日 記

(2011年3月)


<Welcome from Fukushima - Konno>

◇ 今日は3月の末日。いろいろのことのあった3月、ようやく末日になったと思います。3月11日を境に、日本、特に東北は大混乱。1000年に1度の大惨事。今日、来日したフランス・サルコジ大統領は、1945年以来、日本の最大の危機と評している。息を潜めた3月だったが、我が家は3番目の孫の誕生。男の子である。未来を託す生命の誕生は、希望の証である。
 研究室の震災による被害の整理で大学へ。途中、長い車列に並ぶことを覚悟してガソリンスタンドへ。何軒かはまだ閉店であったが、開いているスタンドは車列無し。ハイオクはなかったが、レギュラー満タン。42.34L。1L160円である。安心して大学へ。駐車場に着くと、携帯電話が鳴る。人事課からの相談。労働法上の問題。しばらく懇談。
 同じく研究室整理に来た先生たちと昼食を採り、久し振りの懇談。研究室の整理に入る。基本的には捨てるものを出していく形であるが、机等の本体が出てくると、地震でかなり床を移動していることがわかる。自宅の箪笥の移動と同じで、揺れ方の特徴かもしれない。焦らないで、進めることにしよう。入学式は5月9日に延期。
 帰宅する時間に、今日付けをもって退職する職員のAさんの離任の挨拶があるというので、彼の執務室へ。定年3年を残しての早期の退職。この間の、大学をめぐる動きのなかで、心身疲れ、30年勤務を区切りに退職するということである。教務畑に長く勤務し、まさに生き字引。私は、個人的にもお世話いただいたので、退職を思いとどまって欲しかったが、残念ながら、なかなか気持ちを変えられなかった。是非、新しい生活で、頑張って欲しい。ありがとう。
 3月から4月へは、別れと出会いの月だが、大震災・原発事故は、その気にさせない。安全を確保しながら、福島大学にきてよかったと言っていただくような努力をしなければならない。(3/31)<3410>


◇ 今日は、誕生した孫の退院ということで、妻と塩竃へ。水害で、命名の掲示紙がないというので、福島で調達。普通は、1週間くらいの入院だが、市内の産科医院が被災したこともあるのか、病院に受入れて、異常がなければ4日ほどで退院ということになり、早期退院です。2人の孫娘たちも、初めて、赤ちゃんを抱っこして感激。婚家のお祖母ちゃんが赤ちゃんを抱っこすると、2番目の孫娘(2歳)は、「ママの、ママの・・」と騒いでいる。ママの赤ちゃん、誰にもあげないと主張しているのかも。多くの従兄弟・従姉妹たちが避難している婚家。大人数の歓迎にびっくりしたようです。孫一家は、これからが戦争のような大変さ。支援もなかなか難しいが、がんばって欲しい。
 東部道は、まだ開通していないので、帰りも仙台東ICから入る。自動車道は快走だが、睡魔が強い。デイサービスの帰り時間に滑り込みセーフ。原子力研究者への問合せの回答メール、そしてそれへの対応。仙台の友人・弁護士からは、研究者としての原発事故への対応についての相談。教育者としての学生避難等の対応は進んでいるが、研究者としての役割については、お留守気味。自ら大変とは思いつつ、やはり現地の研究者としての社会的責任は避けがたい。何ができるか、社会科学研究者の即効的役割は少ないが、自然科学者と協働で、その役割を果たすべきとも思う。(3/30)<3385>


◇ 火曜日、今日は自宅待機で、身の回りの整理。余震は続いていますが、何か慣れてきたのは恐ろしい。
 原発の問題は、今日もニュースを占領。津波の被害からの復旧の一歩も報道されていますが、福島での原発問題は解決はしていません。不安な日々です。原発事故による産業・文化・教育等の危機、展望を見出せない状況です。
 飯舘村については、深刻なデータも出され、原子力研究者への問い合わせもしています。農業、水産業、そして私も宿泊したことある岳温泉(60Km離れている)の老舗温泉旅館も、原発の影響でキャンセルが相次ぎ廃業をしたとのニュース。観光業も含め大きな打撃を受けている。県内大学の入学辞退者も出ていて、教育にも困難が予想されます。
 原発事故が落ち着かないと、次のスッテップは難しいのですが、様々な条件を見通しながら、その危険とそれへの対応を見据えつつ、再建の段取りを確立していくことも必要でしょう。そう考えないと、精神的にもちません。粘り強く。青森空港から飛び立った飛行機の機長さん、マイクで「負けないぞ東北!」とアナウンスをしたそうだ。
 震災に対する外国からの支援も続々と来ています。女川町にもインドの医師たちが来ている。地域の連帯、世界の連帯・支援で、必ずや、平和で美しい日本を取り戻すことが出来ると確信しています。(3/29)<3347>


◇ 月曜日。大地震一週間後に予定されていた労働審議会が中止となったことの後始末で、労働局に寄りました。通常の新年度の行政方針や雇用開発計画関係が予定議題でしたが、県内の労働環境が、大地震・大津波・原発事故で、大幅に変更。予定された方針で新年度を迎えつつ、震災対策のために、改訂修正を予定せざるを得ません。現実的対応でしょう。
 安全を最優先としながらも、震災・津波・原発避難のために生じている労働問題に対して、行政は即座に対応していかなければなりません。原発30Kの範囲で働いている労働者は約6万人。「お給料はもらえますか?」等、切実な相談が来ているそうです。行政の対応として電話相談、避難所にいながら臨時などで働く職業紹介など、きめ細かな対応が緊要です。
 打ち合わせ後、大学へ。研究室の整理です。一挙には進みませんが、少しづつでも、進める必要があります。学生把握・避難の対策は順調に進み、今後の対応、新年度の準備を進める必要があります。
 Facebookで、その分野で指導的なお二人と交流を始めました。Twitterを通じて、同窓会の積極的な役員(民間企業で活躍している卒業生)が、メッセージをくれました。リツイートで答えるとともに、並行して、ダイレクトメールでより詳細を送信。さらなる返信のなかで、励まされました。「頑張らなくていいですよ。昔、今野先生に教えていただきました。嵐の日は、嵐が通り過ぎるのをまずはじっと待つのだと。心が段々と安らかになるのと歩を合わせながら、少しずつ。少しずつ。お嬢様は大変な中でのご出産でしたが、可愛いお孫さんを世に送り出してくださいましたね。それが何よりです。 」。こんなことを云った記憶はありませんが、社会の中で成長していく卒業生は、眩しい。
 茨城県に住む、女川の中学校時代の恩師(理科)から、電話をいただきました。かつて東北大の女川水産試験場におり、中学校で教鞭を執っていました。その後、東北大の教授になって、定年後、茨城県に。女川の津波の被害の話をしましたが、本当に心を痛めておりました。厳しい先生でしたが、田舎の中学校ではハイレベル。こんな環境で学べた幸福を感じますが、一緒に見た街の風情の一瞬の喪失には、言葉が出ません。
 高齢となられた恩師、そして先輩、自分、教え子、子ども、孫と綿々と引き継ぐ生命の灯火と、郷土への愛。何年かかるかわかりませんが、時間的・空間的に繋がる絆で、必ず復興できるでしょう。(3/28)<3311>


