すのものの「いろいろ」(その226)

朝日新聞>南極の昭和基地に「元旦」はあるのか?

4月18日日曜日づけ大阪本社版の、「南極プロジェクト」面。 《元旦には昭和基地からテレビ生中継もした》 とあるが、 一月一日には昭和基地は一日じゅう太陽が沈まないのでは? そうなら、 「元旦」(=元日の朝)という言い方はおかしいかも。

中継先は日本のようなので、日本における元旦、 という意味か? あるいは、 南極でも適当なタイムゾーンに時計を合わせていると聞いたことがあるので、 そのタイムゾーンでの朝? 日は沈まないから、 何時ごろを朝と呼ぶかは適当に決めねばならないだろうが。

2010-05-04 (2) 02:28:57 +0900

「ラインの黄金」幕切れの雷雨は、ライン川にも降り注ぐ?

ラインの乙女の三重唱に、それを思わせる箇所はなかったよな……。

2010-05-04 (2) 01:39:40 +0900

「ラインの黄金」幕切れの雷雨でずぶぬれになった少年が実はフンディング…

…ってのはどうかな? あのシーンは天上であり、 ラインの乙女の三重唱は下から聞こえてくるだけだが、 いったん視点が地上に降りるとし、 ライン川の岸辺にずぶぬれになった少年が登場。 誰かと思うと実はフンディング、ってのは、 「ジークフリート」に少年時代のハーゲンを登場させるのの二番煎じ。

2010-05-04 (2) 01:36:48 +0900

回文「雷太らは、はらたいら」(らいたらははらたいら)

漫画家だった、はらたいら氏の名前を逆から読んだだけ。

2010-05-04 (2) 01:35:16 +0900

回文「やばそなシナそば屋」(やばそなしなそばや)

「やばそな」は「やばそうな」がつまった形。

2010-05-04 (2) 01:33:13 +0900

回文「やばそうな、しなうそば屋」(やばそうなしなうそばや)

しなっていたのは、屋台をかつぐための棒か。

2010-05-04 (2) 01:32:31 +0900

うるう年の元日の曜日を順に並べると、天体を地球から遠い順に並べたもの

四年に一度、規則的にうるう年がはいる場合についてのみ考えよう。

あるうるう年の元日が土曜日だったとしよう。 その翌年の元日は月曜日、その翌年は火曜日、その翌年は水曜日となり、 次のうるう年の元日は木曜日となる。

だから、うるう年の元日の曜日は 土曜日、木曜日、火曜日、日曜日、金曜日、水曜日、月曜日をくり返す。 これは、ある時代に、太陽系内の天体を地球から遠い(と信じられていた) 順に並べたものと同じである。

曜日の由来は、一日の24の“時”に上の順で天体を割りふったものらしい。 24は7で割って3が余るから、 ある日の正子が「日」なら翌日の正子は「月」となる。

うるう年の元日の曜日は5ずつあとにずれる。 3×5=15が7で割って1だけ余る、ということに対応しているだけ。

2010-05-04 (2) 01:16:13 +0900

最初のタイトルは 「うるう年の元日の曜日を順に並べると、地球から遠い天体の順」 だった。少しわかりやすくしてみた。

2010-05-09 (0) 02:08:33 +0900

「一人あたり千円ずつ配る」には「一人が」と「一人に」の二つの意味がある

「一人が千円ずつ配る」のと、「一人に千円ずつ配る」のと。

これもネットで見てメモしておいたものだと思う。

2010-05-04 (2) 01:13:43 +0900

「ライバルに大きく差をつけられるチャンス」には正反対の二つの意味がある

一つは「つけられる」を「つけることが可能」と解釈し、自分が優位にたつもの。 もう一つは、「つけられる」を受身と解釈し、ライバルが優位にたつもの。

「つけれる」という形を使うことにしていれば、 この両者は言い分けられる。

確か、ネットのどこかで見てメモしたもの。

2010-05-04 (2) 01:10:41 +0900

報復に基くと思われる死刑賛成は多いが、「米国に報復を」と言う人はまれ

身内を殺された人が、 犯人が死刑にならずに生きているのは耐えがたいと考えることはときどき耳にする。 そういう意見に基き、死刑廃止に反対、すなわち、 死刑存続に賛成、という意見が、いまの日本では多いように思う。

一方、空襲や原爆投下で身内を亡くした人は多いだろうに、 米国に何らかの報復を、と考えている人の話はほとんど聞かない。

これらの態度に対する賛否を論じようというのではない。 また、空襲や原爆投下が国際法の上で合法だったのかどうかも知らない。 ただ、合わせて考えてみたら、不思議な感じがしたので記してみたものである。

付) 「人を殺せば死刑になるかもしれない」 と考えて殺人を思いとどまる人がかなりいるだろうからと、 抑止効果から死刑存続に賛成している人もいるだろうが、 その場合、 実際に殺人が行なわれたのに死刑が行なわれなければ効果がなくなるから、 殺人が行なわれれば死刑は行なわれなければならない。 それにならうなら、国際法違反には何らかの --- うまくまとまらないので以下略。

2010-05-04 (2) 00:49:16 +0900

ベートーベンの交響曲で、トロンボーンを最初に使ったのは「第五番」?

それは、どのみち正しい。 しかし、いわゆる「運命」と答えると、間違いかもしれない。

初演の際には、いまの「第六番」が「第五番」、 いまの「第五番」が「第六番」となっており、 その呼び方で、第五番のほうが先に演奏されたようだから、 「田園」の第四楽章が初めて、ということになるのかも。

作曲は並行して行なわれたそうだから、どちらでもよいようなものだが。

2010-05-04 (2) 00:45:04 +0900

一直線になっていても「折れ線」グラフとはこれいかに?

折れていなくても折れ線と呼んでよいことは、 直線も曲線のうちであるのと同じだが、小さい子は不思議に思うかもしれない。

2010-05-04 (2) 00:42:53 +0900

小学校の運動会の鼓笛隊で、とても覚えられそうにない曲を全員が吹かされた

リコーダーで、である。 吹けない子は吹いているまねをして音を出さなければいいのだが、それを 「吹くまねだけしている子は指が違うのでわかる」 と言っていた先生がいたっけ。

2010-05-04 (2) 00:40:05 +0900

ジークフリート歌いがローゲをも歌うことはあるが、ミーメも、は無理だ

晩年のウィントガッセンはローゲも歌っていた。 ローゲといえば性格テノールの役で、 「ラインの黄金」でローゲを歌った人が 「ジークフリート」のミーメを歌うこともあるので、 なんとなく、ミーメも歌ったらと一瞬思ったが、 ジークフリート、ローゲを歌う人がミーメも歌うのは無理だ。 (「ラインの黄金」では第三場でローゲとミーメが同時に登場するし、 「ジークフリート」はもちろんのこと。)

2010-05-04 (2) 00:28:10 +0900

ロマ書の「私は福音を恥としない」を「復員を恥としない」と思った人は…

…いないだろうか。 戦争から生きて帰ってくるのは恥ずかしいことと思わされていた時代に。

口語訳 1,16 は「わたしは福音を恥としない」だが、 タイトル行では文字数の節約のため「わたし」を「私」とした。

この機会に、原文にもあたった。

2010-05-04 (2) 00:22:13 +0900

字音かなづかいでは、「福音」は「ふくいん」、「復員」は「ふくゐん」。

2011-11-09 (3) 19:57:53 +0900

カーソルって何語から日本語にはいったんだろう?

