すのものの「いろいろ」(その224)

NHKのラジオ・テレビ講座はおとといの月曜日から新年度にはいったんだ

職場の生協が改装中で書籍部がお休みなので、三月中旬に、 町の本屋さんで四月号のテキストを買ってきた。 そのとき、「2010 NHKテキストナビ」も入手。それを見た結果、 ことし聞く予定なのは次の通り。

私が聞くつもりの放送の時間に変更はない。

気をつけなくてはいけないのはフランス語。

未定ということは、2009 年度十月から十二月までのような、 ああいうこともありえる、ということだ。 《NHK「まいにちフランス語」10月号を求めて金沢じゅうを駆け回る》 参照。

「ラジオ英会話」は、研修に出ていた先週の分を遅れて聞いている。 おととい、ラジオ第一放送の「真打ち競演」を聞きながら録音していて、 新年度にはいったことに気づいたのだった。 いま 2010 年度分を聞き始めたところ。 ゲストのケイティー・アドラーさん、ジェフ・マニンさんも 2009 年度のままだが、 初回だから、それぞれごあいさつがあった。 「一息で五回」言う、のはやめにしたようだ。 無理してからだの具合が悪くなった聴取者でも出たのだろうか。 代わりに「Use it.」のコーナーができた。 (ちなみに、テキストは買わずに聞いている。 ゲストのお二人の名前のかな書きは私が決めたもの。 遠山先生は、 日本語の中ではゲストのファーストネームは日本語として発音されるが、 姓を言われるのは聞いた記憶がない。)

2010-03-31 (3) 20:29:09 +0900

「実践ビジネス英語」 四月号テキストの「吹込者」の最後に「Jeff Manning」と名前があがっているので、 「ジェフ・マニングさん」と音写するほうが適切かもしれない。

NHK「ラジオ英会話」の男性ゲストがジェフさんに代わった》 の補筆部分では、「ジェフ・マニングさん」と書いている。

2010-04-15 (4) 23:41:45 +0900

パソコン不調のため、しばらくお休みしていました

別のパソコンを使って、再開します。

2010-03-31 (3) 20:14:02 +0900

この下の、これと似た追記とこことの間は、 パソコンが修理から返ってきてから、 その間、読み出せなかった項目を追加したものです。

2010-04-25 (0) 03:32:48 +0900

朝日新聞「ひと」>皇族の場合はこのコーナーでも「さま」をつける

2月10日水曜日づけ朝日新聞大阪本社版「ひと」は 『彬子さま』。 ふつう、だれでもこのコーナーでは「さん」づけだと記憶しているが、 皇族の場合は「さま」をつける、ということのようだ。

2010-03-23 (2) 00:08:55 +0900

「2009年2月10日水曜日」と日付をまちがって書いていた。 正しくは本年なので、「年」は省略した。

2010-05-07 (5) 01:38:05 +0900

みつかった遺体が別人のものであることを祈ることについて

2009年11月7日土曜日づけ朝日新聞大阪本社版社会面の、 島根県立大の女子大生不明事件の記事。 この時点では、《女性の遺体の頭部が見つかった》ところだった。

記事の最後に、 《平岡さんが3月に卒業した香川県立高松商業高校(高松市) の谷岡由大教頭は取材に対し、 「進学クラスの英語実務科に在籍し、 『がんばりやさん』だった。 遺体が本人でないことを祈っている」》、 とある。

教頭先生のこの気持ちはよくわかる。 私が同じ立場だったら、同じく、 「遺体が本人でないことを祈っている」と言うかもしれない。 そのうえで、以下のようなことを考えてみた。

1.こう祈ることは、誰か別の人の死を祈ることにならないか。

2.遺体が誰のものかは、人間にまだわかっていなくても、 もうすでに決まっていることがらであって、 祈りで変えられるものではないと考える人が、 信仰を持つ人にも、持たない人にも、多いのではあるまいか。 その場合、祈るとはどういう行為を意味するのか。 「……であればよいのだが」、という願望だろうか。

3.神は、あるいはイエスは、遺体を別人ととりかえることが可能なのか。 つまり、人が死んでいるとき、その死者を生き返すのではなく、 遺体はそこにあるままで、誰か別人が死んで、死んでいたと思っていた遺体となり、 代わりに、死んでいた人が生きてどこかから現れる、 という奇跡は聖書に書かれていただろうか? 私は思いだせない。

付) この教頭先生の氏名は、どの漢字もほぼ左右対称である。 そういう氏名を縁起がよいと考える人もいる。

2010-03-22 (1) 23:45:28 +0900

本項は、内容が 《発見された遺体が、自分の知っている人のものでないことを祈ることについて》 とほぼ重なります。その理由は 《修理に出していたパソコン内にあった「いろいろ」とのマージ作業を行なった》 に書きました。

2010-04-28 (3) 02:23:55 +0900

諸外国語の中でそのままの形で使われる語を「国際語」というようだが……

前項の続き。 果たして、どのくらいの数の言語の中で、 そのままの形で使われているのだろう? まさか、 英語だけしか確かめていないということはないと思うが。

2010-03-22 (1) 23:38:39 +0900

朝日新聞>「UMAMI」は国際語というが、「国際語」の意味は?

2009年11月7日土曜日づけ朝日新聞大阪本社版 be on Saturday の e7 面、 「土曜ナントカ学」は昆布。 《「UMAMI」は「TSUNAMI」などと同じように、 そのまま国際語として通用している》とあるが、 この「国際語」の用法は、広辞苑第五版の説明には含まれないものだ。

文・写真 柏原 精一》と署名あり。

2010-03-22 (1) 23:34:14 +0900

勝間和代の人生を変えるコトバ>「人は消去法でしか学べない」

2009年11月7日土曜日づけ朝日新聞大阪本社版 be on Saturday の b9 面。 今回の「コトバ」はタイトル行に引用した。

さまざまな方法を試してみて、うまくいかなかった方法を消去し、 うまくいった方法だけを残して次回から再現できるようになって、 ようやく学習するという仕組みを表しています》。

「消去法」を広辞苑第五版でひくと、 一つめにあがっているのは連立方程式の解法の一つ。 二つめは 《複数個の中から選ぶとき、 マイナス点の多いものを順次除外し、 最後に残ったものをよしとする方法》。 だから、ここで言われている消去法は、広辞苑が言っているものと若干違う。 ここで言われているのは試行錯誤に近いのではないか。 しかし、最近の用法では、消去法でこのようなやり方を意味することが多いから、 それはよしとしておこう。

気になったのは、次の段落である。

例えば、私は水泳を習っていますが、 「コーチの言うとおり泳いでも、 どうしても無意識に自分の癖が出て適切でない泳ぎ方をしてしまいます。 それを「その泳ぎ方はこういう理由でよくない」 と繰り返し、繰り返し消去してもらうことで、 初めて、適切な泳ぎ方が消去法で残るのです。