◇ 日曜日ですが、自宅から20キロ離れた給油所に、ガソリンの給油に行きました。今までは、レギュラー10〜20リッターでしたが、満タンまで可能で、ハイオクの48リッターを入れてくれました。実は、Nさんが、一昨日に数時間立って待ってくれて、整理券をとっていただいたのです。日曜日の6時から7時の間。5時半過ぎに自宅を出て、6時過ぎに到着。翌日の整理券の行列が出来ていました。Nさんの得がたい親切に心から感謝。
 自宅に戻り、8時半に、昨夕産まれた孫の顔を見に、塩竃へ出発。天候はよく、自動車道も混んではいませんでしたが、仙台南IC〜南部自動車道までは良かったのですが、東部自動車道の仙台東ICからは通行止め。やむなく一般道へ(45号線)。津波の被害で、流され多くの車の放置状態、漁船が陸上に横になっている、やっぱり港町は悲惨な状態。
 早かったので、他の面会者はいなかったが、窓越しに対面できました。同じ日に、3人が誕生らしく、同じように並んでいました。初めての男の子、鯉のぼり、キャッチボールの夢をプレゼントしてくれました。お姉ちゃんになった二人の孫娘も、初対面。自覚を高めているのでしょうか。
 孫娘一家が、地震以来、お世話になっている婚家に挨拶し、昼食をご馳走になって、一路、福島へ。朝が早かったせいか、睡魔に襲われ、蔵王PAで仮眠。何とか、一日の仕事でした。
 原発も、まだ緊張を解ける段階ではなく、地震津波の被害の後処理も中途半端だが、残された大学での生活の1年の活動の始動をそろそろ開始しないと・・・。明日は、月曜日。(3/27)<3281>


◇ 3月26日土曜日。明日の出産予定日を前に、朝、夫君から入院したとのメール。今か、今かと待っても夕方になりました。待ちきれず、メールで問い合わせ。4時半、助産婦さんが、もう少し見ましょうとのこと。5時半、分娩室に入りましたとのメール。6時、「産まれました。3206グラムの男の赤ちゃんです。**ママがんばりました。」とのメール。三人目の孫です。初めての男の子。男と分ったときから、「一緒にキャッチボールをするまで、生きたい。」と公言してきたから、がんばらないと。
 昼前に大学に行って、Nさん及びKさんと、学外で昼食。カロリーの高いトンカツの定食。私を励ましてくれているんだなと、その友情に感謝。ガソリン・灯油の調達に、いろいろ尽力してくれています。研究室の整理に入りました。2メートルくらい進みました。来年3月に撤退する時に、本の置くところがなくなるので、地震のせいにして、早めの整理に取り掛かりましょう。
 近所に住む、学生時代のサークル(セツルメント)の仲間から、ラナンキュラスの綺麗な花束が届きました。私の落ち込んでいる気持ちに対する励ましです。農学部を卒業して花屋を開業する、心優しい息子さん。ありがとう。
 ツイッターに、「産まれました」とツイートしたら、5分もおかぬ間に、6人から早速、リツイート・ダイレクトメールをもらいました。「新しい生命の誕生!! おめでとうございます。」、「おめでとうございます。地震にも負けない元気で強い人間に育ってくれればいいですね。 」、「おめでとうございます。素晴らしい。おじいちゃんは賑やかで幸せですね。 」、「お孫さんの誕生、おめでとうございます。なぜか知人・友人の間で、ここのところ出産ラッシュです。こんなに集中するのも珍しいかも。 」、「おめでとうございます。大切な命です。どうか健やかに育ってください」、「お孫さん、お誕生おめでとうございます。この社会へ、東北へようこそと思うと同時に、よい社会を創っていかねばと思います!私も3月末の生まれです。きっといい子ですよ!! 」。見ず知らずの人もいますが、皆さん、ありがとう!。明日は、早速、塩竃まで快走します。ガソリンは、愛の力で、あまり消費しないでしょう。(3/26)<3233>


◇ 女川から午後3時頃帰宅しました。東北道を北上するうちに、石巻方面は富谷JCTから仙台北部道路をという掲示があり、仙台南インターに近づくと、かなり枚数が多くなり、やはりそれに従う方が良かろうと思い、さらに北上。大和インターの近くだが、初めての走行。
 利府中ICと仙台東IC間が通行止め。東部自動車道でいつも走っているところだが、東部道路と北部道路の結節点を知ることになる。富谷JCTからそして利府JCTで三陸道。三陸道はスムーズに進んだが、情報通り、鳴瀬奥松島で一般車は一旦降ろされる。しかし、緊急用でなくても、「女川に行きます」と云ったら、緊急用と同じく通行証明書を出してくれた。そこから河南・石巻ICまで、無料で走行できた。
 女川までの道は、道端・田圃の中に津波でやられた自動車が多数。何か、近くの自動車解体屋さんのところのように、重なっているのもある。女川の街に入ると、空襲でやられた街のように殆んど壊滅。大きなビルも倒れて足を上げている。壮絶な様相。親戚のいる対策本部に行き、町長さんとも話すことができた。以前、子どもたちへの講演の際に懇談したことがある。教育長さんにも挨拶。何とか、女川出身者の力もお願いして、女川を取り戻したいものである。現場の人々にばかり任せて置けない事態、町が消滅するかどうかのような気もする。
 親戚に逢い、当時の話を聞くが、重機も殆んどなく捜索はストップ。まずは、生きている者の生活の確立が焦眉の課題。生きている者の励ましを目的にしていたが、それ以上にはならなかった。夜、土浦から電話。探していた従兄弟が、区長として一人住まいの高齢者を一人一人、避難させていた話をテレビで聞いたとの連絡。一生懸命、役割を果たしていた姿は、痛ましいけど誇り。
 写真では見た惨状だが、改めて、女川の潮の香りに、心は動揺。あの恐ろしい津波の海は、今日は何もなかったように平静。自然の脅威を感ずる。自然と共生する人間の暮らしをいかに確立するかが問題。(3/25夜)<3193>


◇ 金曜日。ガソリンも溜まったので、女川に行ってきます。家も何もなくなったらしいので、避難所住まいの親戚などの元気な顔と見て、励ましてきます。ツイッターで教えられて、仙台南インターからー仙台南部道路ー仙台東部道路ー三陸道を一応考えていますが、昨日、仙台から女川に行った親友のY君のメールに従って、大和インターからになるかもしれません。
 午前中、滞在し、夕方には福島に戻る予定です。従来は、今日は卒業式でしたが、中止になりました。残念ですが、がんばって社会に巣立って欲しい。(3/25早朝)<3160>


◇ 木曜日、午後の県庁での会議が予定されています。午前中を有効に使おうと思って、まずはガソリンスタンド待ち。2日連続の所に車列の最後尾へと思って行ったら、車列がありません。えっ?とガソリンスタンドまで行くと、整理券はみな配布済み。整理券を持っていない人は、給油できない。給油開始時間になっていないので、車列は皆無。
 見ると、反対側に昨夜は給油していなかったスタンドに車列があります。とにかく最後尾を探して繋がります。270番くらいの順番。今日は3000円上限。3日間通って40リッターほどが溜まったはずです。300キロ走行は可能。女川往復はまずは大丈夫だろう。今日から東北道が開通になったので、明日は女川に参りましょう。今となっては、捜索ではなく、がんばっている人を励ますだけ。物資はもって行きません。午後の会議の後、事務局長は、職員の皆さんが、私のガソリンが溜まりつつあると云ってましたといわれて赤面。この日記を覗かれたかな・・・??。恥ずかしい。
 午後の会議は、年度末なので、流れた先週の会議分と今週の議題を審議。こうした惨状のなかで、行政機関及び職員が、いかなる役割を果たすべきか、考えることが多い。地方自治体ではあるが、国家の政策の関連で生じている様々な問題、国家の力で、自治体の機能を復興すべきであろう。この困難を克服して、前進しなければならないだろう。
 口蹄疫・火山灰で苦しむ都城の友人、秋田の友人から励ましのメール。大津の研究仲間も寄せてくれた。ありがたい。(3/24)<3145>