英語なら「カーサー」と聞こえるだろうが、 つづり字にひかれて後半の -sor を「ソル」と音写した時代のものか。

ラテン語にまったく同じつづりの語 cursor があることは、初めて知った。 どちらも短母音なので、発音は「クルソル」となる。

英語の発音どおりの「カーサー」「カーサ」はわかりづらいし、 ラテン語の「クルソル」は「ル」を二つ含むため発音しづらい。 その中間の、ちょうどよい和製英語になった、と言えようか。

2010-05-04 (2) 00:03:12 +0900

子どものころ、仏語では「コンコルド」だが英語では「コンコード」と覚えた

そのころ、最新でかっこいいものだったのだ。 プラモデルも買ってもらって作ったっけ。

私が、フランス語と英語とで発音が違うことがある、 ということを知った最初の例、かもしれない。

2010-05-03 (1) 23:49:26 +0900

ベートーベン「交響曲第九番」にはなぜ F 管のホルンが使われていない?

短調の交響曲で、平行長調のホルンを使う例は、 モーツァルト「交響曲第四十番」とか、 ベートーベン「交響曲第五番」とか。

2010-05-03 (1) 23:43:38 +0900

「理性的」と「感情的」は対になるが、「理性」は能力なのに対し「感情」は

……そうではないようだ。 理性って何だろうとふと思い、国語辞典を見てみると、 「……する能力」のように説明されている。 人間のもつ能力の一つなのだ。 それに対し、「感情」はそうではない。だから、 「理性」と「感情」は対にならないと思うが、 「理性的」と「感情的」は対になっている、と思われているようだ。

2010-05-03 (1) 19:02:42 +0900

最近、チョークのことを「白墨」と、老人語を使って呼びたくなる

学生との年齢差が開き、 自分が学生だったころは使わなかった「白墨」という語を使うことで、 学生との“差別化”をはかろう、という意識が働くのかもしれない。 東京にいたときは決して使わなかった「来(き)られて」を、 ここ金沢ではときどき使うのと似ているか。

(老人語の例として、文末の「じゃのう」などがあげられるが、 ある時点でそれを老人語だと言って笑っている若い人も、 年をとるとその語を使うようになるのか、 それとも、時代の変化に伴う日本語の変化のため、 若い人が若いときに使っていた語が、 その若い人が老人になったときの若い人から見ると古くさい語に見えるのか。 そういう疑問があった。)

2010-05-03 (1) 15:36:12 +0900

英和辞典は、英語以外から日本語にはいった語はその説明を載せると親切かも

前項に関連。 英和辞典の centimeter の項目に、 「日本語の『メートル』はフランス語 mètre から (直接はいった語なので、英語は発音がかなり異なっている。注意。)」 と書いてあったら、親切かもしれない。 (本来は日本語の辞典が書くべきことで、余計だとは思うが。)

2010-05-03 (1) 15:13:02 +0900

NHKラジオ「基礎英語3」>「センチメートル」をカタカナ英語と説明

4月29日木曜日、21時45分からの「ラジオ英会話」を録音しようと、 少し前からラジオをつけていたら、前の番組、 ラジオ「基礎英語3」で、「おやっ」と思うようなことを言っていた。 しかし、録音していなかったので、聞き間違いの可能性もあり、 ここには書かなかった。

きょうから一週間、インターネット上でストリーミングで聞けるので、 確認してみた。 13分15秒ほどからの「Sound Practice」で、 講師の先生が 「きょうは、カタカナ英語との発音の違いに注意して練習しましょう」 と言い、ゲストが「centimeter」と発音。続いて先生が 「この単語は、日本語では『センチメートル』と言いますが、 英語では centimeter と発音します」と説明された。 (講師は文教大学国際学部国際理解学科准教授の阿野幸一氏。)

これでは、聴取者が、 「センチメートル」がカタカナ英語、すなわち、 英語からの外来語であるが発音が変わってしまったもの、 と思い込みかねない。 発音が英語と大きく異なるのは後半の「メートル」だが、 これは国際単位系の長さの単位の一つで、 国際単位系のほかの単位名と同じく、フランス語からきている。 いくつかの国語辞典はそのことを書いているが、書いていないものもある。 フランス語の mètre をカタカナで写すなら、 「メートル」か「メトル」であろうから、この音写は間違っていない。 ただし、「センチ」は、フランス語の発音に従うなら、「サンチ」、 あるいはいまなら「サンティ」となるところであろう。

英語以外から日本語にはいった外来語でも、 英語学習者が英語であると誤解しやすいものは、 原音をよく保存しているかどうかにかかわらず、 「カタカナ英語」あるいは 「和製英語」と呼ぶ、というなら「メートル」もその一つだが、 この定義には、私は賛同しない。 これでは、 「パン」や「ア・プリオリ」までもが和製英語になってしまう。

やはり、 「日本語の『センチメートル』はフランス語からはいったものです。 英語では centimeter と発音が変わっていますので、 英語を話すときにはそのように発音しましょう」 と説明すべきではあるまいか。

付) 仏和辞典で確認したところ、mètre と動詞 mettre とは発音が同じだ。

付) フランス語からさらにさかのぼれば、ギリシア語の metron などに至るだろう。

2010-05-03 (1) 13:35:48 +0900

ベートーベン「交響曲第六番」第五楽章コーダで D 上の短三和音が鳴る

第一・第三・第五楽章はヘ長調、 第二楽章は変ロ長調、第四楽章はヘ短調である。 ニ短調は、ヘ長調の並行調だから、現れてもよさそうだが、 ニ短調になるところは見当たらない。 それどころか、D 上の短三和音が鳴るところも、なかなか見つからない。 スコアを第一楽章から見ていって、第五楽章も終わりに近づき、 一箇所もないのか!? と思ったら、コーダにあった。 190-191 小節は F-dur の主和音で、 192-193 小節が、D 上の短三和音だ。その次の 194-195 小節は G の上の長三和音に第七音の F も重ねたもの。 だから、ニ短調になったわけではない。 似たことがもう一度くり返されるので、221-222 小節も D 上の短三和音だ。

作曲家にとって、調性の間の相対的感覚は、十二音すべてについて平等か?》 に関連する。

付) この部分は、ベートーベンのコーダに見られる、 一仕事をなしおえたときのような爽快感が感ぜられる部分である。 その代表例は「バイオリン協奏曲」の第三楽章 329 小節からであろう。 ここも、D-dur の主和音から第六音 H の上の短三和音、 第二音 E の上の長三和音に第七音の D を重ねたもの、と移っている。

2010-05-03 (1) 03:07:30 +0900

第一楽章の第 57 小節から第 58 小節の頭にかけて、 および、 第 332 小節から第 333 小節の頭にかけて、 は D の上の短三和音であった。 第一主題から第二主題に移るところで、 クラリネット、ファゴット、ホルンなどが三連符で奏する。

2010-08-16 (1) 01:08:57 +0900

勝間和代>「逆数に比例」より「反比例」のほうが日本人には通じやすかろう

1日土曜日づけ朝日新聞大阪本社版 be on Saturday の b9 面掲載の、 「勝間和代の人生を変える『法則』」。 今回の『法則』は 「年を取れば取るほど、人は我慢強くなる――ジャネの法則」である。

なぜ私たちは年を取れば取るほど、時間の流れを早く感じるのかということを、 この法則は「心理的な時間の長さは、 これまで生きてきた年数の逆数 (0を除く数Nの逆数とは、Nで1を割ったもの。 5の逆数は5分の1)に比例する」とまとめています。