これは、最初に述べられたやり方とは異なる。 自分で試してダメな方法を除外してゆくのではなく、 教わっているからだ。それから、教えるとき、確かに、 「そのやり方はこういう理由でよくない」 と教える人もいるが、そうではなく、 「こういう理由で、もっとこういうふうにするほうがよいからそうしなさい」 と教える人もいる。その場合は、消去法ではなくなる。

その前の段落はこうである。

すなわち、私たちが新しい行動習慣や考え方を身につけようとした場合、 いくら他の人から「これが正しいのだから、これをしなさい」 と言われても、なかなかその通りにできないのは、 自分でさまざまなことを試して、 その正しさを消去法で身をもって体験しない限り、 その方法は身につかないからです。

これとも矛盾していると思う。身をもって体験するなら、 コーチに消去してもらう必要はないからである。

水泳の話の段落がなければ、ああそうかな、と思ってしまったかも知れないが、 この例を読んだことで、そうではないこともたくさんある、と思えてきた。

2010-03-22 (1) 22:57:24 +0900

本項は、内容が 《勝間和代>「人は消去法でしか学べない」》 とほぼ重なります。その理由は 《修理に出していたパソコン内にあった「いろいろ」とのマージ作業を行なった》 に書きました。

2010-04-28 (3) 02:31:54 +0900

ウェストポーチは、昔で言えば「胴巻き」か?

本文ナシ

2010-03-22 (1) 22:55:19 +0900

ウェストポーチを新しくする。なんだか、腰が軽くなった気がする

半年ほど前、ファスナーのつまみがとれてなくなってしまったので、 次のを買っておいたが、つまみがとれてもなんとか開け閉めできるので、 前のをそのまま使っていた。 ところが、先日、ファスナーそのものが壊れた。 開けようとしていたら、閉じているべき部分が、かみあわせがゆるいのか、 開いてしまったのだ。 数日前、ついに新しいのにかえた。

入れるものはトータルでは同じだが、 前のはマチが手前は大きく、向こう側が小さいので、 手前に鍵入れ・財布・定期入れを入れ、 向こう側にシステム手帳と携帯電話を入れていた。 こんどのはマチの大きさが逆なので、中身もそっくり逆にした。 腰に巻いてみたとたん、前のより軽いことに気がついた。 前のと比べ、からだの近くにものがあるようなので、そのせいかも。

ちなみに、前のはベージュ、今度のは黒。 なるべく、買いかえる際には違う色を選ぶようにしている。 そのほうが変化があって楽しいから。

2010-03-22 (1) 22:48:03 +0900

NHKラジオ「実践ビジネス英語」、きょうから今月分を聞き始める

きのう、二月分をちょうど聞き終え、きょうから今月分を聞き始めている。 あともう少しで追いつくぞ。

2010-03-22 (1) 20:56:23 +0900

他学部の卒業予定者一覧を見ていたら、高2の時サイゼリヤにいた学生の名が

先日、よその学部の建物に行く機会があり、 何気なく掲示を見ていたら、卒業予定者の一覧が貼り出されていた。 《三年前の夏にサイゼリヤにいたウェイトレスさんが昨年入学してきたのだが》 に書いた学生の氏名があった。 もう四年経ったのか、と思ったが、確かに、そうだ。

2010-03-22 (1) 20:15:31 +0900

サイゼリヤで、ウェイトレスさんに「私、きょうで最後なんです」と言われた

よく見かけるので、お互い、顔見知りになっていた。 聞かなかったが、まず間違いなく、うちの学生である。卒業するのだろう。

2010-03-22 (1) 20:10:53 +0900

この上の、これと似た追記とこことの間は、 パソコンが修理から返ってきてから、 その間、読み出せなかった項目を追加したものです。

2010-04-25 (0) 03:34:33 +0900

きょうの補筆箇所

2010-03-22 (1) 02:13:38 +0900

NHKラジオ「実践ビジネス英語」>Oscar Wilde を英語式に発音された

二月17日水曜日放送分の Quote ... Unquote で、その句を書いた、 あるいは言った人の名前を読み上げるとき、 杉田敏先生は Oscar Wilde を、英語式に発音された。 《NHKラジオ「実践ビジネス英語」>Oscar Wilde を日本語式に発音された》 のときとは異なって。

2010-03-21 (0) 22:00:55 +0900

Vista マシンでダイヤルアップ接続のウィンドウが出てなかなか消えない

前項は Vista マシンに乗り換えてからずっとの話だが、 もう一つ、Vista マシンで気になっているのは、 起動直後などにダイヤルアップ接続のウィンドウが出て、 「×」を押しても押してもまた現れ、なかなか消えないことだ。 いまや常時接続が当たり前となったため、 起動時に何かを見に行こうとするのだろうか。 定められた時刻にアップデートを確かめに行くのもあるかも。

2010-03-21 (0) 18:24:47 +0900

Internet Explorer 8 はなぜ「オフライン」と「オンライン」を区別する?

パソコンがネットにつながっていない状態で、 手元のファイルを表示させるなどの作業をしたあと、 ネットにつないでからネット上のサイトを表示させようとすると、 前のキャッシュ(?)を表示する。 更新しようとすると警告が出て、 その中のボタンをクリックして初めて現在のネット上のそのサイトを表示する。 この機能にどういう意味があるのだろう?

2010-03-21 (0) 17:59:57 +0900

「"こう拭くのか、額"」は「幸福の科学」と同音。(それだけ)

額の拭き方がわからなかった人が発したことば、という設定。 Google で検索して一件も見当たらないので、記しておく。 「"こうふくのか、額"」として検索しても同様。

2010-03-21 (0) 17:52:49 +0900

「未然形」と「未然形の形」は違うか?

前々項を書いていて、「未然形の形」は「形」がダブっていないか、 と考え込んでしまった。

フランス語文法を説明する際の「接続法の形」と同じと考えれば、 ダブっていないのかもしれない。 接続法というものは知っていても、 「faire の接続法現在は?」と聞かれて答えられない場合があろう。 ここで聞かれているのは「接続法現在の形」である。

現代日本語では、 動詞、形容詞、形容動詞、助動詞のすべてにわたって、 連体形は存在すれば終止形と同じ形である。 だから、「連体形を認めない」という説がありえよう。 その場合の「連体形」は個々の動詞などの連体形ではなく、 連体形というもの、の意味である。

二つ、関係ありそうなことを書いてみただけで、結論はまだない。

2010-03-21 (0) 17:20:15 +0900

いま「掃かせなくなった」と打とうとしたら「博士亡くなった」に変換された

本文ナシ

2010-03-21 (0) 17:16:27 +0900

動詞+「せる・させる」+「ということをしなくなった」で活用形を“節約”

