シリーズ紹介
オランダ人外交官だったロバート・ファン・ヒューリックの手によるこのシリーズは、唐代の中国を舞台とした異色のミステリです。中国の文学及び歴史の研究者でもあったファン・ヒューリックは、中国独自の探偵小説である“公案小説”の魅力にとりつかれ、歴史上の人物である狄仁傑{ディーレンチエ}(狄判事/ディー判事)を主役とした作者不詳の公案小説を英訳し(『Dee Goong An』(狄公案))、さらに自分でも公案小説の形式を借りた作品を執筆するようになったのです。
シリーズ最大の特徴としては、長編一作の中で狄判事が三つの事件を扱い、それらが微妙に絡み合って物語を構成しているという点が挙げられます。公案小説に則ったこの形式によって、最終的に大きな事件や陰謀が浮かび上がってくるところが実によくできています。
また、主人公の狄判事はもちろんのこと、忠義心に満ちた老人・洪亮{ホンリャン}(洪警部)、荒事をこなす豪放な馬栄{マーロン}に喬泰{チャオタイ}、賭博や詐欺に関する知識に長けて弁舌もすぐれた陶侃{タオガン}といった副官たちなど、登場人物もそれぞれに魅力を備えています。特にディー判事が、正義の実現という理想と人間的な感情の間で苦悩する人物として描かれているため、単なる勧善懲悪にとどまらない深みのある物語となっています。
作品紹介
前述の『Dee Goong An』を除いて、ファン・ヒューリックの作品としては長編14冊と作品集2冊があり、すべてハヤカワ・ミステリ(ポケミス)で刊行されています。このうち長編については、大きく二つに分けることができます。
まず、初期の五つの長編(『東方の黄金』・『水底の妖』・『江南の鐘』・『沙蘭の迷路』・『北雪の釘』)はシリーズ第1期ともいうべきもので、狄判事が首都を離れて知事(知事は判事を兼ねる)となる『東方の黄金』に始まり、それぞれの任地(いずれも架空の都市)をめぐった後、『北雪の釘』に幕を閉じる年代記となっています。
一方、作中の時系列としては第1期の五つの長編の間を埋めるような形になっている第2期の作品では、任地を離れた場所で事件に遭遇するというパターンが多いようで、そのために必ずしも副官たちが全員登場するとは限りません。また第1期でみられた“三つの事件”という構成も、一部の作品ではやや崩れ気味になっています。結果として、初期作品の独特の魅力がやや減じているように感じられる部分もありますが、決して作品の出来が劣っているわけではないと思いますし、むしろすっきりした形でより読みやすくなっているともいえるでしょう。
前述のように、このシリーズは“狄判事年代記”という性格が強いので、出版順ではなく作中の時系列に沿った順序で読むことをおすすめします(以下の各編の紹介で、長編については作中の時系列に沿って並べてありますので、ご参考までに)。あるいは、上述のシリーズ第1期となる五つの長編をとりあえず読むというのもありでしょう。いずれにしても、まずは『東方の黄金』から手に取ってみてください。
東方の黄金 The Chinese Gold Murders
[紹介]
都を離れ、知事として港町・平来{ポンライ}に赴任することになった狄仁傑。旅の途中で二人の信頼できる部下も加わり、任地へ到着して早々に前知事の毒死という怪事件の調査に着手しようとするも、裕福な商人の妻の失踪事件が政庁に持ち込まれ、また政庁の役人も行方不明となり、さらには恐るべき人食い虎が跋扈するなど、次々と難題が降りかかってくる。前知事の幽霊までもが出没する中、事件の解決に挑む狄判事は……。
[感想]
(最初に発表されたわけではありませんが)“狄判事年代記”における記念すべき最初の物語です。都の友人たちに別れを告げる場面から始まり、老僕・洪亮だけを伴った旅の最中、忠実な副官となる馬栄・喬泰との出会いが描かれているところは、シリーズのファンには見逃せないでしょう。
知事として初めての任地へ意気揚々と赴いた狄判事ですが、何をおいても前知事の毒死事件を解決しなければならない上に、早々に失踪事件が相次ぐなど問題は山積。しかし、地道な捜査を積み重ねた末に、手がかりをつなぎ合わせて少しずつ“何が起きたのか?”を再構成していく狄判事の手際はなかなかのものです。
そして絡み合った事件の背後に浮かび上がってくるのは、巧妙に隠された大きな陰謀。その実体が半ば暴露されてからも、少しずつ明らかになっていく細部が工夫されているのが目を引きますし、決め手の一つとなる前知事が密かに遺した手がかりが実に秀逸です。
