16 (2) 23:43:23 +0900
「『いちご白書』をもう一度」の「映画」とか、 「嗚呼玉杯に花うけて」の「栄華」とか。
2009-06-16 (2) 23:34:27 +0900
科学一般で考えれば、地動説、進化論などがそうだが、 数学で問題になったことはあっただろうか?
無限を考えてよいかどうか、 なんてのは関係してくるとも言えるのだが。 ガリレイは、自然数のうちの半分を占めるように見える偶数全体が、 自然数全体と一対一に対応する、ということをどこかに書いていたはず。 (岩波文庫で読んだ。)
選択公理は人間にできないことをするからだめ、とか、 言われても不思議はないような気もするが。
2009-06-16 (2) 23:30:21 +0900
前項、前々項で、姓など、ローマ字で書いてあるものを逆から読んで、 元のつづりでの最初の子音字は読まなければ、 ローマ字にありえるつづりになる可能性が高いわけで、 これでローマ字回文がたくさん作れるぞ、と気づき、片っ端から。
2009-06-16 (2) 23:26:36 +0900
「いや、問いだ」、と塩谷氏。
《回文>「塩谷倒し」(しおたにたおし)》 に気づいた建物の前を歩いていて、 きょうはローマ字表記が目にはいったので。 (実際にはヘボン式で Shiotani と書いてあった。)
内容的にはちょっと苦しい。
「"ina, toi sa". Siotani」(「否、問いさ」。塩谷)ともできる。
2009-06-16 (2) 22:39:43 +0900
貸さないという相手に、 村上氏が「いま力ずくでも借りてやる」と声をかけているところ。 「刈る」でもよい。
2009-06-16 (2) 22:34:26 +0900
いま岩波国語辞典第三版で「湯桶」をひいて、 私が想像していたものと全然違うことに気がついた。 入浴と関連するかと思っていた。
2009-06-16 (2) 19:29:05 +0900
「重箱」は、少なくともおせち料理のときには聞くことばで、 日本人だったら一度は聞いたことがあるだろう。 それに対し、「湯桶」は「湯桶読み」以外に聞いたことがないし、 湯桶なるものを見たこともない。
何か、「湯桶読み」に変わるいい名前はないだろうか? もちろん、 「こういうところにだけでも、古い『湯桶』の名前が残ることに意味がある」 と反対する立場の人がいるだろうということは想像している。
2009-06-16 (2) 19:24:14 +0900
それだけ。
2009-06-16 (2) 19:23:44 +0900
1999 年の理科年表を見ると、 東京の日の入りが最も遅いのは六月下旬から七月上旬にかけてであり、 同じく東京の日の出が最も早いのは六月中旬である。 それらを合わせると、最も昼間の長いのは夏至のころとなるようだが、 もう、いまごろは、最も日の出の早いとき、最も日の入りの遅いときと比べて、 三分ぐらいしか違わない。
そして、昼間はやや暑さを感じても、朝夕は気持ちのよい季節である。 このころにだけ日本に滞在して、日本の夏は快適であると誤解されると困るなあ。
2009-06-16 (2) 19:16:20 +0900
二十四節気は、 それらが古くからあることを思わせる名称がついており、 旧暦とともに使われた(ようだ)が、 実は太陽黄径が 15 度の整数倍の瞬間を意味する天文学上のことがらであり、 太陽の運行と月・日がよく一致している現行暦の元では、 「月+日」のほかにわざわざ使う意味は特にない、 よってあまり使われない、 ってことは、重要だと思うのだが、習った記憶がない。
2009-06-16 (2) 19:09:05 +0900
そのような文面の広告がはいってきた。 図面を見ると、分譲する各々の単位に南向きの部屋が少なくとも一つはある、 というだけであって、すべての部屋が南向きとは限らないようだ。
こういうとき、「全戸南向き」という場合もあったような気がする。
2009-06-15 (1) 22:24:56 +0900