あるブログで見かけたやりとりである。 実際とは違う単語で説明する。

「掃かせるということをしなくなった」のような、 動詞+「せる・させる」+「ということをしなくなった」 を開設者が連発しているブログで、「ということを」なしで書けないか、 とコメントがついたのに対し、開設者はそれができず、 「掃かせなくなった」ではいけないのかとの別の人からのコメントに対しては、 それでは禁止するようになったという意味ではないか、 との趣旨と思われる回答をしていた。

「掃かせるということをしなくなった」にも、「掃かせなくなった」にも、 “放任・許可するのをやめた”、 “強制・命令するのをやめた”の二つの意味があろう。 たとえば、孫が庭の落ち葉を掃きたがるので掃かせていた人が、 大事な盆栽を庭に置くようになり、 壊されていはいけないと方針を変えた場合は前者であろう。 一方、孫に庭の掃除を命じていたが、寒い季節になったので、 風をひかせてはいけないと方針を変えた場合は後者であろう。

言い分けることで意味を区別しようとしているのではなさそうだ。 動詞+「せる・させる」+「ということをしなくなった」 を使うことで、 「せる・させる」に「なくなった」を接続させる方法を覚えることを “節約”しているのであろう。 といっても、 それは「〜せなくなった」「〜させなくなった」の二つにすぎないのだが。

「〜してあげる」は動詞の活用形の“節約”のため?》、 《「計算してあげる」などは「語数を減らせ」と指導するのが効果的?》 参照。

2010-03-21 (0) 16:49:53 +0900

この「いろいろ」で、「本項」と「本稿」、両方使われているな

ほとんどの場合「本項」と書きたかったはずだが、 いま「本稿」と書かれているところを全部見てみて、 そのままで問題なしと判断したので改めない。

2010-03-21 (0) 16:32:33 +0900

リヒター盤「ロ短調ミサ」>クレドとサンクトゥスの間が2〜3秒しかない

1961 年録音のリヒター盤のCDでは、 クレドとサンクトゥスの間が2〜3秒しか空いていない。 ぼんやり聞いていると、 クレドが終わってサンクトゥスが始まったことに気づかないほどだ。 クレドは9曲からなるが、 それらの間とは区別できるよう、長く空けるべきではなかろうか。 (続けて演奏する習慣があるなら別だが。)

付) そのCDの日本語タイトルは「ミサ曲 ロ短調」だが、 タイトル行では慣習に従った。

2010-03-21 (0) 16:12:31 +0900

英語には字母名と同じ発音になる単語・熟語があるんだな

a, be, bee, see, sea, gee, I, jay, O, owe, pee, queue, cue, tee, tea, you, double you, ex, why と思いつくままあげてみたが、 あやしいものもある。 (double に他動詞としての用法があることは辞書でわかったが、 double you と言うことはあるだろうか?)

これが頭にはいっていないと、聞きとりの際、 字母名なのか単語・熟語なのかわからないことがある。 ジーニアス英和辞典は見出しの直後に同音の語をあげている。 ah には R と、owe には O とあったが、ほかは見当たらなかった。 (完全に調べたわけではないが。)

付) ほかの外国語にもあるだろうが、英語は多いような気がする。

2010-03-21 (0) 00:09:04 +0900

エステル記のアハシュエロス王は宴会での「アル・ハラ」を禁止していた

酒は金の杯で賜わり、その杯はそれぞれ違ったもので、 王の大きな度量にふさわしく、 王の用いる酒を惜しみなく賜った。 その飲むことは法にかない、 だれもしいられることはなかった。 これは王が人々におのおの自分の好むようにさせよと宮廷のすべての役人に命じておいたからである」 (口語訳 1,7-8)。

無理にすすめることがない以上、 一気飲みを強いることもなかったものと思われる。 (自分からするのは勝手だが。)

2010-03-20 (6) 22:57:14 +0900

「エステル記」が「エステ」の語源だと思っている人はいないか?

2,12 によれば、十二か月かけて (いまでいえば)エステティシャンによる施術を受けたのち、 王の所へ行くのである。

付) フランス語の発音は「エステティシアン」により近いと思うが、 ここではよく目にする表記に従った。

2010-03-20 (6) 22:56:43 +0900

NHKラジオ「実践ビジネス英語」>Oscar Wilde を日本語式に発音された

二月5日金曜日放送分の Quote ... Unquote で、 その句を書いた、あるいは言った人の名前を読み上げるとき、 杉田敏先生は Oscar Wilde を「オスカー・ワイルド」と日本語式に発音された。 英語圏の人の名は英語式に読まれることが多いのだが。 テキストにも Irish poet, playwright and noveist と紹介されているようにアイルランド出身で、 Wikipedia によると国籍は英国であり、作品のタイトルは英語ばかりである。

ちょっと前からこの話題を書き始めているが、 この回を録音しながら聞いていたときに「おやっ」と思ったのかも知れない。

普段、まじめさだけがとりえ、と言っている私にとって、 今回の引用句「Seriousness is the only refuge of the shallow.」 は痛烈であった。

2010-03-20 (6) 20:50:16 +0900

一月15日に書いた 《実践ビジネス英語>引用句の作者名は、英語式に読まれたり日本語式だったり》 を見ると、これに気づいたのはこの回が最初ではなかったようだ。

2010-03-21 (0) 22:05:22 +0900

NHKラジオ「実践ビジネス英語」>「widows, widowers」のときは女が先?

二月5日金曜日放送分のビニエットに、 「widows, widowers and divorced people」 という句があった。 widow が男性の連れあいを亡くした女性、 widower が女性の連れあいを亡くした男性である。 普通、男性が先にこないだろうか?

Google で調べてみたら 「"widows and widowers"」が 176,000 件、 「"widowers and widows"」が 241,000 件。 参考までに調べてみた 「"waiters and waitresses"」が 208,000 件、 「"waitresses and waiters"」が 796,000 件。 ただし、検索結果画面に引用されている部分で単語が逆に並んでいるページもあり、 よくわからなかった。

「boys and girls」だけど「ladies and gentlemen」だから、 決まっているわけではないのか。

2010-03-20 (6) 20:30:34 +0900

携帯電話のカタログが「QWERTY キー搭載」でキーボード搭載を意味している

docomo の、先日、請求書と一緒に送られてきたパンフレットの中で。

「QWERTY キー」で、(ほとんどの) タイプライターやパソコンと同じ配列のキーボードを搭載していることを意味している。 (もちろん、おのおののキーのサイズは小さいが。)

私としては、Dvorak などにも自由に切り替えられるキーボードが搭載されているほうが望ましいのだが。 (キーごとに、対応する文字を自由に入れかえられるもの。)

2010-03-20 (6) 19:50:59 +0900

ナンバープレートに類似したものを自動車につけてよいか?