「逆数に比例する」は「反比例する」と同等で、 日本では「比例・反比例」として小学校で学ぶのだから、 「反比例する」と書くほうが、読者にわかりやすいし、 逆数の定義にあてた文字数だけ、 ほかのことを書けて、よかったのではあるまいか。 文字数の限られたコラムなのだから、 そこまで厳密に引用する必要はないと思う。 また、「0を除く数N」ははっきりしない言い方で、 普通には「0以外の数N」だろう。 また、「早く」もここでは「速く」が普通だろう。

すなわち、同じ1年でも、10歳の子どもの頃に感じる時間の心理的な長さは、 40歳の頃に感じるそれと比べると、10分の1対40分の1で、 4倍も長く感じられるということです。

「反比例する」と言っておけば、小学校で 「二つの量が反比例するとき、片方の量が四分の一になれば他方は四倍になる」 ことを習っているのだから、 「10分の1対40分の1で」が不要となる。 「4倍も長く」も気持ちの悪い言い方で、 5倍になるようにも感じられてしまう。 「4倍の長さに感じられるということです」だろう。

付) 「年数」とあるところを「時間」としても成り立つと仮定すると、 生まれてからの“体感”時間は 1/t を 0 から現在まで積分することになり、 無限大となる。

付) もしかして、フランス語には反比例という言い方はないのか、 と心配になり、和仏辞典を見てみたら、あった。 英語では「x は y 以下である」という言い方はないようで、 x is smaller than or equal to y などと言うことになるが、 これを「x は y 未満であるかまたは y に等しい」と訳すのは不適切であろう。 それと同じようなことかと思ったのである。

2010-05-03 (1) 01:54:26 +0900

「x は y 以上である」と間違って書いていたのを訂正した。

2010-05-10 (1) 02:58:24 +0900

デパートの屋上の神社は、その敷地内にあったのを移したもの、と思っていた

東京にいたころ、ある特定のデパート --- どこかは忘れてしまった --- の屋上にだけ神社があるのだと思っていた。 そして、それは、神社があった土地を買ってデパートを建てたから、 その神社を屋上に移したのだ、と思い込んでいた。 そう聞いたのかもしれない。

実際には、多くのデパートが、 縁起を担いで神社を屋上においているらしい。 金沢の香林坊大和の屋上にもある。

2010-05-03 (1) 01:51:01 +0900

「乗り遅れ」と「海苔をくれ」と「ノリオ、くれ」はみな同音

それだけ。

2010-05-03 (1) 01:49:36 +0900

金沢は兼六園からの眺望を妨げる建物を許さないが、音に関しては無関心…

…な気がする。 先週の日曜日だったか、 改装され新たに公開された「しいのき迎賓館」周辺で大きな音を出していた。 私は兼六園にははいらなかったが、その手前でも音楽が聞こえていたから、 おそらく、兼六園の中にも響いていたと思う。

兼六園>山崎山の裏の道は地下に移したら“音の風景”がよくなるのでは》 も関連。

2010-05-03 (1) 01:42:41 +0900

「ダルマ大師」と「マグマ大使」は響きが似ている

先週だったか、 香林坊大和6階で「ダルマ大師」という題の絵を売っているのを見て。

2010-05-03 (1) 01:38:52 +0900

「ド・モルガン」は De Morgan とつづり、「ディ・モーガン」と発音する

de Morgan というつづりを想像し、フランス人だとばかり思っていたが、 イギリスの人だ。リーダーズ英和辞典によると、de の部分の発音は [di] である。 しかも、正しくは De Morgan と、最初の d を大文字でつづるらしい。 Wikipedia の英文版もそうなっている。

2010-05-03 (1) 01:26:01 +0900

食卓にきた小バエを、湯飲み茶碗の下に閉じ込めたら、熱で死んでいたっけ

だいぶ昔のこと。 食卓にきた小バエを、 殺すのはかわいそうだが食事中に飛び回ってほしくないと考え、 湯飲み茶碗の下に閉じ込めた。 食事後、逃がしてやろうと湯のみ茶碗をどけたら、 熱で死んでいた。

2010-05-03 (1) 01:22:46 +0900

回文「黒酢の図録」(くろずのずろく)

本文ナシ

2010-05-03 (1) 01:20:58 +0900

「月の沙漠」の歌を、月面の砂漠の歌と思わないのはなぜだろう?

普通に解釈したら、 月面にある砂漠をらくだに乗って行く歌と思うのではあるまいか。

2010-05-03 (1) 01:15:03 +0900

売っていたJRの東京近郊路線図は、横須賀線に武蔵小杉駅ができる前のもの

金沢市の大和百貨店8階で、連休中、鉄道模型展をやっている。 きのうの日曜日に行ってみたら、鉄道関連商品の販売もしており、 いつもは7階の文具売り場にいる女性の店員を見かけた。 JRの東京近郊路線図 --- 電車のドアの上にはってあるものと同じものと思われる --- が2000円だったので、一瞬買おうかと思ったが、 横須賀線・湘南新宿ラインに武蔵小杉駅がない。隅に小さく、 確か 2004 年の何月かと読める日付が印刷されていた。 その店員さんに尋ねてみたら、この商品の日付はすべて同じだそうだ。

少し前の、もう使えなくなったものを、 “払い下げ”している売っているのだろうか?

2010-05-03 (1) 00:53:45 +0900

ここから先はこれからアップロードする。

2010-05-04 (2) 03:10:46 +0900

「付加疑問文をつける」のではなく、「付加疑問文にする」のかな?

前項などで、「付加疑問文をつける」と書いた。 頭の中では「isn't it?」などの部分を付加疑問文と呼ぶととらえていたのだが、 そうではなく、これらの句をつけて「付加疑問文にする」というのが正しい?

2010-04-30 (5) 01:12:14 +0900

「I am a boy.」に付加疑問文をつけるとどうなるんだっけ?

「You are a girl.」に付加疑問文をつければ「You are a girl, aren't you?」 となる。are と not がくっついた aren't を使うわけだ。 同じようにしようとすると、 am と not がくっついた形が……と書きかけて、 aren't のつづり字を確かめるためジーニアス英和辞典をひいてみたら、 そこに、正式には「am I not?」だが、ほかの言い方もなされる、と書いてあった。

2010-04-30 (5) 01:04:39 +0900

英語の口語文はほとんど書かないので、isn't などのつづりに自信がない

前項を書いていて。

論文を書くときには is not と書く。 isn't はラジオの英語番組などで耳にし、テキストで見ることもあり、 自分で話すときも使うが、書いてみると自信がなく、辞書で確かめてしまった。 大学入試の際、一応は覚えたのだろうか? それとも、 英作文では思い出せなければ is not と書くことが許された? 「is not の短縮形を書きなさい」というような問題は出なかった?