◇ 水曜日、昨日約12Lで終わったガソリン給油。今日も、並びました。開店している限り、整理券はもらえると思い、朝、グズグズしていたのですが、出発。7時台に2回ほどの大地震(いわきは震度5)のために、少々、躊躇してしまいました。昨日は136番だったが、今日は371番の整理券をもらいました。何とか1時間で給油できましたが、やはり12L程度。雨だれのように溜めている感じです。
 震災後、研究室に行っていないので、そのまま大学へ。避難所支援でガスボンベが足りないというので、大きなダイユーエイトに行ったら、「完売です」と明るく答えられました。対策本部に連絡したら、電気店で購入したとのメール。凄い団結力です。大学に行って、研究室に入りました。怖れてたほどではありませんが、それでも足の踏み場もなく、廃棄処分しようと思っていたデスクトップの大きなマックは落下。今使っているパソコンは、ハードディスクが横倒しになっていましたが、何とか起動しました。生きていました。それでも惨憺たる研究室の様子です。
 研究室の整理は、今やることではないでしょう。最低限の措置をして後回し。学類長室の対策本部会議に寄り、皆さんの活動に触れてきました。研究室に居ることも出来ないのですが、学生や卒業生の安否確認、今後起こることに対する対策、教員の支援、避難所の支援、心を一つに真剣に取り組んでいました。誇るべき活動です。
 体育館及び学生合宿施設で避難生活を送っている、主に南相馬からの60人の方々。大学会館も使いながら、ボランティアの力も借りて、炊き出しのサービスを行っていました。教養演習のKさんもボランティアで頑張っていました。いわき出身なのでご両親は大丈夫かと聞きましたが、連絡を密にとっているようです。こういう困難な事態のなかで、成長していくと確信。
 早めの帰宅、途中でコープふくしまの本部に寄りました。この前、理事会の途中で大地震に襲われた場所。専務理事とコープの現状をお聞きし、今だからこそ生協の役割の大きさに同感。全国生協連からの支援者ともお会いできました。全国の支援が有り難い。短時間、お邪魔してる時間にも、全国各地のコープからの支援の連絡が来ていました。生協職員の安全にも配慮していただけるようお願いしました。大学・附属校園にも、豊橋技術科学大学等6大学から支援物資の届けられています。
 福島原発問題は、原発の爆発の処理の進行は進んでいるようですが、野菜や原乳、水道水の放射能の影響が深刻になってきました。直ちに健康被害が起こる値ではありませんが、福島県産の野菜などに出荷制限・摂取制限が出され、風評被害による福島の農産業 も心配になってきました。原発事故の押さえ込みが成功したとしても、信用を取り返すまでに多大の努力が強いられることになると思います。
 明日は、県の正規の会議がありますが、暖房もないので背広ではなく、暖かい格好で来てくださいとの連絡が来ました。周りで日常が回復されつつある気配ですが、郷里の捜索は、実際の成果はなかったとの連絡が来ました。我慢して、粘り強く進める必要があります。(3/23)<3107>


◇ 連休の後の出勤日のはずである。今日こそ、ガソリンをと思い、防寒の準備をしてガソリンスタンドに並ぶ。10時開店で、2時間の待ち時間は必要と聴いていたので、8時頃から2時間と思い、7時半過ぎに自宅を出発。
 長々しい車の列をみたので、まずはどこから続いているのか入口を見てから車列へ。芥川賞の小説を読もうと思い『文芸春秋』を持参。橋の上での駐車なので、大きな地震が来て橋が落ちたらヤバイと思いつつ、小説を読み始め。意外と早く、45分くらい経った頃、ガソリンスタンドの従業員が、整理券を配布。136番。1000台もいると思ったがそうでもないのかな。136番とツイッターでつぶやいたら、私は220番とリツイートが 帰ってきた。同じガソリンスタンドかなと、何か連帯感。
 しかし、2000円限度。私の車はハイオク専用車。10円程高いので、リッター数が少なくなる。自動車整備工場のUさんに電話。まあ、入荷始まっているから、リッター数が少なくてもハイオクでと。しかし、いざ順番になると、ハイオクはありません。仕方がない。レギュラー12リッターほどをいれる。まあ、一時的であれば故障はないだろうと。
 それでも、私の車は8キロ/L。渋滞抜きの90キロほどの走行だろうから、目指す女川の往路のみ。帰って来れない。気軽にはいけないし、却って足手まとい。即時の女川行きは諦めたが、街なかの銀行・日用品の買い物。放射能対策で、マスク・帽子など窮屈な格好。
 女川出身の大学学部の後輩(弁護士)が、聞きつけてメールを寄越した。父上は、女川の町議なので何かわかるかもということで、聞いてくれたが、結果は同じ。それでも、その親切にうれしい。彼は、東京からレンタカーで連絡の取れない両親の確認に走ってきたらしい。レンタカーは、仙台に返す。茨城の親戚からも、得られた情報の電話をいただいた。いずれにしろ、新たな事態の展開はない。明日、義姉の家の捜索を、親戚のもっている重機で実行するという。
 繰り返し起こる余震。原発への対応。津波の残酷さ。その確認の放送で、テレビ放送も占められている。オタオタしているのか、ホームページの改訂でミス。度々、改訂しているページは3枚だが、この改訂後の保存方法を間違うと、今までの所に上書きされて、本来のものが消えてしまう。自分で、<HTML>なんて入力しながらの手工業だからだと思う。そろそろ、簡単なホームページ作成ソフトを購入すべきか。しかし、このミスの連続は、年のせいもあるが、大震災・大津波・原発の三重苦のせいであろうか。郡山の友人に電話して、そのページのキャッシュを送ってもらった。ついでに、元気な声が聞けてうれしかった。「元気を出せ」と励まされた。友人は、困難な時ほど、有り難い。震災以来お休みだった、デイサービスも、明日から始まる。(3/22)<3071>


◇ 春分の日の夜は肌寒い。ガソリンがないと、Twitterでつぶやいたら、ガソリンスタンドの状況など、教えてくれた。インターネットが実生活と結びついている。今夜のNHKは、津波で離れ離れになった家族同士を、インターネットの力で、遠方の人の協力も得て、再会させた話は感動的。私の経験も、アメリカ、イギリス、北海道、横浜、遠方の人々との接点を、インターネットが、同じ思いを繋げてくれた。同感の番組であった。
 破壊された故郷を見て、「がんばろう!女川・・・」を立ち上げたが、励ましの文と短歌をメールで寄せていただいた。アクセスも、半日で80を超えた。夜のテレビが、卒業式で中学生が歌う「ふるさと」の歌を報道、私ももう一度口ずさんでみた。「兎(うさぎ)追いしかの山 小鮒(こぶな)釣りしかの川  夢は今もめぐりて 忘れがたきふるさと / 如何(いか)にいます父母 恙(つつが)無しや友垣(ともがき)  雨に風につけても 思い出ずるふるさと / 志(こころざし)を果たして いつの日にか帰(かえ)らん  山はあおきふるさと 水は清きふるさと」。こころに滲みる。(3/21夜)<3020>