終盤にはそれなりのサプライズも用意されていますし、前知事の幽霊などのオカルト的な要素が物語にうまく取り入れられているのも面白いところで、非常に充実した盛りだくさんの内容といっていいのではないでしょうか。
2007.09.16 『東方の黄金』読了
螺鈿の四季 The Lacquer Screen
[紹介]
都へ出張した帰りに風光明媚の地・威炳{ウエイピン}を訪れた狄判事と副官の喬泰は、身分を隠して休暇を楽しもうとしていた。だが、挨拶しようと訪ねた当地の滕{トン}知事は、何やら心配事を抱えているらしく様子がおかしい。やがて町へ出た狄判事と喬泰を追いはぎだと思い込んだ怪しい男が声をかけてきたことから、二人は町を牛耳るごろつき一味の元に身を寄せることに。そして町はずれの沼地で女性の死体が発見され、滕知事は螺鈿で四季を描いた漆の屏風にまつわるいわくを語り、狄判事は事件の渦中に巻き込まれていく……。
[感想]
狄判事と喬泰が出張帰りの休暇を取ろうと訪れた観光地・威炳で起きた事件の顛末を描いた作品で、観光を楽しむ暇もなく早々に事件に巻き込まれてその解決にいそしむ狄判事の姿は、悪と不正を見逃すわけにはいかないのは理解できるとしても、少々ワーカホリック気味に映ってしまうのは否めないところ(苦笑)。
もっとも本書の場合、あくまで当地の滕知事以外には身分を明かすことなく“おしのび”で通し、追いはぎに間違われた挙げ句に町のごろつき一味に厄介になることで、(羽目を外しているとまではいいませんが)いつもの謹厳な仕事ぶりとは一線を画した大胆な捜査に及んでいるのが、大きな見どころといえるでしょう。
事件の方は、序盤に滕知事の法廷に持ち出される“自殺”した絹商人の事件と、町はずれの沼地で発見された女性の死体をめぐる事件とが中心になっていきますが、そこに滕知事が語る漆の四季屏風にまつわるいわくが絡んでいく上に、狄判事と喬泰の身辺に怪しい人物が出没することもあって、複雑な様相を呈しているのが見事なところです。
個人的な事情を抱えて精彩を欠く滕知事に代わり、事件の糸を解きほぐしていく狄判事の八面六臂の活躍は見ごたえがありますし、終盤には任地外ながら陪席判事として法廷に立ち、伏せてきた身分を明かして裁きを行うあたりは、(悪人相手に見得を切る場面こそないものの)某時代劇を思い起こさせるもので、ある種のカタルシスを味わうことができます。
最後には、事件の裏に隠された意外な真相が解き明かされるとともに、苦い真実に直面した狄判事の複雑な胸中がクローズアップされ、その人柄が強く印象づけられる結末となっています。“おしのび”という立場ゆえにシリーズ中ではやや異色といえますが、個人的にはかなり好みの一作です。
2009.12.30 『螺鈿の四季』読了
水底の妖 The Chinese Lake Murders
[紹介]
湖水のほとりに横たわる漢源{ハンユアン}の知事となった狄判事は、地元の名士たちに招かれて船上の宴席に参加した。その席上、狄判事に近づいてきた美しい芸妓が密かに告げたのは、この地で進行しているという恐るべき陰謀の存在だった。だが、詳しい事情を聞き出す間もなく、芸妓は湖水に突き落とされて溺死してしまったのだ。さらに政庁には、新婚早々の花嫁が殺害されたとの訴えがあり、しかもその死体が棺の中から消失するという事態に。難事件を抱えながらも、巨大な陰謀に迫ろうとする狄判事だったが……。
[感想]
狄判事の第二の任地・漢源は、様々な怪異譚の伝わる湖水のほとりの街とされており、冒頭に配された導入部(*1)からしてほとんど怪談といっても過言ではなく、続く物語本篇も狄判事自身が水中に死体を発見する場面や棺からの死体消失など、比較的怪奇色の強いものとなっています。
赴任してきたばかりの狄判事を歓迎する船上の宴で物語は幕を開けますが、早々に美しい芸妓・杏花が陰謀の存在を囁いたかと思えば、その杏花がわずかな隙に何者かに殺害されるという慌ただしい展開。とまれ、現場からは犯人も逃れようのないクローズドサークルということもあって、狄判事が宴席を臨時法廷に仕立ててすぐさま容疑者たちに尋問を開始するのが見どころです。
その事件及び陰謀に関する捜査がさしたる進展を見せる間もなく、今度は花嫁の急死と死体の消失が明るみに出るわけですが、それをきっかけに浮かび上がってくるのが「訳者あとがき」でも言及されている(*2)父娘の絆というテーマで、娘を失った嘆きと怒りをほとばしらせる父親は無論のこと、それとはまた違ったありようの父娘がさらに作中に配されることで、コントラストをなしつつ物語の軸となっているのが印象的です。