前項の続き。 ナンバープレートに類似したものをつけると、どれが本物かわかりづらくなる。 ナンバープレートを積んでいるだけです、 というようなことは起きないのか?  受け取ったナンバープレートを自動車の後部のまぎらわしい位置に置いたら?  私は運転はしないので、ナンバープレートをどうやってもらってくるのかは知らないが。

2010-03-20 (6) 19:12:33 +0900

自動車に積まれた自動車のナンバープレートは見えていてよいのか?

職場からの帰りのバスの窓の外に、自動車が自動車に積まれて運ばれてゆくのが見えた。 積まれた自動車のナンバープレートは見えていたが、 もし万が一、積んでいる自動車がひき逃げなどをおこした場合、 目撃者が間違えて積まれている自動車のナンバープレートを覚える可能性は?

この場合、自動車が自動車を運んでいることがほとんど明らかなので、 問題にならないのかも。

2010-03-20 (6) 19:10:44 +0900

朝日新聞>エステル記「王に見初められた娘が妃となって民につくす物語」?

2月10日水曜日づけ朝日新聞大阪本社版社会面「ニッポン人脈記」。 大竹しのぶの母親の名「江すてる」について、 「江すてるの由来、聖書のエステル記は、 王に見初められた娘が妃となって民につくす物語である」 と説明している。 しかし、エステルは王に見初められたのではない。 周囲の者によって候補者に選ばれ、王の所へ行ったとき、気に入られたのである。 正しく要約するなら、 「異国の王の寵愛を受け、妃になったユダヤ人の娘が」ぐらいであろうか。 ここはまだよい。そのあとである。 自分の命の危険をもかえりみず、 ユダヤ人を陰謀による滅亡から救った点が大切なのであって、 そこを書かないのは本質を見落としているように思う。

2010-03-20 (6) 01:15:20 +0900

ここから先は今夜、あるいはあすの未明にアップロードする。

2010-03-20 (6) 22:52:04 +0900

英語にも「何人目の」「何番目の」を尋ねる言い方があるんだ

一月29日金曜日放送分の、 NHKラジオ「実践ビジネス英語」のテキスト。

「何人目のお孫さんですか」に当たる表現は、 『その人にすでに孫がいることを知っている場合なら、 The grandchildren is number what? が最も自然ではないか』、 『また同様に、「リンカーンは何番目の大統領ですか」は、 Lincoln was what number president? と言うとのこと』 とあった。

私は、英語ではそういう言い方はできないのだと思っていた。 私が聞いた話は、そういうとき、 「ワシントンは初代大統領だ。ではリンカーンは?」 のように尋ねるしかない、というものだった。

2010-03-19 (5) 23:01:20 +0900

シスの復讐>グリーバスがオビ=ワンを踏みつけようとする足は右? 左?

一方の足で踏みつけられそうになるのを避け、 次に他方の足で踏みつけられそうになるのを避けるのだが、 最初の足は、グリーバスが足をあげた時のポーズからすると右足に見える。 すると次は左足となるが、その足をオビ=ワンが蹴ってすねを痛めるのは、 グリーバスの右足である。

グリーバスの足の形をよく調べる必要があるな。

2010-03-19 (5) 20:13:31 +0900

クローンの攻撃>二人のジェダイとともに船を降りたクローン兵はどこへ?

最後の、ドゥークーとのライトセーバー戦の直前である。 オビ=ワン、アナキンと一緒に、二人のクローン兵が船を降りたように見える。 しかし、駐機場へははいってこない。 船へ引きかえしたようにも見える。

2010-03-19 (5) 20:08:28 +0900

シスの復讐>ヨーダはアナキンが議長の正体を知ったことを見抜けなかった?

II で、辺境の星タトゥイーンにいるアナキンがタスケン族を虐殺した直後、 首都コルサントのジェダイ寺院で瞑想していたヨーダは、 冥界からのクワイ=ガンの声を聞く。 はいってきたウィンドゥが何かと聞くと、 ヨーダはアナキンについて、断片的に、“見えた”ことを語る。 ヨーダは離れていても、ほかのジェダイたちのことがわかるのである。

では、なぜ、ヨーダは、アナキンがパルパティーン議長こそシスだと知り、 剣を抜いたことを、キャッシークから見抜けなかったのだろうか。 見抜いていれば、ただちにコルサントにいるウィンドゥに連絡をとり、 自分が帰るまで、うかつに動かないように、と告げたのではなかろうか。

ただし、II でヨーダは「死」と言っているので、 誰かの死が起こらないと、ヨーダにも見えないのかもしれない。 (ウィンドゥが殺害され、アナキンが暗黒面に落ちたあとでは、 ヨーダは何かを感じている。 また、IV のオビ=ワンも、 惑星オルデラーンが、そこに住む人もろとも爆破されたとき、 フォースの乱れを感じていた。)

2010-03-19 (5) 19:57:46 +0900

新暦と旧暦は、一年の八分の一ずれることがあるわけだ

前項に書いたように、きょうは旧暦の二月4日であり、 あさってが春分の日だ。 ……というあたりから考えついたもの。 前に、最大で七週ほど遅れることを見たので、49日。 確かに、八分の一を越えている。

2010-03-19 (5) 19:56:05 +0900

ウソ八百>きょうが、旧暦の立春。だいぶ暖かくなった。これが正しい季節感

きょうが旧暦の二月4日なのは正しい。 また、立春は新暦の二月4日にくることが多い。 しかし、立春は太陽黄径が 315 度になった瞬間を含む日なので、 新暦を使っている人が立春を迎える日は、 旧暦を使っている人が立春を迎える日でもある。

だから、きょうが旧暦の立春ということはない。 そこがウソ八百なのである。

2010-03-19 (5) 19:50:06 +0900

NHKラジオ「実践ビジネス英語」>松下クリスさんが TV games と言われた

一月22日金曜日放送分で。 ビニエットに TV toys とあるのは、 発言者が非常に小さい子について話しているからで、 もう少し大きい子だったら video games か TV games と言っただろう、 と英語で話しておられた。

「テレビゲーム」は和製英語のようである。 Google で「TV game」を検索すると英語のページも見つかるが、 それらがどのくらい信用できるページなのかは、私にはわからない。

2010-03-18 (4) 23:02:00 +0900

きょうの補筆箇所

2010-03-18 (4) 01:38:59 +0900

リヒター盤の「ロ短調ミサ」に二人のバスが登場しているのはなぜ?

ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウとキート・エンゲン。

前者は実際はバリトンで、Credo のアリアを歌い、 後者はバスで、Gloria のアリアを歌っているようである。 解説書では、楽曲の紹介として、前者を 「高い音域のバス・アリア」と書いてあるだけのようだ。

バスのソロはこの二曲で、重唱はないから、 上演の際、ソリストは合唱に加わらないとするなら、 バリトンとバスは一曲ずつを歌うためだけにくる、ということになる?