◇ 今日は春分の日。暖かくなることを告げる日なのですが、冷たい小雨。原発事故による放射能の問題もあり、戸外に出るファイトが出ません。
 福島市の環境測定値は、今日の16時現在で7.26マイクロシーベルト/時間、測定値の高い飯館村でも10.70まで下がりました。3月15日の24.40と比較すると、順調に下がっています。もともと、胃のX線検診の放射は、1回で600マイクロシーベルトなので、健康被害にはならないと説明は受けていますが、段々、値が上がると気持ちはいいものではありません。
 そのせいか、戸外を歩いている人はみえません。何かゴーストタウンになったようです。家の中におとなしくしているのでしょうか。仙台の一番町が買い物客で、溢れているということを聴くと、遠い町の話のような気もします。
 そんな状況で、ガス欠の車を動かせず、傘を差して、合羽を着て、帽子を被って、マスクをしても、出て行くファイトが出ません。15キロ離れた大学の研究室の大地震での崩壊は、そのまま。気にかかりますが。
 大学で頑張っている人に悪いが、メーリングリストで、学類メンバーが避難所などサポート活動がリアルタイムで入ってきます。オムツがない、休日診療の歯医者は?、洗剤がない等など。悪いなあ。
 東京に仕事に行っている先生が、東京で買い物して大学に戻るが、何が必要か。やむを得ず、子どもを実家に預けに行って、一人とんぼ返りで帰ってきて必要な仕事をしている母親でもある先生方の話にも感心する。家に閉じ込められた子どものストレスもあるので、預けくるのは止むを得ないのであろう。事務職員は、職場の持ち場で忙しく、献身的に働いているはずである。
 こうした活動も、学長声明によれば、今後、50Km〜60Kmの範囲にある福島市の住民にも屋内退避、避難の指示が出されれば、それに従って動くことになろう。
 殆んど親元に帰ったが、ゼミ生(1年次21名、3−4年次18名)に向けて、私が作ったメーリングリストで、何かあれば、即連絡をすることを流したが、幸いにも何も来ず。何もなくても、一日に一回くらいは安全確認の安心メールを期待するとしたが、何も来ないのはちょっぴり残念(笑)。
 「がんばろう!女川・・・」のホームページを立ち上げたが、あっという間にアクセスは50を超えた。子どもたちが避難所生活を送っている女川で、小学校で被災3後日目から教育活動をしている先生方の話にも感動する。我が郷里・女川は確実に復興できると確信。
 今日、3月21日は、我々の結婚記念日。41回目である。娘たちも、同じ結婚記念日。私は、丁度、その日の3年前(大学卒業式の1週間前)に、母の告別式をやった。悲しいけど、そこを出発点としたのである。今日は、心が重い結婚記念日だが、未来に向けて、次のステップとしていきたいものである。(3/21夕)<2997>


◇ 肌寒い日曜日の夜です。今日、私の従兄弟の行方を捜索しに、仙台・塩竃の兄弟、そして北海道の息子らが女川に入りました。塩竃の従兄弟から、電話が来ました。昨日と同じで、私の2階建ての実家の屋根の2倍ほどの高さの波。その大きさに驚きます。新たな情報も得られなかったのですが、NHKニュースは驚きました。80歳のおばあさんと16歳の孫が、10日ぶりに救助されたのです。隣の石巻のことですが。こういううれしい話があると、奇跡も信じたくなります。
 原発問題は、厳しい状況が続いていますが、改善の光も感じます。勇敢な東京消防庁の方々の話を聞くと、人間の素晴らしさを感じます。敢えて、危険を犯しても、国民の安全を守りたいという使命感に心が打たれます。多くの住民が、故郷を一時去って、避難せざるを得ない、悔しさが伝わってきます。大地震、大津波、そして原発事故、故郷の破壊に心が痛む。自然と共存して、故郷を再生したい気持ちが強くなります。お金に換えがたいものです。前向きに、前向きに、進むことにしましょう。(3/20:夜)<2945>


◇ 今日は、日曜日。何度かの余震があるが、震度3では、誰も云わない。慣れではなく、次の揺れを見極めて行動を考えている。夜中にも、度々、揺れ動く。穏かな天気だが、大地震・大津波の結果・原発の状況を、真剣に見詰め、冷静に行動しようとしている。
 昨日、女川に入ることを試みましたが、ガソリンが入手できないのと、現地での有意味の行動の困難性から延期しています。金曜日の夜に、2台の小型トラックと乗用車に物資を積んで東京を発った甥は、新潟を回り、朝方、宮城に入り、石巻で仮眠ののち女川に入った。道路が入れないところもあり、何枚かの写真を送ってきた。女川病院の高台からの姉の家、実家、そしてお墓。壊滅状態です。重機がないと、行って手伝いが出来る状況ではなく、行方不明者の捜索にまで手が回らない。いま避難所等にいる人の生活支援で手一杯らしく、かえって迷惑をかけてしまうとの判断。もう少し、状況の判断をしたいと思います。
 こうして日記を書いているうちにも、2度3度と地震が来て(震度3〜4)中断、大学学類のメーリングリストからは、学生と連絡取れていない人の確認(避難所リストにありました)、日常用品の購入、体育館に避難している人のための歯科の休日診療の問い合わせなど、人間が生きていくことは大変なものです。こうした非常時に良くわかります。教員の半数近くは、福島不在のようですが、即座に反応があり、教員同士の一体感が醸成されています。人は、困難な時ほど団結・連帯できるのだと思います。
 大きな敗北感はありますが、負けてはいけない。1000年に1度の大災害。東北の粘り強さは、困難を克服して、必ず復興できるでしょう。一言いいたい人も多く、連帯感も強くなってきていので、臨時に、「がんばろう!女川 がんばろう!福島 がんばろう!東北」のホームページを作りました。ご意見を寄せて(ganbarou2011@gmail.com)いただければ、私の責任で、貼り付けることにしましょう。希望をもって進みたいものです。(3/20・11:10)<2910>


◇ 19日・土曜日の朝を迎えました。福島は快晴です。東京の甥が救援物資を積んで、2台の車(4人の搭乗)で新潟・山形経由で宮城に入り、親戚の小牛田から電話。また石巻に着いたとのメール。全く寝ないでの運転、仮眠をして女川に入ると連絡を寄越した。期待をしたい。大学からは女川の職場で働いている社会人学生が唯一、連絡がとれないというので、私が女川に入れれば調べてみたいとの返信をした。大学も大変。後期日程試験の合格発表。学生を郷里に帰し、留まる学生の全員把握。そして浜通りから原発から避難してきた住民の受け入れ(体育館)への支援、今後の展開時の準備等、緊急体制が敷かれている。私は、自分のことで精一杯で、不甲斐ない。
 私が探している家族の全国の友人たちが、私が探していることを知り、ご丁寧なメールを寄せてくれる。有り難い。じっとしておられないので、私と同じように、ネット検索をしてくれている。ある避難所に姉の名前があるが、という情報を書き込んでくれた方が居た。大きな期待をしたが、同姓同名が多いので、近くの住所で探されている方々にも同じ情報。その一つに無事の連絡を確認との書き込み。我が方ではないかとがっかりしたが、それを探している方とメールの交換ができた。その掲示の情報と、無事の連絡は必ずしもその掲示によるものではないと、教えてくれた。横浜の人が友人を探していた。いろいろ、励ましていただき、私も再度、パソコンに向かっているが、残念ながら、新情報はつかめない。
 やはり、いろいろあるが、現地に行こうと思い、ガソリンスタンド回り。すべて閉店していたが、3箇所の閉店のガソリンスタンドに長蛇の車列(トンネルの車線も塞いでいる)。ゆうに各1000台は越すだろう。いつ開店するかわからない。これは無理と判断し、帰宅して別の方法を考慮中。(3/19昼前)<2874>