物語の中盤あたりでは、本書から新たに登場した陶侃が、狄判事の副官となって早速の、しかも馬栄や喬泰とは一味違った活躍を見せているのがシリーズのファンとしてはうれしいところ。しかしそのためというわけでもないのですが、終盤に差しかかる前の意外に早い段階で事件のある程度の部分が見えてくるきらいがあり、少々あっけなく感じられるところもあります。
とはいえ、いよいよ国家を揺るがす陰謀の存在が物語の焦点となり、知事という立場の中間管理職的な悲哀を感じさせる部分も含めて、狄判事がこの上ない窮地に追い込まれる終盤は圧巻。そしてそこからの実に鮮やかな逆転と、冒頭の導入部への微妙なつながりを感じさせる、印象深い結末が見事です。
2001.12.18 『中国湖水殺人事件』読了
2009.10.13 『水底の妖』読了
雷鳴の夜 The Haunted Monastery
[紹介]
任地の漢源{ハンユアン}へと戻る途中の山道で嵐に遭い、立ち往生を余儀なくされた狄判事一行。やむなく、近くにある道教の寺院“朝雲観”に一夜の宿を求めることになったが、そこでは近年、三人の娘が命を落とす事件が起こっていたのだ。そして狄判事は、鉄兜をかぶった男が片腕の女を抱きすくめようとする異様な光景を窓越しに目にする。さらに朝雲観の前の観主の死にも不審があるらしい……。
[感想]
いわゆる“嵐の山荘”テーマを意識したのか、ほとんど寺院の中だけで物語が進んでいくという、このシリーズにしては異色の作品です。もっとも、クローズドサークル内で次々と殺人が起こるというわけではなく、どちらかといえば過去の事件の方が中心となっているのですが……。
例によって三つの事件が扱われていますが、舞台が舞台だけにそれらのつながりがわかりやすいのがやや残念。また、最後の真相もかなり見えやすいのではないでしょうか。ミステリとしての見どころは、真相へとつながる意外な手がかりでしょう。
風邪気味で本調子ではない狄判事ですが、何者かに命を狙われながらも、一晩で事件に決着をつける活躍ぶりです。しかしその結末は、何ともいえない後味を残すものとなっています。同時に、狄判事の人間味あふれる姿が強く印象に残ります。
江南の鐘 The Chinese Bell Murders
[紹介]
新たな任地である蒲陽{プーヤン}に赴任してきた狄判事は、前知事が残していった強姦殺人事件の審理を引き継ぐことになった。殺された娘と密かに懇ろになっていた書生がすでに捕らえられていたが、狄判事は一見明白な事件の裏に隠された真相を暴き出す。さらに、広州の豪商である林{リン}家と梁{リヤン}家との間に横たわる長年の遺恨の解決に尽力する一方、異様なまでの繁栄を見せる仏教寺院・普慈寺に隠された秘密を探ろうとする狄判事だったが……。
[感想]
第三の任地・蒲陽における、狄判事の最初の活躍を描いた作品です。この蒲陽時代に関しては本書から『観月の宴』まで五作の長編が書かれており(*)、“狄判事年代記”の中でも最も重要な時代といえるかもしれません。そして、本書で初登場して狄判事の悪友となる、隣の金華{チンフア}県を治める羅{ルオ}知事の存在も見逃せないところです。
本書で扱われる三つの事件はいずれも公案小説からとられており、事件相互の関連は薄くなっています。それもあって、最初に『中国梵鐘殺人事件』を読んだ時には“物語全体を貫く要素がみられないため、やや散漫な印象”
との感想を抱いたのですが、本書に付された和爾桃子氏による「訳者あとがき」中の、“中国における家族とその継承がもたらす葛藤”
が経糸になっているとの指摘にはなるほどと思わされました。
本書の帯には“シリーズ史上最大の難事件”
と記されていますが、これは事件の謎が難解だというのではなく、都の上層部にまで食い込んでいる人物や勢力を相手としなければならないため、事件を解決すること自体が困難だということを意味します。そのために、確証をつかむための綱渡りのような捜査や、捕らえた相手を確実に追い詰めるためのトリッキーな法廷戦術が、謎解き以上に本書の大きな見どころとなっています。
一歩間違えれば自身に危難が及びかねない窮地を、いつも以上に見事な裁きで乗り切る狄判事ですが、それぞれに陰惨な部分をはらんだ事件は、その胸中に重い苦悩を残します。しかし、その狄判事をあるべき道へ導かんとする、鮮やかなラストシーンが実に印象的です。