2010-04-30 (5) 01:03:20 +0900

「全然」を否定で受けないのはそこに省略があるからと考えることについて

28日水曜日づけ朝日新聞大阪本社版「オピニオン・声」面、「声」への、 広島市安芸区の大学教員、山田純さんの投書、『「全然大丈夫」は正しいか?」。

ちょっと前のNHKの番組で取り上げられたのだそうだ。 私は三月末に実家に滞在していたとき、予告を見ただけで、 番組そのものは見ていない。 投書の中ほどの、全体の二分の一ほどを引用する。

本来、「全然」と結びつくはずの「ない」が表層に表れなくても、 コミュニケーションの上では支障がないという事実に、 多くの人が気づいていません。 たとえば「寒いですか」に「全然(寒くないです。)大丈夫」のように、 括弧(かっこ)の中は省略できるのです。 言語活動においては、発話上の省エネなどのため、 重要度の低いもの、自明なことは省略される傾向があるのです。

会話では、「全然」のあとにポーズを置くか、 上がり調子になることが多いようです。 文字表現では「全然、大丈夫です」 のように、読点を入れるのが分かりやすいかもしれません。

そうではなく、全く普通に「全然大丈夫」と言うのを聞くことがある。 また、「寒いですか」ではなく「大丈夫ですか」との問いかけに 「全然大丈夫です」と答えることも、いまではあるだろう。 だから、 そこに否定表現が省略されていると考えずに話し、 聞いている人が多いのだと思う。

また、本来のことばづかいから変化したものを、 「何かが省略されている」と考えることを許すなら、 すべての変化はそれで説明できてしまうだろう。 すなわち、それは説明になっていない、と私は考える。

「食べれる」はまだ正式な言い方ではないと思われているようである。 「私は納豆を食べれます」を 「私は納豆を食べ(ることができると思わ)れます」 の省略形と説明したら、そんなバカな、と言われるだろう。 (これは屁理屈に近い例である。)

日本語でうまい例が思いつかないのだが、 仮に、英語の付加疑問文がすべて「isn't it?」になったらどうだろう、 と想像してみる。 正しくは、「He went to the station yesterday.」に付加疑問文をつければ 「didn't he?」になり、 「You don't want to go to the station.」に付加疑問文をつければ 「do you?」になる、とは中学生のときに習ったことである。 でも、 「付加疑問文をつけなさい」 という問題が出たら間違えずに付加疑問文をつけられるということは、 付加疑問文の形は一つに統一しても、機能上は問題ない、ということだ。 そこで、区別するのがめんどうという人が増え、 付加疑問文のすべてが「isn't it?」になってしまったと仮定してみよう。 そのとき、 「He went to the station yesterday, isn't it?」を 「He went to the station yesterday(. It is right), isn't it?」 のカッコの中が省略されている、と考えるのは理屈に合わないだろう。 そうではなく、すべてが「isn't it」にまとまったのだ、 と事実に即して説明しなければなるまい。

2010-04-29 (4) 19:17:37 +0900

きょうの補筆箇所

2010-04-29 (4) 02:53:13 +0900

小児運賃の切符を、目的地まで“通し”で買うと高くなる場合があった

小児運賃で電車に乗っていた、小学生のときのことである。 もよりの私鉄の駅から国鉄の乗り換え駅までが30円。 そこから国鉄で30円のところへ通う機会があった。 別々に買うと、確か国鉄は10円未満の端数を切り捨てるので10円。 それに私鉄運賃の15円を足して25円。 それが、もよりの私鉄駅で目的地までの切符 --- 一枚になっている --- を買うと、30円の半額で15円だった。

あの5円はどこへ行っていたのだろう? “通し”の切符を販売する手数料として、 私鉄にはいっていたのかな?

2010-04-29 (4) 02:44:20 +0900

バス内で「5円の端数は」の「端数」に下点をつけた運賃案内を見た

小児運賃は大人の半額だが、5円の端数は切り上げる、 という内容の部分でのことである。 「端数」と書いて「はすう」と読むが、 湯桶読みになるからか、「は数」と書かれた運賃案内も見たことがある。 その場合、「5円のは数は」では読みにくいので、 「は数」の二文字の下には、それぞれ点が打ってあった。

5円のは数は
   ・・
といった感じである。 「端数」と漢字で書く場合にはその下点は不要だと思うが、 意味がわからずにそのまま残したのではあるまいか、と想像した。

2010-04-29 (4) 02:38:33 +0900

朝日新聞>信仰していなければ、神社の祭りの寄付を拒んでもよいと思うが

17日土曜日づけ朝日新聞大阪本社版 be on Saturday の b10 面、 「be between 読者とつくる」。今回は「近所づきあい、してますか?」。

愛知県に住む会社員女性(48)は、 結婚して夫が生まれ育った農村地域に移り住み、 もう20年くらいになる。

恒例行事の神社の祭事では神楽が奉納され、 地元の人は小さいころからお囃子(はやし)や舞などを習って育つ。 「隣組」制度が今もあり、 葬式などはお互いに手伝う習わしだ。 「最初は戸惑いや面倒を感じることもあった」

だが、はっぴ姿で篠笛(しのぶえ)を吹く子どもたちや、 50歳を過ぎた夫が祭りで若返る姿を見て、 「面倒があっても、伝承すべきものがある昔ながらの土地っていいな」 と感じるようになった。

とはいえ、だんだん新興住宅地が増え、 祭りの寄付を拒むような「新住民」も増えている。

祭りの寄付を拒むような「新住民」》 という書き方に、記者の非難が込められているように読めるのだが、 私は、信仰していないから寄付しません、 という考えもあって当然だと思う。 そもそも、これは近所づきあいの問題ではないだろう。

渡部薫》と署名あり。 《20年くらい》は原文のまま。私は「ぐらい」と言うが。

2010-04-29 (4) 02:15:43 +0900

Cr関数の定義における「r-1 階までの導関数が連続」の意義を見落としていた

先日、学生のセミナーを聞いていて、数十年のあいだ、 とんでもないカン違いをしていたことに気がついた。

Cr関数の定義は、 「r 階までのすべての偏微分が可能であり、r 階までのすべての偏導関数が連続」だが、 “r 階まで偏微分可能だから、r-1 階までの偏導関数が連続なのは当然で、 連続性を確かめるのは r 階の偏導関数だけでよい”、と思い込んでいたのだ。

xy 平面上のすべての点で偏微分可能だが原点で連続でない関数の存在、 および例は、当然、頭にはいっていたのだが。

最初に一変数関数で Cr の定義を習ったのなら、 そのときは r-1 階までの導関数の連続性は不要であり、 それが多変数の場合にも成り立つと思い込んだ可能性があるが、 Cr を習ったのは大学一年生の「解析」の時間で、 初めから多変数で習ったから、言いわけできないよな……。

2010-04-29 (4) 01:22:47 +0900

勝間和代>「人はおのずと得意なものへ特化する――比較優位の法則

17日土曜日づけ朝日新聞大阪本社版 be on Saturday の b9 面掲載の、 「勝間和代の人生を変える『法則』」。 今回の法則はタイトル行に引用した。

以下の引用中の「……」は、 一つの段落の中に私のコメントをはさむために置いたものである。 引用の終わりの「……」はまだ段落が続くことを意味する。 その次の引用の初めには「……」をおき、前から続いていることを示している。 なお、本項全体では、段落単位での引用を行なっている。 段落内での省略はない。また、引用の順序は原文の順序の通りである。

例えば、 Aさんは1年間にリンゴなら90個、ミカンなら30個を、 Bさんはリンゴなら20個、ミカンなら10個を生産可能だとします。 Aさんがミカン1個を生産する場合、 リンゴ3個分の生産をあきらめる必要があります。 ……

ここでまずわからなくなり、しばらく考えてしまった。 なぜ、あきらめる必要があるのだ?