◇ 18日の朝を迎えました。テレビは福島原発対応問題です。朝、グーグルの「消息情報」に出していた石巻在住の親友の無事を伝える書き込みがありました。H君ですが、女川時代からのバスケットの仲間で半世紀の友人関係です。今はサッカーの審判活動で、東北を回っているスポーツマン。親戚と同じくこの一週間、情報を求めていましたが、義妹の方の書き込みで、息子さんからの連絡で夫婦とも無事だということです。いやー、よかった。朗報が続いて欲しいとの期待も大きくなります。
 大学では、郷里に帰りたい学生のためのバス運行。そして今は、大学の体育館などに避難してきた方々へのサポート。寒さが心配です。ガソリンがなく、大学の遠いところに居住している者としては、地団駄を踏んでいます。家族・親戚の捜索と受け入れ避難者にに対するサポートをしたいのですが、身動きが取れなくています。(3/18朝)<2826>


◇ 今日・3月17日は、私にとっては特別の日である。大学卒業式の直前であるが、入院していた母が死んだ。命日である。私が22歳、母は48歳であった。その前後は、呆然として、展望のない日々だった。子にとって、親は特別の存在。この日は、忌み嫌うというよりも、何か母親との思い出の日。困難な仕事に直面した時は、「見守ってくれよ」とつぶやき、神頼みのような母頼み。
 大津波で被災した私の姉妹・従兄弟たちの捜索、何とか「頼むよ」といいたくなる。しかし、特別の進展もなく、普段付き合いの薄い従姉妹・従姉妹に電話。朝起きたときに、ツイッターのリツイートがあり、なんと従姉妹の長男。何とか母親に頼まれて、私と同じ捜索。何人かの身内と電話。夜、寝る前にグーグルの消息情報を見ると、今夜、探している姉と同姓同名の避難所のリスト。隣町の離れたところなので、信じがたいが、奇跡到来を期待して、藁をも掴む思い。奇跡であれば、母の力か?
 水道が出て、ライフラインが回復しかけたのに、灯油はしばらく配達できないとの電話。ああ、風呂に余り入れない。しかし、津波による避難所生活、原発ゆえの避難所生活を考えると、贅沢なのだろう。元同僚から、自分の家に親戚が避難してきたというし、大学も避難所をつくり受入れることになっている。テレビの映像が現実となる。この卒業・入学の最も忙しい時期、大学は、その社会的役割を果たす。
 原発は全日の番組。もう少し、冷静な視点で進める必要もあろう。福島県が全国に迷惑をかけ、難民のように考えられてはいたたまれない。首都圏の7割の電力を供給しながらも、その危険を請け負い、迷惑がられてはいたたまれない。県内経済、県内教育等、大きな停滞が出なければいいがと、危惧している。(3/17)<2823>


◇ 16日夜になりました。寒さが戻り雪が降り始めました。テレビは、福島原発爆発の事故のニュース一色です。期待した水道給水の再開はなく、戸外にあまり出ないほうがいい、ガソリンはない、家の中は水がなくて、体までギスギスしてくる。
 未だ安否の確認ができない、姪の友人が、私のwebへの書き込みを通じて、情報も得られた。姪の連絡は未だにないが、2人娘の下(次女)が助かったということの情報を得る。それ以外は進まない。仙台から再度、女川に入って探すという。寒さが厳しくなり、心配は増す。
 普段、疎遠がちの従兄弟と連絡を取る。ネットで見つけた私の従兄弟の妻の避難所での名前の掲示。北海道からも、その情報を喜んでいたが、父親(従兄弟)の情報はつかめない。困難が増すほど、人の絆の温かさを感ずる。明日に期待して。(3/16夜)<2784>


◇ 水曜日を迎えました。昨日一日、津波被災地・女川の親戚情報は、あまり進みませんでした。ただ、同じように探す人々からの連絡の輪が広がりました。
 探している実姉の婚家先の親戚の方が、私のネットでの捜索を見てメールを寄越しました。母親を探しているアメリカのミネソタ在住の方ですが、返信をすると日本在住のご姉妹の方からの電話もありました。女川にいるときは面識はなかったのですが、話で辿るといろいろの共通の関係者を知りました。情報交換の約束ですが、知っている限りの情報は出しても、確実の手がかりがありません。しかし、同じ思いで、遠くから女川とその住民を見つめている人々がいると思うと、励まされます。
 偶然、女川在住の姪が、石巻に出てきて、電話で提供してくれた情報を伝えました。具体的な成果に結びつけばいいのですが・・・。現地・女川の通信手段(携帯など)の復帰がなされれば、かなりの情報把握が出来るのですが・・。
 地震・津波の困難に重ねて、特に福島原発での爆発事故が、住民に大きな不安をもたらしています。テレビはその件に、ほぼ専有されました。放射能汚染問題に関連して。原発の20キロメートル内の住民の他地域への避難、20〜30キロメートル範囲内の住民には屋内待機の方針が示され、津波の捜索も進まず、家族を探し続ける住民には、加重の困難。まさにトリプルパンチ。東京にも放射能が観測されたというので、それはX線による健康診断より低い量ですが、ますます国民の不安感を増大させています。
 福島市は、50キロ前後の範囲ですが、状況によっては、我々も避難が必要なのかもしれません。青森の父親が、原発の危険を避けるため、福島に迎えに来て、いつ福島から戻るか分らないとのゼミの学生(1年次生)からの連絡。えっ、その段階かとも思いましたが、夜、同僚から新潟に避難しているとの電話。想定外でした。私の情勢の鈍感さからかもしれません。北海道への避難を、有難くも受け皿を申し出て勧めてくれる知人も出てきましたが、放射能の状況も見ながら、手遅れにならない状況判断が必要でしょう。移動にもガソリンも不足していますし、まだその段階ではないと思います。その点では、行政の避難指示に信頼しようと思っています。今、見ているテレビは、福島市での放射能が高くなっているとの報道がなされました。新たな指示があるかもしれません。
 私には、少なくとも、余り遠くには離れたくない事情もあります。宮城の津波被害の捜索、孫(第3子)の誕生が寸前など、近くにどうしても居たいというのが本音です。そして、常に被害・犠牲を押し付けられる住民、危険の中でも働き続けなければならない住民・労働者とともに居たいという気持ちです。
 ライフラインは、電気が点いて、随分楽になりました。電源を原発に依存している現実は変わりません。複雑な感じです。あと、水道の開通を待つだけです。(3/16朝)<2757>


◇ 一日、行方を捜すべく、何度もインターネットに向かう。安否の分らない親戚だけでなく、小中学校以来の親友の安否を尋ねる。共通の友人のY君から電話(ようやく仙台から開通)。サッカーの審判で活躍している彼だから、判断と機敏さで、大丈夫と思いつつも、心配で堪らない。
 夕方、東京の甥にメールをしたら、現地から受け取ったメール内容と女川の実家の写真を転送してくれた。無残だ。大津波に子ども時代からの見慣れた風景が、一瞬に壊された。悔しい。実姉、義姉、従兄弟の安否は、今だ未確認。不安がますます増幅する。どうするか、悲しいけど、一人冷静に考えようと思い、夕食後、早めに二階の書斎へ。
 階下から妻の声が聞こえる。7時のNHK全国ニュースで被災地・避難所でのインタビューを受けているのは、実姉の長女・私の姪(ケアマネジャー)。最初のテロップの写真で気がついたので、その後の本番が出てくるかと待っていて、そうだとなった。元気に働いている姿を見てうれしい。他の者の安否を知りたかったが、結果は同じであろうか。大きな不安を抱えながらも、しっかり仕事をしている。今後、交通の便を考えながらも、現地に向かいたい思いである。明日から寒さがぶり返すようだが。(3/14A)<2715>