2010-03-18 (4) 01:11:36 +0900

「地域」はローマ字で「ciiki」だがこの -ii- は長音ではない

黄色 kiiro などもそうだ。 外来語以外、「î」は使わない方法が主流のようだから、 書き方で迷うことはないのだが。

2010-03-18 (4) 01:03:45 +0900

バス以外を絶対にいれない専用レーンを作って走るバスってあるんだろうか?

前項の続き。

自動車を絶対に入れないようにできるなら、完全にバス専用のレーンを設ければ、 同じことではなかろうか。そして、そこを走るバスは、 そのようなレーンのない地域まで乗りいれることが可能である。 ただし、その場合、専用レーンでは“駅”を道の中央に設けることから、 乗り降り口はバスの右側になろう。 そうでない場所では従来通り乗り降り口はバスの左側だ。 実現可能だろうか? 料金箱を運転手の真後ろに設け、 左右から降りるようにすればできるかもしれない。

いや、専用レーンではバスを右側通行にすればいいんだっ!

2010-03-18 (4) 01:03:45 +0900

金沢市にLRT導入の動きがあるが、軌道に自動車がはいると無意味になろう

道路の一部に軌道を敷き、そこを走る想像図を見た記憶があるのだが、 自動車がそこにはいってくると、定時運行ができなくなり、 無意味になるだろう。

2010-03-18 (4) 00:50:11 +0900

「ロ短調ミサ」の二つのキリエは、第一曲めのほうが新しいスタイルだそうだ

リヒター盤の、礒山雅氏の解説に、 第一曲は「バロック的な新様式の対位法」、 第三曲は「荘重な古様式による4声のフーガ」とある。

私には第一曲のほうが古風に、第三曲はモダンに聞こえるのだが、 それはメロディーから判断してしまうからだろう。

2010-03-18 (4) 00:29:00 +0900

NHKラジオ「実践ビジネス英語」>デジタル時計とクオーツ時計を混同?

今年の一月 20 日水曜日放送分で、 analog ということばがいつごろ、どんな用法で使われ出したか、 という話を杉田敏先生と松下クリスさんがしていた。 数字の出る新しい時計が出てきたとき、 従来の針式の時計を指すために使われ出したが、 数字の出る新しい時計は、当時は digital ではなく quartz と呼ばれていた、 と言われていた。

私の記憶では、アナログ表示のクオーツ時計のほうが、 液晶によるデジタル表示のクオーツ時計より早かったのではなかったか。 一方、家庭のコンセントにつなぐと、 交流の 50Hz なり 60Hz なりを数えることで動作するデジタル表示時計もあった。 一枚の板に一つの数字が書かれていてしかるべきときになるとパタンと変わるもの、 ドラムに数字が並べて書かれていて、時間がくるとそれが回るもの、 などがあった。 表示はデジタルだが、クオーツ時計ではない。 だから、デジタルとクオーツとは別々の概念なのだと私は思うが、 英語としてどうだったのかは私にはわからない。

2010-03-18 (4) 00:05:24 +0900

NHKラジオ「実践ビジネス英語」で「ゲーテ」の名は日本語式に発音

今年の一月 20 日水曜日放送分の Quote ... Unquote のコーナーで。 杉田敏先生は、日本語の発音で「きょうはゲーテのことばです」 と紹介された。

2010-03-18 (4) 00:02:25 +0900

.bak ファイルを消すなら、.bak に改名されたあと一定の時間が経ってから

最近の Windows 上のテキストエディタは .bak ファイルを作らないが、 私は何だか不安で、バッチファイルで作るようにしている。 その .bak ファイルは、いつまでも持っていてもしかたがない。 どのタイミングで消すべきだろうか? .bak のタイムスタンプを見て、 ある時間が経ったら、というのが一つの考えだが、 .bak のタイプスタンプは古くても、編集はさっきしたばかり、ということがある。 そういう .bak は、念のため、もう少しとっておくべきだろう。

結論はこうだ。そのファイルが .bak に改名された時刻から、 前もって決めておいた期間が過ぎたら消す。 ただし、これはいまの Windows でできるのだろうか? Unix 系なら、 最後に何かを変えた時刻を、 ls にオプションをつけて動かすことで出力させることができたと思ったが。

もう一つの考え方は、 .bak ファイルは、セーブ時の事故で元の内容も編集後の内容も失われた、 という事態を避けるために作られるのだから、 正しくセーブされたとわかった時点で消してよい、 というものだ。

2010-03-17 (3) 20:22:59 +0900

岩波国語辞典第三版で「おい」「めい」をひくと気になる点が二つ

「おい」は「兄弟姉妹が生んだ男の子」、 「めい」は「兄弟・姉妹が生んだ女の子」 となっている。兄弟が子を生むのかという問題と、 どうして前者は「兄弟姉妹」、後者は「兄弟・姉妹」としているのかという問題。 この二点が気になる。

2010-03-17 (3) 20:07:15 +0900

オバデヤの英語形 Obadiah を「O, badi, ah!」と解釈する人はいないか

badi は Wizardry に登場する呪文名。 O と ah は感嘆詞。

2010-03-17 (3) 20:00:48 +0900

「人頭税」の額は「人口」に応じて決まるから、「頭=口」だと考える人…

…はいないだろうか? その時代においては「頭=口」だった、 つまり、当時の人は頭に口がついていた、でもいいのだが。

「鶏口となるも牛後となるなかれ」を 「鶏頭となるも牛後となるなかれ」と間違って覚えている人がいるようなので。

2010-03-17 (3) 19:58:16 +0900

「破局」とは、郵便局の壁を破って押し入ることではない

字面から、そう想像する人がいるかとも思うけど。

2010-03-17 (3) 19:54:04 +0900

“家から学校へ”を登校といい、“学校から家へ”を下校ということ

前項を書きつつ思ったのだが、 “家から学校へ”を登校といい、 “学校から家へ”を下校というと、 「家は学校より下」ということになろう。

私の親の世代のころは「父兄会」と呼ばれ、 私が小学生だったとき「父母会」と呼ばれていたものは、 いまは「保護者会」と呼ばれると聞く。 「登校」「下校」も、使われなくなったのかな? あるいは、 天皇・皇族の場合だけ、か。

2010-03-17 (3) 19:45:46 +0900

一部のマスコミが「愛子さまが通学に不安を〜」と書いているが「通学」とは

……、行きの“家を出てから学校に着くまで”と、 帰りの“学校を出てから家に着くまで”のことを指すのでは? Google で 「"愛子さま" 通学 不安」 を検索すると、タイトル行のように書いているニュースなどが見つかるが、 学校にいる間のことが不安で登校時に不安感が、ということのようである。

ただ、その場合、「通学時」ではなく「登校時」の可能性が高い。 一般に、学校にいる間のことが心配な場合、 「下校時」には不安感は薄いと想像されるからである。

2010-03-17 (3) 19:16:25 +0900

バッハ「ロ短調ミサ」モーツァルト「レクイエム」ベートーベン「荘厳ミサ」

……の三つって、特に「三大なんとか」とかって呼ばれてなかったよな?