…… これを「機会費用」と呼び、Bさんがミカン1個を生産する場合、 それはリンゴ2個です。 このリンゴの機会費用を見ると、Aさんはリンゴ生産、 Bさんはミカン生産がそれぞれ比較優位になります。

最初の「これ」が何を指しているのかがわからないので、 「機会費用」の意味が理解できない。 最後の「比較優位」は、 引用しなかった前の部分でかぎカッコつきで導入されており、 常識で理解してよいのだろう。

そして、2人は分業した方がいいのです。 例えば2人がリンゴとミカンを半分ずつ作ると、 Aさんはリンゴ45個とミカン15個、 Bさんはリンゴ10個とミカン5個を生産できるので、 合計はリンゴ55個とミカン20個。 ……

ここを読んで初めて、 Aさんは一年間に最大でリンゴ 90 個、ミカン 30 個の合わせて 120 個を生産できるのではなく、 「リンゴの数/90 + ミカンの数 /30 ≦ 1」が、 Aさんが一年間に生産できるリンゴとミカンの数についての条件だった、 とわかった。

…… しかし、Aさんが得意なリンゴを60個に増やしてミカン10個を作り、 Bさんがミカンだけ10個作ると、合計はリンゴ60個とミカン20個。 総生産が増えます。

さらに、 AさんとBさんの間でミカン1個に対してリンゴ2・5個の比率で取引し、 Bさんがミカン5個をAさんに売ると、 ……

ここでわからないのは、「取引し」と「売ると」の関係である。 それは別々の行為なのか?

……Aさんには47・5個のリンゴと15個のミカンが、 Bさんには12・5個のリンゴと5個のミカンが手元に残ります。 ……

ここを読んで、計算して、それでやっと、 「取引し」と「売ると」を合わせて、 「Bさんのミカン5個とAさんのリンゴ12.5個とを交換する」 の意味であったことがわかる。

…… リンゴの機会費用に換算すると、Aさん92・5個、 Bさん22・5個と手に入るものが増えます。

ここで初めて、「機会費用」の意味がわかってくる。 特定の製品を選んで決めておき、 あるものを生産するために必要な仕事の量を、 “それを生産するためには、 その特定の製品の生産をどれだけあきらめなければならないか” であらわしたものことを言うようだ。 ここではその特定の製品としてリンゴを選んでいる。 ミカン 1 個は、 Aさんにとってはリンゴ 3 個に、 Bさんにとっては 2 個に相当すると考え、 リンゴの数に足すのである。

最後の「増えます」は、何と比べてなのかがすぐにわからなかったが、 上に書いた不等号で等号が成り立つように生産するなら、 Aさんの生産するリンゴとミカンは“リンゴの機会費用”に換算して 90 個、 Bさんについては 20 個で、 それぞれがリンゴとミカンを何個ずつ生産するかにはよらないと気づけば、 それと比べて、であることがわかる。

付) リンゴとミカンのどちらを基準にしたかで有利・不利が違って見えるのでは、 との疑問がわくが、そうではない。 リンゴやミカンが、 一年間の労働のどれだけにあたる価値があるか、で考えてみよう。 Aさんにとってリンゴ1個は 1/90, ミカン1個は 1/30 の労働に当たる。 Bさんにとっては 1/20 と 1/10 である。 Aさんのリンゴ 12.5 個とBさんのミカン 5 個を交換したわけだが、 Aさんにとっては 12.5/90 = 5/36 の労働に当たる品を渡して 5/30 = 1/6 の労働に当たる品を得たから 1/6 - 5/36 = 1/36 の得になり、 Bさんにとっては 5/10 = 1/2 の労働に当たる品を渡して 12.5/20 = 5/8 の労働に当たる品を得たから 5/8 - 1/2 = 1/8 の得になる。

2010-04-29 (4) 00:00:46 +0900

この新聞が出てきたので,読み直して,補足

その1. たとえば,リンゴは 30 個単位で作るので 61 個でも 90 個でも同じ, という場合が考えられる。

その2. 「Bさんのミカン5個とAさんのリンゴ12.5個とを交換する」 とあるが,これが両者にとってベストの比率なのだろうか? A さんにとってはリンゴ 1 個はミカン 3 個, B さんにとってはリンゴ 1 個はミカン 2 個なので,その間をとったというだけ?

2018-09-16 (0) 12:50:25 +0900

きょうの補筆箇所

2010-04-28 (3) 03:03:47 +0900

回文>「Haida, bon'on --- Obadiah」(灰田、梵音 --- オバデヤ)

オバデヤを使って無理やり回文にしたもの。意味はない。 また、このローマ字回文においては、アポストロフは無視することにした。

2010-04-28 (3) 02:49:33 +0900

回文>「Aduma, muda.」(吾妻、むだ。)

吾妻を Aduma とつづるから、これは日本式ローマ字である。

2010-04-28 (3) 02:47:47 +0900

回文>「だまされて『テレサまだ?』」

テレサは女性名。

2010-04-28 (3) 02:46:50 +0900

回文>「Erika akire」(エリカあきれ)

エリカは女性名。彼女があきれたのである。

2010-04-28 (3) 02:44:34 +0900

修理に出していたパソコン内にあった「いろいろ」とのマージ作業を行なった

パソコン不調のため、しばらくお休みしていました》 にちらっと書いたが、 その前にこの「いろいろ」を書いていたパソコンの調子がおかしくなり、 ファイルを取り出せなくなってしまった。 しかたがないので、別のパソコンを用いて、 biglobe にアップロードしてあったものをすべてダウンロードし、 それを元に書き進めていた。 修理が終わり、ファイルが取り出せたので、 故障発生前の最後のアップロードから故障の瞬間までに書いていた分を、 マージした。 Vz や emacs のような、画面を分割して二つのファイルを開き、 比較することのできるエディタが手元にないので、 ちょっと相違が多いとすぐにあきらめる fc をだましだまし使って。

その際、この「いろいろ」のすべてのファイルについて、 修理から返ってきたパソコン内のものと、アップロードされていたものとを比較した。

前のパソコンがおかしくなった瞬間には、 かな漢字変換で(いわゆる)日本語入力をしていた、 ということだけを記憶している。 確か、この「いろいろ」の原稿を書いていたのだと思うが、 書きかけの項目はセーブされていなかった。

なお、次の二組は、ほぼ同じ話を二つの項目で書いたことになる。

2010-04-25 (0) 03:39:24 +0900

修理から帰ってきたパソコンの中を、もう一度よく見てみた。 2010-03-23 00:11:46 に前の項目 《朝日新聞「ひと」>皇族の場合はこのコーナーでも「さま」をつける》 を下書きから“本物”へと移動している。 その項目のタイムスタンプは 2010-03-23 00:08:55 +0900 である。 次の項目を書くため、一時的にタイムスタンプを格納するファイルを作り、 そのファイルから下書きへとタイムスタンプを移動し、 その一時ファイルをサイズ 0 にしたのが 2010-03-23 00:13:34 である。 検索機能で、 「.」を名前に含むファイルでその日に更新されたものを抜き出して時刻順に並べてみたら、 一番新しいファイルは 2010-03-23 00:14:08 であった。 この30秒間に何を書いていたかは、思い出せない。 パソコンの具合が悪くなったとき、 一番大切なことは、 どうやったらまたパソコンが動くようになるか考えることではなく、 何を書いていたかを覚えておくこと、と悟った。

2010-05-06 (4) 23:55:16 +0900

iチャネルの「おこのみチャネル」って有料サイトへの宣伝目的が多いような

パケット通信料はかかるが、登録そのものは無料なので、 適当にいくつか登録している。 が、実質的には有料サイトの宣伝目的でおかれている、というようなところが多い。 月あたり 315 円や 525 円で、不当な価格ではないと思うが。