◇ 地震発生から3日目。月曜日の朝を迎えた。地震発生から67時間ほどが過ぎた。云ってみれば週末の3日間だったが、長い時間が経過したようにも感じる。
 地震の規模は、はるかに大きく、M8.8から9.0に修正された。1000年ほどに1回の地震規模らしい。1000年前は、鎌倉時代のはるか以前。すべての人が初体験は当たり前。被害は、殆んど津波による。宮城県だけでも、死者が1万人を超えるのではないかという。
 福島市は津波とは無関係だが、私の郷里の宮城・女川町が心配。女川には、実姉の家族、実妹の家族、義姉の家族の三家族や、従兄弟家族など親戚が多い。報道が余りされていないので、少し油断していたが、今日の朝日の朝刊の全面を使った女川の惨状。完全に孤島化して、情報さえ伝えられない。
 弘前の二女とメールで情報取得を相談してネット対策を行い、また東京にいる義姉の甥と連絡が取れ、現地に近い姪などとの連絡の結果、義姉の家族は義姉が連絡取れず、また実姉家族は全く情報が入らない。インターネットやツイッターで、情報を求めているが、今のところ無し。避難所にいる可能性が高く、そう信じたいが、心配・不安でいたたまれない。ガソリンもなく、道路も不通になっているらしく、地団駄を踏んでいる。
 福島は原発(東京電力)の多いところ。第一原発6基、第2原発4基の10基が設置されている。そこで原発事故の発生(爆発)。周辺の住民の避難が開始した。福島市にも避難所が設けられた。大学も火曜日まで閉鎖されて、教職員学生は自宅待機。止むを得ない外出にはマスク着用。原発立地の危険が、思いもかけず具体化。女川の原発(東北電力)は、その危険はなかったらしいが、地震・津波・原発事故とダブルパンチである。
 津波の惨状の写真、原発の恐さ等、まさに地獄のような環境。善意で、福島から移住してはどうかと勧める知人もいるが、そんなことは夢想だにできない。女川ー仙台ー秋田ー福島と東北で生まれ、東北で育てられて今日がある自分にとっては、いかに惨状の写真を見せられても、この町を子どもの時の懐かしい町に戻さないと死に切れない。50年前のチリ地震津波のときも女川は襲われた。仙台に在住し始めた時で、現場に立ち会えなかった。その後原発も立地された。しかし、今回の破壊と比べたら規模は小さい。今回は、まさに焼け野原の感じ。自分の歴史が打ち消されたようで涙が止まらない。今は、捜索と救援の時期だが、犠牲が大きくとも再興をしていかなければならないだろう。
 そうした現場の厳しさと打って変わって、土曜日・日曜日は穏かな快晴の福島。一人住まいの知人宅に寄り、お世話になっているディサービスに立ち寄る。ホームページでは倒壊と書いてあったが、2階の物品に影響が出て、2階の入所者を階下に集合、お世話していた。しかし、水がなく、職員の勤務に影響(ガソリン欠)も出て、大変な状況。職員も家族のことと職場のことを両方の負担。大変だけど、命を預かる大事な仕事。頑張って欲しい。午後、昨日に続いて近くの支所で給水の列に並ぶ。電気が通り、自宅の井戸からの水を供給してくれる様子が多く見られ、人の善意・連帯感にうれしくなる。
 同じ空の下で、困難と闘っている者と穏かな生活のアンバランスの不条理に心が痛む。ガソリンスタンドを探すが、閉店。開店情報はあるが、数時間待っても5〜10リッター限定。動こうにも動けない。
 今朝、高台にある婚家に身を寄せている塩竃の孫娘一家から電話。ようやく電気もついて電話も開通。孫娘の元気な声も久し振りに聞いた感じ。どんな精神的な影響を与えるか心配だったが、大丈夫そうで一安心。
 今日の午後、臨時教員会議が学外で開催されるが、その前にゼミ生の安否情報を把握して欲しいというので、教養演習(21人)と専門演習(18人)にメーリングリストで連絡を要請。それぞれ18人と17人の無事を確認。(他も電波事情によるものだろう)
 あらゆる公的会議等がキャンセル。デイサービスも休業。一つ一つ、処理しながら、正常化への道を進まなければ。しかし、余震は未だ続いている。(3/14@)<2701>


◇ 昨日の大地震から自宅で避難生活をしていましたが、今晩、ようやく電気が復旧し、水道はまだ出ていませんが、生活のかなりの部分が復旧しました。食事、風呂などま未だですが、明るい気持ちになっています。
 昨日(11日)は、大学の研究室で仕事をし、午後1時半からのコープふくしまの理事会に参加しました。1時間ほどの報告の後、審議が開始し、珍しく、発言して回答を受けていた矢先、グラグラと動きました。なかなか止まりません。さらに強くなるような様子。机の下に潜り込む方もいましたが、促されて、外に出ました。揺れは止まりません。多くの職員・客が外に出ていましたが、大きなワゴン車がグラグラと揺れています。地面が動きます。こんな経験は初めてです。専務に付き添われて書類等を取りに会議室に戻った時には、火災と同様、水が一面に撒かれ始めました。
 会議が中止となったので、理事長にも断って、自宅で一人で留守番している高齢の義母が心配なので、車に飛び乗り、倒れたブロック塀を横目で見つつ、渋滞の道路を避けて自宅へ。どこかで親指の脱臼で、運転しづらい。火事にはなっていないが、家の中の家具倒壊で怪我をしているのではと恐れました。玄関を空け、大声で呼んだ時に、返事が返ってきたときには、ホットしました。余震もあるので、戸外に出て凌ぎましたが、妻も仕事場からタクシーで帰宅。車で、3人で妻の仕事場に届け物をし、市内を大きく回周して帰宅しました。
 家の中の家具の倒壊はありませんでしたが、食器が落ちて破損し、本棚からは多くの本が落ちて足の踏み場もありません。1階を、何とか寝れるようにして、ろうそくを灯して、懐中電灯を使っての生活。停電と水道の断水。暗闇の中ですが、2,3分毎の余震もあり、殆んど眠れません。
 一晩あけると、特に津波の犠牲者が多く、1000人以上の犠牲者のようです。郷里・女川の親戚が心配で、何度も電話をしているのですが、なかなか連絡が取れず、今になっています。多分、無事とは思いますが、心配になります。国内最大級のM8.8。
 大惨事の翌日が嘘のように、好天です。何か売ってないかと近くのコンビニに行きましたら閉店。しかし、途中の支所の前では、長蛇の列。車の整理の人に聞くと、水道局の給水車からの給水。自宅に戻って、給水用の容器をもって参りましたが、水をもらうまでには2時間半。吾妻連峰・安達太良連峰を見ながらの列ですが、晴れていてもさすがに寒い。テレビでは見たことありますが、初めての経験。
 午後は、一人住まいの知人に寄り、開いている店はないかと探しましたが、電気店(電池など)やコンビニが開いていました。残品整理です。停電のため、軟いアイスを買うわけにも行かず戻り。ただ、福島原発事故で、近辺の住民に避難指示。停電のため、テレビもラジオもなく、携帯電話も電源が切れ始めて、足元の情報が分らない。安い携帯ラジオはなかったのですが、思い返して買ってきました。久し振りのニュースを聴いたいたら、隣近所に電灯が点いている。なかなか、給水の情報も、電気復旧も情報取得の方法が分らない。やはり、待たないで開いている店を探すことができるように、自治体のサービスも知ることができるようにありたいものである。歩ける人、地域に知り合いが多い人はいいが、何らかの方策がありそう。県議会で聴いた「買い物弱者」問題で、コープ理事会で質疑したが、こういう災害時こそ、生協の存在価値があるのではないかとも考えた。
 研究室は壊滅的らしいのですが、まだ大学に行っていません。今日は入試・後期日程試験でしたが中止。研究室の惨状は、予想はしていますが、足が重い。
 宮崎・大津・松山・長野・サンフランシスコ・ブラジル・学生等など、安否確認のメールがきていて、ようやく返事を書く余裕ができた。明日は、何とか正常化への一歩を歩みたい。(3/12)<2672>