私の頭の中では、「三大ミサ曲」なのだが。

2010-03-17 (3) 19:07:55 +0900

「親衛隊」って字面は、八犬士の一人、「親兵衛」の名前に似てるな

本文ナシ

2010-03-15 (1) 23:57:29 +0900

ここから先は今夜あるいは明日未明にアップロードする。

2010-03-17 (3) 19:48:39 +0900

文語訳聖書に出る「教法師」を見て「狂法師」なる語を考えてみた

高レベルの僧侶系呪文を唱えてもくる狂暴な敵、かも。

2010-03-15 (1) 23:52:31 +0900

「近寄ってきた」と「地下寄ってきた」とは音が似ている

いつだったか、香林坊でほかの人たちが話しているが聞こえてきた。 どっちの意味だったかは、私にはわからない。

2010-03-15 (1) 23:50:48 +0900

回文「付箋敏捷」(ふせんびんせふ)

字音かなづかいによる回文。 「ふせん」を逆から読むことを考え、 「せふ」になる漢字を探して作ったもの。 付箋を敏捷にはりつけるという意味であり、一応、意味が通っている。

2010-03-15 (1) 23:48:39 +0900

ワーグナーの歌劇・楽劇に、ユダヤ人は出てきたっけ? 出ないよね?

本文ナシ

2010-03-15 (1) 23:44:57 +0900

「Ask me if ...」は「... かどうか尋ねてください」だが、「もしも」に…

…はならないんだろうか。「もしも ... なら私に尋ねてください」 と言いたいときは?

前項に書いた回の「実践ビジネス英語」のビニエットに、看護師が 「Ask Me If I've Washed My Hands.」 と書かれたバッジをつけているのを見たという話があり、 「私が手を洗ったかどうか聞いてください」 と訳されていたが、 「私が手を洗ったなら、私に尋ねてください」 の意味にならないのは常識によってだろうか?

2010-03-15 (1) 23:33:48 +0900

NHKラジオ「実践ビジネス英語」でマグニチュードを「地震の強さ」と説明

今年の一月 13 日水曜日放送分。テキストにはないが、 accidental pun の例として、杉田敏先生が 「Earthquake insurance is a question of magnitude in Japan.」 という文を紹介され、 「magnitude は地震の強さを表す『マグニチュード』ということですね」 と説明しておられた。

地震の強さは「震度」、規模が「マグニチュード」ではなかったか。

2010-03-15 (1) 23:11:49 +0900

一人で漫才コンビ二人分の物まねする人っていないのかな?

落語家が、昔の落語家のまねをするのはある。 一人で漫才コンビ二人分のマネをする、ってのはないのかな?

落語で漫才コンビを演ずるのってないのかな》 に関連。

2010-03-15 (1) 02:27:30 +0900

三つの行列の積 (AB)C が定義されるとき、A(BC) も定義されて両者は等しい

……と説明する必要はないだろうか? 「以下の公式は、 両辺がともに定義されるなら成り立つという意味である」 とだけ説明すると、(AB)C を A(BC) に変形する際、 いちいち A(BC) が定義されるかどうか確認しなければならないだろう。

もちろん、 「A(BC) が定義されるとき (AB)C も定義されて……」という逆も必要だ。

片方の辺が定義されれば他方も定義されて、両者は等しい、とまとめると、 AO = O が入れられない。右辺はいつでも定義されるが、 左辺は A の列の数と O の行の数とが等しくないと定義されないから。

2010-03-15 (1) 02:17:30 +0900

「祝祭」と「粛清」と、ちょっと音が似ているな

本文ナシ

2010-03-15 (1) 02:14:50 +0900

指環>最後、なぜハーゲンはブリュンヒルデのすることをただ見ているんだ?

本文ナシ

2010-03-15 (1) 02:13:42 +0900

きょうの補筆箇所

2010-03-15 (1) 01:56:58 +0900

スター・ウォーズ>ハン・ソロの名が「搬送路」に由来する可能性はないか

「ジェダイ」は「時代劇」の「時代」からきているそうで、 監督は日本語の単語を命名に利用しています。 ハン・ソロは、IV では密輸にたずさわっていたわけで、 荷物の「搬送路」からヒントを得てつけた名前、 という可能性はないでしょうか?

2010-03-15 (1) 01:42:42 +0900

回文「予定書いてよ」(よていかいてよ)

本文ナシ

2010-03-15 (1) 01:41:47 +0900

公比が虚数の等比数列・等比級数って、高校で習うんだっけ?

同じ式になるだけだが。

2010-03-15 (1) 01:39:49 +0900

Wizardry #5 の呪文名「アブリエル」は「炙り得る」とも理解できるな

本文ナシ

2010-03-15 (1) 01:38:38 +0900

「深酒」の反対は「朝酒」ではない。発音から「浅酒」と混同しないように

本文ナシ

2010-03-15 (1) 01:36:00 +0900

選挙の際、候補者名にふりがながあるが、あれも書かないと無効票になる?

そんなことはないと思うが。

2010-03-15 (1) 01:33:46 +0900

ニセの投票所を作り、入場券と生年月日を集めて不正投票に使うやつがいたら

ここが投票所ですと言って入場券を受け取り、 生年月日を言ってくださいと言って生年月日を聞き出す。 投票用紙を渡して投票させるが、それらはすべてニセものである。 そして、あつめた入場券と聞き出した生年月日でその人になり済まし、 正規の投票所で投票するのである。

石川県知事選挙の期日前投票の際、ふとそんなことを考えた。

2010-03-15 (1) 01:30:00 +0900

「3×4=12」を、4倍して3倍すると12倍したことになる、と解釈する

行列の積を、一次変換の合成と考えるなら、 ただの数は1行1列の行列と考えられ、こうなる。

2010-03-15 (1) 01:28:03 +0900

回文「石焼き芋も生きやしぃ」(いしやきいももいきやしい)

これも意味不明。

2010-03-15 (1) 01:26:22 +0900

回文「焼き芋も生きや」(やきいももいきや)

若干意味不明。

2010-03-15 (1) 01:24:56 +0900

-ab = a(-b) の証明が思い出せず、しばらく悩んだ

ab + a(-b) = a(b + (-b)) = 0, でいいのかな? 分配法則を使った。

2010-03-15 (1) 01:17:26 +0900

「線形」には線路の形の意味もあると知ったら「線型代数」と書きたくなった

いままでは「線形代数」でもいいと思っていたが。

2010-03-15 (1) 01:15:01 +0900

回文「食い逃げに行く」(くいにげにいく)

日本語としてやや不自然である。

付)食い逃げは犯罪です。絶対にやらないように。

2010-03-15 (1) 01:12:30 +0900

英語の aback と日本語の「あばく」は関係ないんだろうな

何かをあばかれて be taken aback, ということも考えられるが。

2010-03-15 (1) 01:10:15 +0900

R.シュトラウスの「サロメ」は「ザロメ」と発音されないのだろうか?