「幻想キセカエch」は、 「幻想的で美麗なきせかえツール、 Flash®待受を無料ダウンロード!」 とあるので登録してみたが、 最初のページの「無料プレゼント」をクリックし、 よさそうなのダウンロードしようとすると、 「ダウンロードにはマイメニュー登録が必要です」と出る。 これは有料ということだ。 いろいろ探しまわって、 ようやく「無料オタメシ」にたどり着いたが、 「download」とある少し下に、 「必ず利用規約をお読み頂き、 ご承諾いただけましたらダウンロードを押してください」 とある。利用規約には、情報料がかかると書いてある。 登録にはパスワードが必要なのが普通だと知っているので、 パスワードさえ打ち込まなければ大丈夫だろうと、 とりあえず「download」を押してみる。 すると「無料オタメシ」と書かれたページに 「download」と書かれたリンクが。 それを押すとダウンロードが始まってしまった。

本当に無料なのかは、9時ごろになって料金案内が更新されればわかる。

2010-04-25 (0) 00:05:51 +0900

翌日確かめたところ、無料とわかったので、 無料のものはすべてダウンロードしてみた。 そう思ってからいろいろ見ていると、 無料のものはページの最下部にあることが多い。 そりゃそうだな。その上にある見本は商品の広告ということになるわけで、 それを見てくれた人にだけ、無料サービスしましょう、 よかったらお金を払って商品を買ってください、 というのが趣旨なんだから。

使えるのは四月末までと書かれたのもあった。 時計表示ができるぐらいだから、携帯電話から日時を受け取り、 それ以降はまっ黒な画面になるとか、なるのではないかと想像される。 グロ画像とかに変わったら嫌だな、と思ったので、 いま携帯電話の時計を五月にして試してみた。 上に白い霧がかかったようになって絵がかろうじて見えるぐらいになり、 サイトの URL が出て、要するに広告に変わるもの、 まっ白になるもの、などがあった。

2010-04-28 (3) 02:04:33 +0900

追記部分の冒頭に「翌日」と書いたが、 「その日の9時をすぎてから」、の誤りである。 その間に睡眠をとったので、カン違いした。

2010-04-29 (4) 02:50:44 +0900

ベートーベン「第五交響曲」第三楽章>二度目のスケルツォは再現ではない

前に 《ベートーベンはスケルツォの反復時を“展開部”にすることは考えなかった?》 を書いた。

スコアを見て考え直してみたら、 「交響曲第五番」の第三楽章のトリオのあとのスケルツォの再現では、 一度めのスケルツォのメロディーで全くそのまま再現されるものは見当たらない。 モーツァルト「交響曲第四十番」のフィナーレ第一主題に似た第一主題は、 一度めと異なり、休符がはさまる。 運命の音型は、一度めは最後の音が付点二分音符だったのが、 四分音符になっている。 全体に休符が増え、不気味さが増している。

その観点からすると、 ベートーベンのスケルツォの中でもっとも異色のもの、 と言えるのかもしれない。

2010-04-24 (6) 23:51:17 +0900

ベートーベンの交響曲で題名のついたものは第一楽章に序奏がない

最近は「運命」と呼ばなくなってきているようだが、それを含めて 「英雄」「運命」「田園」「合唱」としても、すべて第一楽章に序奏がない。

逆に、題名のないものは、 第八番を除いてすべて第一楽章にゆっくりとしたテンポの序奏がある。

2010-04-24 (6) 23:42:59 +0900

回文>「No-side, Edison.」(ノーサイド、エジソン。)

当然、ネット上にもう書かれているが、Google で約 10,000 件にすぎない。 そのうえ、最初のほうの三十件を見た限り、 回文であることに触れているのは日本語で書かれた一件のみ。 これ全体を何かの名前にしていると思われるページが多い。 回文であることはもう十分に知られていて、だから名前につけたのか。

2010-04-24 (6) 22:51:19 +0900

NHK「ラジオ英会話」>ニュースの聞き取りで、企業名が実名で出た

今週の月曜日の放送分にカーナビメーカーのクラリオンとパイオニアが、 火曜日の放送分に旅行代理店のJTBが、それぞれ実名で登場した。 実物のニュースを(吹き込みなおして)使っているからだが、 少し前までなら、企業名がはいるニュースは避けていたのではあるまいか。

前にも、 《フランス語講座応用編>九月 17 日(金)分》 で i-mode とか NTT-DOCOMO とかがインタビューに出てきたが、 テレビ「フランス語会話」で、 Ananda がホテルにチェックインするシーンの会話では、 ホテル名が仮名になっていたような気が。

2010-04-24 (6) 22:37:31 +0900

NHKラジオ「実践ビジネス英語」>George Bernard Shaw を日本語式に発音

番組最後の Quote ... Unquote の人名を杉田敏先生が英語式に発音されるか、 それとも日本語式に発音されるか、だが、 22日木曜日放送分の George Bernard Shaw は日本語式に、 すなわち「ジョージ・バーナード・ショー」と読まれた。

日本で日本式発音が定着している場合は日本語式、ということか。 前に Edison が登場したときは英語式だったような気がするので、 定着している日本語式が英語の発音と大きく違わない限り、 という条件がつくか。

2010-04-24 (6) 22:32:24 +0900

12日水曜日放送分では、英語として発音された。

2010-05-13 (4) 23:02:58 +0900

音楽之友社と全音のベートーベン「交響曲第五番」のスコアを比べてみた

いま、前々項への追記を書くに当たって、 音楽之友社と全音のベートーベン「交響曲第五番」のスコアを、 初めて並べて比べてみた。 いままでは、 これらは海外で発売されていた古いスコアを複製したもので、 この曲に関しては元になったスコアは同じ、と思い込んでいたが、 よく見ると、前者では立っている四分休符が、後者では右に傾いている。 さらによく見たら、後者で四分休符が右に傾いているのは、 第三楽章と、第一楽章の再現部第一主題まで、 第四楽章再現部の第二主題途中から、 だけだ。第二楽章は八分の三なので四分休符は現れない(ようだ)。

ほかに、タイ、付点、スタッカート記号などの位置が異なる。 別物だったのだ。 どの小節で切って次の段・次のページとしているかは全く同じだと思うが。

あと、紙の大きさは同じだが、全音のほうが印刷が小さい。

2010-04-24 (6) 20:56:03 +0900

ベートーベン「交響曲第五番」第一楽章で、冒頭のみビオラがあの旋律を弾く

冒頭の、あまりに有名な八つの音のあと、 第一・第二バイオリン、ビオラの掛け合いでメロディーが始まるが、 ビオラが参加するのはここのみのようである。 再現部の対応する箇所では第一・第二バイオリンのみで奏され、 ビオラは伴奏にまわる。 展開部冒頭では第一・第二バイオリンとクラリネットでビオラは伴奏。 コーダの最後の最後は第一・第二バイオリンで、 ビオラは沈黙している。

しかも、提示部冒頭のこの箇所では、6小節にわたって、 ビオラは第二バイオリンよりも高い音を弾いている。 ものすごく珍しいことではないが。 当時のオーケストラの配置を考えて、のことだろうか。 「交響曲第九番」スケルツォ冒頭のフガートはそうだと読んだことがある。

このスコアは中学一年生の音楽の授業で配られた、 すなわち、みんな買わされたものだが、 いままで気づいていなかった。

2010-04-24 (6) 19:15:22 +0900

ベートーベン「交響曲第五番」でトランペットだけが鳴る箇所はない

ホルンは、第一楽章第二主題の導入のように、単独で演奏するところもあるし、 第三楽章の“運命”の主題のように、 他の楽器に伴奏させてメロディーを吹くところもある。 しかし、トランペットには、そういう箇所はない。 ホルンとユニゾンで動き、 トランペットの音のほうが強く聞こえてくるところはたくさんあるが。