◇ 午前中は大学に出て、「卒業研究報告集」を、研究室を訪ねてきた卒業予定者並びに在学生に手渡しながら、今後の話をしました。現3年次生も、民間は既に就職戦線、真っ只中です。自分の関心あるテーマで、時間を忘れて追求して欲しいと思うのですが、度々の面接対応に、ピリピリしていて、可哀そうな気もします。
 午後は、県庁での会議。年度末のせいか、課題が山積しています。帰宅後、珍しく地方公務員法等の条文を引っ張り出しています。民間の労働法と異なり、公務労働の法理論については、検討すべきことが少なくありません。新たな研究課題が広がり、ワクワクするところですが、それに向かうファイトを維持し・強化したいところです。
 予想していた会議終了の時間が、30分長くなり、ディサービスからの迎えの時間に間に合わず、寒いところに立っているのではと急いで県庁から帰りましたが、妻の仕事からの帰りの方が若干早く、なんとか滑り込みセーフで間に合ったようです。結果がよければすべてよしということでしょう。(3/10)<2648>

 


◇ 昼前の地震でびっくりしてしまいました。震源は三陸沖。高層ビルぼど揺れる周波だそうですが、8階の研究室、ゆったり揺れるので、研究室から廊下へ。不安定な小物は落ちました。宮城北部は震度5弱。福島は3くらいでしょうか。塩竃と郷里の女川の津波も心配なので、娘と姉に電話で安全を確認。一週間は、余震がありそうです。
 昼休み、組合分会主催の退職者の送別会。立食パーティですが、屈託ない談笑です。いろいろ、昔の思い出も出ました。
 先日、お母さんを亡くされたM先生が、岐阜での告別式をおこない、挨拶に寄ってくれました。84歳ですので、まだまだ若い。4年間、岐阜から福島に引き取って、息子に見守られて静かに眠りにつかれたようです。しばらく、年老いた親との関わり、そして自らの辿る道を話し合いました。
 寒さがぶり返してきて、春の気の緩みが、また引き締められた感じです。風邪を引かないように。(3/9)<2625>


◇ 天気が毎日変わりますが、今日は晴天です。研究室で執務。専門演習のMLを使って、今は研究室にいるので、都合がつく人は「卒業研究報告集」を取りに来るように流しましたら、来たのは1人。みんな大学から離れて、動いているのでしょうか。ホームページに掲載していた今までのゼミ生の「卒業研究テーマ一覧」の手直し。現物があるものは、執筆者の名前と照合できますが、探さなければならないものもあります。学生の名前を見ると、懐かしくいろいろ思い出します。途中中断しましたが、ゼミ20年間の成果でしょうか。TwitterやFacebookに登場することを待っているのですが、2人で止まっています。
 昼休み、組合分会主催の学習会に出て勉強してきました。経済経営学類の小山先生の「TPP」の話。TPPは殆んどアメリカとの関係。中国・韓国を含む場合には、状況が変わるが、今のままではかなり厳しい。農業自体だけでなく、農村、日本の食文化との関係で、興味ある話でした。グローバル化を押しとどめることは出来ないが、産業と国民の生活・食文化をいかに守るか、他国では、都市を支えてる農村を守るため、意識的に人を農村に投入して支えている政策の紹介もあり、なるほどと納得。政治的評価だけではなく、客観的な視点で勉強してみたい。
 夕食後、今朝の民報の記事を妻に教えられる。同僚(卒業生)の父上が、「技能グランプリ」紳士服制作部門の第一位(厚生労働大臣賞)に輝いたとのこと。福島県勢では始めて。加藤清春さん・71歳です。半世紀以上の修業の結果である。同僚に早速お祝いのメール。コンテストは16回目。今までは前日から緊張して眠れなかったが、今回は「不思議によく眠れ」て、本番中も最後まで平常心で挑戦できたとのこと。やはりなるべくしての結果と思う。
 5年前、学長就任の際は、礼服(モーニング)を作らなければならないと、同僚に相談して、結果的に父上に作っていただいた。4年間の入学式と卒業式の8回のみ着用と思っていたが、創立60周年記念式典と歌会始への参列(皇居)で10回。何とか、付き合っていただいた礼服、名人の腕による宝物である。私は、職人に憧れる。小さい頃から私の周りにも職人は多かったが、職人に真の実力を感じる。また、紳士服を作っていただきたいと思うが、その場はないかもしれないが、夢でも持ち続けたい。(3/8)<2608>


◇ 昨日と打って変わって雨の月曜日。鬱陶しい。午後から雪に変わりました。
 ファイトが漲らない一日です。お世話になっている知人に、駅で書類を受け取ったような気がしたのですが、手元にないので、あるいはと思って、確認のメール。そのような話は出たのですが、受け取らなかったことを確認、安心しました。話題だけを覚えていて、最後の詰めを忘れてしまいました。年のせいでしょうか。
 昼食を買いに生協に行ったら、ベトナムで働いている卒業生と会いました。一時来日することは知っていたのですが、今日の午後は、県の会議で逢えないと思っていたし、メールでそう伝えていたのですが、逢えたのは偶然です。私的にもお世話になったので、県の会議の後、夕食をと誘ってみたのですが、郷里の岩手に帰る予定とのこと、残念。パワフルな卒業生(女性)です。
 午後の仕事は、県議会の一般質問に付き合いました。5人の議員が20分ずつ、総括的な質問をして、県執行部が答えます。聴いていると、福島県の諸課題が、さらにはっきりしてきます。5時頃までの長時間です。
 夜、Facebookを通じて、卒業生からのメッセージ。2人の子どもさんを抱えて、東京で健気に頑張っている姿が伝わってきます。そんなに頑張らないで、心にゆとりをと返事を返しましたが、明るい人だから大丈夫でしょう。明日は、晴れそうです。(3/7)<2584>


◇ 晴天の日曜日です。今日一日は、孫娘宅の手伝いで、車で塩竃へ。快走のドライブ。高速料金2700円が日曜割引で1000円。ガソリンの値上げがあるが、高速料金が安いのは助かる。
 それほど時間を置いていないのに、2歳と4歳の孫娘の成長振りには驚く。やはり、iPadに関心を引き付けた。無線ランがなく、それほど面白いことは出来なかったが、取り込んである写真や絵本・動く図鑑(無料)で遊ぶことができた。天気がいいので、近くの広場に出かけ、ボール投げや縄跳び、いろいろ走り回ることもできた。
 痛ましい幼児の殺人事件のニュースが流れる中、子どもの安全・安心の不備は他人事ではない。
 夕方、戻りの東北道。渋滞はないが、車の台数は多い。快い疲れで、早めに休むことにする。(3/6)<2563>