なお、巻末「訳者あとがき」の最後の項では、本書の邦訳に絡んだ“新事実”が紹介されており、シリーズのファンとしては驚かされました。
2001.12.20 『中国梵鐘殺人事件』読了
2008.09.10 『江南の鐘』読了
白夫人の幻 The Emperor's Pearl
[紹介]
端午の節句を祝う蒲陽{プーヤン}で行なわれた龍船競争の最中、大観衆の目の前で、先頭を争っていた船で鼓手をつとめていた男が急死した。検分の結果毒殺だと判明し、現場に居合わせた狄判事は早速調査のために夜の巷へ繰り出す。ところが今度は、郊外の廃屋で若い女性が惨殺される現場に遭遇してしまった。しかも二人の被害者は顔見知りで、どうやら二つの事件にはつながりがあるらしい。さらに、かつて宮廷から消え失せてしまった皇帝の真珠までが絡んできて……。
[感想]
今回登場する副官は洪警部(洪亮)のみで、最初から最後まで狄判事がほとんど一人で活躍するという形になっています。
物語は少々複雑で、若い男を生け贄に要求していた河の女神“白夫人”と、遙か昔に失われてしまった皇帝の真珠という二つの伝説を背景に、今ひとつとらえどころのない連続殺人が展開されます。事件の背後に潜む黒幕につながる糸が次々と断ち切られていくあたりはかなりじれったく感じられますし、動機もはっきりせず事件の様相もなかなか定まらないため、何とも落ち着かない気分にさせられます。
しかし物語終盤、狄判事が容疑者たちと対決する場面の緊迫感は見応えがありますし、思わぬ伏線が生きてくる急転直下の解決は圧巻です。そしてまた、あれやこれやの小道具が巧みに使われているところも見逃せません。
陰惨なものが残る事件ではありますが、狄判事の推理を裏切る結末によってそれが幾分か緩和されているのが救いです。
紅楼の悪夢 The Red Pavillion
[紹介]
副官の馬栄とともに、歓楽地として名高い極楽島を訪れた狄判事は、そこで出会った友人の羅{ルオ}知事に事件の処理を押しつけられてしまう。狄判事が宿泊することになった紅堂楼の、その名の由来となった紅色の寝室で、失恋した若い博士が自殺した事件だった。だがその夜、博士の失恋の相手だという美しい妓女が、狄判事が留守の間にその部屋に忍び込んで急死したのだ。さらに、その部屋では30年前にも町の顔役が不可解な死を遂げたという……。
[感想]
先に邦訳された『観月の宴』と同様、本書でも狄判事は羅知事に仕事を押しつけられることになります。お調子者ともいえる羅知事と対比されて、堅実にして剛毅な狄判事の性格が際立っているようにも思いますが、この二人は意外といいコンビなのかもしれません。また本書では、狄判事の副官である馬栄の大活躍にも注目です。
物語の中心となるのは、紅堂楼の紅色の寝室を舞台にした三つの事件で、いずれも密室状態ではあるものの、密室トリックに重点が置かれているわけではありません。本書の最大の見どころは、時を隔てて同じ場所で繰り返される怪事件をめぐるプロットの妙にあるといえるでしょう。狄判事と馬栄の調査により、少しずつ事実が明らかになっていくものの、パズルのピースが一つ足りないような、どこかしっくりしない感覚が最後までつきまとうのですが、それに一気にかたをつける最後の真相は、実に鮮やかです。
鬼気迫るような結末は、人により好みがわかれるところかもしれません。しかし、そこで最後に再登場する羅知事の調子のよさが、シリーズのいつもの雰囲気に引き戻してくれているのも見逃せないところです。
真珠の首飾り Necklace and Calabash
[紹介]
難事件を解決した後、休息を求めて江城の町へとやってきた狄判事だったが、町にある皇室の離宮からお召しがかかった。離宮に滞在中の皇帝の息女・第三公主から直々に、盗まれた真珠の首飾りを見つけ出してほしいと命ぜられたのだ。皇帝から賜ったその首飾りは、何者も許可なく立ち入ることのできない離宮内で、ほんのわずかの隙に消え失せたのだという。第三公主が離宮を立ち去る期限が迫る中、狄判事は必死に手がかりを追い求めるが……。
[感想]
相互に絡んだ三つの事件が起こるものの、明らかに“首飾り盗難事件”が中心に据えられているため、かなりすっきりした感じになっています。盗難の実行犯は比較的早い段階で明らかになるものの、肝心の首飾りがなかなか見つからず、期限が迫っていることもあって、狄判事にもかなり焦りの色が見えます。