ドイツ語なら、Salome は「ザロメ」になると思うのだ。

2010-03-15 (1) 01:08:16 +0900

もしもヘロデヤの娘がヘロデの首を要求していたら

「ほしいものはなんでもあげよう」と言ってしまった以上、 そういう要求がくることも考えられるわけだが、 まあ、そういうことは考えなかったんだろうな。

この娘はサロメと呼ばれることがあるが、福音書の中では言及されない。

2010-03-15 (1) 00:48:17 +0900

有限集合の間の対応は行列に、その合成は積に対応。ただし要素は真と偽

写像になる前の、対応を考える。 つまり、集合 A, B に対し、 その直積集合 A×B の部分集合 R が与えられた、 とするのである。 (a,b) が R に含まれるとき、a は b に対応づけられたと言う。 a に対し b は一つに決まるとは限らないし、一つも対応していないかも知れない。 一方、集合 B, C に対し、 その直積集合 B×C の部分集合 S も与えられたとする。 このとき、二つの対応の合成を考える。 それは、「A の元 a が C の元 c に対応しているとは、 B の元 b が存在して a と b が対応し、 b と c が対応することを言う」と定義されるものである。

A, B, C が有限集合の場合、対応は行列で表わされる。 1 と書いたところは R, S に含まれ、0 と書いたところは含まれていない。

a_1a_2a_3a_4
b_11010
b_20100
b_31000

b_1b_2b_3
c_1001
c_2010
c_3100
c_4011
c_5101

このとき、対応の合成を表す行列は、二つの行列の積である。 ただし、0, 1 はブール代数の元とする。 すなわち、加法において 1 + 1 を 1 とするところだけが普通と違う。 あるいは、0 を偽、1 を真とし、乗法は and に、加法は or に対応する、と言ってもよい。

a_1a_2a_3a_4
b_11010
b_20100
b_31000
b_1b_2b_3
c_1001
c_2010
c_3100
c_4011
c_5101
a_1a_2a_3a_4
c_11000
c_20100
c_31010
c_41100
c_51010

2010-03-15 (1) 00:23:46 +0900

……ということは、 成分がブール代数であるような行列の積も、結合法則を満たすということだ。 証明は、成分を比べるだけだが、 ブール代数も分配法則・結合法則を満たすから、 普通の数を成分に持つ行列の場合の証明がそのまま通用する。

三つの集合が実数の区間の無限部分集合である場合、関係は長方形の部分集合となる。 その場合も、二つの関係に対応する平面の部分集合を並べて書き、 行列の積をとるようにして積を決めれば、合成に対応する長方形の部分集合が現れる。

2010-03-18 (4) 00:38:48 +0900

HTML>「colspan=rowspan="2"」とは書けないんだな

table の中で使用するものである。 「colspan="2" rowspan= "2"」 と書くのはめんどうなので一つにまとめられないかと思ったのだが。

2010-03-15 (1) 00:12:33 +0900

昨年十二月 30 日のNHKラジオ「実践ビジネス英語」は前の週の再放送

この日は水曜日だったが、前の週の金曜日の、第11課のまとめを再放送した。 31 日、一月 1 日は年末年始で放送がないためである。 もちろん、テキストには普通に一回だけ掲載され、 日付のところだけが倍近い大きさで、そこに 25 日と 30 日の両方が書かれている。

いま、そこまで聞いたところ。

2010-03-14 (0) 23:35:07 +0900

携帯電話版の広辞苑は漢字表記からひけるので便利。「悪口」の三つの読み方

……を知った。 「わるくち」「あっこう」は知っていた。 もう一つは「わるぐち」ではなく、仏教用語の「あっく」である。 (「わるぐち」も入れれば四通りになる。)

本で持っている第五版でも、あるいは携帯電話版の第六版でも、 「あっこう」をひくと“「あっく」をも見るように”となっているが、 同じ漢字表記「悪口」でそう読むことは、「あっく」の項目を見ないとわからない。 携帯電話版では、「悪口」と入力し、「前方」検索すると、 文字列「悪口」で始まる見出し語の一覧になる。 そこで「あっく」とも読むことがわかるのである。

(非常に候補が多い場合、十ずつ表示されるので、 あとのほうの単語に気づかないことがありそうだ。 たとえば「数」だと、 「数多(あまた)」で始まる4つの単語の次から「かず」と読むものが並ぶ。 「すう」は61番目に登場するので、この読み方に気づかない可能性がある。)

2010-03-14 (0) 21:27:52 +0900

「初体験」を広辞苑第六版は載せていない

携帯電話版は、「初体験」という漢字表記からひくこともできる。 それで見つからない。

2010-03-14 (0) 21:25:25 +0900

32 * 32 = 1024 は今回はじめて認識したような気がする

自然数の加法の結合法則から整数のそれを証明するには、全部で何通り?》 の中で、32 * 32 を計算してみて。

2010-03-14 (0) 21:22:18 +0900

続・自然数の加法の結合法則から整数のそれを証明するには、全部で何通り?

自然数の加法の結合法則から整数のそれを証明するには、全部で何通り?》 は失敗だったと気づいたので、書き直す。

自然数および 0 の加法については知っている人に対し、 整数の加法を、二つの数の正負・絶対値の大小で場合分けして教えるとして、 結合法則 (a+b)+c = a+(b+c) をどう証明するか、である。

a ≥ 0, b ≥ 0, c ≥ 0 のとき。 このときはすでに知っていることそのものである。

a ≥ 0, b ≥ 0, c < 0 のとき。 a+b は非負に決まっているが、b+c はわからない。 (a+b)+c も、a+(b+c) もわからない。 この二つは同じ値になるはずだが、それを証明するのが目的であるから、 同じであることを使ってはいけない。 よって、b+c, (a+b)+c, a+(b+c) の正負で8通りに分かれそうだが、 b+c ≥ 0 なら a+(b+c) ≥ 0 だから、次の6通り。

a ≥ 0
b ≥ 0
c < 0
b+c ≥ 0b+c < 0
a+(b+c) ≥ 0a+(b+c) < 0a+(b+c) ≥ 0a+(b+c) < 0
(a+b)+c ≥ 02, 2, -1 2, 1, -2?
(a+b)+c < 0? ?1, 1, -3