◇ 土曜日は、4週間ごとに通院。取り立てて悪いわけではないが、成人病関係の検査チェック。優秀な数字ではないが、水際で抑えることができれば。ついでに、物忘れや人違いが気にかかるので、何か重大な病気の前兆かと、主治医に問いかけたが、あまり請合ってくれなかった。ちょっと神経質かな?
 病院の後、大学へ。研究室で、同僚が相談事で来た。昼頃O先生が、構内をウォーキングするというので、同行。好天気で気持ちがいい。
 午後、Facebookを操作して、10年ほど前にブラジルから留学に来て帰国して活躍しているFさんに、友だち申請したら、30分もしないうちに顔写真つきのメッセージが来た。Twitterと異なり、実名・顔写真が原則なので、懐かしい。
 こちらも、さらけ出すのは躊躇があるが、匿名性のネットワークはおぼつかない。勝手にフォローができるわけではないので、相互に承認していないとすすまないので、宣伝というよりも、交流目的かも。(私は10人程度だが、ブラジルのFさんは1000人ほどの「友だち」。こうなると強力な宣伝・通信手段だ。)北アフリカの動向を作り出した手段に気になって仕方がない。
 Twitterは、フォローしますというお知らせが来るが、自己紹介をみると数万人のフォロー、あるいはフォローされている方も多い。これでは、全く情報収集にはならないのでは。また、有名人は、フォロー0、フォローされている人は数万と。これは、全く情報収集皆無で、宣伝媒体のみなのだろうか。多くフォローすると、ほとんど読まないで済んでしまう。こうした手段は、自分にとっての必要性で利活用すべきで、振り回されてはならないのだろう。
 明日は、早めに宮城・塩竃までのドライブ&孫娘たちとの交流。睡眠を十二分にとることにして、休むことにしよう。(3/5)<2545>


◇ 朝方は、本格的な降雪。いつもより渋滞のため、同乗の妻の仕事には10分ほど遅刻。油断禁物。
 研究室で、卒業研究報告集の製本完成物を受け取る。未就職者(内定者)もいなくなったので、今年度の専門ゼミはほぼ完了。来年度に向けて準備を開始しなければならない。
 午後は、県議会に出かけ、本会議の一般質問を聞くことになった。5人の質問者が、ほぼ20分の制限内で多数の項目を質問。執行部が、総括的には知事だが、各担当部局長が答弁をする。良く聴いていると、県政の大きな柱(争点)が分り、勉強になる。4月の統一地方選挙による議員改選に向けて、4年間の総括という性格を感ずる。
 Twitter、Facebookを見ていると、卒業生が探し当ててくるのが楽しみ。今日も、2001年3月卒業のゼミ生が、子どもと一緒の写真を飾って、Facebookで連絡を取ってきた。用事があれば連絡をとれるが、用事がなくても元気な様子がわかるのが面白い。
 ラジオ講座で、<return to the nest>(親元に帰る)の説明の中で、<empty nest>(空になった巣=子どもが飛び立って老夫婦のみの家庭)を紹介していたが、思わず苦笑。明後日の日曜日は、塩竃の孫娘宅に行こうと思っている。日曜ウォーキングの代替だが、しかし100キロ歩くわけにも行かないので、日曜ドライビング。持参するiPadでの、孫娘たちへの絵本読みは喜んでくれるかな?多分、内容ではなく、機械に興味をもって、二人で取り合って、壊されないようにと気が疲れるかな??私の大事なおもちゃ!!(3/4)<2518>


◇ 3月3日、ひな祭りの日です。朝起きると雪、我が庭も雪一面。うっすらですが。
 予定されていた業務がないのと、雪に怖気づいて、自宅研修と相成りました。有意義な仕事は、家族の送迎くらいかな。街場に行くと雪が少ないのですが、我が家周辺は、自転車で行くのは無理。
 昼前から夕方まで自宅にいると、セールスの電話が多い。子どもから利用を呼びかけられた統合スケジュールの作成、また覚束ないFacebookの入門書を見て改善しようと打っていると時間が過ぎる。TwitterとFacebookの世界が拡大していると、遅れないように、使用法が気になる。自らに制限をかけないと、のめり込む危険。まあ、ワープロが出たてのころは、夜中の3時頃までやっていたと睡眠不足の同僚が多かったが、使用方法・利用方法が安定すれば、落ち着くでしょう。まだ、「不思議」の域を出れば、慣れてくることでしょう。
 大学入試問題事件は、マスコミのトップニュースになっているが、仙台の予備校生が逮捕された。後がなく、追い込まれた結果なのだろうか。「偽計業務妨害罪」該当だが、大学入試での他の不正行為での制裁とのバランスはどうだろうか。古典的カンニングではなく、携帯電話によるカンニングが、携帯電話の爆発的普及の中で、監督の困難さを予測させたからだろうか。40数年前の国立大学の入試は、1期・2期に分かれていたが、1期は3月3−5日だったろうか。私が受験した仙台は、この日はいつも春の雪に見舞われるジンクス。携帯電話もない時代なのだが、夢や希望だけは大きかったような気もする。
 受験地獄の中で、学力が向上しているかといえばそうではない。国際比較の中でのことだが。国内の各都道府県の序列も、行政にとっては大きな関心。一つは学力テストの向上(序列向上)、他方は難関校(大学)への入学者数。二つは、相矛盾するところがあるが、序列化に、我々は弱い。子どものもっている能力を、どれほ伸ばす(Educationする)ことができたかの成果は、きわめて明確・一義的ではない。教育の成果は、それほど明確なものではない。「米百表」は、学校を造り、子どもたち全体の知的レベルの引き上げを、長期的展望で決断したことと理解するが、今の教育行政は数年の結果で右往左往しているように見える。一番の犠牲者は子どもであり、教師ではないのだろうか。受験での不正行為をいかに防止するかの対策だけでなく、現在の教育の在り方についての真摯な検討が求められているように思われる。(3/3)<2497>


◇ NHKニュースは、大学入試流出問題を大きく取り上げています。夕方には、ホームページに投稿した携帯電話の持ち主が判明したようです。単独では難しそうなので、まだ真相は分りませんが、事情聴取を受けているのは東北の受験生らしく、少々、暗い気持ちです。入試になると、国中、ピリピリとしていますが、大学で何を身につけたかより、いかなる大学に入って、卒業したかという所属が重視される社会の有様にも大きな問題がありそうです。
 研究室で勉強していると、まだ就職の決まっていなかったゼミ生が訪ねてきました。地元の社会福祉法人に決まったと報告に来てくれました。1年にも及ぶ悶々とした就職活動に心が痛みます。最後は、地元のハローワークに何度も連絡して、面接を受け内定しました。待遇は初任給も県庁職員なみで、大変ですが、なかなか大学卒が来てくれないので、大いなる期待で受入れられました。期待に応えて、今からが勉強と思って頑張るよう、励ましました。
 これで我がゼミの卒業生5人は全員就職内定(1人は、就職再挑戦で留年しますが)。公務員(地方自治体)3人と社会福祉法人2人です。「結果よければすべてよし」、「最後に笑う者は最も笑う」、ということですが、その結果を得るための勉学への影響、また精神的なロスを考えると、異常な事態には変わりはありません。
 同僚のMさんから、母上さまのご逝去(84歳)の電話。遠方から引き取って、夫婦で介護を続けてきましたが、残念です。いろいろ業務多忙の中、親孝行されたと思います。ご冥福をお祈りしています。(3/2)<2483>


◇ 3月になりました。
 研究室で、おとなしく勉強。昼食の生協で、久し振りに監事のT先生にお会いできました。わざわざ本学の教育研究評議会に出席のため来ていただいています。私自身は、国立大学全体並びに本学の情報に疎くなってしまいましたが、政権交代における高等教育政策の不安定さも分りにくくしています。今までの努力の蓄積を生かしながら、粘り強く進む必要があります。
 午後は、早めの帰宅。iPadの活用で、和書(絵本が一番)のダウンロード、クラウドに入れておいた研究の途中経過を引き出して、少し遊びと研究の結合の見通しができそうです。
 世は、携帯電話による「大学入試問題」の漏洩(?)で、その技術的な方法も含め、解明が進んでおらず、他大学の入試でも不安が渦巻いています。北アフリカの激動も含め、情報機器の発展と社会の関係について、考えるべきことが多い。残された1年を有意義にするために、この3月を頑張りましょう。(3/1)<2462>


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