試行錯誤の末にようやく真相をつかみ、おもむろに身分を明かして事件の背後の陰謀までも暴き出す解決場面は、これまた某時代劇を思い起こさせる鮮やかさ。そして首飾りの隠し場所も非常によくできていると思います。清々しさを感じさせるラストも印象的です。
ところで、 → 訳者の和爾桃子氏からいただいたメールによれば、漢文的な言い回しとしては必ずしも奇異なものではない、とのことなので、お詫びして取り消しておきます。大変失礼いたしました。“汚名挽回”
(94頁)という誤用はいただけません。
観月の宴 Poets and Murder
[紹介]
州都での会議の帰途、友人の羅{ルオ}知事に誘われて金華{チンフア}の町に立ち寄った狄判事だが、到着早々に、茶商人宅の間借人殺害事件に遭遇することになった。一見物盗りの犯行とも思えたが、狄判事と羅知事は直ちに計画殺人であることを見抜く。捜査が難航する中、当代きっての詩人たちを集めた晩餐が催されたが、今度はその席上で若い舞妓が惨殺されてしまう。微妙に絡み合う二つの事件には、過去の秘められた事件が影を落としているらしいのだが……。
[感想]
『江南の鐘』以来の友人である羅知事の招きに応じて金華の町を訪れた狄判事が、例によって難事件に遭遇しています。
間借人殺しを計画殺人と見抜く手がかりはまずまずですが、全体的に本格ミステリとしてはあまり見るべきところはないようにも思えます。しかし、現在の事件と過去の事件が巧妙に組み合わされた、深みのあるプロットそのものは、非常に面白いものになっています。解決がやや決め手を欠いているのは残念ではあるものの、最後の告白はそれを補うだけの迫力を備えています。
その他、窮地に陥った羅知事を助けようと奔走する狄判事の奮闘ぶりや、中国文人たちの興味深い生活など、見どころは多く、シリーズのファンであれば十分に満足できる作品です。
沙蘭の迷路 The Chinese Maze Murders
[紹介]
西方の辺境・蘭坊{ランファン}に知事として赴任することになった狄判事。だが、町は銭茂{チエンモウ}という悪党にすっかり牛耳られ、政庁も例外ではなかった。狄判事は早速町の治安と秩序の回復に乗り出したが、どうやら銭茂の陰には正体不明の黒幕がいるらしい。引退した老将軍が密室で変死した事件の謎、失踪した巡査長の娘の行方、さらに亡くなった元都督が遺した山水画と別荘の迷路に隠された秘密を探るかたわら、黒幕を追い求める狄判事だったが……。
[感想]
作中の時系列では後半になるものの、シリーズで最初に執筆・刊行された記念すべき作品で、改訳となる本書にも初刊本に付された江戸川乱歩氏の解説(加えて『中国迷宮殺人事件』に付された松本清張氏の序文)が再録されています。内容の方も充実しており、個人的にはシリーズ中ベストといってもいいように思います。
狄判事の第四の任地となる蘭坊はウイグル族の版図と境を接する辺境の町(という設定)で、中央からの監視が行き届かないのをいいことに、土地の豪族である銭茂の支配下に置かれているという状況。かくして狄判事は、何よりもまず銭茂の捕縛と腐敗した政庁の立て直しに着手することになり、物語はシリーズ中でも随一のスピーディな展開で幕を開けます。
そして、銭茂の陰に隠れた黒幕の正体と企みを一つの軸としつつ、そこに密室内の変死・山水画と迷路の秘密・巡査長の娘の失踪という三つの事件が絡んでいく――ただし巡査長の娘の失踪はやや比重が軽くなっている感がありますが――シリーズの定型がすでに構築されており、特に関係者の入り組んだ関係はなかなかの見ごたえがあります。
ミステリとして興味深いのは密室内での変死事件で、純粋に密室ものとしては少々面白味を欠いているきらいがありますが、ミスディレクションや犯人の意外性などには工夫が凝らされており、全体としてはなかなかよくできているというべきではないでしょうか。また、事件に絡んで明らかにされる狄判事の副官・喬泰の過去も、シリーズのファンとしては見逃せないところです。
片や、題名になっている迷路の秘密はやはり秀逸。財産相続に関わるだけに宝探しのような様相を呈しているのも確かですが、実に巧妙な手がかりが配置されることで、謎解きとしても十分な魅力が備わっています。同じく作中に迷路が盛り込まれたミステリとして名高い、泡坂妻夫『乱れからくり』と読み比べてみるのもまた一興ではないでしょうか。
2009.04.14 『沙蘭の迷路』読了
紫雲の怪 The Phantom of the Temple
[紹介]