地に色がついているところはありえないところ。 数が三つあるのは a, b, c の例。 「?」もありえないところである。 (ただし、上でも述べたように、ありえないことを示さねばならない。)

a ≥ 0, b < 0, c ≥ 0 のとき。 a+b, b+c の正負でまず四つに分かれる。 a+b ≥ 0 のときは (a+b)+c ≥ 0, b+c ≥ 0 のときは a+(b+c) ≥ 0 だから、 全部で3×3=9通りである。

a ≥ 0
b < 0
c ≥ 0
b+c ≥ 0b+c < 0
a+(b+c) ≥ 0a+(b+c) < 0a+(b+c) ≥ 0a+(b+c) < 0
a+b ≥0(a+b)+c ≥ 02, -1, 2 3, -2, 1?
(a+b)+c < 0    
a+b <0(a+b)+c ≥ 01, -2, 3 2, -3, 2?
(a+b)+c < 0? ?1, -3, 1

a ≥ 0, b < 0, c < 0 のとき。 証明なしに使ってはいけないことだが、 a, b, c すべての符号を一斉に変えた場合と、場合分けの形は同じはずである。 ついでに、等号をどちらに含めるかも変えてしまおう。すると a < 0, b ≥ 0, c ≥ 0 の場合になる。 a と c は入れ換えても場合分けの形は同じだから、 a ≥ 0, b ≥ 0, c < 0 の場合と同じになる。

a < 0 のときは、同様に、a, b, c すべての符号を一斉に変えることで、 上のどれかに帰着する。

さて、結合法則の証明だが、 a ≥ 0, b ≥ 0, c < 0 で b+c ≥ 0, (a+b)+c ≥ 0 a+(b+c) ≥ 0 の場合を考えよう。 -c を c と書きなおすと、これは正の数。 (a+b)-c = a+(b-c) を示せばよく、ここに現れる引き算は、 仮定により、すべて結果は非負の自然数になる。 よって、非負の数しかしらない小学生がこれを示すのと同じことになる。 だからこれで OK としてしまうのが一つの考え。

もう一つは、引き算の定義に戻り、 (a+b)-c とは a+b ≥ c なので a+b = c+x を満たす非負の自然数、 と考える。 一方、a+(b-c) は、b = c+y を満たす非負の自然数 y に a を加えたもの。 両辺に a を加えると、a+b = c+(y+a) となり、 非負の数について「A+B = A+C ならば B = C」という事実により、 x = y+a が得られる、とするもの。

もう一つ、 a ≥ 0, b < 0, c ≥ 0 で、 a+b < 0, b+c < 0 の場合を考えてみよう。 a+b+c の符号はわからない。 -b を b と書きなおす。

b-a は、a+x = b を満たす数である。 a-b はそれに負号をつけた数 -x である。 (a-b)+c はそれに c を加えたものだから、 c-x または -(x-c) となる。 それが出てくることを期待し、上の等式の両辺に c を加え、a+x+c = b+c ... (1) としておく。

一方、b-c は c+y = b を満たす数である。 c-b はそれに負号をつけた数 -y である。 a+(-b+c) はそれに a を加えたものだから、 a-y または -(y-a) となる。 それが出てくることを期待し、上の等式の両辺に a を加え、a+c+y = a+b ... (2) としておく。

(2) の左辺と右辺を入れ換えてから (1) と辺々足すと 2a+b+c+x = a+b+2c+y となり、 a+x = c+y となるので、 c-x ≥ 0 ならこれから c-x = a-y を得る。 そうでなければ x-c = y-a となり、 負号をつけて -(y-a) = -(x-c) を得る。

正の数しか扱えなかったのははるか昔のことなので、 うっかり、負の数を扱っているかもしれない。 それでは、証明を間違えていることになる。

2010-03-14 (0) 19:25:16 +0900

ベートーベンにとってのニ短調とヘ長調

前項のようなことを考え始めた理由は、 ベートーベンの交響曲第九番ニ短調で、 ヘ長調は並行長調であるにも関わらず、ほとんど使われていないのでは、 と気づいたからである。

交響曲第六番はヘ長調だが、ニ短調の部分はあるのだろうか。

同じくヘ長調の、交響曲第八番にはニ短調の部分がある。 第一楽章の第 144 小節から。

2010-03-14 (0) 16:34:59 +0900

作曲家にとって、調性の間の相対的感覚は、十二音すべてについて平等か?

ここでいう作曲家とは、調性音楽が主流だった時代の、 いわゆるクラシック音楽の作曲家を意味している。

たとえば、ベートーベンはその一人である。 彼は、長三度上への転調を何か所かで使っている。 交響曲第五番第二楽章は最初の主題が変イ長調であり、第二の主題はハ長調である。 ピアノソナタ「ワルトシュタイン」第一楽章の第一主題はハ長調、 第二主題はホ長調。 交響曲第九番第三楽章は第一主題が変ロ長調、第二主題がニ長調。 では、同じ長三度上でありながら、 ベートーベンが使わなかった転調はあるのだろうか?

私は、音楽については、 CDを聞いて楽しみ、楽譜を見て理屈で考えて楽しむだけの、しろうとである。

たとえば、ある長三和音を聞いたとして、 その長三度上の長三和音を感覚として思い浮かべることはできない。 しかし、 長調の名前を言われたとき、少し時間はかかるかも知れないが、 その長三度上の長調の名前を言うことはできる。 たとえば、ロ長調の長三度上の調は、と聞かれたら、 ピアノの鍵盤を思い浮かべるか、 ロ長調はシャープが五つであり、 長三度上への転調はシャープが四つ増えるから全部で九つ。 その場合、フラットで書くのが普通であり、そのフラットの数は十二から九をひいて三、 よって変ホ長調、と答えることができる。 あるいは、 ベートーベンのピアノ協奏曲第五番変ホ長調の第二楽章がロ長調だったことから、 ロ長調は変ハ長調でもあるんだと考え、 ハ長調‐ホ長調が半音下がったものだから変ホ長調、と答えるかも知れない。 五度圏を時計にたとえて考えることもできよう。

だから、どの長調についても長三度上の長調を考えることができる、 あるいは、長三度上の長調が存在することは理屈でわかっている。

しかし、作曲家は、こんな風に理屈では考えないと思う。 からだにしみついているというか、直観的にとらえるというか、 そういうものではないかと思うのだ。 すると、ある長調とその長三度上の長調との組み合わせは、 意外と盲点になっていて、使われていない、ということがあるのでは、とも思うのだ。

「とも思う」と書いたのは、 そんな盲点があるようでは一人前の作曲家にはなれないのでは、 とも思うからである。

まだあと何十年かは生きるつもりなので、 ベートーベンとの“つきあい”も続くだろう。 機会があれば楽譜を買い足して、一生かけて考えてみよう。

付) タイトル行は、もっとうまく書けそうな気がするが、 思いつかないのでここで止めてしまった。「感覚」は「間隔」の誤変換ではない。

付) ベートーベンの話ばかりになってしまったが、ほかの作曲家についても同様である。 シューベルト「未完成交響曲」第二楽章のコーダでは、 ホ長調から一時的に変イ長調に転調する。 これも、減四度ではなく長三度上への転調であろう。

2010-03-14 (0) 16:03:56 +0900


すのもの Sunomono