ところで、 第四楽章で初めてベートーベンの交響曲に登場したトロンボーンは、 展開部でメロディーを吹く。ファゴットとユニゾンだが、 トロンボーンの音のほうが強く聞こえるようである。

2010-04-24 (6) 19:04:58 +0900

もう一度、CDで聞きなおしてみたら、 第一楽章の第44〜52小節と第288〜296小節では、 音符の数はわずかだがティンパニとだけ重なるのでよく聞こえるし、 第三楽章のトリオの第153小節からと第182小節からでは、対旋律を歌う。 ホルンが Es 管なので、C 管であるトランペットの出番、というところであろうか。 このため、ホルンが活躍するスケルツォと、トランペットが活躍するトリオとで、 音色の上でも対比がうまれている。

なお、音楽之友社から 1948 年に出版された「名曲スコア」では、 第三楽章の第150小節からの8小節の間、 左端の楽器名をホルンとしているが、トランペットが正しいようである。 (そうでないと音が合わないし、 全音スコアではトランペットになっている。)

2010-04-24 (6) 20:34:00 +0900

ここから先は、これからアップロードする。

2010-04-28 (3) 03:00:19 +0900

きょうの補筆箇所

2010-04-21 (3) 03:03:40 +0900

先生に「よくできたね」とほめられたのは競争に勝ったからとは限らない

17日づけ朝日新聞大阪本社版 be on Saturday の b4 面、 「柳井正の希望を持とう」。 「競争するから進歩する」という見出しがあり、 次に引用する第一段落が、全体の内容をよくあらわしている。

日本の教育は極端に競争させることを避けている。 しかし、人間は競争意識がないと進歩しない。 相対的にどの位置にいるのか知ることで、自分の才能を把握できるからだ。

しかし、次に引用する第四段落は、 競争の利点を説明しているとは限らない。

私は学校の勉強は嫌いだった。 それでも先生に、たまに「この科目はよくできたね」などとほめられると、 この次はもっと頑張ろうと思った。 人は直接的な動機がないと頑張ろうとは思わない。 今の子どもは、競争しないがゆえに、 「頑張ろう」という意識も育っていない。

先生の「よくできたね」が、クラスの中で相対的に見て「よくできたね」 なのか、目標を達成したことで「よくできたね」なのかが、 わからないからである。

2010-04-21 (3) 02:05:57 +0900

ヤイロの娘と、長血の女は別人か? 別人だろうが、なんだか関係が気になる

マタイ 9,18-, マルコ 5,21-, ルカ 8,40- にある話である。 ヤイロの娘は十二歳、女は長血を十二年間患っていたとあるので、 当然、別人なのだが、同じ十二年だな、 と考えていたら、なんだか気になってきた。 (何の根拠もない。)

2010-04-21 (3) 01:50:53 +0900

ルカ伝で、長血の女はイエスにさわったのか、それとも彼の衣のふさか

ルカによる福音書 8,40 からの、ヤイロの娘の生き返りと、 長血を患っていた女の癒しの箇所。 女がさわるのは、44 節にあるように、衣のふさである。 それは、ギリシア語原文では中性名詞の kraspedon であるようだ。 しかし、そのあと 47 節で、女はイエスにさわったわけを話している。 原文の 47 節にイエスという語は見あたらないので、 「彼」となっているのであろうが、それがどの単語か、 情けないことに私にはわからない。

新改訳を“注意深く”読んでいて気づいたものだが、 口語訳もこうなっている。

マタイ、マルコに並行箇所があるが、そこの文章では、 この問題は起こらない。

2010-04-21 (3) 01:42:04 +0900

批判するなら、「論じる気も起こらない」などと書かないほうがよい

Wikipedia の「新改訳聖書」のノートで議論になっているのだが、 ある人の書き込みによれば、新約聖書学者の田川建三氏は 《どこまで原典に忠実な訳であるかは 「この新改訳聖書については、そういうことを論じる気も起こらない」》 と書いているそうだ。 (カギカッコの中だけが田川氏の著作からの引用、と思われる。)

田川氏はそのような短い批評だけを書いておられるようで、 それを Wikipedia がどうとりあげるか、が議論されている。

私も、専門分野に関する“トンデモ文書”を “正しいかどうか、論じる気も起こらない” と批判するかもしれない。 しかし、そうではなく、具体的に間違っている箇所を挙げるべきだ、 とこの議論を見て感じた。

(田川氏の言うことが当たっているのかどうか、 いまの私には判断できないが、そのことは別として。)

2010-04-21 (3) 01:29:56 +0900

新改訳で新約聖書を通読しているが、日本聖書協会の訳との違いが気になる

新改訳の新約聖書を通読しているが、この訳は、 Wikipedia によれば新約聖書学者の田川建三氏に酷評されていたもので、 読みながら、ふだん読んでいる日本聖書協会の訳との違いが気になってしまう。

読み比べているわけではないので、記憶しているものと比べているだけだが。

2010-04-21 (3) 01:24:35 +0900

ルカ伝第十章の七十(二)人は、くつを持たないのか、はかないのか?

七十人と七十二人の両方があるのは知っていた。 第四節は、口語訳では 「財布も袋もくつも持って行くな。だれにも道であいさつするな」。 それが、新改訳では 「財布も旅行袋も持たず、くつもはかずに行きなさい。 だれにも、道であいさつしてはいけません」となっている。

このほうが、サザエさんの主題歌に近い。 《サザエさんの主題歌とルカ福音書「七十二人の派遣」》 を書いたときは、もしかしたら、 そちらの訳、あるいはそれと同様の訳が頭にあったのかも。

文語訳、新共同訳、欽定訳は口語訳と同じ解釈。 ギリシア語原文は、直訳すれば 「持ってゆくな財布を、旅行袋も、くつも」であろう。

2010-04-21 (3) 01:06:37 +0900

八月末日までが子どもたちの夏休み、という地域は日本でどのくらい?

17日土曜日づけ朝日新聞大阪本社版 be on Saturday の b3 面、 「サザエさんをさがして」は「良寛」。

おじいさんが良寛にならおうと、 子どもたち(含・ワカメ)に声をかけて一緒にまりつきをして遊ぼうとするが、 子どもたちはそれどころじゃないと言い、 おじいさんの家に上がりこんで、おじいさんは汗をかきながら子どもたちの (おそらく)夏休みの宿題を手伝っている、というマンガである。 コン虫の標本らしきもの、工作で作った家の模型らしきもの、 それに、積まれた宿題帳(って言ったかな)が描かれている。

マンガの下に「1965年8月30日朝日新聞朝刊」とあり、 記事中にも「掲載されたのは1965年(昭和40)年8月30日」 とあるが、記事が触れているのはこの「年」がどういう時代だったかと、 そういう時代に良寛をとりあげた意義であって、 掲載日が東京などでの子どもたちの夏休みの終わりに近い、 ということの解説はない。

春山陽一》と署名あり。

高校時代、合宿にいった長野県では、 八月下旬にはもう子どもたちは学校にかよっていた。 そういう地域の人は、このオチ、わかるかな?