辺境の地・蘭坊{ランファン}の知事をつとめる狄判事は、赴任前に当地で起きて未解決のままとなっている、勅使黄金盗難事件の調査に手を着ける。だがその矢先、郊外にある荒れ寺・紫雲寺で、無惨に断首された男の死体――生首と胴体が発見された。男は地元のやくざ者で、同じ境内で寝込んでいた友人が、喧嘩の末に殺害に及んだとして捕縛されるが、狄判事は疑問を抱く。さらに、偶然手に入れた黒檀の小箱の中に謎めいた走り書きが……。
[感想]
先に起きた『沙蘭の迷路』の事件を解決してから半年、町が落ち着いたこともあって、仕事熱心な狄判事は未解決事件の調査に着手します。が、その途端に立て続けに事件が起こり、たちまち忙しくなってしまっているのが何ともいえないところです。
折悪しく副官たちのうち喬泰と陶侃が不在ですが、その穴を埋めるべく馬栄がみせる大車輪の活躍が本書の見どころの一つです。が、荒れ寺に出没する幽霊や異教の儀式など、苦手な怪力乱神(?)相手には大いに苦労していますし、いつものように女性に弱いところも物語の中にうまく組み込まれていると思います。
三つの事件が絡み合うのは例によって例のごとくですが、本書ではシリーズでも一、二を争う複雑怪奇な構図となっています。最後まで読み終えてからじっくりと吟味してみると、正直なところ少々やりすぎではないかと思えてしまうのですが、読んでいる間はさほどそれを感じさせないのは、プレゼンテーションの巧みさゆえでしょうか。特に目を引くのが、解決の直前に狄判事が容疑者たち一人一人について検討を行う場面で、多重解決風の仮説の積み重ねが実に要領よく展開されているのが秀逸です。
手段は比較的シンプルながらなかなか巧妙なトリックも使われていますし、盗まれた黄金を求める宝探し的な興味もあるなど、様々な要素が盛り込まれた結果として、シリーズの中でもかなり面白い部類に入る作品に仕上がっていると思います。
北雪の釘 The Chinese Nail Murders
[紹介]
狄判事の今度の任地は、寒さ厳しい北方の地・北州{ペイチョウ}。さほどの事件も起こらず、平穏な日々を過ごしていた狄判事だったが、それも長くは続かなかった。骨董商人の妻の首無し死体が発見される一方で、有名な拳法の師範が温泉浴場で毒殺されてしまったのだ。さらにある未亡人の夫殺し疑惑を解明するために、狄判事は知事の職のみならず自らの命までも賭けて捜査に臨む。苦境に陥った狄判事を救うのは……。
[感想]
狄判事の五番目の任地となるのは、酷寒の地・北州。その厳しい気候に歩調を合わせるかのように、物語全体にもの悲しい雰囲気が漂っています。また、狄判事が未曾有の窮地に陥るクライマックスや、読後に残る後味など、初期五長編(シリーズ第1期)の掉尾を飾るにふさわしい内容といえるでしょう。
扱われる事件は、商人の妻の首無し死体、拳法師範の毒殺、そして過去の夫殺し疑惑という三つ。“首無し死体”事件については手がかりや伏線がよくできていると思いますし、“毒殺”事件では異色のダイイングメッセージが目を引きます。しかし、本書の中心となるのはやはり“夫殺し疑惑”で、狄判事に対して一歩も引かないしたたかさを見せる容疑者の未亡人と、これ以上ないほどの覚悟と信念をもって捜査に当たる狄判事とが演じる命がけの対決は、実に見応えがあります。ミステリとしての真相はさほどでもないのですが、解決へと至る展開がまた圧巻で、シリーズの中でも群を抜いて心に残る事件となっています。
三つの事件の捜査を通じて運命に翻弄された狄判事を待っているのは、シリーズの(一応の)幕切れのために用意された何ともいえない結末。ハヤカワ・ミステリ(ポケミス)では、作中の時系列で後になる作品(『柳園の壺』や『南海の金鈴』)が本書より先に刊行されているため、その効果がやや減じている感はありますが、それでもやはり印象深い結末であることは間違いないでしょう。
2007.01.26 『北雪の釘』読了
柳園の壺 The Willow Pattern
[紹介]
“ひとりは寝床をなくした/ひとりは片眼をなくした/ひとりは頭をなくした”
――蔓延し続ける疫病によって多くの死者を出し、人気の少なくなった都では、不吉な歌がはやっていた。やがて、豪商の梅{メイ}が深夜階段から落ちて死亡し、続いて郡公を称する易{イー}も何者かに惨殺されるなど、都を代表する旧家で歌に符合するような事件が起きる。都の留守を預かる狄判事は、食糧不足と治安の悪化に対処するかたわら、人身を不安に陥れる事件の捜査を開始したのだが……。
[感想]
様々な任地を経て、作中の時系列では一つ前の作品となる『北雪の釘』のラストで都に戻ることになった狄判事ですが、赴任してきた都は疫病に襲われ、不満を抱えた人々が暴動を起こすなど、いきなり大変なことになっています。朝廷が一時避難した留守を預かる大役を命じられた狄判事は、それらの難事に対処する傍ら、本来の仕事である事件の解決も成し遂げなければなりません。
その事件は、都きっての旧家に関わる因縁めいた事件であると同時に、童謡殺人の様相も呈しています。さほど凝った仕掛けがあるわけではなく、また一部の真相がやや見えやすくなってはいますが、最後に明かされる構図はなかなかユニークだと思います。
すべての真相を解き明かした狄判事の裁きは、いつも以上にお見事。後味のいい結末には文句のつけようがありません。
南海の金鈴 Murder in Canton
[紹介]
都を遠く離れた南方の地・広州で、密かに来訪していた中央政府の高官が行方不明となってしまった。折しも都では政変の噂が広まり、極秘のうちに事件を調査することを命じられた狄判事は、西方からのイスラム教徒たちとの交易の調査という名目で、副官の喬泰と陶侃を連れて広州へと赴任する。だが、到着早々に喬泰は殺人事件に遭遇し、自らもアラブ人の刺客に命を狙われる。一方の陶侃は、暴漢に絡まれていた盲目のこおろぎ売りの娘を救うが、それがきっかけで消息を絶った高官の手がかりが……。
[感想]
作中の時系列ではシリーズ最後の長編であり、また狄判事自身が犯罪捜査から手を引くことを宣言するという、まさに“狄判事最後の事件”です。残念ながら、謎解きという点ではあまり見るべきところがないのですが、印象深い物語であることは間違いありません。
シリーズでは初めて実在の都市が舞台となっていますが、西方との交易が盛んな広州(今の広東)ということで、中国文化にイスラム文化が加わりいわば二重の異国情緒が感じられます。このあたりが、映画化のための原作として本書が選ばれた(「訳者あとがき」より)理由の一つかもしれません。またそのせいか、事件全体にもいつもより派手な雰囲気が漂います。
狄判事の捜査は事件の謎解きというよりも黒幕探しの色合いが強く、ミステリとしては物足りないところがありますし、推理の決め手もやや力不足の感があります。むしろ、都の不穏な空気を受けて一刻の猶予も許されない中、切羽詰った状況を逆手に取るかのような奇策で狄判事が犯人をあぶり出そうとするところや、終盤、ついに明らかになった黒幕とのスリリングな対決場面など、サスペンス的な要素が光っています。
大事件がようやく決着した後に待つ、二つの結末の鮮やかなコントラストが強い印象を残します。そしてそれ以上に、シリーズの幕切れということで、ファンとしてはやはり一抹の寂しさを禁じ得ません。
寅申の刻 The Monkey and the Tiger
[紹介と感想]
シリーズ最後の邦訳となった作品集で、収録された中編二篇が“猿(申)”と“虎(寅)”(*)、そして“朝”と“夜”と対になっている趣向がしゃれています。
なお、「飛虎の夜」には『北雪の釘』の結末を匂わせるような記述があるので、そちらを未読の方はご注意下さい。
- 「通臂猿の朝」 The Morning of the Monkey
- 森から官邸の裏までやってきた一匹のテナガザルが手にしていた、高価なエメラルドの指輪。そこに事件の気配をかぎ取った狄判事が森の奥にある無人の丸木小屋を訪ねてみると、左手の指を切り落とされた男の死体が。密貿易事件の捜査で他の副官たちが不在の中、新しく副官となったばかりの陶侃とともに捜査に乗り出す狄判事だったが……。
- 『水底の妖』で知事として赴任した漢源{ハンユアン}での事件を描いた作品で、印象的な発端から、唯一登場する副官・陶侃と狄判事による“推理合戦”のような形になっていくのが面白いところ。真相の一部は見えやすくなっていますが、解決は実によくできていると思いますし、狄判事の最後の一言がまた魅力的です。
- 「飛虎の夜」 The Night of the Tiger
- 都へ向けて馬を駆っていた狄判事は、護衛兵たちから離れて独り、折からの大洪水で陸の孤島となった一帯に閉じ込められることに。ようやくたどり着いた地主の屋敷には避難民たちがあふれ、さらに近辺を荒らしていた賊徒〈飛虎〉の残党が地主の黄金を狙って屋敷に迫る中、病で急死したばかりという地主の娘の部屋に案内された狄判事は……。