2010-04-21 (3) 00:49:05 +0900

私は、ウニは食べられるが、値段だけの価値があるごちそうとは思わない

高いものだと言われているが、私にとっては、 それだけの価値があるごちそうとは思われないのだ。 複数人で寿司をとると、(私の)ウニと(相手の)安いのとを交換したりする。

17日土曜日づけ朝日新聞大阪本社版 be on Saturday の b2 面、 「be ランキング」の「マグロ以外の好きなすしネタ」でウニが一位なのを見て。

2010-04-21 (3) 00:40:16 +0900

フルイニング出場と、一回から九回まで試合に出ることとは違うはず

19日月曜日づけ朝日新聞大阪本社版スポーツ面、 衣笠祥雄氏の「鉄人の目」。 前日の試合でスターティングメンバーからはずれ、 連続フルイニング記録が途絶えた阪神タイガースの金本選手について、 こう書いている。

1回から9回まで、試合にずっと出たい。 野球を始めた子どもの最初の目標であり、夢だ。 その野球選手の原点を金本は多くの人に見せ続けた。 こんな選手が日本にいたというのは素晴らしいことだ。

試合開始から終了までずっと出場メンバーの一人でいても、 九回に試合に参加しないことはありえる。 先攻で、九回の表には打順が回らず、 九回表の攻撃が終わった時点で後攻チームの得点が上回っており、 ゲームが終了する場合である。 所属するチームが勝つためには、 チームが最終回の守備につく必要があるのだから、 一回から九回までずっと試合に出たいと思うのは、 勝ちたいと思う気持ちと重なるわけで、まちがってはいない。 (一回から九回まで、すべてのイニングで打席に立ちたいと思うのは、 後攻の場合、ビハインドで九回をむかえる必要があり、以下略。)

逆に、一回から最終回まで出ていても、 一回の途中から出場したり、最終回の途中で退けば、 フルイニング出場とはならないのだろう。

上述のようなケースで、金本が九回に登場しなかったことは、 当然あったと思う。

2010-04-21 (3) 00:08:05 +0900

阪神タイガースの金本は、一塁手でフルイニング出場を続けられなかったか?

ぎりぎりまで守備練習をしていて、 メンバー交換直前に、 自らスタメン落ちを言い出したのだそうだ。 キャッチしたボールがまともに内野に返せない状態だったようだが、 もしもチーム全体で金本の連続フルイニング出場を支えようとしているなら、 守備機会は多いがボールを投げる必要はあまりない、 一塁手として出場させることは考えられなかったのだろうか。

2010-04-20 (2) 22:59:38 +0900

ボディー&フェイスペインティングで「ウルトラマン」のダダに扮したら?

ウケないかな。

2010-04-20 (2) 22:47:10 +0900

ウルトラマン>確か「スーパーガンが火を噴けば」という歌詞があったが

放送では演奏のみで、歌詞はなかったような気がするが、 ウルトラマンの戦闘時の音楽にこういう歌詞をつけたものが、 買ってもらったソノシートにはいっていたような気がする。 (当時はビデオなどなく、 音声だけを録音するテープレコーダーも高価だったから、 主題歌と、話の抜粋を録音したソノシートが売られていたのだ。)

タイトル行に引用した部分は、スーパーガンが発射されれば、の意味だが、 古かったり、 手入れが行き届いていなかったりするスーパーガンがいきなり火を噴いたりすると、 ちょっとこわい。

2010-04-20 (2) 20:32:41 +0900

ウルトラマン>ダダは、なぜいきなり背後に現れミクロ化銃を使わないのか?

ダダは、姿を消すことができるし、 壁をすり抜けることも可能である。 ムラマツ隊長ともう一人の女性を5体目・6体目の“人間標本”にすることが、 彼が母星から与えられた任務だが、なぜか、 ムラマツたちを脅かそうと、奇怪な声を出して迫ってくる。 そんなことをしなくても、背後にいきなり現れ、 後ろからミクロ化銃を使ってしまえば、それでよかったのではないか?

……と考えたが、ダダが命じられたのは、 驚いている姿の人間を標本にすることだったのではあるまいか。 1体目から4体目までの“人間標本”が画面に映るが、 少なくとも何人かは驚いた姿のまま標本化されていたと思う。

ストーリーとしては、 姿を消すことができ、 壁をすり抜けることもできる等身大の怪物に追いかけられる話、 ということで、あれでよかったのだが。

2010-04-20 (2) 20:20:34 +0900

きょうの補筆箇所

2010-04-20 (2) 02:52:30 +0900

急逝した、元プロ野球「読売」の木村拓也選手の、最後の日本シリーズの記事

2009年11月8日日曜日づけ朝日新聞大阪本社版スポーツ面の、 前日の第6戦で決着のついたプロ野球日本シリーズを回顧した記事。 原監督について、こう書いている。

普段着野球を標榜(ひょうぼう)しつつ、 短期決戦ならではの非情な手も打った。 第4戦で攻守にミスを犯した木村拓を、第5戦はベンチから外した。 19年目のベテランを即座に退けることで、チーム全体の気持ちを引き締めた。

山田佳毅》と署名あり。

2010-04-20 (2) 01:23:36 +0900

天皇・皇族が、差別されてきた人たちをお見舞いした例はあったのだろうか?

前項で取り上げた記事。 戦闘時の様子を説明した元衛生兵に 《天皇陛下は「大変でしたね」と声をかけ》 とあるのを読み、次の面で 「弱者へ心寄せて」、「被災者や高齢者ねぎらう」 との見出しの記事を読んで、 少し前に、 同じく朝日新聞の「ニッポン人脈記」で、 差別されてきた人たち、差別されている人たちが取り上げられていたのを思い出し、 タイトル行のようなことを考えた。

ハンセン病療養所も、 両陛下は国立13カ所のうちすでに9カ所を訪ねている》とはある。

2010-04-20 (2) 00:26:06 +0900

朝日新聞>天皇関連記事に「平和祈り慰霊の旅路」とあるが本当に「慰霊」?

2009年11月12日づけ大阪本社版。 第一面の記事に 《天皇陛下の即位20年を祝う政府主催の記念式典が12日、 天皇、皇后両陛下を迎えて開かれる。 これに先立ち、両陛下は記者会見に臨んだ》とある。

それに伴う、見開き3ページにわたる特集記事の2ページ目。 見出しに「平和祈り慰霊の旅路」とある。

天皇・皇后に戦闘時の様子を説明した元衛生兵、 その家族の発言には「慰霊」「供養」の語がみえ、 記事本文にも 《「玉砕の島」で日本人、韓国人、沖縄県民、 米国人の慰霊碑に黙々と拝礼する両陛下の後ろ姿は》、 《サイパン訪問は天皇陛下の強い希望で実現した。 天皇自身が希望して実現したのは戦後50年の広島、 長崎、沖縄、東京への慰霊の旅に続くものであり、 慰霊目的で外国の戦場を訪問するのは初めてだった》、 《サイパン訪問は、 こうした経緯の末に親善から慰霊に主目的を変えて実現した面もあった》 と、「慰霊」ということばが使われているが、 《サイパンで両陛下は島北端のマッピ岬を訪れて 「バンザイクリフ」の絶壁と紺青の海に深々と頭を垂れ、 黙祷をささげた》、 写真の説明には《サイパン島の「バンザイクリフ」 に黙礼する天皇、皇后両陛下》とあるだけで、 そこには「慰霊」の語は見られない。

まわりの人だけが「慰霊」の語を使っているのではあるまいか。 自分が慰霊するのは、信教の自由に基くもので、問題ない。 しかし、他人の行為について「慰霊」と表現するには、 本人の意思の確認などが必要だろう。 死者を悼む方法は、慰霊だけとは限らないからである。

2010-04-20 (2) 00:24:57 +0900


すのもの Sunomono