- 『雷鳴の夜』にも通じる“嵐の山荘”風の状況に、屋敷に迫る賊徒〈飛虎〉をいかにして撃退するかという興味も加わった作品。こちらも真相に見えやすい部分があるものの、ある意味で意表を突いたところもあり、十分に楽しめると思います。
2011.02.07読了
五色の雲 Judge Dee at Work
[紹介と感想]
狄判事の活躍する短編八篇を収録した短編集です。「化生燈」・「すりかえ」は初訳。
- 「五色の雲」 Five Auspicious Cloud
- 船主や法律家を招いて協議中の狄判事。と、そこへ届いたのは、法律家の妻が自殺したという悲報だった。だが、現場を訪れた狄判事は殺人事件だと見抜き、容疑者を絞り込む……。
- 事件がかなりシンプルなだけに、内容を紹介しづらいのですが……。ミステリとしては物足りないところがありますが、狄判事の裁きは見事。
- 「赤い紐」 The Red Tape Murder
- 軍の砦の中で、副司令官が矢で殺された。現場を見通せる武器庫で弓を手にしていた部下の男が疑われたが、その友人となっていた馬栄らに頼まれた狄判事は、砦へ出向いて事件の話を聞く……。
- 題名の“赤い紐”は“無味乾燥な役所仕事”を意味しています。トリックは個人的にはやや微妙ですが、二つの手がかりが非常に秀逸です。
- 「鶯鶯{おうおう}の恋人」 He Came with the Rain
- 古ぼけた望楼で質屋の老主人が殺された。若い漁師がすぐに犯人として捕まったのだが、現場にいた耳と口が不自由な鶯鶯という娘は、“悪い黒鬼”や“雨の精”の話を懸命に伝えようとする……。
- 少々苦しいところがないでもないのですが、読後の印象はまずまずです。
- 「青蛙{せいあ}」 The Murder on the Lotus Pond
- ある夜、蓮池のほとりにたたずむあずまやで、老詩人が何者かに殺害された。目撃者は池の蛙たちだけ。一方、狄判事は、徴税官を襲った金塊強奪事件に頭を悩ませていた……。
- 素性の明かされない犯人が殺人を犯す場面から始まっていますが、この演出が非常に効果的です。ただ、金塊強奪事件と絡めるのは、この分量では無理があったように思います。
- 「化生燈」 The Two Beggars
- 物乞いの年寄りが溝に落ちて事故死していたという報告を受けた狄判事だったが、その夜官邸に幽霊らしき年寄りが姿を現し、跡形もなく消え失せたことをきっかけに、事件を詳しく調べ始めた……。
- 怪談めいた発端が面白いですが、あとはやや地味な感じ。
138頁の(以下伏せ字)“蕙蘭”(ここまで)という言葉がどこから出てきたのか気になるのですが……((以下伏せ字)“書きつけ”はハッタリ(ここまで)のようですし)。→ 訳者の和爾桃子氏からいただいたメールによって解決しました(どうもありがとうございます)。詳細はネタバレ感想にて。
- 「すりかえ」 The Wrong Sword
- 狄判事の留守中、事件に遭遇した馬栄と喬泰。大道芸で使う仕掛けのある剣が、いつの間にか本物にすり替えられ、そのせいで一座の男の子が死んでしまったのだ。二人は狄判事の帰還を待たず、独自に捜査を始めるが……。
- 狄判事の副官である馬栄と喬泰が大活躍。とはいえ、最後に事件を解決するのはやはり狄判事なのですが……。事件の裏に隠された複雑な人間模様が何ともいえません。
- 「西沙の柩」 The Coffins of the Emperor
- 異民族・突厥との戦場にほど近い石城{タジク}へとやってきた狄判事は、宴席で知り合った妓の夫が、無実の罪で間もなく処刑されることを聞き、その命を救おうと元帥府を訪れる。折しもそこでは、将軍の一人が敵方に内通しているという疑惑が持ち上がっていた……。
- 国家の命運と、愛し合う男女の運命――それぞれを左右する、対照的ともいえる二つの事件に等しく力を注ぎ、一夜のうちに解決してしまう狄判事の姿が印象的です。特に、将軍の内通疑惑の解決はなかなかユニークです。
- 「小宝{シャオパオ}」 Murder on New Year's Eve
- 大晦日の夜、政庁に駆け込んできた子供。使いから戻ってみると、床は血だらけで、父親も母親も姿を消していたという。しかもその直前に、母親の身持ちのことで大喧嘩していたらしいのだ……。
- まずは何といっても、二転三転するプロットが秀逸です。また、伏線もよくできていると思います。しかし、巡査たちによる容疑者の扱いは、もう少し何とかならなかったのでしょうか。